そもそも民族とは何なのか

国連は2008年以来、沖縄人は琉球弧の先住民族だと認定するように日本政府に勧告しているらしい。この勧告について自民党は「国連に撤回を求めるべきだ」として問題化しようとしている。
この発言には大いに問題がある。国益に反するので、国連に勧告撤回を求めるのはやめた方がいいだろう。撤回を求めている人たちは本土の代表であって「抑圧者」だと見なされる可能性がある。次に民族の概念は定義が曖昧であり、そもそも議論が成り立たない可能性が高い。沖縄選出の自民党議員に「我々は日本人である」という運動をやらせてもいいが、これは沖縄に住む人たちを分断することになるだろう。民族という概念は政治の産物なので、政治問題化しやすいのだ。
もし撤回を求めるとしたら、代わりに「第三者」に琉球諸島(そもそも琉球諸島そのものにも明確な定義が存在しないそうである)の住民へのアンケートを依頼すべきだ。民族というのは、その人のアイデンティティの問題だからだ。琉球弧の人たちは、ことによっては複数のアイデンティティを持っている可能性があるし、先島諸島の人たちが本島に住む人たちと違う民族意識を持っている可能性すらある。
民族は曖昧で複雑な概念である。
日本人はノルウェーにはノルウェー人が住んでいると思っているだろうが、実際はそれほど単純ではない。ノルウェーは長らくデンマークやスウェーデンと同君連合を組んでいた。なので、ノルウェーの言語はデンマークとスウェーデン語とあまり変わらない。しかし、それでは独立した民族とは言えないので「独自の言語」を取り戻す運動があり、従来の言語と独自言語の2つが公用語として採用されている。アイルランド人の多くはアイルランド語ではなく英語を話す。しかし、独立国に住みアイルランド人としての自己認識を持っており、アイルランド語が保存されている。
また、ペルシャ語を話す人はイランとアフガニスタンにまたがって住んでいる。だが、彼らは別民族とも同一の民族とも言えない。イランのペルシャ人はアフガニスタンのペルシャ系の人たちに対する差別意識がある。ペルシャ人は(トルコ系の言語を話す人と区別して)ペルシャ語の話者をさす場合とイランに住むペルシャ語系の人をさす場合があるそうだ。
ウズベグ人はロシアの統治を経てソ連で定義された。ウズベグ人の中にはトルコ系とペルシャ系の言語を話す人が含まれ、コーカソイド系とモンゴロイド系がいるそうである。ウズベグ人の中に含まれるタジク系の人たちだが、タジク語はペルシャ語の方言なので、この人たちはペルシャ人ともいえる。こうなると、何がなんだかさっぱり分からない。歴史的に「ウズベグ」と呼ばれる人たちがおり、イスラム系の非ロシア人をまとめる際に人工的に作られた概念らしい。だが、一度ウズベグ人という概念ができてしまうと民族意識が後から形成される。
民族という概念は時に悲劇を生む。ルワンダに民族対立があると信じている日本人は多いが、そもそもツチ・フツという概念はヨーロッパ系の人たちがでっち上げたものだと考えられている。バンツー系の支配層と被支配層に違った民族概念を与え「ツチはエチオピアからやってきた」という「事実」を作り出した。後にラジオのプロパガンダを真に受けたフツ系の人たちが、短期間で50万人から100万人のツチ系の人たちを虐殺したのだ。
北朝鮮と韓国に住む人たちは、自分たちを同一民族だと考えているが、朝鮮語と韓国語という別名称の言語(内容はほぼ同一)を話す。台湾に住む人たちは、同じ国に住み、ほぼ同系の言語を話すが、中国人だと考える人と、台湾人だと考える人に分かれている。中には「台湾人であり中国人だ」と考える人もいる。つまりこの2つの概念は二律背反するものではない。台湾にはオーストロネシア系の原住民がいて、話が複雑化する。誰が本来の台湾人なのかという問いに単純な答えはない。
日本人が「琉球人などという概念は存在しない」という主張をしているのと同じような主張をしている人たちもいる。それは中国共産党だ。彼らは「中国に住んでいる人たちはすべて中華民族だ」と主張している。やっていることは、少数言語の破壊と植民地政策だ。チベットの同化政策を見るとそれがよくわかる。
そもそも民族は定義のない概念であり自己認識以外には議論が難しい。加えて日本政府は、琉球人を否認することで少数民族を圧迫しているという印象を与える危険性すらあるわけである。

