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ネトウヨが知らないこと – 公の出発点としての先祖祭祀

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最近、自民党の「自称保守」の人たちが「日本人なら公に尽くすべきだ」などと勇ましい。多分、偉い政治家の言うことを黙って聞けというくらいの意味なのだろうと思う。
だが、自民党の「公」の概念は曖昧模糊としている。いきなり「国」とか言われてもなんだかよくわからない。集団の概念の基礎になっているのは家庭だろう。ところが「自称保守」のみなさんの家族感も曖昧だ。ほとんど「社会福祉が行き詰まっているから、家族で肩代わりしろ。あとは知らん」くらいの意味合いにしか聞こえない。
前回のLineの項目で見たのは、大げさに言えば「家」の崩壊である。高度成長期に父親は忙しく働き家から離脱してしまった。バブル期を通じて父系のつながりが薄れ、同じ価値観を共有する母娘ネットワークの結びつきが強くなっていった。典型的なバブル前の家族というのは、母と娘が週末に渋谷のデパートに出かけることだった。つまり、消費を通じて家族が結びついているというのが、典型的な家族だったわけだ。共通体験のない嫁姑というのは現代では「ほとんど他人」であり、実の父親すら排除されつつある。
なぜ家は崩壊したのか。それは宗教的な結びつきがなくなったからだ。家族にはいくつかの共同事業がある。日本の家は事業体であり、財産の管理単位であり、また共同祭祀の単位でもあった。
その中でも重要なのが冠婚葬祭だ。共通する宗教体験を通じて、家は徐々に家になる。その意味では年忌というのは重要な役割を果たしていた。だが、これも崩壊しつつある。檀家側がやり方を忘れているという側面もあるのだが、寺の側もそれほど年忌を重要視しなくなったという事情がある。かつてはお寺の側で家族関係を把握して「そろそろ次の年忌を」などと言ってくれていた。お坊さんがなんとなく記憶していたのである。もともと寺は地域の戸籍を管理していた。これが国家に移管され徐々に役割が変質したのではないかと考えられる。
だが、最近では寺が家を管理する上で大きな役割を果たすという認識はなくなりつつあるようだ。だから「檀家の側からお寺に申し込め」などと言われることがある。普段からお寺との付き合いがないと、先祖祭祀すらできなくなるというのが現代なのだ。
「家長」がいなくなったことも影響している。家長とは家の財産の一部として先祖の仏壇を管理している人のことだ。戦後、家制度が廃止されたためにこうした伝統はなくなった。母系が強くなったといっても、仏壇は継承しない。母系が強いのは「消費」と「子育て」の分野だけだ。夫の家の仏壇に妻の家の位牌を混ぜるなどということもない。ましてや両家の墓を一緒にするということも考えにくい。
自民党の先生たちがやたらと「保守」を気取るのは、神道系の団体が後押ししているからだろう。だが、国家神道は先祖祭祀に熱心ではない。歴史的にいろいろな事情があるようだが、明治期に「葬式も神道で行うように」という政府からのお達しがあったようだが、これは普及しなかった。また、公務員だった神道の人たちは「私的な宗教行事を禁止」されて、葬式に携わることができなかったらしい。家の概念を国家に拡大解釈したのは、明治期の神道だが、これは国家が作った新興宗教のようなものだ。私たちの先祖と国家は連続的に結びついていない。だから、今でも全国で共通するような神式の葬式は存在しない。もっとプリミティブな形で伝統を受け継いでいる地域はあるようだ。いったん滅びかけた伝統を再構築したという意味ではヘブライ語に似ている。再構成された伝統なのである。
愛国者というといかにも日本のことを考えているようだが、家制度を再考するにあたっては、バラバラになっている家に共通の経験を与えることが必要だ。そして、そのためには政治ができることはそれほど多くない。公の基礎は家という私的なセクターだ。日本人一人ひとりがどうありたいかを考えるべきで、決して誰かから押し付けられるような筋合いのものではないのだ。
その基礎になるのは、私たちがどこから来てどこに行くかを考えさせることだ。教育に期待する向きもあるのだが、きっかけを与えるくらいしかできないのではないだろうか。そもそも価値観を押し付ける側が考えたことがない問題を考えさせようとしているわけで、もともとが無理筋としか言いようがない。
個人的に自民党の憲法案を信じられないのは、言っている人たちが実のところ「集団への忠誠がどこから来るか」とか「私たちは決して一人で出てきたのではないし、一人で生きてゆくことはできないのではないか」といったような、基本的な問題意識を持っていないように見えるからだ。単に女子供や一般の無知蒙昧な国民は俺に従えと言っているようにしか聞こえない。そもそもそれすらも真剣に考えておらず、単に支持者が喜びそうなことを言っているだけなのかもしれない。つまりは芸人が受けそうなことを言っているのとさほど変わりはないわけである。