コンスタンティノープルからカラコルムに行くには何日かかったのか

ムガール帝国への興味からモンゴル人がどのように移動したのかを調べている。面白いことに中世の旅行だけを研究した本というものが出ている。誰が読むのだろうなどと思うのだが、たまに物好きな人がいるのだろう。

さてこの本の中に「アジアの旅」というセクションがあり、モンゴルへの旅について書かれている。1245年にイノセント四世が使節団を派遣した。この命令を受けたフランシスコ会のギヨーム・ド・リュブリキは1253年から1255年までモンゴル帝国を旅行した。

リュブリキは5月7日にコンスタンティノープルを出発し5月21日にクリミア半島に到達した。6月に旅行が始まり、7月20日ごろにドン川を渡った。8月5日にはボルガ川に到達し、9月27日にはウラル川(カザフスタンを通過して黒海に注ぐ)を通過する。途中有力者のテント(幕屋と書いてある)に逗留しつつ1254年の4月にカラコルムに向かったと書いてある。

当然パスポートなどはない(そもそも外交関係もない)ので有力者に旅行許可をもらいながら旅をしたということを考えても2年で帰って来れるというのはかなり意外である。

リュブリキは2年かけて往復しているのだがその距離は15,000キロ以上を旅しているそうだ。試しにGoogle Mapで検索してみたが、カラコルムからオデッサまでゆき、そこからフェリーでイスタンブールに行くと1320時間かかるそうである。1日8時間歩くとして165日だそうだ。ユーラシア大陸はかなり広大に思えるのだが、実際には半年かければ歩けるわけでやってやれないことはないような気持ちになる。

実際にユーラシア大陸を歩いて横断した人がいるようだ。この人のウェブサイトには、2009.1-2010.8ユーラシア大陸徒歩横断約16000キロと書いてあるので2年くらいかければ歩けるということになる。

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ポピュリズムの末路 – 髪染め事件の背景にあるかもしれないもの

前回、懐風館高校の「髪染め事件」について見た。規則を守ることが優先されて本来の目的が完全に見失われているという状況だった。こういう状況は日本では珍しくないのだろう。多くの人が生徒の側に立ったコメントを出していた。

しかしながらもう少し詳しく見てみると政治が大きな影響を与えていることがわかる。それは政治への無関心が生み出した悲劇なのだが、ちょっと見ただけでは影響がわからない。さらにいったん崩れてしまったシステムを元に戻すのはとても難しい。ポピュリズムを未然に防ぐことが重要なのかがわかるのである。

なお、この件についてはまともな報道がない。そこで断片的な情報をつなぎ合わせることになる。評価のためには一人ひとりが何が起きているのかを調べる必要があるだろう。

マスコミがこの問題についてあまり取材をしないのでよくわからないのだが、口コミサイトなどを見ると「先生によって黒髪の基準が異なり」「判断基準がわからない」という声が多い。もともと何のために外見を揃えるのかがわからないのだから、その基準が曖昧になったとしても不思議ではない。加えて「先生同士で統制がとれておらず、それぞれ思い込みで指導している」様子が伺える。

こうした基準の曖昧さは「モラルの低下」を招いているように思える。別の生徒の指摘では「ある学年では窃盗が多かった」という情報があった。

つまり「とりあえず外見を取り繕わなければならないが、理由も基準もわからない」というのは「では、表向きは先生にへつらってあわせておけば裏では何をしてもよい」というメッセージになってしまうのである。

これはとても恐ろしいことだとは思うのだが、実はこの恐ろしさはなかなか伝わらないのではないかと思う。なぜならばこうした状況は日本では常態化しているからである。

例えば、ワークライフバランスをとるために残業時間を減らすべきだという目標は、オフィスのパソコンや照明を自動的に落とすという形式的な目標に還元される。だから無駄な作業を減らして労働時間そのものを削減するなどというような対策は取られない。結局、持ち帰りの仕事が増えて家に仕事を持ち帰るだけになってしまうというのがその一例である。

最近では国会でもとりあえず審議時間を長くすることによって「よく話し合った」と説明されることがある。これも何のために審議をするのかという目的が失われ、単に時間をかけることが議論だと見なされている。野党側は単に反対することが野党の存在意義なのだと考えるので、結果的に「あの法律の趣旨には賛成だったが法律の体裁が悪すぎる」などと言い出す人が出てきてしまう体たらくである。

さて、こうしたことが起こるのはなぜなのだろうかということを調べたところ意外なところで政治とつながった。どうやらモラルが崩壊する裏には維新の会の選挙公約と大阪府知事の教育への無関心があるようだ。

まず、公立高校が統廃合されたのはどうしてなのだろうか。それは、公立校の人気がなくなったからだ。公立高校に行かなくてもいいという空気が生まれたのは、私立高校への人気が高まったからだそうだ。私立高校に「無償」で行けるようになったため「経済的な理由で仕方なく公立を選ぶ」人が減ってしまったのである。

さらに、私立高校が枠を広げたので公立高校人気がなくなった。そこで偏差値45という学校で「度々定員が埋まらない」という状態が起きているのである。

そのため、公立高校では前期後期試験をなくしたようだ。こうすると「行きたい学校に行けなくなる」可能性が高まり、公立に「仕方なく止まる」人が増える。こういうやり方でしか公立高校に人をつなぎとめておけないほど、下位の公立高校には人気がない。