リーダーシップ論から見る – 安倍は何に失敗したのか

安保法制が改正されてからしばらく経った。しばらく、この問題から離れてから眺めてみると、安倍がなぜ失敗したのかがよくわかる。安倍にはリーダーの資質が決定的に欠けていることが分かる。リーダーシップの欠如は様々な弊害を生み出している。
と、同時にリーダーというものがどのような資質を持っていなければならないのかということもよく分かる。今回は安倍のリーダーシップの欠如に着目して、リーダーシップについて学んでみたい。
まず、環境を見てみよう。戦後、日本は連合国から武装解除させられた。日本が武装解除を前提とした憲法を作ったのは連合国を納得させアメリカの単独統治を正当化するためだった。アメリカ側にも利点はあったろうが、日本側としても虐待した中国(当時は国民党)が入ってくるのは避けたかったのではないだろうか。憲法はその線に沿って作られたが、後に米軍が展開する必要から再軍備を迫られた。結果、憲法と現状が合致しなくなったが、アメリカは特にねじれにはこだわらなかった。法律の整合性を取るのは日本の内政の問題であって、アメリカとしては必要な機能さえ満たせればよいからだ。結果、憲法と実勢がねじれる現状が温存された。
ところが、外的環境が変わった。東西冷戦が集結し、ソ連が世界秩序の担い手の地位から撤退した。アメリカは拡大する軍事費を一人では賄いきれなくなり、各国にはっきりと世界秩序の維持に必要なコストを支払うようにと伝えるようになった。また、オバマ政権時代入ってから、アメリカは何回か連邦予算凍結の危機に直面している。最近出始めた記事によると、イギリスにはGDPの2%を軍備に当てるようにプレッシャーをかけていたそうだ。オバマ大統領は「フリーライド」を嫌っているとも言われている。
さて、安倍の第一の失敗は、展望とビジョンに欠けているところだ。実際にはアメリカが困窮しているのだが、それを勝手に自分の思い込みに置き換えた。それは「中国の脅威が強まっている」というありもしない図式だ。
そればかりか、安倍はアメリカを自分の権威付けに利用しようとした。自分たちはアメリカとうまくやっていますよという図式である。そのために、アメリカ政府からの要求を隠蔽した。
この結果、安倍は日本人に必要な「意識変革」を迫ることができなかった。アメリカは第二次世界大戦後、東側陣営との対抗上日本を優遇する必要があった。日本人は意識改革をする必要があった。ところが、安倍はそれをやらなかった。代わりに「自民党に従っていれば、何も変えなくてすむ」という偽りの安心感を与えた。「負担が増えることはない」とも明言した。
ここまで「アメリカ」という主語を使ってきたが、実はこれも間違っている。実際にはジャパンハンドラーと言われる特定の関心を持った人たちとオバマ政権は別の意図を持っていたようだ。ジャパンハンドラーは「日本のナショナリズムを高揚させるために中国の脅威を利用しろ」とか「ホルムズ海峡に展開しろ」というジャパンハンドラーの要求を「アメリカの要求だ」と思い込んだ。後にホルムズ海峡の事例は議論を混乱させることになる。状況が変わり、イランが国際社会に復帰したからだ。
結果的に、安倍は展望とビジョンを持たず、状況認識を間違え、コミュニケーションの通路もうまく確保せず、必要な変革を国民に迫らなかった。リーダーシップの機能はビジョンを明確にし、冷静な状況分析をもとに、必要な変革を受け入れ可能なものにすることだが、どれも果たせなかった。
では、安倍のリーダーシップの欠落はどのような弊害をもたらしたのか考えてみよう。
まず、そもそものねじれの原因である憲法第九条の改正がほぼ不可能になった。解釈でどうとでもなるのだから、あえて変える必要はないわけだ。「国民に人権があるのがおかしい」などと言い放つ議員が野放しになっており、国民は憲法改正そのものに消極的だ。憲法改正によって「俺たちが威張れるようになる」という幻想を持った人たちが大勢いて、実務的なニーズの充足が難しくなっている。
次に現状認識に歪みを生じた。今でも「中国が攻めて来る」と考えている人は多い。逆に「安倍は戦争を企んでいる」と考える人もいる。リーダーは組織を統合するものだが。下手なリーダーは混乱を作る。結果、国防上では何をやろうとしても「感情的な議論」が不可避になる。そればかりか、本当に必要な課題から目がそらされている。この夏の参議院選挙の争点は「立憲主義」だそうだが、本来ならやらなければならないことはいくらでもあるはずだ。
第三に、変化に対応できなくなった。政府の議論はガラスでお城を組み立てるように繊細なものになっているのだが、アメリカの状況は変わりつつある。オバマ大統領がほのめかしていた要求はあからさまなものに変わりつつあるのだ。トランプ候補は「防衛費の分担のない国から撤退する」とか「自前で核でもなんでも持てばいい」などと言いはじめている。別の候補は裏から軍事費の負担を求めるはずだ。だが、日本は国民に様々な約束をしており、柔軟に状況に対応することができない。今後、対応を迫られるたびに「国論を二分する」大騒ぎが繰り返されるだろう。
さて、ここまでは表向きの混乱だ。しかし、その裏には別の混乱もある。それは信頼関係を損なったことである。
表立って語られることはないだろうが、日米関係はかなり深刻なダメージを受けているはずである。アメリカは「〜だから〜しろ」と要求してきているはずだ。「〜しないなら〜ということになる」とも言ってきているだろう。ところが、安倍政権はにやにやしながら勝手な解釈をしているのではないだろうか。「分かってますよ、本当は中国をやっつけたいんですよね」といった具合だ。予めジャパンハンドラーに吹き込まれた情報が文脈を与えているのだ。「日本は交渉相手にならない。明確に要求を伝えても真剣に受け止めているかは分からない」と思っているはずだ。
優れたリーダーは組織を統合し潜在力をうまく利用するが、無能なリーダーは組織を分断しする。日本は明らかに無能なリーダーを頂いており、安全保障や経済上の大きな脅威になっている。国民は目前の課題に注力せず、意味のない議論を繰り広げるばかりだ。
このことから、リーダーシップというものがいかに大切かということがよく分かる。

