リーダーシップ論から見る – 安倍は何に失敗したのか

安保法制が改正されてからしばらく経った。しばらく、この問題から離れてから眺めてみると、安倍がなぜ失敗したのかがよくわかる。安倍にはリーダーの資質が決定的に欠けていることが分かる。リーダーシップの欠如は様々な弊害を生み出している。
と、同時にリーダーというものがどのような資質を持っていなければならないのかということもよく分かる。今回は安倍のリーダーシップの欠如に着目して、リーダーシップについて学んでみたい。
まず、環境を見てみよう。戦後、日本は連合国から武装解除させられた。日本が武装解除を前提とした憲法を作ったのは連合国を納得させアメリカの単独統治を正当化するためだった。アメリカ側にも利点はあったろうが、日本側としても虐待した中国(当時は国民党)が入ってくるのは避けたかったのではないだろうか。憲法はその線に沿って作られたが、後に米軍が展開する必要から再軍備を迫られた。結果、憲法と現状が合致しなくなったが、アメリカは特にねじれにはこだわらなかった。法律の整合性を取るのは日本の内政の問題であって、アメリカとしては必要な機能さえ満たせればよいからだ。結果、憲法と実勢がねじれる現状が温存された。
ところが、外的環境が変わった。東西冷戦が集結し、ソ連が世界秩序の担い手の地位から撤退した。アメリカは拡大する軍事費を一人では賄いきれなくなり、各国にはっきりと世界秩序の維持に必要なコストを支払うようにと伝えるようになった。また、オバマ政権時代入ってから、アメリカは何回か連邦予算凍結の危機に直面している。最近出始めた記事によると、イギリスにはGDPの2%を軍備に当てるようにプレッシャーをかけていたそうだ。オバマ大統領は「フリーライド」を嫌っているとも言われている。
さて、安倍の第一の失敗は、展望とビジョンに欠けているところだ。実際にはアメリカが困窮しているのだが、それを勝手に自分の思い込みに置き換えた。それは「中国の脅威が強まっている」というありもしない図式だ。
そればかりか、安倍はアメリカを自分の権威付けに利用しようとした。自分たちはアメリカとうまくやっていますよという図式である。そのために、アメリカ政府からの要求を隠蔽した。
この結果、安倍は日本人に必要な「意識変革」を迫ることができなかった。アメリカは第二次世界大戦後、東側陣営との対抗上日本を優遇する必要があった。日本人は意識改革をする必要があった。ところが、安倍はそれをやらなかった。代わりに「自民党に従っていれば、何も変えなくてすむ」という偽りの安心感を与えた。「負担が増えることはない」とも明言した。
ここまで「アメリカ」という主語を使ってきたが、実はこれも間違っている。実際にはジャパンハンドラーと言われる特定の関心を持った人たちとオバマ政権は別の意図を持っていたようだ。ジャパンハンドラーは「日本のナショナリズムを高揚させるために中国の脅威を利用しろ」とか「ホルムズ海峡に展開しろ」というジャパンハンドラーの要求を「アメリカの要求だ」と思い込んだ。後にホルムズ海峡の事例は議論を混乱させることになる。状況が変わり、イランが国際社会に復帰したからだ。
結果的に、安倍は展望とビジョンを持たず、状況認識を間違え、コミュニケーションの通路もうまく確保せず、必要な変革を国民に迫らなかった。リーダーシップの機能はビジョンを明確にし、冷静な状況分析をもとに、必要な変革を受け入れ可能なものにすることだが、どれも果たせなかった。
では、安倍のリーダーシップの欠落はどのような弊害をもたらしたのか考えてみよう。
まず、そもそものねじれの原因である憲法第九条の改正がほぼ不可能になった。解釈でどうとでもなるのだから、あえて変える必要はないわけだ。「国民に人権があるのがおかしい」などと言い放つ議員が野放しになっており、国民は憲法改正そのものに消極的だ。憲法改正によって「俺たちが威張れるようになる」という幻想を持った人たちが大勢いて、実務的なニーズの充足が難しくなっている。
次に現状認識に歪みを生じた。今でも「中国が攻めて来る」と考えている人は多い。逆に「安倍は戦争を企んでいる」と考える人もいる。リーダーは組織を統合するものだが。下手なリーダーは混乱を作る。結果、国防上では何をやろうとしても「感情的な議論」が不可避になる。そればかりか、本当に必要な課題から目がそらされている。この夏の参議院選挙の争点は「立憲主義」だそうだが、本来ならやらなければならないことはいくらでもあるはずだ。
第三に、変化に対応できなくなった。政府の議論はガラスでお城を組み立てるように繊細なものになっているのだが、アメリカの状況は変わりつつある。オバマ大統領がほのめかしていた要求はあからさまなものに変わりつつあるのだ。トランプ候補は「防衛費の分担のない国から撤退する」とか「自前で核でもなんでも持てばいい」などと言いはじめている。別の候補は裏から軍事費の負担を求めるはずだ。だが、日本は国民に様々な約束をしており、柔軟に状況に対応することができない。今後、対応を迫られるたびに「国論を二分する」大騒ぎが繰り返されるだろう。
さて、ここまでは表向きの混乱だ。しかし、その裏には別の混乱もある。それは信頼関係を損なったことである。
表立って語られることはないだろうが、日米関係はかなり深刻なダメージを受けているはずである。アメリカは「〜だから〜しろ」と要求してきているはずだ。「〜しないなら〜ということになる」とも言ってきているだろう。ところが、安倍政権はにやにやしながら勝手な解釈をしているのではないだろうか。「分かってますよ、本当は中国をやっつけたいんですよね」といった具合だ。予めジャパンハンドラーに吹き込まれた情報が文脈を与えているのだ。「日本は交渉相手にならない。明確に要求を伝えても真剣に受け止めているかは分からない」と思っているはずだ。
優れたリーダーは組織を統合し潜在力をうまく利用するが、無能なリーダーは組織を分断しする。日本は明らかに無能なリーダーを頂いており、安全保障や経済上の大きな脅威になっている。国民は目前の課題に注力せず、意味のない議論を繰り広げるばかりだ。
このことから、リーダーシップというものがいかに大切かということがよく分かる。