そこで口コミサイトを見ていると「施設が老朽化していて、お金の使い方が間違っているのでは」という声が複数見られた。

大阪は「本当だったら私立に行きたいが、お金の関係で仕方がなく公立」という人が多かったのだろう。南北格差があり、南部では公立が荒れているので私立人気が高いが、北部では公立が充実しているのでよい私立が育たなかったなどと書いているブログを見かけたりもした。

このブログでは無償化についてかなり否定的な議論が展開されている。どうやら、大阪の高校無償化制度はかなりの問題を含んでいるようである。もともと、補助金によってある程度の多様性を確保していたようだが、これが崩れてしまい「定員を大幅に増加させてでも生徒を確保した方がトク」ということになってしまったようだ。そうなると、講師を増やして増えた生徒に対応すればよいのだから、じっくりと腰を据えた教育がおろそかになる可能性が出てくるのだという。

さらにこういうつぶやきを見つけた。ブログの文章の中で「なぜ定員を少なく申告し、その結果として公立校に行けない人が出た」理由がわからなかったのだが、こういうことをやっているようだ。その危機感はかなりのものだ。つまり、学校がなくなれば生徒が受け入れ先を失ってしまう。さらに先生たちも選別されることになるだろう。正規職員はどこか別のところで雇ってもらえるかもしれないのだが、非正規の職員たちは「なんとかしなければ」と焦りを覚えるのではないだろうか。

どうしてこのようなことになったのか。共産党のウェブサイトはかなり批判的なトーンで橋下徹大阪府知事時代の政策を批判している。橋下さんは教育現場に自由主義を持ち込もうとした。本来ならいろいろなアプローチで魅力的な教育を提供できるようになるのが自由主義のはずだ。しかし、同時に無償化を提案してしまったために状況が混乱した。つまり、ただで行けるならできるだけ有利なところに行こうということになるのだが、その有利さが日本では「偏差値」という一つの尺度でしか計測されない。さらにリストラと予算削減を絡めたために「是が非でも生き残らなければならない」という競争が生まれたのだろう。

学区制も廃止されたようで競争が激化した。大阪の場合は兵庫県や京都府の私立などにも生徒が流れることがある。

競争が激化するのだからどうにかして生き残らなければならない。本来ならば先生が努力をして教育の質をあげるべきだろう。だが、日本ではそうはならない。外から見て良い生徒を育てているという風に「見せよう」としてしまうのである。今回のケースではたまたまそれが「みんな黒髪で制服の着方がきれい」というものだったのだろう。上位校の場合は家での教育が厳しい場合が多く、おのずとい外見が整うのでそれほどの指導はしなくてもよい。しかし、中位下位の学校ではそもそも家で勉強するというような生活態度も届きにくいだろうから、規則で押さえつけることで見た目を整えようとしたのではないだろうか。

教育の無償化が提案されたのは、維新の党が大阪で勢力を得るために提案した政策なのだろう。つまりポピュリズムである。しかしながら、なんらか別のところからお金を持ってくる必要があり、補助金を削減した。さらに学校全体のリストラ策も進行している。そうなると真っ先に切り捨てられるのは「学校は人を育てるところだ」という理念なのだろう。理念では食べて行けないからだ。

教育現場が混乱すると生き残りをかけた競争が始まるのだが、その競争は競争のための競争になる。最終的には「肌がボロボロになっても構わないから髪の毛を染めてこい」などという過剰な要求が生まれる。

この状況の恐ろしさはこうしたポピュリズムに人々が慣れていて「せっかくみんなが一生懸命にやっているのに和を乱すな」という人たちが大勢出てくるということだ。理屈は何でもよいので「サラリーマンはみんな地味な色のスーツを着ているのだから、学生も髪を染めるべきだ」などという論が横行する。

ポピュリズムの恐ろしさがわかる。

個人のブログなのでこのように断片的な情報でいろいろなことが書けるわけだが、実際にこれを改良するためにはこうした問題を一つひとつ証明して元に戻す必要がある。それは膨大な作業になるだろう。

今は大阪だけの問題だが、同じような議論は国政レベルでも行われている。大阪の場合は収支を改善して維新の実績を作るために教育が犠牲になったわけだが、国政の場合は民主主義に疲れた与党が憲法を改正するための「アメ」として教育無償化が話し合われている。

両者に共通するのは教育という未来への投資が、権力欲によって蹂躙されてしまうという姿である。あまり悲観的なことは書きたくないのだが、この国は本当にもうダメなのかもしれない。

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日本の憲法第9条をめぐる議論はなぜ不毛になるのか

小川和久さんという人が朝日新聞のある記事に反論している。もともと対米追従派で安保法制制定時に「独自防衛をすると何倍もお金がかかるようになるから絶対にダメだ」というキャンペーンを張っていた人なので、反発の理由はわかる。つまりはポジショントークなのだろう。

最近の政権側のポジショントークはだんだんおざなりになりつつある。野党側が自滅してしまった上に、ほとんどの国民がそもそも興味を持っていないことに気がつきつつあるのだろう。だが、記事を読んだだけでは何がめちゃくちゃなのかがよくわからない。

最初に目につく問題は、リベラルを応援し人権擁護を訴える立場を「日本の知的エリート」と決めつけている。実際には「社会に影響力があり政権に協力的でない人たち」を叩きたいだけなのだが、そうは言えないので「リベラルは」などというレッテル貼りをするわけである。