このピストルは撃たないから武器ではありません

家の近所に自衛隊の駐屯地がある。年に何回か解放日があるので遊びに行ってきた。かなりの人出だった。小さな銃のおもちゃを持った子供からミリオタらしいおじさんまで様々な人が集まっている。地域のイベントとして定着しているのだろう。
駐屯地と言ってもここから敵のミサイルを迎撃することはないとのことだった。習志野にもっと大きな駐屯地があり、そこが固定の基地になっているらしい。
この辺りに「反基地運動」はない。もともと原野に飛行場があり、その周りに宅地ができたという経緯がある。周辺は未開墾地で、戦後に引き上げてきた人たちが開拓団として入り、農地や住宅地が形成された。戦後、ここに入ってきた人たちは、基地があることを知っていて越してきた人たちばかりなのだ。
戦車くらい見れるかなあなどと思っていったのだが、偉い人たちが挨拶しているばかりであまり面白くない。そこで、途中で帰ってきた。もう少し待っているとデモンストレーションを見ることができたらしい。
ちょっとショックだったのが、銃(ピストルみたいなものではなく大きめだった)を持った人が集団でうろうろしているというところだった。目の前であんなにあからさまに銃を持ったひとを大勢見たのは生まれて初めてだし、家の近所にこういう人たちがいるんだなあなどと思った。改めて、自衛隊って軍隊なんだなあと実感した。そう、自衛隊は軍隊なのだ。

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日本ではこれは武器ではなく、装備品。いや誰が見ても武器だろうって。

表向き、平和憲法のある日本は軍備を放棄しており、日本には軍隊はないことになっている。だから、軍事訓練とは言わずに「装備品展示」と言っている。兵器とは言えないのだ。
だが、どうみてもあの人たちは軍人だし、目の前にあるのは兵器である。例えて言うならば、拳銃を持っていて「私がこれを発砲することはないので、これはピストルではありませんよ」と言っているみたいなものである。でも、撃つつもりはなくても、ピストルはピストルだ。自衛のためだと言ってもやはり軍隊は軍隊なのだ。
合理的に考えれば選択肢は2つしかない。軍備をすべて放棄するか、憲法を変えて軍隊を認めるかの二択である。中国や北朝鮮が「はいそうですか」といって軍備をすべて放棄してくれれば、ややこしい話をしなくてもいいのだが、そうはいかないわけで、すると憲法改正しかないよなあと思える。「あれ、僕って第九条改正派なのか」と思う。こう言うと「あいつは戦争をしたがっている」ということになるわけだから、ややこしいことこの上ない。
憲法改正がこの1項目だけだったら「まあ、仕方がないかな」ということになると思うのだが、実際は憲法第九条は最後の砦ということになってしまっている。代わりにもっとやっかいな緊急事態条項などが「国民に受け入れられやすい」と思われている。どこか倒錯している。
ちょっと不安に思ったのは訓練の内容だった。実際に見ることができなかったのでYouTubeで見たのだが、どうも敵が偵察機を送り込んでから航空機で攻撃するというのが前提になっているようだ。これだと少し時間がある。自衛隊は自律的に動ける軍隊ではない(建前上は文民に統制されていることになっているし、現実的には米軍の指揮下にあるのだろう)ので、北朝鮮の狂った将軍様が突発的に何かを「ぶっ放した」ら対応できそうにない。
さて、日本には国防の原則と呼ばれるものがあるそうである。

  1. 国際連合の活動を支持し、国際間の協調をはかり、世界平和の実現を期する。
  2. 民生を安定し、愛国心を高揚し、国家の安全を保障するに必要な基盤を確立する。
  3. 国力国情に応じ自衛のため必要な限度において、効率的な防衛力を漸進的に整備する。
  4. 外部からの侵略に対しては、将来国際連合が有効にこれを阻止する機能を果たし得るに至るまでは、米国との安全保障体制を基調としてこれに対処する。

いちおう、国連(連合国)中心の秩序を作ることが最終ゴールだが、途中経過なのでアメリカと集団安全保障体制を取るということになっているようだ。建前としては、ほとんどの国が国連加盟国になっており、戦争は違法だ。だから戦争はないはずなのだが、建前通りには行かない。今でも「戦争は国連によって完全に防がれている」はずである。この近隣では台湾(実際には原加盟国なのだが共産党政権に取って代わられてしまった)くらいしか非連合国はないが、台湾が国連加盟国に攻撃を仕掛けたという話は聞かない。代わりに北朝鮮(こちらは国連加盟国だ)が怪しい動きを見せている。
だが、戦争はなくとも「自衛による武力行使」は至る所で行われている。すでに「国連中心」という理念は破綻していると言ってよいのだが、建前を変える訳にはいかないのだろう。
この中で気になるのは「愛国心を高揚し」の部分だ。そもそも「愛国心」とはしみじみとわき上がってくるもので、感情的に高揚させるべきものではない気がする。愛国心を高揚するために、具体的にどんな活動をしているのだろうか。政治家の言動を見ていると、逆に愛国心をしぼませることばかりしているように見える。
日の丸も主権者である国民を象徴しているのだと思えればいいのだが、どうも国民は日の丸に従うべきだなどと考えている人も多いのではないだろうか。押し付ければ嫌がられるのは当たり前で、却って国防の精神にそぐわないのではと思った。
いずれにせよ「愛国心」はしぼみ、国民は分断されている。その結果、無理のある憲法第九条が残ってしまっているのである。そのように考えると、無茶な憲法案を掲げる人たちが、最大の護憲活動をしているのではないかと思う。