このピストルは撃たないから武器ではありません

家の近所に自衛隊の駐屯地がある。年に何回か解放日があるので遊びに行ってきた。かなりの人出だった。小さな銃のおもちゃを持った子供からミリオタらしいおじさんまで様々な人が集まっている。地域のイベントとして定着しているのだろう。
駐屯地と言ってもここから敵のミサイルを迎撃することはないとのことだった。習志野にもっと大きな駐屯地があり、そこが固定の基地になっているらしい。
この辺りに「反基地運動」はない。もともと原野に飛行場があり、その周りに宅地ができたという経緯がある。周辺は未開墾地で、戦後に引き上げてきた人たちが開拓団として入り、農地や住宅地が形成された。戦後、ここに入ってきた人たちは、基地があることを知っていて越してきた人たちばかりなのだ。
戦車くらい見れるかなあなどと思っていったのだが、偉い人たちが挨拶しているばかりであまり面白くない。そこで、途中で帰ってきた。もう少し待っているとデモンストレーションを見ることができたらしい。
ちょっとショックだったのが、銃(ピストルみたいなものではなく大きめだった)を持った人が集団でうろうろしているというところだった。目の前であんなにあからさまに銃を持ったひとを大勢見たのは生まれて初めてだし、家の近所にこういう人たちがいるんだなあなどと思った。改めて、自衛隊って軍隊なんだなあと実感した。そう、自衛隊は軍隊なのだ。

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日本ではこれは武器ではなく、装備品。いや誰が見ても武器だろうって。

表向き、平和憲法のある日本は軍備を放棄しており、日本には軍隊はないことになっている。だから、軍事訓練とは言わずに「装備品展示」と言っている。兵器とは言えないのだ。
だが、どうみてもあの人たちは軍人だし、目の前にあるのは兵器である。例えて言うならば、拳銃を持っていて「私がこれを発砲することはないので、これはピストルではありませんよ」と言っているみたいなものである。でも、撃つつもりはなくても、ピストルはピストルだ。自衛のためだと言ってもやはり軍隊は軍隊なのだ。
合理的に考えれば選択肢は2つしかない。軍備をすべて放棄するか、憲法を変えて軍隊を認めるかの二択である。中国や北朝鮮が「はいそうですか」といって軍備をすべて放棄してくれれば、ややこしい話をしなくてもいいのだが、そうはいかないわけで、すると憲法改正しかないよなあと思える。「あれ、僕って第九条改正派なのか」と思う。こう言うと「あいつは戦争をしたがっている」ということになるわけだから、ややこしいことこの上ない。
憲法改正がこの1項目だけだったら「まあ、仕方がないかな」ということになると思うのだが、実際は憲法第九条は最後の砦ということになってしまっている。代わりにもっとやっかいな緊急事態条項などが「国民に受け入れられやすい」と思われている。どこか倒錯している。
ちょっと不安に思ったのは訓練の内容だった。実際に見ることができなかったのでYouTubeで見たのだが、どうも敵が偵察機を送り込んでから航空機で攻撃するというのが前提になっているようだ。これだと少し時間がある。自衛隊は自律的に動ける軍隊ではない(建前上は文民に統制されていることになっているし、現実的には米軍の指揮下にあるのだろう)ので、北朝鮮の狂った将軍様が突発的に何かを「ぶっ放した」ら対応できそうにない。
さて、日本には国防の原則と呼ばれるものがあるそうである。

  1. 国際連合の活動を支持し、国際間の協調をはかり、世界平和の実現を期する。
  2. 民生を安定し、愛国心を高揚し、国家の安全を保障するに必要な基盤を確立する。
  3. 国力国情に応じ自衛のため必要な限度において、効率的な防衛力を漸進的に整備する。
  4. 外部からの侵略に対しては、将来国際連合が有効にこれを阻止する機能を果たし得るに至るまでは、米国との安全保障体制を基調としてこれに対処する。

いちおう、国連(連合国)中心の秩序を作ることが最終ゴールだが、途中経過なのでアメリカと集団安全保障体制を取るということになっているようだ。建前としては、ほとんどの国が国連加盟国になっており、戦争は違法だ。だから戦争はないはずなのだが、建前通りには行かない。今でも「戦争は国連によって完全に防がれている」はずである。この近隣では台湾(実際には原加盟国なのだが共産党政権に取って代わられてしまった)くらいしか非連合国はないが、台湾が国連加盟国に攻撃を仕掛けたという話は聞かない。代わりに北朝鮮(こちらは国連加盟国だ)が怪しい動きを見せている。
だが、戦争はなくとも「自衛による武力行使」は至る所で行われている。すでに「国連中心」という理念は破綻していると言ってよいのだが、建前を変える訳にはいかないのだろう。
この中で気になるのは「愛国心を高揚し」の部分だ。そもそも「愛国心」とはしみじみとわき上がってくるもので、感情的に高揚させるべきものではない気がする。愛国心を高揚するために、具体的にどんな活動をしているのだろうか。政治家の言動を見ていると、逆に愛国心をしぼませることばかりしているように見える。
日の丸も主権者である国民を象徴しているのだと思えればいいのだが、どうも国民は日の丸に従うべきだなどと考えている人も多いのではないだろうか。押し付ければ嫌がられるのは当たり前で、却って国防の精神にそぐわないのではと思った。
いずれにせよ「愛国心」はしぼみ、国民は分断されている。その結果、無理のある憲法第九条が残ってしまっているのである。そのように考えると、無茶な憲法案を掲げる人たちが、最大の護憲活動をしているのではないかと思う。

日本の政治家はなぜバカばかりなのか

菅官房長官が最近「もういいよ。オレは疲れた」と漏らしているらしい。週刊現代の引用なので真偽はわからない。根っからの苦労人なのに、育ちがいいだけで首相になった安倍首相やその他の無能な政治家たちのフォローに追われていることを考えると「わかるなあ」などと思ってしまう。