次の問題は筋の立て方である。日米同盟が対米追従なのであれば、イギリスなどを含むアメリカの同盟国は対米追従になると言っている。NATO加盟国はソ連との対抗上「選択的に」アメリカとの軍事同盟を結んでいるのだが、日本が選択的にアメリカとの関係維持を求めたことはない。岸内閣が安保体制を維持したことを引き合いにして「民主的に選択した」と言い張ることはできなくはないが、これは説明不足もあり国民から猛反発を受けた。また、広島の上空で危険なオペレーションを行っても日本は抗議できないし、沖縄(忘れているかもしれないが沖縄は日本の一部だ)でヘリコプターが落ちて国民の財産権が侵害されても日本政府は何もしない。加えて横田空域はアメリカに占有されたままである。これは同盟そのものよりも運用や協定によって不平等な運用がなされているからである。いずれにせよ、成り立ち上からも、運用上からも、日米同盟は対等な軍事同盟とはとても言えない。ヨーロッパではこのような対等ではない契約にはなっていないようなので、半占領状態にあるといっても良い。

日本がアメリカと軍事同盟を結んでいるのは日本のためではない。アメリカの支配下に置かれることで、日本が周囲に軍事的に進行するのを抑えているわけである。小川さんは多分このことがわかっているのだが、ポジションとして日本はアメリカに大いなる協力をしているパートナーだと言い張っている。

しかし、最大の問題は実は日米同盟そのものにはない。小川さんはアメリカが喜望峰までをカバーするためには日本に基地を置かなければならないと言っている。しかし、なぜアメリカは喜望峰までを独自にカバーしなければならないのかよくわからない。もし、喜望峰までカバーする必要があるのだったら、どこか別の国と同盟を結べばいいだけの話だし、技術革新によって遠隔地からカバーする方法にも触れていない。さらに、現在では国連などの国際的協調の枠組みがあるのだから、かつてのようにプライベートな同盟関係で経済権益を守るというやり方を取る必要があるのか疑ってかかる必要がある。

喜望峰の近辺にアメリカの同盟国がないのはなぜなのだろうか。それはその近辺に旧植民地支配国がないからである。つまり、日米同盟を含むアメリカの同盟というのは実は旧帝国主義リーグなのである。

では小川さんの論がおざなりだということはカウンターの勝利を意味するのだろうか。反論されている加藤典洋という人の文章もピンとこない。こちらもなんとなく変だなという感じはするのだが、よくわからないので細かく見てみよう。

  1. フランス革命に対する反動として保守が生まれた。
  2. 保守には共通の目標が必要だ。
  3. しかし、安倍政権は保守ではない。単なる対米追従だ。
  4. 日本国家の目標は対米独立であり、安倍政権はそれを放棄しているから保守とは言えないのだ。
  5. 憲法第9条の改定も独立を装ってはいるが、実は対米追従策に過ぎない。
  6. 国難を叫ぶ’風潮は大正デモクラシーの後にも見られた。当時と現在の状況は似ているので、これを研究しなければならない。
  7. リベラルに否定的な空気があるが、これは大正デモクラシーが否定されてゆく動きと似ているので枝野さんは頑張るべきだ。

まずは、小川さんから片付けてゆくと、加藤さんの文章の「対米追従」という言葉に脊髄反射しているだけなので、特に文章に対する反論にはなっていない。一方、加藤さんの文章の言いたいのは「俺は大正デモクラシーについて研究しているのだが、これをもっと取り上げてくれ」ということなのではないかと思う。つまり、研究所の宣伝なのである。

それを我慢して読んでいると「日本の目的は対米独立なのだ」という論の展開に無理があることがわかる。なぜならば、日本とフランスの状況は異なっているからだ。つまり、日本には革命(あるいは急進的な社会変革)がないので、保守が存在しえないである。ゆえに、その後の論がすべて無効になってしまう。

加えて、現状維持を目指しているのがいわゆる日本の左派リベラルで、現状を変えようとしているのがいわゆる日本の改憲派保守だ。つまり、革命勢力は「保守の側」というわけのわからない領域に突入する。日本の保守運動を復古的な動きだとする人もいるかもしれないが、彼らが目指すところは自民党などの政党の一党独裁体制であり、どちらかといえば中華人民共和国に近い。中国は共産党の独裁になっているのだが、日本ではそれはあからさまなので「公」という概念をおき、それを守護するのが自民党だという筋立てになっている。

後半は本当に言いたいこと(つまり研究の宣伝)なので論が通っている。これに政権批判をくっつけてしまったことでやや破綻した仕上がりになっている。この蛇足部分に小川さんが反論して、おざなりで現実を見ていない日米同盟論をいつものように連呼している。

だから、この<議論>に何か意味がありますかと問われると「ありませんね」と答えるしかない。

冷静に考えてみると加藤さんも小川さんもそれで構わない。なぜならば加藤さんは本が売りたいだけなのだろうし、小川さんは対米懐疑派を潰していればそれなりに仕事が回るのだろう。だから、この手の議論は特に何かを解決しようとしているのではないということがわかる。

では、こうした論をつぶさに見てゆくことには全く意味がないのだろうか。論を観察してみると、どちらもが「国連を通じた世界的な枠組みづくり」について全く触れていないことがわかる。一方はアメリカが日本を対等な軍事同盟の相手として認めてこなかったという歴史にルサンチマンを感じていることがわかるし、もう一方はどう考えてもバカにされている相手についてゆくために「実はアメリカが成功しているのは日本のせいなのだ」という心理的合理化を図っていることがわかる。

つまり、どちらもアメリカに過剰なまでにとらわれている。だが、よく考えてみると冷戦構造が崩れ、中国やインドなどの国が大きなプレイヤーとして経済に組み込まれた状態で、アメリカとヨーロッパを中心とした連合体だけで世界秩序の維持をしつづけなければならない理由は見つからない。逆にこうした枠組みに過剰にこだわると却って分断が進んでしまうことになる。