シリアル – 朝ごはんについて考える

先日、NHKのあさイチという番組で「主婦の時間のやりくり」という特集をやっていた。そこでは、忙しい主婦が朝ご飯の品数をそろえることが「偉い」と評価される一方で、坂下千里子のような「手抜き主婦」がパンにピーナツバターを塗っただけの朝食を「えーこれが朝ご飯なの」などと非難されていた。
伝統的な家族観のもとでは坂下千里子は糾弾される運命にある。これが多くの主婦を苦しめている。主婦は「みそ汁が飲みたいなら自分が作れ」とは言えないからだ。だが、これは合理的な選択ではない。
朝ご飯の目的は栄養を取り「体と頭を立ち上げる」ことである。ピーナツバターとパンだけでは栄養が足りないのだが、特に品数を揃えるのも面倒だ。だが、世の中にはシリアルという便利なものが売られていて、多くの食材と栄養素を同時に取ることができる。
「いやいや、朝は暖かいものが食べたい」という人がいるかもしれないのだが、インスタントスープやコーヒーを付ければ言いのだし、「朝には発酵食品が必要だ」という人がいるのなら、ヨーグルトを付ければいい。朝は忙しいのだから、火を使った料理を極力減らしたいと考えるのが人情というものである。わざわざご飯を炊いてみそ汁を作る(具を揃えて出汁から作ると結構面倒くさい)必要はないわけである。
どうやら日本人は「効果」を「かけた手間の時間」で計測するという悪癖があるらしい。「人月指向」なわけで、これは、延々と続く残業のように様々な無駄の温床になっている。だが、朝ご飯の効果は「栄養」で計測されるべきだ。短い時間で栄養が準備できるなら、それは「費用対効果が高い」と賞賛されるべきではないだろうか。
品数が多い朝ご飯が賞賛されるのはなぜだろうか。いくつか理由がある。

  • 昔はシリアルのような便利なものがなかったので、栄養をまんべんなく取ろうと思うと様々な食品を組み合わせる必要があった。
  • かけた時間が愛情の量だと錯誤されている。

もちろん、専業主婦なら朝ご飯づくりに時間をかけてもよいのかもしれないのだが、公共放送を使って賞賛するほどのことではないのではないかと思う。
朝ご飯を作ってもらう側(まあ、本当は夫が作っても良いのだろうが)の一番の障壁は「ママが作ってくれたご飯と違う」というものなのだろうが、自炊経験がある人なら、独身時代には時間をかけていなかったはずなので、意外と受け入れは難しくないと思う。すると、残る障壁は姑世代の「私たちの時代はこうではなかった」という、世間の目かもしれない。
もっとも受け入れる側も「時間をかけないで栄養を摂取できるのはいいことなのだ」とは思わないかもしれない。それよりも海外セレブ(たいては女性モデルのことだ)などが、朝ご飯としてスムージーを飲んでいるのを見てあこがれるというのが受け入れ経路になるのではないかと思う。同じ栄養でも青汁ではダメなのだ。
さて、アメリカでシリアルが流行したのは「肉を食べるよりも健康に良い」とされていたからだそうだ。ベーコンと卵の食事は「コレステロールが高く不健康だ」とされていたのだろう。ただし、砂糖を使いすぎているとか栄養が添加物由来であるという批判もあるという。ヨーロッパなどのいくつかの国で「伝統的な朝食を破壊した」という批判もある。
アメリカではシリアルの消費は伸び悩んでいる。ケロッグは朝食以外でシリアルを使おうというキャンペーンをやったり、朝の時間をうまく使おうというキャンペーンまでやっているそうだ。この記事が挙げる、シリアルが食べられなくなった理由は3つだ。

  1. 忙しすぎて、シリアルすら作っている時間がない。代わりにシリアルバーなどを食べている。
  2. 子供が少なくなり消費量が減った。
  3. 砂糖は健康に悪いという認識ができ、伝統的なベーコン&エッグに戻りつつある。

理由1と3は矛盾するように思えるのだが、アメリカでも二極化が進みつつあるのかもしれない。特に理由1はショッキングだ。日本人の常識から見ると、シリアルを準備する方が「時短だ」が、それさえも「時間がなくてできない」というのだ。アメリカ人は何に時間を使っているのかが知りたくなる。