自民党議員の暴言が止まらないのは「安倍さんのお眼鏡にさえかなっていれば、それなりの地位を得られるから」なんだろう。ということで菅さんの政治資源は政治ではなく調整に費やされる。才能の無駄遣いだ。

菅さんはかなりの実力者らしい。Wikipediaには、単身で状況した後、法政大学就職課で紹介された議員の秘書となりその跡を継いだと書いてある。途中の横浜市議時代には既に「陰の横浜市長」と呼ばれていたそうである。根っからの調整役なのかもしれない。

どんなに優れた政治家でも、菅さんは「二球市民」にすぎない。親が衆議院議員ではないからだ。なかでも「貴族化」しているのが、総理大臣を輩出した家柄の人たちである。鳩山家・吉田家・岸家などがそれに当たる。だから、菅さんの地位は「執事」止まりなのではないだろうか。

総理大臣の家柄といってももともと格式の高い家だというわけではない。この家が貴族化したのは、ほんの70年ほど前の戦後直後の混乱期のおかげだ。そして、こうした家柄が貴族化できるのは、政治団体が非課税だからではないだろうか。彼らは会社の株式を引き継ぐように、親の代からの地盤看板が引き継げるのだ。

政治家は政治で蓄積した資金(そもそもそんなものがあること自体が問題なのだが)を政治団体に蓄積する。それは非課税なので相続税も支払わなくて済む。課税されるのは「政治活動以外の事業に使ったとき」だけだそうだ。つまり、政治団体は営利事業に手を出してはいけないのだ。いっけんよさそうな決まりなのだが、政治を通じて蓄財することは認められるということになる。寄付という形を取れば無税になるということだそうだ。ということで、自分たちは手を出さず、支持者に便宜を図る形で政治を歪める原因になっている。

日本伝統の家制度のもとでは、家族は財産を持った事業体である。それを管理するのが家長の役割で、信頼関係は血と婚姻関係で担保されることになっている。いついなくなるかもしれない他人は信頼されない。

この関係は同じく非課税の法人格である寺に似ている。寺は血族で運営されるべきだという決まりはない(後継者がいなければ宗派から別のお坊さんが割り当てられるだけ)のだが、実質的に家族経営だ。男系の後継者がいない場合には婿を取ったりする。こうした制度は家族の人生を保証するという役割も担っている。もし他人が入ってくると家族が冷遇される可能性があるのだ。家族には祖先もいるので、彼らのお墓が特別扱いされなくなる可能性もあるだろう。

つまり、家制度は家族や関係者の補償という極めて集団主義的な側面のある制度なのだと言える。逆に妙にやる気がある人が入ってきても、家の人たちが放逐されるかもしれない。そこで周りには無能で主人に依存せざるをえない人を配置することになる。ここでも才能のある人は排除されるのだ。

この結果、首相家を頂点にして序列化されたのが、現在の政治家なのだが、首相の子孫が優秀とは限らないし「政治家としてやりたいことがある」わけでもないかもしれない。安倍首相は政治家としてはやりたいことがなさそうだが、周囲から「おじいさんはこんなに偉い人だった」と吹き込まれ、復古派の人たちに囲まれているうちにあんなになってしまった。麻生副首相は、おじいさんのコスプレをしているようにしか見えないし、中身のないことをもっともらしい低く歪んだ声で語るのみである。

この空虚な首相家を支えるのが、大臣家であり、さらにそれを支えるのが「家柄のない」人たちなのだ。

だから、実力者だけでは上に上がれない。家柄のある人たちと張り合おうとすれば、何か法に触れることをして蓄財するしかない。そもそも選挙に出るにもお金がかかるわけで、一般庶民は政治から排除されている。

政治家がバカというのは言い過ぎかもしれないのだが、少なくともどうしてもやりたいことがあって政治家になったわけではないのだから、目的がある人と比較してモチベーションが低くなるのは当然だ。つまり「バカ」という能力の問題ではなくモチベーションの問題なのかもしれない。

日本を支配しているのは、政治家と宗教団体だが、ともに非課税である。これはもしかしたら偶然ではないのかもしれない。

一般庶民は、特権階級の彼らから見ると奴隷のようなものである。政治家の中にはは奴隷に人権があるのが不思議だと思ってらしい人たちもいる。

こうしたやる気のない政治家たちは、自由主義を名目にした植民地政策を画策する勢力と結びついて体制を保証しようとしている。一般庶民は政治へのアクセスがないので「私たちが共感できる政治家がいない」と政治に興味を持たないから、自浄作用も働かない。

では、今後どのようなことが起るだろうか。すでに、植民地化が進んでいるアメリカで何が起っているのかを見ると分かりやすい。サンダース・トランプ両候補は、中国との産業競争に破れたような地域で人気を集めている。こうした人たちは現実を見ない「非政治家」を応援するようになっている。

多分日本でも過激な思想が台頭することになるだろう。こうしたはねっかえりを防ぐためには「奴隷階層」から選挙権を取り上げ、情報を遮断し、教育を取り上げる必要があるが、それはそれでなかなか容易なことではなさそうだ。

