Twitterには「バカ発見装置」という別名が付いている。では、Twitterにはなぜバカが多いのだろうか。それは社会的に許容されるべきなのだろうか。真剣に考えてみたい。
この問題を考えるためには「バカとは何なのか」ということを真剣に考えてみなければなるまい。バカとは社会的に訓練されていない機能のことである。例えばユングは人の機能を4つにわけて分析している。それは思考・感情・直感・感覚の4種類である。人には得意な機能がある。と、同時にその対になる不得意な機能を持つのだ。
Twitterで「バカ」を発露する人は、自分の得意でない機能を発揮していることになる。例えば感情的にしかものを見ることができない人が「思考」に捉われたとき、その人は「バカ」であるということになる。発信している人は「独り言」のつもりだが、それが世間に晒されてしまうのである。
では「人はバカであってはいけないのか」という問題が出てくる。バカな機能(すなわち劣等機能)は制御できない形で表面化する場合がある。劣等機能の暴走は人生を壊滅的に破壊する可能性があるとされる。社会的に慣らされていないばかりか、使われないことで無意識に抑圧されているからだ。
これを防ぐためには「劣等機能を意識し、それを育ててゆく」ことが必要だと考えられている。が、実際にはどれが劣等機能かということはその人には分からない。無意識に抑圧されているのが劣等機能だからだ。故に「それを意識して育ててゆくこと」は不可能ではないのだろうが難しい。
で、あれば「様々な自己」を発露する場を作っておいて、それを社会的に馴化してゆくしかないということになる。つまり、ソーシャルネットワーキングサービスを馴化の場として利用することができるわけである。
もちろん、ソーシャルメディアと言っても様々な種類がある。例えば実名が前提のFacebookは比較的強いつながりで構成されている。そこで劣等機能の馴化を始めると「人々が驚いて引いてしまう」ことが十分に考えられる。例えば、普段政治の話をしない人がFacebookで政治の話を始めるとどうなるだろうかということを想像すると分かりやすい。一方、Twitterは実名が前提になっておらず馴化の場としては利用しやすいかもしれない。
さて、日本のソーシャルネットワーキングには別の危険性がある。集団で劣等機能を発現するという選択肢が残されているのだ。
例えば、日本の男性は社会的共感というものを訓練する場がないが故に、共感機能は劣等機能化しやすい傾向があるかもしれない。ところが何らかの事情でこれが表面化することがある。「家族」や「つながり」と言った価値観は、まず高齢者が読み手であるWillなどの右翼系雑誌で劣等機能として発現した。そこに野党化した自民党が結びつき暴走を始めることとなった。再び与党に返り咲いた安倍自民党が一部の人から嫌われるのは、彼らにとって「思いやり」や「共生」といった概念が彼らにとって明らかに社会的に馴らされていない劣等機能だからである。
一方、日本の女性は「共感すべき」とされており思考が劣等機能化しやすい。そこでそうした人たちが集まると科学的にめちゃくちゃなことが「事実」としてまかり通ることとなる。当然、女性の中にも思考的な人がいて「ああ、めちゃくちゃだなあ」と思うわけである。だが、当人たちは意に介さない。そもそも「感情を説明するために思考を利用しているだけ」だからだ。
劣等機能を馴化しないことは社会に取って大いなる害悪をもたらすのだということが言えるだろう。それを防ぐためには、個性化が「個人の不断の努力」である必要がある。Twitterの「バカ」は個人である限りには、学習の一環として容認することができる。しかし、それが社会的に結びつき、振り返りを忘れたとき、社会的な害悪となってしまうのである。