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町づくりは誰のもの?

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ここ数日間、熊本の地震の件で心を痛めている。本来ならば未曾有の災害を前に心を一つにしなければならないはずなのに国民は二分されてしまっている。安倍政権は災害を「政治利用」しており、それに反発する人たちもほぼ脊髄反射的に対応している。全く建設的ではないが、解決の糸口はなさそうだ。
どうしてこんなことになってしまったのか。いろいろ理由はあると思うのだが、その一つは政治というものが、国民一人ひとりから遠く離れてしまっているという事情があるのではないかと思う。
では「身近な政治」とは何か。今回はご近所の不便について考えてみたい。
今住んでいる地域からスーパーやコンビニが撤退してゆく。近所には空き店舗もある。ここにコンビニが誘致できないかという問題だ。高齢化率も高いので、歩いてゆけるお店の確保は死活問題なのだ。
この地域は住宅地で、賃貸住宅すら建てられない。低層住宅地域に指定されているからだ。「高級さ」を保つ上では有利だったはずのこの指定が高齢化の原因となっているのが皮肉なところである。若い人は賃貸ではないと住めないので、年寄りしか残らないのだ。高齢者は遠くまででかけることができないのだが、地域には店を建てることができない。低層住宅地だからである。そこで、買い物困難地帯ができてしまうわけである。
もちろん、都市計画を立てた人には考えがあったようだ。町の真ん中には第一種住宅地域がある。ここは「ちょっとした店」を建てることができる。だが、今やほとんどがシャッター化している。
町ができた1970年代には個人商店があればよかったのだろう。徒歩圏内にいる人を相手にしたスーパーもあったそうである。だが、駐車場が作れない上に、ある程度以上の大きさの店が建てられない。すると現在では商売が成り立たないのである。結果的にこのショッピングエリアには人が集まらなくなってしまった。そこで、すっかり寂れ果ててしまったのだ。
場所も空いている。ニーズはある。では、そこにお店は建てられない。市役所に問い合わせたところ「一度決まった都市計画は変更できない」とのことだった。近隣の調整がほとんど不可能だからだそうである。そもそも市役所には一度決まった都市計画をやり直す窓口もルートもない。1970年代に分譲された通りの計画で住む(あるいは転居する)しか選択肢がないのである。
この問題を調べはじめたときには、市民の意識が低く町づくりに関心を持たないから、政治参加のプロセスを知らないだけだと思っていたのだが、そもそも、この国には市民が住みやすいように町を作り替えるという発想そのものがない。だから、市議会議員がいくら働きかけても無駄だということになる。自治会も役に立たない。今回、区役所と市議会議員の事務所で話を聞いたのだが「そう言えば、どうするんだろうか」という話になってしまった。最後に市役所の都市計画課に聞いて「一度指定したものを変更するということは基本的にあり得ない」という回答を貰った。
もちろんこの市も空き店舗対策を全くやっていない訳ではない。それどころか各部署が縦割りで支援事業を行っている。シャッター商店街をなんとかしようとしているのだろう。しかし、消費者の動向は変えられない。やはり車で出かける人がほとんどだからだ。最大の活性化策は「周りを整理して大きな店(そして駐車場)を作ること」なのだ。
市議会議委員の事務所で話を聞いたご夫人は「地域の人たちが集まれる場所作りがしたい」らしかったが「活動資金を出してくれ」といっても市ではなかなか取り合ってくれないらしい。空き店舗を借りるのも難しいようだ。市の方でも「地域活性化の事業計画」に補助金を出してはいる。市はできるだけ補助金をカットして「自立的な町づくり」をしてもらいたいのだ。だが、なかなかマッチングが難しいようである。起業が少ないことから分かるように、採算に乗るような(つまり儲けが出る)地域活性化事業を創出するアントレプレナーのような人が出ないからである。
かといって、事業を考えだしてもすぐに「規制の壁」にぶつかることは目に見えている。介護士や保育士の給与が低いことからも分かるように、福祉サービスのセクターは儲からないどころか暮らしすら立たないようにできている。結局は、国政を動かさざるを得ないということになる。
最近、保育園が作れないことが問題になった。住宅地の中に保育園を作れば便利に決まっているのだが、地域の指定を変えないとできないとしたら、それは永遠に不可能というのと同じことなのだ。川崎で保育園作りができなかったのも「道が細くてこれ以上保護者が集まると危ない」というのが原因だった。だが、道路の拡幅など簡単にできる話ではない。
「規制緩和」が叫ばれるのは、日本の社会全体がこのように不効率だからだ。
大きな問題で相手を叩くのが悪いことだとは思わない。普段の暮らしでいろいろストレスがたまっているわけだから、それを解消する手段は必要だ。Twitterはそのために気安く使えるツールになっている。だが、もしそんな状態に不毛さを感じたなら、近所の町づくりについて考えたり、話を聞いてみるのもよいのではないかと思う。どれだけ窮屈なのかということにあぜんとするのではないかと思う。
自分たちの身の回りのことは自分たちで決められるようにした方がいい。それを地方分権というのだが、なかなかかけ声や権限委譲といった概念論だけで前に進まないのは市民の中にも「自分たちの町は自分たちで作る」という意識がないからだろう。