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なぜ新しいオリンピックエンブレムは不人気なのか

新しいオリンピックエンブレムが決まった。巷の反応を見ていると「あれだけはない」という声が多い。マスコミは「とりあえず決まったのだから納得してもらおう」という論調で腫れ物を触るように伝えている。そもそもA案ありきだったという指摘があり、審査委員長はそのような言い方には腹が立ったと言っている。だが、やはりA案ありきだったのではないかと思う。
二つ課題がある。1つ目の課題は人々が求めているロゴっぽい絵とプロが考えるそれとは乖離があるということだ。プロはどちらかというと「エッジの利いた」ものを求める傾向があるらしい。佐野研二郎案はモジュールっぽかった。ああいうのがデザイン村界隈ではかっこいいのかもしれないし、後の展開を考慮していたのかもしれない。モジュールデザインは、プランナーに取って管理しやすいのだろう。
ところが一般庶民から「誘致ロゴ」が良かったという声が多かった。花があしらわれたカラフルなデザインである。つまり素人はあのような「ベタ」なデザインを良いと考えるわけである。エッジが利いているよりも、ありふれた(つまり、プロにとっては退屈に見える)デザインの方がいいのだ。
例えて言えば、玄人が考えさせる番組を求めるのに、一般庶民が寝転がって見ることができるバラエティ番組を求めるのと同じことだ。ドラマでもプロが「社会派の問題作」を作りたがるのに、一般庶民が「どこかで見た」ドラマを繰り返し見たがる。プロはエッジの利いたシルエットのデザインを求めるのだが、一般庶民はユニクロの服を着たがる。その方が見慣れているからだ。
この問題はいずれクリアされるだろう。既に露出が始まっている。露出が高ければ高いほど人々はロゴに違和感を感じなくなるはずである。そのうち慣れる(あるいは馴らされてしまう)のだ。インプレッションと好感度は比例するのである。
さて、次の問題は少し深刻かもしれない。今回、審査委員の念頭にあったのは「パクリ問題」への対応だったのだろう。それを防ぐにはどうしたらいいだろうか。何か別のものを「パクれば」いいわけだ。
市松模様は江戸時代の佐野川市松という歌舞伎役者が愛用した柄だそうだ。誰が「作った」のかは分からない伝統的な柄で著作権も切れている。類似のデザインはいくつもあるだろうが、すべてパクリである。つまり、絶対にオリジナルが発見されないデザインなのだ。
同じようなデザインに風神雷神があった。あれもオリジナルがあり著作権が切れている。つまり、パクリが絶対に出ないようになっているのである。
審査委員の間にはこの「著作権切れ」が頭にあったはずだ。今回は「絶対に」失敗してはいけなかったのだから、その用心は当然のことと言える。そこで最終的に「少々エッジが利いていて、オリジナルが発見されない」ものが選ばれたのではないかと思われる。
さて、これらの点はなぜ問題になるのだろうか。イノベーションとは、そもそも反逆的な逸脱を含んでいる。ところが当初の佐野案は「後の管理のしやすさ」を念頭に置いていた。佐野さんはプランナーの言うことを聞く「使い出のいいデザイナー」であって、けっしてオリジナリティあふれるタイプではなかった。オリジナルという概念すらなく、ネットで見たデザインをコピーしても「程よくアレンジされていればよい」と考えるタイプだったのではないかと考えられる。
管理しやすさを求めたからこそ、つまらない躍動感のないデザインになってしまったわけである。ところがそれが嫌われネットであら探しが始まった。その間も、人々はどこかで見たことがあるベタなデザインを求め続けた。そして、最終的に選ばれたのは伝統を意識したデザインだった。
つまり、幾重にも逸脱が拒否されているのだ。日本でイノベーションが起らなくなったのは当たり前だ。受け手も作り手も逸脱を嫌い、恐れている。その代わりに「予測可能な何か」を求めているのだ。
こうした逸脱を恐れる気持ちはスタジアムの選定にも現れている。ザハ・ハディド案はデザイン的にチャレンジングな要素を含んでいた。海外には建設されているものもあるので、設計会社も「やればできる」のであろう。しかし、日本の建築会社はそれを「リスク」と考えて、ヘッジするために高い金額を吹っかけた。結局、できあがりそうなのは、どこかで見た(別のいい方をすれば調和的な)建造物だ。
あの案は露出を経て(それなりに高価な対価を払うのだろうが)徐々に受け入れられてゆくに違いない。その裏には「とんがったデザイン」を殺されてゆくデザイナーとか、普通でいいのにと思っている一般の受け手がいるのではないかと思う。

TPPとスナップバック条項

TPPの批准手続きが延期された。現在の争点は解放される農業分野の補償をどうするかという点、交渉の経過が秘密手続きである点、著作権の問題などに絞られてきたようだ。
個人的な立場を確認すると自由貿易には賛成だ。関税は結局のところ消費者の負担となるからである。だが、TPPは容認できそうにない。一部の反対派の中に「スナップバック条項」について言及する人がいる。
スナップバック条項はアメリカだけに認められている特権だ。その他の国にはラチェット条項があり、一度解放してしまったら後戻りはできないことになっている。関税をなくし自由貿易圏を作るという意味では、効果的な条文だと言えるだろう。
だが、アメリカだけにはラチェット条項は適用されないらしい。議会が反対したり、様子を見た結果「アメリカに不利だな」ということになれば、差し戻しができるというのである。もし、フェアな関税撤廃が自由貿易の要点だとすれば、なぜこんな条項が必要なのだろうか。
どうやら、自民党は「聖域」と呼ばれる5項目を守れなかったばかりか、とんでもない不平等な条約を飲まされたということになる。例えていえば、不平等を飲まされた江戸幕府のようなものだということになるだろう。すでに統治者としての能力の限界に来ているのではないかと考えることができる。
しかし、本当に罪深いのは民進党かもしれない。民進党は表向きはTPPに反対するふりをしているのだが、実際には条約の中身には触れないようにしている。「政府が情報を開示しないから仕方がない」と言っているのだが、実際には反対したくないのではないかと思われる。だから、スナップバック条項のようなクリティカルな問題には触れない。あくまでも交渉過程が問題だと言っているのだ。
善意に解釈すれば、日本の条文について研究するのに精一杯で、アメリカの条項まで研究できていないという解釈が成り立つ。
一方、党内にいる親米派と左派の間で意思統一が図れないという可能性がある。そのために条約の内容に触れられないのだろう。
TPPに賛成している人たちの中には、親米派の人たちが多いのではないかと思う。自民党を支持していて、間接的に親米の人たちもいるだろう。しかし、中には内部からの改革が進まないから外部からの圧力によって規制緩和がしたいと考えている人たちも多いのではないだろうか。
だが、それはTPPが公平なルールであるという前提が必要である。このスナップバック条項が本当にTPPに盛り込まれているのかどうかは分からないのだが、もし仮に本当だとすれば、アメリカは自由公正な貿易権作りに失敗したと考えるのが妥当だろう。
安倍首相は「我々の手で自由で公正なルールを作った」と胸を張っている。もし、虚偽だと知っていてそう言っているとしたら詐欺師だし、知らずに言っているとしたらたいへんに滑稽だ。
さて、このような問題が起きるのはなぜだろうか。それはTPPに日本語の正文がないからだ。政府は日本語の公式訳を作って一定期間国民に周知すべきだ。正式訳作りに何年かかるのか分からないのだが、3年くらい野ざらしにしてもよいのではないだろうか。