さらに、当事者であるアメリカにも世界の警察官であり続ける意欲はないようだ。TPPのような枠組みすら国益のために脱退するという状態になっている。しかし、アメリカは世界で一番強い国で、日本はその隠れたサポーターなのだと考えているうちは、とてもこうした世界的な変化にはついて行けないだろう。

日本の第9条の議論が不毛になるのは、その前提になる「防衛と秩序づくり」の議論の参加者がアメリカしか見ていないからなのだ。

参考文献

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ロンドンで騙された話 – ジャージー代官管轄区

その昔ロンドンで「このコインは受け取れないよ」と言われたことがある。なぜかはわからなかった。後から見るとコインの表にはエリザベス二世女王の顔があるが裏面には見慣れない名前が書いてある。それが原因みたいだ。

スキャンだとよく読み取れないが「Bailiwick of Jersey」と書いてある。日本語ではジャージー代官管轄区などと訳されるようだ。よく、フランスに一番近いイギリス領などと説明されている、イギリスの南にある島である。イギリス王室がフランスにある領土を奪われたときに残ったようだ。

しかし、ロンドンでこのお金が通用しないところをみると、ジャージー島はイギリスではないのだろう。誰かがイギリスでは使えないお金を持っているのに気がついて旅行者である僕に押し付けたに違いない。イギリスを旅行するときにはコインには気をつけたほうが良さそうであるが、慣れないお金だといくらだかわからないし、瞬時に判別するのは難しそうだ。今の価格でいうとだいたい七円程度の詐欺である。

外国旅行から帰ってくるとコインがたまるのだが捨てるのはもったいない。かといってスクラップブックに入れて整理するほどマメでもないのでそのまま紅茶の缶に入れて死蔵してある。そのうちにドイツマルクのように使えなくなってしまったコインもあった。そこで、とりあえずそれをスキャンしてデジタル保存することにした。そうい昔のお金を見ているうちに、騙されたことを思い出したのだ。

さて、ジャージー代官管轄区だが、ここは正確にはイギリス領ではない。イギリス王家が私的に管轄する領地ということである。だからイギリスの法律は通用しないし、EUの一部でもないということだ。外交や防衛についてはイギリスが管轄しており、パスポートコントロールもイギリスと共通なのだという。イギリスの法律や税制の管轄外なので租税回避地として知られている。パナマ文書で有名になった租税回避地だが、イギリスがこのような悪知恵を思いついたのはこのような伝統を持っているからなのだろう。

面積を調べてみたがジャージー島は意外に大きいらしい。小豆島の2/3程度の大きさがある。小豆島の人口は23000人程度なのだが、ジャージー島には95000人が住んでいる。当然議会もあり最近では内閣や政党もできたということである。

今ではロンドンからは格安航空を使うと10,000円前後で往復できるということだ。また、ロンドンから車を借りてフェリーで移動するルートがある他、いったんドーバー海峡を渡ってフランス側からフェリーで移動するルートもあるのだという。

この通貨はジャージーポンドと呼ばれる。ジャージー島の中ではジャージーポンドとイギリスポンドが使えるが、イギリスではジャージーポンドは利用できないそうだ。

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なぜ少女は髪の毛を染めることを強要されたのか

生まれつき髪の毛が茶色い生徒が髪染めを強要され最終的には登校拒否に追い込まれた挙句、学校を提訴した。

学校を訴える以外に解決方法がなかったところをみると、教育委員会などからの調整はなかったのだろう。さらに、学校や関係者の間には外見上の理由をもとに学業の自由を侵害するのは人権侵害にあたり憲法問題であるという認識がなかったことが伺える。だが、それとは別にこの問題にはなぜ学校側が追い込まれていったのかという背景がある。学校がなくなるという危機感があるが、どう対処していいかわからず、外見を取り繕おうとしたのである。つまり、体裁を守ることの方が生徒に必要な教育を施すべきだという理念や目的に勝ってしまったということだ。

問題になった学校は羽曳野市にある府立の懐風館高等学校だ。口コミサイトを見ると市内にある二つの学校が合併してできた学校のようで、偏差値が45であることがわかる。平均点を50とすると平均よりやや下の学校ということになる。

生徒が口コミを書き込むサイトを見ると積極的に入るというよりは、入れるから入ったという学生が多いようだ。制服はかわいいと評判が高いが、その一方で髪型や服装の検査は厳しかったのだという。外見に力を入れていたことはわかる。

大学進学はできないことはないが、あまり手助けをしてもらえなかったという声が散見される。が、高校受験で思うような成果がでなくても、思い直して勉強し近畿圏で名前が知られた私立大学に行くことはできる。先生が相談に乗ってくれたということを書いている生徒もいた。

しかし、どちらかというと専門学校に行く生徒も多いようだ。懐風館は専門や就職なども多く、進学を目指してる方はやめておいた方がいいという情報があった。一方で、専門学校に行きたいと言ったところ嫌味を言われたという人もいる。

口コミサイトには、一定以上の大学に入る人は面倒を見てもらえないという情報があり、また定員割れだったから入ったという情報が複数ある。また、先生が指導したにもかかわらず盗難が多い学年があったそうだ。羽曳野高校時代は野球部が有名だったので、今でも野球部の活動に力を入れているらしいが、学生の方はあまり熱心ではないらしくうちはほとんどがクラブに入ってないですねみなさんバイトや遊びの方を優先してますという評判もある。

