先日、革新系市民団体の事務所を訪ねた。目的は近所のショッピングスペースについて情報を集めるためだった。一人の女性は話好きで一人はかたくなそうな感じだった。それを見て、新興宗教でありがちな風景だなと感じた。
新興宗教の信者は「生きているものを大切にすべきだ」というような分かりやすい道徳的信条を持っている。だが、教徒たちは世間ではそうした信条は軽んじられていると信じている。実際に軽んじられているのはその人自身である。「お前は黙っていろ」と言われるのだ。
このようだから新興宗教にはまった人を「説得」することはできない。常に「お前は黙っていろ」と言われることに警戒しているからだ。そこでその人は他人の権威を利用する。新興宗教には必ず教祖がいる。「その人の言うことを聞いていれば大丈夫だ」という安心感が得られるからだ。教祖の言うことは時には変わるかもしれないのだが、教徒は気にしない。
左翼層を惹き付ける政治課題はリスクに関するものだ。例えば「戦争は良くない」や「原子力発電所は危険」あるいは「化学物質の脅威」などがリスクだ。現代社会は外から来る危険性に満ちている。左翼から見ると安倍政権は「災いをもたらす悪魔」なのである。
経済的格差や不公正なルールといった問題は響かない。だから問題は「リスク」に翻訳される必要がある。
左翼の教会には教祖はいない。だから左翼の教会にはなんとも言えない不安がある。
科学的な思考はできない。だからこそ「あなたの意見は間違っている」と指摘されるのだが、論理的に批判されているとは思わない。社会的に抑圧されているからだと思う訳だ。科学的な思考ができないから「正解を暗記し、かたくなに守ろうとする」のである。
左翼系の活動は社会闘争だ。他者に耳を傾けることは負けを意味する。それは「あの惨めだった日常」への回帰である。「従うか、無視するか」という二択である。
厄介なことに、日常は「他人に従ったふり」をしている人も多い。ただ、絶対的に侵入してはならない領域があって「そこでは自分たちが正しい」と考えている。その態度はかたくなで病的に変質している。社会的規範そのものがアレルギー物質のように作用しているのである。
さて、右翼は左翼とは違っているように見える。こちらは「自分たちは尊敬されるべきだ」と信じているが、現実はそうではない。人々が他の人に従うのはなんらかのメリットがあるからだ。尊敬は便益の対価なのだ。
この人たちは「美しい」という言葉を使う。その意味は「調和が取れている」とか「独特で特別だ」というものだ。例えば富士山は美しい。富士山が心を打つのは確かだが、それはその人にとって特別だからである。実際の富士山はありふれた火山でしかない。だが、「美しい」を言い立てる人たちはそれを認めない。すべての人たちにとって美しくなければならないのである。他の人にもそれぞれの「富士山」があることを信じないのが右翼的思考だ。
つまり、右翼を信奉する人たちの価値は内側にあるのだが、誰にも賛同されないことが問題なのだ。共感機能不全とも言える。攻撃は認められるべきではないので「教育」によって矯正されるべきだと考えている。ただし、右翼の教育観は「強制的に信じ込ませる」と同義だったりする。他人の欲求に対しての認識は恐ろしく低い。だからこそ尊敬されないと言えるのだが、彼らはそれが分からない。
右翼がもっぱら問題にするのは憲法だ。本来は憲法の条文などどうでもいいのだ。彼らが問題にしているのは「アメリカから去勢された」という物語だ。背後には、憲法さえ変えてしまえば自分たちが尊敬されるようになるだろうという、あきれるほど単純な見込みがある。
右翼の活動は闘争という形を取らない。「当たり前のものが得られる」だけなのだから、闘争する必要はないからだ。しかし、その実態はやはり社会的闘争と言える。
やっかいなことに左翼層の中にも右翼的な人がいる。例えば「安倍政権がのさばっているのは政治的関心を持たない若い人が多いので、教育する必要がある」という主張がある。これは、今回の分析の文脈上は「右翼的な」主張なのだが、当事者たちはそうは思わないだろう。
逆に右翼層にも今回の分析の文脈上は左翼的な人たちがいる。女性なのにことさらに勇ましい発言をする人たちは「自分たちは賢いので正解を知っている」と考えているのだろう。実際に彼女たちが知っているのは、正解をもたらしてくれる教祖や教義なのである。
つまり「右翼・左翼」という枠組みは既に無効化していると言ってよい。共通するのは「社会的闘争」であるという点だけだ。他者からもたらされる不可避な脅威から身を守ろうとする人と、本来得られるべき自分の尊厳が他社から無視されていると考える人がいる。
政治はそういう人たちを惹き付けている。乾きに似たニーズがあるので、政治家はニーズを満たすことによって支持層を広げることができる。また、書き手は渇望を満たす文章を書けば読み手を増やすことができるだろう。
そのニーズとは何なのだろうか。それは「社会的な認知」である。誰も他人の歌を聞いていないという意味ではカラオケに似ている。他者の歌を聞くようになれば、政治的な興味の大方は失われ、ジャーナリストたちは失業するだろう。