県という単位

「1県に1人の代表者を出したい」。簡単そうに見えるこの主張が選挙制度改革の足かせになっている。都道府県の人口にばらつきが多く、一つの単位として使えないからだ。一番大きなのは東京都で1300万人が住んでいるのだが、一番小さな県は50万人程度の人口しかない。
では、県を再編成すればいいのではないかと考えて実際にやってみた。政府がやるといろいろ文句が出るだろうが、ネットの片隅でやっても誰も文句は言わないだろう。北東北を2県にし、北陸も3県1市に整理した。岡山と広島は独立していてもよさそうなのだが、山陰が弱者連合になってしまうので、山陽の県に面倒を見てもらうことにする。東九州と肥前は1県ずつに整理する。宮崎を分割して大分や鹿児島とくっつけるという手もある。するとだいたい200万人規模でまとめることができるのだが、いろいろと不具合もある。
japan
第一に政令指定都市が成り立つ地域と成り立たない地域がある。ここで市松模様になっている県(熊本、教徒、新潟、宮城)は政令指定都市と県を分離してしまうと、県側に100万人規模の人口しか残らない。一方、県と政令指定都市を分離しても地域として成立する地域はある。だが、そうすると90万人くらいしかない「県と同格の地域」ができてしまう。つまり、県と同じような機能を持つ政令市と県の関係も一概に整理することは難しそうなのだ。
山陽地方と山陰地方をひとまとまりにするなど「地域としての一体感がないから無理だ」と文句を言う人はいるだろうが、この主張にはあまり正当性はない。例えば福岡県は県の東西で言葉が全く違っている。同じように兵庫県は山陽・山陰・瀬戸内海と3つの異なる地域の連合体だ。一方、佐賀県のように、同じ肥前でありながら長崎奉行所の管轄に入らなかった地域もある。薩長土肥の一国だったので、独立性を守ったのかもしれない。長崎は壱岐・対馬・五島・九州本土というまとまりのない地域を管理している。
最後に残る問題は首都圏への一極集中だ。神奈川県には3つも政令指定都市があるのだが、それでも県部の人口は300万人を超える。埼玉県部や千葉県部(それぞれ政令市を除く)も500万人近くの人口を抱える。一番大きな問題は東京である。1/10の人口を抱えるが一体性が高い。例えば世田谷区は80万人以上の人口を抱えていて一区で政令指定都市が作れるのだが、これは世田谷区の中に複数の行政区が作れるということを意味するのだ。
こうしたバラバラな自治体を統一的に分割するルールなど作れそうにない。道州制も人口のばらつきが大きくあまり本質的な意味はなさそうだ。都道府県はそもそも成立当時から一貫性がなく、今も一貫性がない。効率化を目指すならば県や道州という単位をあきらめ、比例代表制にするのが一番良いのではないかと思う。

政治的主張の組み立て方 – リピーターと新規ユーザー

ソーシャルメディアの反応を見ると、政治的な主張にどの程度の引きがあるのかが分かる。だが、その反応は要面的であり、使い方を間違えるととんでもない勘違いを生み出しかねないのではない。以下、具体的に示す。
一部の方は既にご存知だと思うのだが、Google Analyticsでユーザーの行動が終追えるようになった。ユーザーごとにIDが割り当てられていて行動をトレースできる。そこでリピーターの行動の解析を試みることにした。
念のために申し添えると「プライバシーが漏れる」ということはない。IDは固有だが、名前などとは紐づけられていないからだ。IDは各個人のブラウザーに入っているが、パソコンを押収でもしないかぎり、個人の特定はできない。
ユーザーの行動履歴は閲覧できても、エクスポートには対応していない。そこで、ページをコピペして加工した。ユーザーの多いサイトで同じことをするのは大変だろうなあと思う。
user_id interaction ページ名という形式に加工してCytoscapeに読み込ませる。やろうと思えばページのジャンルをアトリビュートとして読み込ませることもできるのだと思うが、面倒なのでやらなかった。多分書いている本人がよく分かっていないので、意味がないだろうと思ったからである。もちろん、バスケット分析などもできるのだが、そこまでやりたい人(主にECサイトの人だろう)は、カスタマイズされたコードとIDを埋め込んでいるものと思われる。
まず、ヘッドラインで反応しているひと(いいね)などは全く当てにならないようだということだった。傾向が全く違うのだ。多分、Retweetもヘッドラインに反応しているのかもしれない。時々、ヘッドラインと全く違うことを書いていたりするのだが、本文は読まれていなさそうだ。
次に分かったのは「ユーザーというのは一人ひとり違った指向を持っていてつかみ所がない」ということだった。このブログはいわゆる「左翼層」をターゲットとした記事(一言でいうと、安倍政権が災いを引き起こしているという内容だ)が多いのだが、リピーターはほとんど読んでいないようだった。「Twitterにはバカが多い」とか「NHKは情報を隠蔽した」いう記事は多くのページビューがあったのだが、リピーターにはこれも読まれていない。みんなが読む情報に飛びつく人は飽きるのも早いということになる。
ユーザーのニーズは多様化している。例えばマーケティング系のもの、コミュニケーションに関わるもの、マスコミのあり方に対するもの、イノベーションについて、デザインなどと複数のジャンルについて幅広く読んでいた。特定の傾向は見られない。
さて、これを見る限りは、野党勢力は今夏の参議院選挙であまり躍進できないのではないかと思われる。自民党の憲法案やTPPへの関心は多分それほど高くない。具体的に何が起るかイメージできていないのではないかと考えられるし、多分反対する野党陣営は「大げさだ」と考えてられているのではないかと思う。
熱心な人はTwitterで安倍首相の悪口をつぶやいているが、多分誰も読んでいない。多くの人は飽きているか、そもそも最初から気にしていない。情報発信者も「カラオケ状態(つまり、誰も他人の歌を聞いていない)」なのではないかもしれない。リアクションを見ながら発言している人は、おそらく誰もいないのではないだろうか。
では、そのような人たちは政治に関心がない無知蒙昧な人たちなのかというとそうでもないらしい。政治記事にも読まれているものがあるからだ。これも傾向は判然としない(書いている人が分かっていないのだから傾向が見えないのも当然だ)ものの「意識高い系のワードと政治を組み合わせたもの」や「公共性に関するもの(ただし、公共についてポジティブなのかネガティブなのかは判然としない)」などは読まれている。今のレベルでは仮説にすぎないものの「自民党中心の政治が制度疲労を起こしている」と考えている人は多いのではないかと考えられる。だが、野党も「旧態依然としている」と思われているために、支持が広がらないのだ。
いずれにせよTwitterやYahoo!ニュースのヘッドラインに引っ張られて政治主張や情報発信の方針を決めるのは危険だから止めたほうが良さそうだと思った。自分のメディアを持ち、定期的に反応を解析しないと、表面的なリアクションに引っ張られる危険性があるのではないだろうか。
多くの露出を得るためには、インフルエンサーにフックしたり、過激なことを書く必要がある。ただし、リピーターを獲得するためにはそれではダメなようだ。感情で動く人は、辛抱強く文章を読んだりはしないのだ。