つまり、外見の保持には厳しいが、その教育内容はまちまちであることがわかる。さらに、学校全体で取り組む行事がない。羽曳野高校時代には野球部が有名で、文化祭もそれなりの規模だったがそれが縮小されたという書き込みがあった。学校が一丸となって何かを成し遂げるということがなく、それが内面での風紀の乱れに及ぶことがあるということである。

中でも気になった書き込みは以下のものである。

ひとり学校で一番偉そうにしている先生がいる。みんなその先生を恐れているように見える。その人の言うことは絶対。間違っていても言うことを聞く。先生が言っていることは絶対。先生同士のほめあいなれあい、見ていてしんどい。

伝統的な神学校のように「伝統を守ろう」という共通の目的がないために先生の間でまとまりがないのかもしれない。まとまりがないから「皮膚がボロボロになる生徒がいるから例外措置をみとめてはどうか」という調整ができなかった可能性があるのではないだろうか。さらに不登校になったがどう処理していいかわからず、名簿から名前を決して、周囲には「いなくなった」と説明したようだ。マスコミの取材がTwitterに流れてきていたが「裁判で判断してもらえばいい」という他人事のような教頭の言葉だった。あまり、当事者意識もなさそうだ。

確かに多くの生徒はそれなりに学校生活を楽しみ、そこそこの進路を見つけて卒業してゆくのだろう。しかし「規格」にはずれた生徒は大変だ。名前が通った大学に行きたいといえば支援してもらえないし、髪の毛が茶色だと染髪を強要される。

今回の学生は母子家庭に育っているという。さらに肌に合わないのか髪の毛を染めて皮膚がボロボロになった。それで染髪を止めたいと言ったところ、それでは学校にこなくても良いと言われ、過呼吸を起こし、実際に登校できなくなった。

ここまでを読むと「学校の管理責任」を問いたくなるし、多分マスコミが取材をするときにも学校を責めるようなトーンになるのでは無いだろうか。だが、学業もそこそこで先生や生徒にもそれほどのやる気はないし、場合によっては窃盗も発生するというような学校で「生徒の品質」を守るためにはどうすべきだろうか。

一番良いのは、やる気のない生徒を退学させて良い生徒を集めることなのだろうが、そもそも学年によっては定員割れを起こすような状態なのでそれはできない。だから、外見を整えて「きちんとしようとしている」ように見せることが優先されるのだろう。このようにして少しでもよい学生を集め、企業からの評判を保とうとしている様子が浮かんでくる。

つまり、どうしていいかわからないから、間違った方向に努力が進んでしまったということになる。背景にあるのは先生のリーダーシップの問題なのだが、先生も「成果」によって、やりがいのある進学校に行けたり、どうしようもない底辺校に飛ばされるわけだから、それなりに必死だったのではないだろうか。

しかしそのリーダーシップが行き着いたのは人権侵害である。が、いったんモラルとモチベーションがなくなってしまった状態では「これはいけないからなんとかしよう」と言い出す人はいなかったのかもしれない。

結果的にうまくいっている学校はやり方のノウハウを意識的に持っている(つまり形式知によっている)か伝統という形で暗黙知的に持っている。前者ならふわふわなケーキを作れるノウハウをレシピ本にして持っているか、美味しい味噌ができる味噌蔵を抱えているということになる。どちらにせよ、美味しいケーキ屋さんやうまい味噌屋さんになれる。すると大勢のお客が集まり、店員にもやる気と熱意が生まれる。

しかし、それが失われたところではとりあえず店内をきれいにして、そこそこのケーキや味噌を売るしかない。そこに形の崩れたケーキや味噌があってはならず「規格外品」としてはじき出されてしまうのである。

こうした問題が起こっているのは何も学校だけではないのではないだろうか。「憲法問題だから人権は守られなければならない」という人が多いが、実は人権侵害の裏にはもちべーしょんの低下がある。つまり、どうやったら競争できるかがわからなくなると、組織は集団による弱いものいじめを始めてしまうのだ。

学校側には多分生徒をいじめるなどという意図はなかったのだろうが、結果的には生徒を育てるという最優先すべき問題を「とりあえず外見を取り繕う」という問題のしたにおいてしまったということになる。さらに、社会も当事者たちもそのことに全く気がついていない。

このような状況にある人が多いのだろう。多くの人の共感を集めた。しかしながら、これに共感する人たちもまた何が悪いのかがわからないので「憲法上の人権問題だ」と騒ぐだけだ。だから、逆に「だったら憲法から人権条項を取り除こう」などと言い出す人が現れる。

我々の社会が、意欲が低下したかなりまずい状態にあるということがわかる。

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民主党系保守の政治家はなぜ嘘つきなのか

長島昭久という衆議院議員が、希望の党の党首が「暫定的である」という報道に異議を唱えた。しかし「自分は反対であるとは言わずに、これは誤報だ」とやった。いつもの手口なので「民主党系保守の議員というのはなぜ嘘つきなんだろうか」と思った。翌日になってやはり今回の希望の党の党首は暫定であるということがわかった。やはり当初の直感は正しく長島議員は嘘をついていたのである。

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アダムの旅 – 人類はどのように移動したか

ムガール朝のムガールがモンゴルだと聞いて驚いたという話の続き。ここで気になったのがジンギス・カンがどれくらいかけてモンゴルからイランあたりまでたどり着いたのかということだった。感覚的には10年くらいかけないと歩いてたどり着けないような気がするのだが、実際には数年で到達しているのだという。よく考えてみると国境検問所などもなく、イギリス人が持ち込んだ武器によって周囲の治安が極端に不安定化しているということもないわけだから、昔の方が旅行がしやすかったことになる。ちょっと複雑な気がする。