戦隊ものと時代劇の簡単なまとめ

Twitter上で面白いつぶやきがあった。戦隊ものには演劇的な伝統があるはずだという疑問である。そこで、簡易的ではあるが、戦隊ものと日本の演劇についてまとめた。好きな人がいれば、さらに分析してみると面白いと思う。なお、この分類はWikipediaレベルの情報であり、そこは浅い。好きな人はちょっと満足できないかもしれない。


そもそも日本で演劇と言えば歌舞伎だった。ここから2つの分派ができる。一つは新派と呼ばれる人たちだ。政治的なメッセージを持っていた。川上音二郎などが有名だ。もう一つの流れが左翼的な思想を背景にした新劇だ。もともと日本の西洋芝居には社会主義的な背景がある。後述するが、今でも日本の演劇界には左翼思想を持った(あるいは持っていた)人が多い。
ところが、新しい流れの中から、政治性を排除して純粋なエンターティンメントを求めようとした人たちが出てくる。その一例が澤田正二郎の新国劇(1917年)である。新国劇は歌舞伎から剣劇の要素を抜き出した。剣劇は後にチャンバラと呼ばれるようになる。この人気に着目したのが映画業界だ。日本にいくつかの映画会社が作られ、チャンバラ映画が成立した。
剣劇はエンターティンメントとして人気があったらしい。例えば、1930年代には女剣劇と呼ばれる「ちょっとエッチな」剣劇も作られた。有名な女優に浅香光代がいる。男性は浅香光代のアクションシーン(と、ふともも)に「萌えた」のである。現在の戦隊ものにも女性がおり、女性の戦闘シーンに萌えるファンを獲得している。ここからも剣劇と戦隊ものにはある程度のつながりがあることが分かる。
では、剣劇はその後どのようにして、テレビに継承されたのだろうか。
映画会社はスターシステムと五社協定を採用してスタッフや役者を囲い込んだ。戦中の戦意高揚映画の時代をくぐり抜け、戦後安い娯楽として多いに繁栄した。
ところが日本の映画はその後斜陽の時代を迎えることとなる。その原因となったのも囲い込みによる五社協定だ。映画会社は五社協定を使ってテレビ局を排除しようとした。所属俳優が俳優がテレビに出ることを禁止したのである。
そこで、テレビは本格的な(つまり映画の俳優やスタッフなどを使った)コンテンツが作れなかった。そこで浅草の軽演劇的な伝統を持つ人たちがテレビに駆り出された。黒柳徹子のようにNHKの専属女優もいた。当初テレビは「大衆的だ」と蔑視されていた。今テレビがインターネットを見ているような目線かもしれない。
本格的でないとされていたテレビからは面白いコンテンツがいくつも作られた。今回のコンテクストで重要なのはウルトラマンを作った円谷プロだろう。アメリカのテレビの怪奇シリーズ(トワイライトゾーンやアウターリミッツなど)をまねして作ったのがウルトラQであり、その流れで作られたのがウルトラマンだ。もう一つの流れは手塚治虫だろう。このようにして、新しいコンテンツであるSFが徐々に子供たちを中心に受け入れられてゆくことになる。
さて、映画は斜陽となりスターシステムは1971年に自然消滅した。そこで映画会社は新しいニッチを生み出す必要があった。例えば、日活はロマンポルノ(すなわち成人映画)に以降せざるをえなかった。東映は自社が持っていた強み(チャンバラ)を生かしたかったが、新しいコンテンツ中心だったテレビには十分な枠がなかったものと思われる。ウルトラマンなどの子供向けSFの伝統はすでにあったので「子供向け」として作られたのが仮面ライダーである。仮面ライダーは1971年の作品で、ちょうど五社協定崩壊の年にあたる。
仮面ライダーの成功に手応えを得た人たちは「仮面ライダーをグループで登場させる」企画を作った。これが発展してゴレンジャーにつながる。ゴレンジャーの制作は1975年であり、東映の制作だ。このようにして徐々にSF的な設定と剣劇が結びついたのである。
ここから、ウルトラマンと、戦隊もの・仮面ライダーは系統が異なるということが分かる。40年程度経ってチャンバラの伝統を継承した後者が生き残り、ウルトラマンが伸び悩んでいる。日本人のエンターティンメントに関する感覚は意外と保守的なのではないかと思える。ウルトラマンには剣劇の伝統がないのだ。
時代劇が時代劇のまま受け入れられたものもある。それが水戸黄門だ。水戸黄門はもともと講談だったのだそうだが、その後映画に取り入れられた。主な映画会社は東映である。
だが、皮肉なことにテレビの時代劇と映画会社は連続的に結びついていない。テレビの水戸黄門(1964年〜)を制作したのは五社協定の中には入っていない東伸テレビ映画という会社であった。テレビは五社協定の枠外で既存コンテンツを模倣しようとしたわけである。だが、東伸テレビ映画は倒産し、その後、水戸黄門は松竹に引き継がれた。
現在知られている水戸黄門は松下電器(パナソニック)の提供で作られており、制作はC.A.Lというテレビ制作会社だそうだ。つまり、水戸黄門は「テレビ映画」という映画の模造品なのである。
映画製作会社が作る時代劇の勧善懲悪は刑事ドラマに引き継がれている。例えば相棒などが東映作品だ。単純な勧善懲悪ドラマには戦前から一貫した需要があるのだろう。
ここで蛇足ではあるが「本格的な作品とは何か」ということを考えてみたい。
刑事ドラマでは勧善懲悪では現実と結びつけられる。例えば相棒には社会情勢などが反映されている。その意味では勧善懲悪行為は表面的であり、社会的だと捉えられる。一方、仮面ライダーや戦隊ものからは社会的な背景は排除されており、悪は抽象化されている。だから、子供向けだと考えられるわけだ。
だが、見方を変えると、抽象化された悪は、より内面化された悪だと考えることもできる。現実の支えがないので、正義が何と戦っているのかという点は常に考察と更新が必要になるからだ。戦隊ものが何と戦っており、どんな時代背景が含まれているのかというのは、それだけで興味深い考察対象なのかもしれない。
よく「子供向けドラマは本物の芸術ではない」と言われることがある。確かにその通りに思えるのだが、皮肉なことに「正当性のある本物の芸術」にはそれほどの需要はない。一方で、抽象化された悪という概念が「正当性のある芸術ではない」とも言い切れない。
政治的メッセージを昇華した「純粋芸術」であるところの新劇(つまり西洋の戯曲をもとにした芝居)にはそれほどの需要はない。例えば浅利慶太はもともと共産党員だったのだが、後にその陣営を離脱してミュージカルを興行的に成功させている。俳優座を作った千田是也はドイツ共産党への入党歴がある。千田是也はブレヒトの芝居を日本に導入したことで有名だ。
ブレヒトの異化効果などは面白い概念だ。革新的な社会主義では「当たり前と思っていること(つまり自動化されている常識)」を排除するために、人々は教化されなければならないとされる。ところが、現代のブレヒト劇を見ている観客は「考えさせられた」とか「大竹しのぶさんの演技に没頭した」などと言ってしまう。
芸術的な雰囲気というものは、それだけで人を飲む効果がある。つまり「西洋の芸術に触れた」ことでそれ以上考えることもなくなんとなく満足してしまうわけだ。皮肉なことに、芸術には人を思考停止に追い込む効果があり、本来の目的にかなわないものなのである。

