新しいオリンピックエンブレムが決まった。巷の反応を見ていると「あれだけはない」という声が多い。マスコミは「とりあえず決まったのだから納得してもらおう」という論調で腫れ物を触るように伝えている。そもそもA案ありきだったという指摘があり、審査委員長はそのような言い方には腹が立ったと言っている。だが、やはりA案ありきだったのではないかと思う。
二つ課題がある。1つ目の課題は人々が求めているロゴっぽい絵とプロが考えるそれとは乖離があるということだ。プロはどちらかというと「エッジの利いた」ものを求める傾向があるらしい。佐野研二郎案はモジュールっぽかった。ああいうのがデザイン村界隈ではかっこいいのかもしれないし、後の展開を考慮していたのかもしれない。モジュールデザインは、プランナーに取って管理しやすいのだろう。
ところが一般庶民から「誘致ロゴ」が良かったという声が多かった。花があしらわれたカラフルなデザインである。つまり素人はあのような「ベタ」なデザインを良いと考えるわけである。エッジが利いているよりも、ありふれた(つまり、プロにとっては退屈に見える)デザインの方がいいのだ。
例えて言えば、玄人が考えさせる番組を求めるのに、一般庶民が寝転がって見ることができるバラエティ番組を求めるのと同じことだ。ドラマでもプロが「社会派の問題作」を作りたがるのに、一般庶民が「どこかで見た」ドラマを繰り返し見たがる。プロはエッジの利いたシルエットのデザインを求めるのだが、一般庶民はユニクロの服を着たがる。その方が見慣れているからだ。
この問題はいずれクリアされるだろう。既に露出が始まっている。露出が高ければ高いほど人々はロゴに違和感を感じなくなるはずである。そのうち慣れる(あるいは馴らされてしまう)のだ。インプレッションと好感度は比例するのである。
さて、次の問題は少し深刻かもしれない。今回、審査委員の念頭にあったのは「パクリ問題」への対応だったのだろう。それを防ぐにはどうしたらいいだろうか。何か別のものを「パクれば」いいわけだ。
市松模様は江戸時代の佐野川市松という歌舞伎役者が愛用した柄だそうだ。誰が「作った」のかは分からない伝統的な柄で著作権も切れている。類似のデザインはいくつもあるだろうが、すべてパクリである。つまり、絶対にオリジナルが発見されないデザインなのだ。
同じようなデザインに風神雷神があった。あれもオリジナルがあり著作権が切れている。つまり、パクリが絶対に出ないようになっているのである。
審査委員の間にはこの「著作権切れ」が頭にあったはずだ。今回は「絶対に」失敗してはいけなかったのだから、その用心は当然のことと言える。そこで最終的に「少々エッジが利いていて、オリジナルが発見されない」ものが選ばれたのではないかと思われる。
さて、これらの点はなぜ問題になるのだろうか。イノベーションとは、そもそも反逆的な逸脱を含んでいる。ところが当初の佐野案は「後の管理のしやすさ」を念頭に置いていた。佐野さんはプランナーの言うことを聞く「使い出のいいデザイナー」であって、けっしてオリジナリティあふれるタイプではなかった。オリジナルという概念すらなく、ネットで見たデザインをコピーしても「程よくアレンジされていればよい」と考えるタイプだったのではないかと考えられる。
管理しやすさを求めたからこそ、つまらない躍動感のないデザインになってしまったわけである。ところがそれが嫌われネットであら探しが始まった。その間も、人々はどこかで見たことがあるベタなデザインを求め続けた。そして、最終的に選ばれたのは伝統を意識したデザインだった。
つまり、幾重にも逸脱が拒否されているのだ。日本でイノベーションが起らなくなったのは当たり前だ。受け手も作り手も逸脱を嫌い、恐れている。その代わりに「予測可能な何か」を求めているのだ。
こうした逸脱を恐れる気持ちはスタジアムの選定にも現れている。ザハ・ハディド案はデザイン的にチャレンジングな要素を含んでいた。海外には建設されているものもあるので、設計会社も「やればできる」のであろう。しかし、日本の建築会社はそれを「リスク」と考えて、ヘッジするために高い金額を吹っかけた。結局、できあがりそうなのは、どこかで見た(別のいい方をすれば調和的な)建造物だ。
あの案は露出を経て(それなりに高価な対価を払うのだろうが)徐々に受け入れられてゆくに違いない。その裏には「とんがったデザイン」を殺されてゆくデザイナーとか、普通でいいのにと思っている一般の受け手がいるのではないかと思う。