歩いて行くのは難しいのだろうが、馬を使うと意外と簡単にいけるということだ。しかしながらジンギスカンが走った土地は決して見知らぬ土地ではなかった。なぜならばそもそも人類は西から歩いてモンゴルまで到達しているはずだからである。

途中で騎馬技術を身につけたのではと思えるのだが、農業が始まったのは23,000年前ごろの話らしい。さらに、牧畜は農業に付随して始まったようなので、当時の人たちが馬に乗って前進したとは考えにくい。

モンゴルが中央アジアを支配するのはかなり簡単だったようである。あまりにもあっけなく征服で来てしまったので勢い余った人たちが各地で暴れまわったという話がある。モンゴル人が現地の人たちが持っていない優位性を持っていたということになるのだろう。


そんなに簡単に行き来できるのだったら、アフリカを出てからモンゴルや中国にくるのも簡単だったのではないか。そこで「アダムの旅」という本を読んでみた。現代では遺伝子解析から人類がどのように広がっていったのかということはおおよそわかるのだそうである。この本はY染色体(つまり男性側)からみた広がりについて書いてある。

50,000年前にアフリカを出た人たちは複数の経路をへて東へと向かった。もっとも早い集団は海沿いを伝ってオーストラリアまで出て行く。海産物を追いかけているうちにオーストラリア近辺までたどり着いたわけである。いわゆるアボリジニやパプアニューギニアの原住民などはこの系統だと考えられる。彼らは今でも狩猟・採集に依存した生活をしている。これは農業が始まる前にホモサピエンスが広がり始めた証拠になるのだという。

もう一つの系統は45000年前にアラビア半島へ進出しそこでヨーロッパに向かった人たちとイランに別れた。イランからインドに進出した人たちと北に向かった人たちがいる。また、35000年前には狭いルートを通って中国に進出していった人たちがいた。ここで進路が別れたのは天山山脈などに阻まれて東進が難しかったからだそうである。

この本の中にジュンガルギャップという言葉が出てくる。キルギスとタジキスタンのあたりは山になっているのだが、雪解け水が谷に溜まった湖が点在している。急峻な山道を越えて湖を伝って行くと、現在は中国領になっているカラマイという街に行き着く。この辺りがジュンガル盆地と呼ばれているので、これをジュンガルギャップと呼んでいるのだろと思われる。ここを越えてゆくとやがて米の農業に向いた温暖な地にたどり着くわけだが、確かによほどの物好きではないとここに到達するのはあまり容易ではなさそうだと思える。

現在農業の最も古い遺構は23000年ほど前のイスラエルで見つかっているらしい。すなわち人間はしばらくは獲物を狩るためだけに広がっていったことになる。牧畜も農業に伴って発達したようだ。

アフリカには食べ物が豊富にあったためにわざわざ定住して農業などというしんどいことをする必要はなかった。環境が変わるかあるいは食べ物があまりない土地に行き着いたからこそ腰を据えて農業を行う必要があったことになる。そもそも、サハラの環境が悪化したことにより獲物が少なくなったからこそ新世界へと広がる必要があったことになる。その後砂漠化が進行すると今度はサハラは障壁になってしまう。

いったん中央アジアに止まった人たちの中には30000年前にヨーロッパに向けて西進した人たちととシベリアに行った人たちがいたようである。シベリアに行った人たちは寒さに耐えることを覚えた。シベリアは寒いがマンモスなどの大きな哺乳動物がおり、いったん獲物を仕留めればそのあとは比較的楽に過ごすことができる。このシベリアに行った人たちの顔は寒冷地適応のために平たくなりいわゆるアジア人っぽい顔つきになった。最後のマンモスは紀元前1700年ごろに北極海上の島で狩猟されたという説があるそうだ。人間が狩りつくしたか、一緒に連れてきた家畜からの伝染病がうつって滅びたという説が有力だそうだ。

人類は気候が悪くなって獲物が取れなくなると遠くに出かける必要が出てくる。しかしながら、気候が良いからこそ移動ができる。そして気候がまた悪くなり砂漠化や寒冷化が進むとその場所に閉じ込められる。こうして広がったり孤立したりを繰り返しているうちに「人種」が固定したのだろうと考えられているようだ。

気候変動によって孤立したり定住が起きると集団が生まれる。それがある程度のまとまりをつくると同じような言葉を話すまとまりが作られる。一方で、いったん狩猟採集を捨てて農業を覚えた後で、さらに移動しながら遊牧をするようになった人々もいる。彼らは遊牧で移動しながら、ユーラシアの東西で生まれた発明や技術を別の地域に持ち込んだ。

例えばモンゴル人が中央アジアを席巻した時には乗馬と製鉄技術を持っていたのだが、製鉄技術はもともと小アジアのヒッタイトで生まれたものだと考えられているそうだ。もともとは国家で秘密裏に管理していたのだが、国家が衰退して周辺国に広がった。これが中央アジアを経てモンゴルまで伝わったということは、この頃に遠距離を移動する技術と通商経路があったということになる。逆に火薬は中国から西に伝えられたようだ。これも短い間にヨーロッパにまで広がったと考えられる。

人類の移動を阻んだのは山脈や裁くだけではなかった。ヨーロッパにホモ・サピエンスが入るには時間がかかったが、いったん中央アジアで農耕などの技術を蓄積した後で進出しているということはなんらかの地理的ではない障壁があったからである。本の中にはネアンデルタール人との競合について書かれている。