日本の政治家はなぜバカばかりなのか

菅官房長官が最近「もういいよ。オレは疲れた」と漏らしているらしい。週刊現代の引用なので真偽はわからない。根っからの苦労人なのに、育ちがいいだけで首相になった安倍首相やその他の無能な政治家たちのフォローに追われていることを考えると「わかるなあ」などと思ってしまう。




自民党議員の暴言が止まらないのは「安倍さんのお眼鏡にさえかなっていれば、それなりの地位を得られるから」なんだろう。ということで菅さんの政治資源は政治ではなく調整に費やされる。才能の無駄遣いだ。

菅さんはかなりの実力者らしい。Wikipediaには、単身で状況した後、法政大学就職課で紹介された議員の秘書となりその跡を継いだと書いてある。途中の横浜市議時代には既に「陰の横浜市長」と呼ばれていたそうである。根っからの調整役なのかもしれない。

どんなに優れた政治家でも、菅さんは「二球市民」にすぎない。親が衆議院議員ではないからだ。なかでも「貴族化」しているのが、総理大臣を輩出した家柄の人たちである。鳩山家・吉田家・岸家などがそれに当たる。だから、菅さんの地位は「執事」止まりなのではないだろうか。

総理大臣の家柄といってももともと格式の高い家だというわけではない。この家が貴族化したのは、ほんの70年ほど前の戦後直後の混乱期のおかげだ。そして、こうした家柄が貴族化できるのは、政治団体が非課税だからではないだろうか。彼らは会社の株式を引き継ぐように、親の代からの地盤看板が引き継げるのだ。

政治家は政治で蓄積した資金(そもそもそんなものがあること自体が問題なのだが)を政治団体に蓄積する。それは非課税なので相続税も支払わなくて済む。課税されるのは「政治活動以外の事業に使ったとき」だけだそうだ。つまり、政治団体は営利事業に手を出してはいけないのだ。いっけんよさそうな決まりなのだが、政治を通じて蓄財することは認められるということになる。寄付という形を取れば無税になるということだそうだ。ということで、自分たちは手を出さず、支持者に便宜を図る形で政治を歪める原因になっている。

日本伝統の家制度のもとでは、家族は財産を持った事業体である。それを管理するのが家長の役割で、信頼関係は血と婚姻関係で担保されることになっている。いついなくなるかもしれない他人は信頼されない。

この関係は同じく非課税の法人格である寺に似ている。寺は血族で運営されるべきだという決まりはない(後継者がいなければ宗派から別のお坊さんが割り当てられるだけ)のだが、実質的に家族経営だ。男系の後継者がいない場合には婿を取ったりする。こうした制度は家族の人生を保証するという役割も担っている。もし他人が入ってくると家族が冷遇される可能性があるのだ。家族には祖先もいるので、彼らのお墓が特別扱いされなくなる可能性もあるだろう。

つまり、家制度は家族や関係者の補償という極めて集団主義的な側面のある制度なのだと言える。逆に妙にやる気がある人が入ってきても、家の人たちが放逐されるかもしれない。そこで周りには無能で主人に依存せざるをえない人を配置することになる。ここでも才能のある人は排除されるのだ。

この結果、首相家を頂点にして序列化されたのが、現在の政治家なのだが、首相の子孫が優秀とは限らないし「政治家としてやりたいことがある」わけでもないかもしれない。安倍首相は政治家としてはやりたいことがなさそうだが、周囲から「おじいさんはこんなに偉い人だった」と吹き込まれ、復古派の人たちに囲まれているうちにあんなになってしまった。麻生副首相は、おじいさんのコスプレをしているようにしか見えないし、中身のないことをもっともらしい低く歪んだ声で語るのみである。

この空虚な首相家を支えるのが、大臣家であり、さらにそれを支えるのが「家柄のない」人たちなのだ。

だから、実力者だけでは上に上がれない。家柄のある人たちと張り合おうとすれば、何か法に触れることをして蓄財するしかない。そもそも選挙に出るにもお金がかかるわけで、一般庶民は政治から排除されている。

