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戦隊ものと時代劇の簡単なまとめ

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Twitter上で面白いつぶやきがあった。戦隊ものには演劇的な伝統があるはずだという疑問である。そこで、簡易的ではあるが、戦隊ものと日本の演劇についてまとめた。好きな人がいれば、さらに分析してみると面白いと思う。なお、この分類はWikipediaレベルの情報であり、そこは浅い。好きな人はちょっと満足できないかもしれない。


そもそも日本で演劇と言えば歌舞伎だった。ここから2つの分派ができる。一つは新派と呼ばれる人たちだ。政治的なメッセージを持っていた。川上音二郎などが有名だ。もう一つの流れが左翼的な思想を背景にした新劇だ。もともと日本の西洋芝居には社会主義的な背景がある。後述するが、今でも日本の演劇界には左翼思想を持った(あるいは持っていた)人が多い。
ところが、新しい流れの中から、政治性を排除して純粋なエンターティンメントを求めようとした人たちが出てくる。その一例が澤田正二郎の新国劇(1917年)である。新国劇は歌舞伎から剣劇の要素を抜き出した。剣劇は後にチャンバラと呼ばれるようになる。この人気に着目したのが映画業界だ。日本にいくつかの映画会社が作られ、チャンバラ映画が成立した。
剣劇はエンターティンメントとして人気があったらしい。例えば、1930年代には女剣劇と呼ばれる「ちょっとエッチな」剣劇も作られた。有名な女優に浅香光代がいる。男性は浅香光代のアクションシーン(と、ふともも)に「萌えた」のである。現在の戦隊ものにも女性がおり、女性の戦闘シーンに萌えるファンを獲得している。ここからも剣劇と戦隊ものにはある程度のつながりがあることが分かる。
では、剣劇はその後どのようにして、テレビに継承されたのだろうか。
映画会社はスターシステムと五社協定を採用してスタッフや役者を囲い込んだ。戦中の戦意高揚映画の時代をくぐり抜け、戦後安い娯楽として多いに繁栄した。
ところが日本の映画はその後斜陽の時代を迎えることとなる。その原因となったのも囲い込みによる五社協定だ。映画会社は五社協定を使ってテレビ局を排除しようとした。所属俳優が俳優がテレビに出ることを禁止したのである。
そこで、テレビは本格的な(つまり映画の俳優やスタッフなどを使った)コンテンツが作れなかった。そこで浅草の軽演劇的な伝統を持つ人たちがテレビに駆り出された。黒柳徹子のようにNHKの専属女優もいた。当初テレビは「大衆的だ」と蔑視されていた。今テレビがインターネットを見ているような目線かもしれない。
本格的でないとされていたテレビからは面白いコンテンツがいくつも作られた。今回のコンテクストで重要なのはウルトラマンを作った円谷プロだろう。アメリカのテレビの怪奇シリーズ(トワイライトゾーンやアウターリミッツなど)をまねして作ったのがウルトラQであり、その流れで作られたのがウルトラマンだ。もう一つの流れは手塚治虫だろう。このようにして、新しいコンテンツであるSFが徐々に子供たちを中心に受け入れられてゆくことになる。
さて、映画は斜陽となりスターシステムは1971年に自然消滅した。そこで映画会社は新しいニッチを生み出す必要があった。例えば、日活はロマンポルノ(すなわち成人映画)に以降せざるをえなかった。東映は自社が持っていた強み(チャンバラ)を生かしたかったが、新しいコンテンツ中心だったテレビには十分な枠がなかったものと思われる。ウルトラマンなどの子供向けSFの伝統はすでにあったので「子供向け」として作られたのが仮面ライダーである。仮面ライダーは1971年の作品で、ちょうど五社協定崩壊の年にあたる。
仮面ライダーの成功に手応えを得た人たちは「仮面ライダーをグループで登場させる」企画を作った。これが発展してゴレンジャーにつながる。ゴレンジャーの制作は1975年であり、東映の制作だ。このようにして徐々にSF的な設定と剣劇が結びついたのである。
ここから、ウルトラマンと、戦隊もの・仮面ライダーは系統が異なるということが分かる。40年程度経ってチャンバラの伝統を継承した後者が生き残り、ウルトラマンが伸び悩んでいる。日本人のエンターティンメントに関する感覚は意外と保守的なのではないかと思える。ウルトラマンには剣劇の伝統がないのだ。
時代劇が時代劇のまま受け入れられたものもある。それが水戸黄門だ。水戸黄門はもともと講談だったのだそうだが、その後映画に取り入れられた。主な映画会社は東映である。
だが、皮肉なことにテレビの時代劇と映画会社は連続的に結びついていない。テレビの水戸黄門(1964年〜)を制作したのは五社協定の中には入っていない東伸テレビ映画という会社であった。テレビは五社協定の枠外で既存コンテンツを模倣しようとしたわけである。だが、東伸テレビ映画は倒産し、その後、水戸黄門は松竹に引き継がれた。
現在知られている水戸黄門は松下電器(パナソニック)の提供で作られており、制作はC.A.Lというテレビ制作会社だそうだ。つまり、水戸黄門は「テレビ映画」という映画の模造品なのである。
映画製作会社が作る時代劇の勧善懲悪は刑事ドラマに引き継がれている。例えば相棒などが東映作品だ。単純な勧善懲悪ドラマには戦前から一貫した需要があるのだろう。
ここで蛇足ではあるが「本格的な作品とは何か」ということを考えてみたい。
刑事ドラマでは勧善懲悪では現実と結びつけられる。例えば相棒には社会情勢などが反映されている。その意味では勧善懲悪行為は表面的であり、社会的だと捉えられる。一方、仮面ライダーや戦隊ものからは社会的な背景は排除されており、悪は抽象化されている。だから、子供向けだと考えられるわけだ。
だが、見方を変えると、抽象化された悪は、より内面化された悪だと考えることもできる。現実の支えがないので、正義が何と戦っているのかという点は常に考察と更新が必要になるからだ。戦隊ものが何と戦っており、どんな時代背景が含まれているのかというのは、それだけで興味深い考察対象なのかもしれない。
よく「子供向けドラマは本物の芸術ではない」と言われることがある。確かにその通りに思えるのだが、皮肉なことに「正当性のある本物の芸術」にはそれほどの需要はない。一方で、抽象化された悪という概念が「正当性のある芸術ではない」とも言い切れない。
政治的メッセージを昇華した「純粋芸術」であるところの新劇(つまり西洋の戯曲をもとにした芝居)にはそれほどの需要はない。例えば浅利慶太はもともと共産党員だったのだが、後にその陣営を離脱してミュージカルを興行的に成功させている。俳優座を作った千田是也はドイツ共産党への入党歴がある。千田是也はブレヒトの芝居を日本に導入したことで有名だ。
ブレヒトの異化効果などは面白い概念だ。革新的な社会主義では「当たり前と思っていること(つまり自動化されている常識)」を排除するために、人々は教化されなければならないとされる。ところが、現代のブレヒト劇を見ている観客は「考えさせられた」とか「大竹しのぶさんの演技に没頭した」などと言ってしまう。
芸術的な雰囲気というものは、それだけで人を飲む効果がある。つまり「西洋の芸術に触れた」ことでそれ以上考えることもなくなんとなく満足してしまうわけだ。皮肉なことに、芸術には人を思考停止に追い込む効果があり、本来の目的にかなわないものなのである。