こうした人類の足跡は遺伝子によってたどることができるのだが、ある程度言語とも関連があるそうである。例えば、いったん中央アジアからヨーロッパに行った人たちが話しているのがいわゆるインド・ヨーロッパ語族である。一方で、ヨーロッパには少数ながら孤立する言語を話す人たちが残っている。例えばイベリア半島にはバスク人がおり、ジョージアの険しい山脈の南北にはコーカサス諸語を話す人たちがいる。海を伝ってパプアニューギニアやオーストラリアに渡った人たちは少人数だけが理解できるお互いにあまり系統だっていない諸言語を話す。どちらかといえば後から集団で渡った人たちは系統だった言葉を話し、先に行った人たちは孤立している言語を話している。面白いことに孤立した言語を話す人たちの集団はそれほど大きくならない。「国」のようなまとまりを作るためにはある程度大型の農業を通じて社会を形成する必要があるからだろう。

さらにモンゴル人やトルコ人は定住地を持たなかったのでインド・ヨーロッパ語族の人たちとは違った民族的な広がりを持っている。例えばトルコ系の言語はアナトリアから新疆ウィグル自治区にまで広がっているが比較的お互いの意思疎通が簡単なようだ。これが文化を繰り返してお互いに意思疎通ができなくなったインド・ヨーロッパ語族とは異なっている。

日本というのはまた別の意味で極めて特殊なようだ。北方、東方、南方経由でアジアにやってきた人たちが最後に集まるのが日本列島である。その人たちが話す言語もバラバラだったはずだ。しかしながら、現在日本列島には語族は二つしかなく、大多数は日本語族のいずれかの言語を話す。こうした雑多な人たちがお互いの要素をなんとなく許容したままで溶解してあたかも一つの民族のように振る舞うようになった。

一方で、大規模な農業経験を持たなかったアイヌの人たちはどの語族とも関係性が見つからない孤立した言語を話し、小さなコミュニティにわかれて住んでいた。サハリンにはニブフというこれもまた孤立した言語を話す人たちが住んでいる。

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共産党が支持されなくなると思う理由

立憲民主党は違和感を持って共産党に入れていた人たちの票を吸収するだろうというツイートを見つけた。こういうツイートをみると多分都市部でリベラル的な思想を持ちながら生活している人はリベラルについてあまりよく理解していないんだろうなと思う。

確かに、個人的には立憲民主党ができると共産党の票は減ると思う。安心して入れられる反保守の政党ができるからである。しかし、理由は異なる。多くの人は共産主義に違和感があるからだと考えているのだと思うが、共産主義に反感を持っている人は減っていると思う。なぜならば護憲としての共産党の態度は一貫しているからである。

しかしながら、政党とは何だろうか。

都心部では政党とは党首や有名議員と政党そのものが持っているイメージのことである。イメージは人によって異なるのだろう。共産党といえばあるいは不可触賎民のようなイメージが持たれているかもしれない。

ところが、地方においては事情が異なる。それは市議会議員などの最寄りの議員なのである。彼らは事務所や連絡所などを持っている。これは銀行で言う所のATMみたいなものである。では何を引き出すのか。

個人的な経験と都市部に住んでいる人たちの話を合わせると、どうやら都市の人たちは政治家との関わりがあまりないようである。多分、地方自治レベルの「お困りごと」があまりないからではないかと考えられる。例えば港区役所や各支所で「話が通じないな」と思って困ったことはないが、千葉市役所ではそういうことがしょっちゅう起こる。なぜならば「東京に出るほど才覚もなく地元企業に就職するほどのやる気もない」ような人たちが市役所に吹き溜まるからだ。高齢の職員はかつて汚職がまん延していた時代を引きずっているのでもはや回復不能なレベルだし、若い人たちはやる気だけがあったりする。だからいちいち議員に相談するようなことが増えるのである。

さらに地方にゆくと基本的インフラすらままならないというところもあるだろうから、生活と政治が密接に結びついている。水道を引くのに長い時間がかかったという記憶を持っている地域もあるだろう。東京の都市部に住んでいて「道路の舗装が剥がれているのでなんとかしなければならない」とか「木の枝がぼっきり折れているが誰も手当てしない」などと感じたことがある人はほぼいないはずだ。地方ではそういうことが起こるが都心ではそのようなことは起こらない。

実は共産党にはあまり議員事務所がない。なぜならばそもそも議員があまりいないからである。にもかかわらず熱心な人たちが市議会を傍聴に訪れたりしている。一度、意を決して共産党の議員のところに話を聞きに行ったことがある。80歳くらいのおじいさんだったがマルクス主義について熱心に語られた。「再生産のための余暇理論」などと聞かされても今の政治課題は解決しない。

もともとノンポリ学生なのでマルクスには興味がない。だから彼にしてみれば「無知蒙昧な若者」ということになる。しかし、こちらから例えば正社員が今や特権階級であり、高齢者は株を持っているのだから資本家になりますよねなどと言っても話が通じない。若い頃に熱心に当時のマルクス主義について学んだためにその当時のままで時代認識が止まってしまっているのだろう。加えて、彼らは実経験から政治を学んでいるわけではなく、イギリス人が図書館で考えたことをテンプレートにして現実世界を当てはめているだけだ。ゆえに状況が変わると全く対処できなくなってしまうわけである。

そもそも接点が少ない上に、わざわざ訪ねて行くとこういう人たちに捕まることになる。ゆえに共産党が自分たちのルートから新しい信者を獲得する可能性はほとんどない。日本人は知識を組織の中に暗黙的に蓄える。この場合の知識とは「マルクス主義から離れられないおじいさん」のことだ。