劣等機能 – Twitterにはなぜバカが多いのか

Twitterには「バカ発見装置」という別名が付いている。では、Twitterにはなぜバカが多いのだろうか。それは社会的に許容されるべきなのだろうか。真剣に考えてみたい。

この問題を考えるためには「バカとは何なのか」ということを真剣に考えてみなければなるまい。バカとは社会的に訓練されていない機能のことである。例えばユングは人の機能を4つにわけて分析している。それは思考・感情・直感・感覚の4種類である。人には得意な機能がある。と、同時にその対になる不得意な機能を持つのだ。
Twitterで「バカ」を発露する人は、自分の得意でない機能を発揮していることになる。例えば感情的にしかものを見ることができない人が「思考」に捉われたとき、その人は「バカ」であるということになる。発信している人は「独り言」のつもりだが、それが世間に晒されてしまうのである。
では「人はバカであってはいけないのか」という問題が出てくる。バカな機能(すなわち劣等機能)は制御できない形で表面化する場合がある。劣等機能の暴走は人生を壊滅的に破壊する可能性があるとされる。社会的に慣らされていないばかりか、使われないことで無意識に抑圧されているからだ。
これを防ぐためには「劣等機能を意識し、それを育ててゆく」ことが必要だと考えられている。が、実際にはどれが劣等機能かということはその人には分からない。無意識に抑圧されているのが劣等機能だからだ。故に「それを意識して育ててゆくこと」は不可能ではないのだろうが難しい。
で、あれば「様々な自己」を発露する場を作っておいて、それを社会的に馴化してゆくしかないということになる。つまり、ソーシャルネットワーキングサービスを馴化の場として利用することができるわけである。
もちろん、ソーシャルメディアと言っても様々な種類がある。例えば実名が前提のFacebookは比較的強いつながりで構成されている。そこで劣等機能の馴化を始めると「人々が驚いて引いてしまう」ことが十分に考えられる。例えば、普段政治の話をしない人がFacebookで政治の話を始めるとどうなるだろうかということを想像すると分かりやすい。一方、Twitterは実名が前提になっておらず馴化の場としては利用しやすいかもしれない。
さて、日本のソーシャルネットワーキングには別の危険性がある。集団で劣等機能を発現するという選択肢が残されているのだ。
例えば、日本の男性は社会的共感というものを訓練する場がないが故に、共感機能は劣等機能化しやすい傾向があるかもしれない。ところが何らかの事情でこれが表面化することがある。「家族」や「つながり」と言った価値観は、まず高齢者が読み手であるWillなどの右翼系雑誌で劣等機能として発現した。そこに野党化した自民党が結びつき暴走を始めることとなった。再び与党に返り咲いた安倍自民党が一部の人から嫌われるのは、彼らにとって「思いやり」や「共生」といった概念が彼らにとって明らかに社会的に馴らされていない劣等機能だからである。
一方、日本の女性は「共感すべき」とされており思考が劣等機能化しやすい。そこでそうした人たちが集まると科学的にめちゃくちゃなことが「事実」としてまかり通ることとなる。当然、女性の中にも思考的な人がいて「ああ、めちゃくちゃだなあ」と思うわけである。だが、当人たちは意に介さない。そもそも「感情を説明するために思考を利用しているだけ」だからだ。
劣等機能を馴化しないことは社会に取って大いなる害悪をもたらすのだということが言えるだろう。それを防ぐためには、個性化が「個人の不断の努力」である必要がある。Twitterの「バカ」は個人である限りには、学習の一環として容認することができる。しかし、それが社会的に結びつき、振り返りを忘れたとき、社会的な害悪となってしまうのである。