政治家がバカというのは言い過ぎかもしれないのだが、少なくともどうしてもやりたいことがあって政治家になったわけではないのだから、目的がある人と比較してモチベーションが低くなるのは当然だ。つまり「バカ」という能力の問題ではなくモチベーションの問題なのかもしれない。

日本を支配しているのは、政治家と宗教団体だが、ともに非課税である。これはもしかしたら偶然ではないのかもしれない。

一般庶民は、特権階級の彼らから見ると奴隷のようなものである。政治家の中にはは奴隷に人権があるのが不思議だと思ってらしい人たちもいる。

こうしたやる気のない政治家たちは、自由主義を名目にした植民地政策を画策する勢力と結びついて体制を保証しようとしている。一般庶民は政治へのアクセスがないので「私たちが共感できる政治家がいない」と政治に興味を持たないから、自浄作用も働かない。

では、今後どのようなことが起るだろうか。すでに、植民地化が進んでいるアメリカで何が起っているのかを見ると分かりやすい。サンダース・トランプ両候補は、中国との産業競争に破れたような地域で人気を集めている。こうした人たちは現実を見ない「非政治家」を応援するようになっている。

多分日本でも過激な思想が台頭することになるだろう。こうしたはねっかえりを防ぐためには「奴隷階層」から選挙権を取り上げ、情報を遮断し、教育を取り上げる必要があるが、それはそれでなかなか容易なことではなさそうだ。

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なぜ新しいオリンピックエンブレムは不人気なのか

新しいオリンピックエンブレムが決まった。巷の反応を見ていると「あれだけはない」という声が多い。マスコミは「とりあえず決まったのだから納得してもらおう」という論調で腫れ物を触るように伝えている。そもそもA案ありきだったという指摘があり、審査委員長はそのような言い方には腹が立ったと言っている。だが、やはりA案ありきだったのではないかと思う。
二つ課題がある。1つ目の課題は人々が求めているロゴっぽい絵とプロが考えるそれとは乖離があるということだ。プロはどちらかというと「エッジの利いた」ものを求める傾向があるらしい。佐野研二郎案はモジュールっぽかった。ああいうのがデザイン村界隈ではかっこいいのかもしれないし、後の展開を考慮していたのかもしれない。モジュールデザインは、プランナーに取って管理しやすいのだろう。
ところが一般庶民から「誘致ロゴ」が良かったという声が多かった。花があしらわれたカラフルなデザインである。つまり素人はあのような「ベタ」なデザインを良いと考えるわけである。エッジが利いているよりも、ありふれた(つまり、プロにとっては退屈に見える)デザインの方がいいのだ。
例えて言えば、玄人が考えさせる番組を求めるのに、一般庶民が寝転がって見ることができるバラエティ番組を求めるのと同じことだ。ドラマでもプロが「社会派の問題作」を作りたがるのに、一般庶民が「どこかで見た」ドラマを繰り返し見たがる。プロはエッジの利いたシルエットのデザインを求めるのだが、一般庶民はユニクロの服を着たがる。その方が見慣れているからだ。
この問題はいずれクリアされるだろう。既に露出が始まっている。露出が高ければ高いほど人々はロゴに違和感を感じなくなるはずである。そのうち慣れる(あるいは馴らされてしまう)のだ。インプレッションと好感度は比例するのである。
さて、次の問題は少し深刻かもしれない。今回、審査委員の念頭にあったのは「パクリ問題」への対応だったのだろう。それを防ぐにはどうしたらいいだろうか。何か別のものを「パクれば」いいわけだ。
市松模様は江戸時代の佐野川市松という歌舞伎役者が愛用した柄だそうだ。誰が「作った」のかは分からない伝統的な柄で著作権も切れている。類似のデザインはいくつもあるだろうが、すべてパクリである。つまり、絶対にオリジナルが発見されないデザインなのだ。
同じようなデザインに風神雷神があった。あれもオリジナルがあり著作権が切れている。つまり、パクリが絶対に出ないようになっているのである。
審査委員の間にはこの「著作権切れ」が頭にあったはずだ。今回は「絶対に」失敗してはいけなかったのだから、その用心は当然のことと言える。そこで最終的に「少々エッジが利いていて、オリジナルが発見されない」ものが選ばれたのではないかと思われる。
さて、これらの点はなぜ問題になるのだろうか。イノベーションとは、そもそも反逆的な逸脱を含んでいる。ところが当初の佐野案は「後の管理のしやすさ」を念頭に置いていた。佐野さんはプランナーの言うことを聞く「使い出のいいデザイナー」であって、けっしてオリジナリティあふれるタイプではなかった。オリジナルという概念すらなく、ネットで見たデザインをコピーしても「程よくアレンジされていればよい」と考えるタイプだったのではないかと考えられる。
管理しやすさを求めたからこそ、つまらない躍動感のないデザインになってしまったわけである。ところがそれが嫌われネットであら探しが始まった。その間も、人々はどこかで見たことがあるベタなデザインを求め続けた。そして、最終的に選ばれたのは伝統を意識したデザインだった。
つまり、幾重にも逸脱が拒否されているのだ。日本でイノベーションが起らなくなったのは当たり前だ。受け手も作り手も逸脱を嫌い、恐れている。その代わりに「予測可能な何か」を求めているのだ。
こうした逸脱を恐れる気持ちはスタジアムの選定にも現れている。ザハ・ハディド案はデザイン的にチャレンジングな要素を含んでいた。海外には建設されているものもあるので、設計会社も「やればできる」のであろう。しかし、日本の建築会社はそれを「リスク」と考えて、ヘッジするために高い金額を吹っかけた。結局、できあがりそうなのは、どこかで見た(別のいい方をすれば調和的な)建造物だ。
あの案は露出を経て(それなりに高価な対価を払うのだろうが)徐々に受け入れられてゆくに違いない。その裏には「とんがったデザイン」を殺されてゆくデザイナーとか、普通でいいのにと思っている一般の受け手がいるのではないかと思う。