宗教としての右翼と左翼 – 政治はなぜ人を惹き付けるのか

先日、革新系市民団体の事務所を訪ねた。目的は近所のショッピングスペースについて情報を集めるためだった。一人の女性は話好きで一人はかたくなそうな感じだった。それを見て、新興宗教でありがちな風景だなと感じた。
新興宗教の信者は「生きているものを大切にすべきだ」というような分かりやすい道徳的信条を持っている。だが、教徒たちは世間ではそうした信条は軽んじられていると信じている。実際に軽んじられているのはその人自身である。「お前は黙っていろ」と言われるのだ。
このようだから新興宗教にはまった人を「説得」することはできない。常に「お前は黙っていろ」と言われることに警戒しているからだ。そこでその人は他人の権威を利用する。新興宗教には必ず教祖がいる。「その人の言うことを聞いていれば大丈夫だ」という安心感が得られるからだ。教祖の言うことは時には変わるかもしれないのだが、教徒は気にしない。
左翼層を惹き付ける政治課題はリスクに関するものだ。例えば「戦争は良くない」や「原子力発電所は危険」あるいは「化学物質の脅威」などがリスクだ。現代社会は外から来る危険性に満ちている。左翼から見ると安倍政権は「災いをもたらす悪魔」なのである。
経済的格差や不公正なルールといった問題は響かない。だから問題は「リスク」に翻訳される必要がある。
左翼の教会には教祖はいない。だから左翼の教会にはなんとも言えない不安がある。
科学的な思考はできない。だからこそ「あなたの意見は間違っている」と指摘されるのだが、論理的に批判されているとは思わない。社会的に抑圧されているからだと思う訳だ。科学的な思考ができないから「正解を暗記し、かたくなに守ろうとする」のである。
左翼系の活動は社会闘争だ。他者に耳を傾けることは負けを意味する。それは「あの惨めだった日常」への回帰である。「従うか、無視するか」という二択である。
厄介なことに、日常は「他人に従ったふり」をしている人も多い。ただ、絶対的に侵入してはならない領域があって「そこでは自分たちが正しい」と考えている。その態度はかたくなで病的に変質している。社会的規範そのものがアレルギー物質のように作用しているのである。
さて、右翼は左翼とは違っているように見える。こちらは「自分たちは尊敬されるべきだ」と信じているが、現実はそうではない。人々が他の人に従うのはなんらかのメリットがあるからだ。尊敬は便益の対価なのだ。
この人たちは「美しい」という言葉を使う。その意味は「調和が取れている」とか「独特で特別だ」というものだ。例えば富士山は美しい。富士山が心を打つのは確かだが、それはその人にとって特別だからである。実際の富士山はありふれた火山でしかない。だが、「美しい」を言い立てる人たちはそれを認めない。すべての人たちにとって美しくなければならないのである。他の人にもそれぞれの「富士山」があることを信じないのが右翼的思考だ。
つまり、右翼を信奉する人たちの価値は内側にあるのだが、誰にも賛同されないことが問題なのだ。共感機能不全とも言える。攻撃は認められるべきではないので「教育」によって矯正されるべきだと考えている。ただし、右翼の教育観は「強制的に信じ込ませる」と同義だったりする。他人の欲求に対しての認識は恐ろしく低い。だからこそ尊敬されないと言えるのだが、彼らはそれが分からない。
右翼がもっぱら問題にするのは憲法だ。本来は憲法の条文などどうでもいいのだ。彼らが問題にしているのは「アメリカから去勢された」という物語だ。背後には、憲法さえ変えてしまえば自分たちが尊敬されるようになるだろうという、あきれるほど単純な見込みがある。
右翼の活動は闘争という形を取らない。「当たり前のものが得られる」だけなのだから、闘争する必要はないからだ。しかし、その実態はやはり社会的闘争と言える。
やっかいなことに左翼層の中にも右翼的な人がいる。例えば「安倍政権がのさばっているのは政治的関心を持たない若い人が多いので、教育する必要がある」という主張がある。これは、今回の分析の文脈上は「右翼的な」主張なのだが、当事者たちはそうは思わないだろう。
逆に右翼層にも今回の分析の文脈上は左翼的な人たちがいる。女性なのにことさらに勇ましい発言をする人たちは「自分たちは賢いので正解を知っている」と考えているのだろう。実際に彼女たちが知っているのは、正解をもたらしてくれる教祖や教義なのである。
つまり「右翼・左翼」という枠組みは既に無効化していると言ってよい。共通するのは「社会的闘争」であるという点だけだ。他者からもたらされる不可避な脅威から身を守ろうとする人と、本来得られるべき自分の尊厳が他社から無視されていると考える人がいる。
政治はそういう人たちを惹き付けている。乾きに似たニーズがあるので、政治家はニーズを満たすことによって支持層を広げることができる。また、書き手は渇望を満たす文章を書けば読み手を増やすことができるだろう。
そのニーズとは何なのだろうか。それは「社会的な認知」である。誰も他人の歌を聞いていないという意味ではカラオケに似ている。他者の歌を聞くようになれば、政治的な興味の大方は失われ、ジャーナリストたちは失業するだろう。

長島昭久さんの季節外れのアドバルーン

民進党の長島昭久衆議院議員が、前回の安保法制と政府の憲法解釈について独自の見解を述べている。

要旨は次の通り

  1. 従来の政府見解では集団的自衛権は他衛とみなされた。
  2. 自衛の武力行使は憲法第十三条による例外。それ以外は違憲。故に集団的自衛権は違憲。
  3. しかし状況(国際情勢・軍事技術)が変わった。だから自衛と認められる状況が出てきた。だから部分的には合憲になった。
  4. 説明できなかった政府も悪いが、戦争法とか立憲主義の蹂躙というのは単なる感情論