レトロなポスターに使えるフォント

Photoshopを使うと、写真からイラストを作ることができる。色合いを抑えて、枠線を付けるとなんちゃってイラストの出来上がりである。だが、そこに文字を付けるときに考え込んでしまう。フォントはたくさんありすぎてどれを選んでいいのかよく分からないのだ。

使っていいセリフ系フォント

下記に挙げるフォントは使える。古くからあるフォントだからだ。

  • Garamond (16世紀)
  • Caslon (1734)
  • Baskerville (1757)
  • Bodoni (19世紀)
  • Didot (19世紀)
  • Cochin (1912)

使っていいサンセリフ系フォント
下記に挙げるサンセリフ系フォントは使える。レトロ調ポスター(今回はアールデコとする)は1910年から1930年までの短い間に作られたのだが、それに合わせていくつものサンセリフ系フォントが作られたからである。

  • Copperplate (1910)
  • Futura (1923)
  • Gill Sans (1930)
  • Peignot (1937)

ここに挙っていないサンセリフフォントは使えないものがある。HelveticaやUniverseは戦後に作られた。
さて、パソコンにインストールされている「なんか古そう」なフォントの中にも使えないやつがある。使えないのだが「なんとなく古く見える」ように作られているので、分かって使う分には面白い効果が得られるかもしれない。

  • Bauhaus (1975)
  • Trajan (1989)
  • Desdemona
  • Hervulanum (1990)

なお、ブラックレターのGoudy Textはなんちゃってフォントのように思えるのだが、1928年制作だそうだ。これは使えるのである。

TPPとスナップバック条項

TPPの批准手続きが延期された。現在の争点は解放される農業分野の補償をどうするかという点、交渉の経過が秘密手続きである点、著作権の問題などに絞られてきたようだ。
個人的な立場を確認すると自由貿易には賛成だ。関税は結局のところ消費者の負担となるからである。だが、TPPは容認できそうにない。一部の反対派の中に「スナップバック条項」について言及する人がいる。
スナップバック条項はアメリカだけに認められている特権だ。その他の国にはラチェット条項があり、一度解放してしまったら後戻りはできないことになっている。関税をなくし自由貿易圏を作るという意味では、効果的な条文だと言えるだろう。
だが、アメリカだけにはラチェット条項は適用されないらしい。議会が反対したり、様子を見た結果「アメリカに不利だな」ということになれば、差し戻しができるというのである。もし、フェアな関税撤廃が自由貿易の要点だとすれば、なぜこんな条項が必要なのだろうか。
どうやら、自民党は「聖域」と呼ばれる5項目を守れなかったばかりか、とんでもない不平等な条約を飲まされたということになる。例えていえば、不平等を飲まされた江戸幕府のようなものだということになるだろう。すでに統治者としての能力の限界に来ているのではないかと考えることができる。
しかし、本当に罪深いのは民進党かもしれない。民進党は表向きはTPPに反対するふりをしているのだが、実際には条約の中身には触れないようにしている。「政府が情報を開示しないから仕方がない」と言っているのだが、実際には反対したくないのではないかと思われる。だから、スナップバック条項のようなクリティカルな問題には触れない。あくまでも交渉過程が問題だと言っているのだ。
善意に解釈すれば、日本の条文について研究するのに精一杯で、アメリカの条項まで研究できていないという解釈が成り立つ。
一方、党内にいる親米派と左派の間で意思統一が図れないという可能性がある。そのために条約の内容に触れられないのだろう。
TPPに賛成している人たちの中には、親米派の人たちが多いのではないかと思う。自民党を支持していて、間接的に親米の人たちもいるだろう。しかし、中には内部からの改革が進まないから外部からの圧力によって規制緩和がしたいと考えている人たちも多いのではないだろうか。
だが、それはTPPが公平なルールであるという前提が必要である。このスナップバック条項が本当にTPPに盛り込まれているのかどうかは分からないのだが、もし仮に本当だとすれば、アメリカは自由公正な貿易権作りに失敗したと考えるのが妥当だろう。
安倍首相は「我々の手で自由で公正なルールを作った」と胸を張っている。もし、虚偽だと知っていてそう言っているとしたら詐欺師だし、知らずに言っているとしたらたいへんに滑稽だ。
さて、このような問題が起きるのはなぜだろうか。それはTPPに日本語の正文がないからだ。政府は日本語の公式訳を作って一定期間国民に周知すべきだ。正式訳作りに何年かかるのか分からないのだが、3年くらい野ざらしにしてもよいのではないだろうか。