感想は次の通り。
橋下さんの「自衛と他衛には重なる点がある論」みたいだなあ。
なぜ、今頃こんなことを言い出したのか。いつものような民進党内の教条を巡る争いなのか、自党内右派への言い訳なのか、自民党に「一緒に組みましょうよ」と秋波を送っているのか。いずれにせよ、国民には関係がなさそうだ。
岡田民進党は「立憲主義の擁護」を唄っており、支持者たちは戦争法反対を訴えて共闘を受認している。参議院選挙後「やっぱり、感情論は良くなかったよね」となったら、支持者たちはどう思うんだろうか。
あれ、改憲派の人って「木村草太理論はデタラメ」って言ってなかったっけ。これだと改憲の必要はないということになっちゃうんのだが、それでもいいのか。まあ、アメリカとの約束さえ守れれば別になんでもいいんだろうなあ。
日本はアメリカの従属国なのでアメリカのリクエストには従わざるを得ない。それを隠蔽しつつ理屈をつけるとこんな苦しいことになるんだなあ。政治家って大変だなあ。いっそのこと、従属国だと認めて「アメリカを忖度することが日本の国益なのだ」と開き直った方が幸せになれるんじゃないだろうか。どっちみち、これから出費も増えるんだし……
状況が変わったとはいうが、政府は結局立法事実を提示できなかった。ホルムズ海峡とか言っていたが、これも国際情勢が変わってしまって無効になったし。結局、国際情勢とか言い訳なんだよな。
大統領が変われば言うことも変わっちゃうんだろうなあ。長島さんもトランプ大統領のもとでは「自主防衛論」なんかを主張するようになるんだろうか。柔軟というかいい加減というか。
ということで、長島さんが言いたかったことを書きなおしてみた。

  • アメリカは、戦後日本を武装解除した。連合国も軍隊を禁止しろとうるさく、武装解除がないとアメリカの権益が冒される危険があった。憲法はその方針で作られた。
  • だが、結局日本を自衛しきれなくなった。憲法は変えずに、自衛のための軍隊だけを容認した。
  • 国際情勢(すなわち日本にとってはアメリカだけが世界なのだ)が変わった。日本は敵国と見なされなくなり、アメリカも軍事力を削減せざる得なくなった。国際情勢とか軍事技術とかは言い訳。
  • 日本にはアメリカに従う意外の選択肢はないので、リクエストには応じなきゃいけない。憲法がどうとか行っていると結局憲法第十三条が遵守できなくなるよ。従米だけが合憲なのだ。

最後の感想は次の通り。
これなら憲法を知らなくても一般常識だけで書ける。結局、日本の憲法学というのは詭弁術のことなんだろうか。

熊本・大分が激甚災害指定されないたった一つの理由

追記:激甚災害できない理由は「外遊を控えていて安倍首相が議長になるのをためらっているからだ」と書いたのだが、どうやら間違いだったようだ。安倍首相が現地入りしてから激甚災害されたので、「安倍首相が現地視察をした結果、激甚災害された」という順番にしたかったようだ。安倍さんの指導者としての絵を作りたのではないだろうか。ヘリコプタで現地入りして、その日のうちにとんぼ返りした。
後(5/17)に安倍首相は「私は事実上の災害対策本部のトップだ」と国会答弁した。ということで、災害発生後一ヶ月以上経っても河野担当大臣に災害対策本部のトップを任せている。理由は外遊を優先させるためだという。リーダーシップを発揮しているように見せたかったわけだが、面倒なあれこれは部下に押し付けていることになる。
以下は、激甚災害される前に書いたバージョン。
熊本・大分で大きな地震が起こってからしばらく経った。最初の地震が起きて熊本県の知事が「激甚災害指定してください」と要請したがはねつけられたそうだ。河野太郎担当大臣は「書類が上がってきたら検討する」と言っている。激甚災害指定されると、被災者のお金の心配が少しだけ(それでも家をどうやって建て替えようなどの問題は残るらしいのだが)軽減される。ささやかだけど応援になる。
なぜ政府は早急にしてあげないのか。いろいろ考えてみたがよくわからなかった。だって早晩指定されるわけだし、遅ければ野党に批判されるのも分かりきった話だ。
いろいろと読んでみて理由がわかった。それは安倍首相がサミットを控えているからだ。その下準備でゴールデンウィークにヨーロッパにお出かけするのである。ここで激甚災害指定されるとどうなるのか。安倍首相は最高責任者になってしまうのだ。さすがに議長さんがお出かけするのはまずい。だから、民進党の江田のさんは「今のところの最高責任者は河野太郎担当大臣だ」と言っている。
もし地震が1度で済んでいれば、ちゃちゃっと現地視察して「力強く現地指導なさる首領様」的な絵を撮らせてからヨーロッパに飛びたてたかもしれない。でも、なかなか収まらないし、「待ってられないよね」と思ったんだろう。
分かりやすい。遠く東京から離れている九州で地震が起きても、官邸は知ったこっちゃないと思っている。それよりも国際的な晴れ舞台の方が重要だ。だっていい格好できるし、「世界を動かしてる」感が味わえるから。常々、安倍さんはお取り巻きたちに「国会議論で首相が拘束されると外遊できない」と言わせている。内政より外交がやりたいんだろう。それも難しいやつじゃなく、現地にお金を配って喜ばれるのが見たいのだ。外交でも北方領土交渉見たいのは無理。
でも、そこで安倍さんの姿勢を非難するのは間違っていると思う。国民は自民党政権を圧倒的に支持しているわけだし、今年の参議院選挙でも自民党が大勝すると言われている。
理由はいくつかある。安倍さんは支持してくれたり票を入れてくれる人には惜しげもなく配る。だから支持者も多い。それに国民も、外遊で各国首脳と格好よくポーズを取るわが国のリーダーの顔が見たいんじゃないだろうか。「ああ、やっぱり日本は先進国だなあ、誇らしいなあ」と思えるから。こういうお金じゃないベネフィットを感じている人も多そうだ。
「選挙と国際的名声のために合理的に判断する人」なんだろう。みんなそういう人が好きで総裁に選び、総理大臣にしたんでしょ?
マスコミの人も「安倍首相は内政よりも外交を優先した」とは言わない。物産館の買い物の列を映して、ふるさと納税について伝えたら、視聴者も罪悪感は感じなくて済むって思っているんじゃないだろうか。