ちなみにこういうことは自民党と公明党でも見られる。自民党の支持者の人は例えば商店街のおじさんとか建設業の人たちなので、よそ者が入ってくることを想定していない。よく自民党の投票数は変わらないというのだがこれは当然だろう。よそもの(つまり浮動票とか無党派層)を受け入れる土壌も意欲もない。また政権公約についても理解しておらず中央から言われたことをオウムのように繰り返すだけである。2009年選挙の時は「良い公共事業」理論をまくしたてていた。どこに行っても同じような調子だったので「麻生理論」だったのではないかと思われる。今でも安倍首相が無表情で文章を読んでいることがあるが、あれはテレビの向こうの有権者に訴えているわけではないと思う。だが支持者たちはあれを理解しないで丸暗記して有権者に訴えるのだ。

公明党も支持母体は創価学会なので新しい人が入り込む余地はない。比較的世代交代には成功しているのだそうだが、それでも若い人たちはそれほど政治には熱心ではないという。面倒なので創価学会の人と政治の話をしたことはない。彼らは非政治・非宗教的な活動を通じて引き込もうとする。目的は信者獲得だからだ。もし彼らと話をすれば聖教新聞の受け売りが始まるはずだ。

変な言い方なのだが、自民党・共産党・公明党は保守政党である。支持母体が閉鎖的で新しいアイディアを受け入れようなどとは考えないからである。それでも自民党は議員数が多いので、議員事務所とか講演会連絡窓口などは比較的容易に見つけることができる。しかしながら、新しいアイディアは受け入れないのでいずれ衰退してゆくだろう。勝手に消えてくれればいいが、自民党は周囲を巻き込むかもしれない。

民進党は地方オフィスを持っている。加えて支持母体が脆弱なので比較的無党派層でも入りやすかった。加えて、地方には市民団体系の事務所がある。独自に議員を出しているのだが国政には窓口がないのでいわゆるリベラル系の議員たちとの連携がある。つまり直営店とフランチャイズがある状態になっている。

さらに、立憲民主党はSNSを通じていわゆる「市民」と呼ばれる人たちとコミュニケーションをする通路を獲得した。今後民進党の地方組織がどこにゆくのかはわからないが、これが立憲民主党にくることがあれば、それも窓口になるだろう。立憲民主党は「SNSを使った大衆扇動」ないしは「SNSを使っての訴えかけ」について学習過程にある。大方の人たちはデモに参加しても何も変わらないと諦めてしまったようだが、主催者たちは手応えを感じたようだ。

学習するということは、背後に意欲があり、ゆえにこれから伸びる可能性があるということになる。

ただし、この推論は支持者が伸びることがすなわち政党の伸長に役に立つという推論に基づいている。もしテレビによる大衆扇動(いわゆるポピュリズムと言われているもの)が役に立つとすれば、そちらの方が手っ取り早い。

ただしこちらについては有権者に学習効果が働いているようだ。まず民主党がテレビにより扇動し、これを維新が真似、最後には希望の党(というより小池百合子さんだが)が「選挙はテレビが勝手にやってくれる」と言い放った。この一連の流れは、大衆は利用されているだけで問題解決には役に立たないと学習させるには十分なのではないかと考えられる。

例えば維新の党は大阪都心部では離反されているようだ。国政レベルでは情報から遠そうな泉州でしか勝ち残っていないからである。ポピュリズムを政治に使っても政権が取れれば良いという考え方はあるだろうが、一旦手を染めたら次々と買収手法を考案しないと政権を保つことはできないということになる。

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選挙とデモでわかったリベラルの課題

選挙が終わって2日間、なぜ自民党が勝ったのかということを考えていた。選挙日から政治系の記事に多くのアクセスが多く集まったからだ。日本人は表立って何かを言ったりはしないのだが、かなり集団的に動く。だから、一挙に動向が変わるのである。

アクセスが集まったものを眺めていると、あるべき姿と現実との間にギャップがあり、それが受け止められなかったのではないかと推察される。政治的ブログというのは自分の理想とする政治をプロモートするのが目的なのだろうが、その意味ではこのブログは政治的ブログではないのかもしれないとも思った。それよりも認知的な不協和を癒して悩みを癒したいという人の方が多いのだろう。

認知的不協和を修正するためには現実か自分の認知を変える必要がある。現実が変わらないわけだから自分の認知を変えるべきだろう。これが叶わないと怒りの感情が生まれる。

例えばTwitter上では「有権者は愚民だ」とか「バカだから」という声が渦巻いていた。気持ちはわからなくはない。安倍首相に政治家としての意欲があるとも思えないし、困った人を助けるのが政治だとしたら目の前で起こっていることはでたらめとしかいいようがない。安直な言い方をすれば「正義はない」ということになるだろう。

ただ、見たことがない有権者を愚民とか家畜などと罵ってみても状況は改善しない。却って離れてゆくだけだろう。

例えば、選挙に行かないような人たちを選挙に行かせて正義をなすように働きかけるにはどうしたらいいだろうかなどということを考えてみるとよい。例えばお昼頃のコンビニの駐車場にはたくさんの車が停車していて車内でぼんやりと過ごしている人が多い。多分、昼休みに食堂に入るお金もないのだろうし、そもそも立ち寄れる事務所すらないのだろう。1日誰とも話さないで黙々と荷下ろしをしている人もいるだろうし、誰も話を聞いてくれないのに知らない家のドアを叩いて売れるはずもない品物について話をしようとしている人もいるのではないか。同じようなことを毎日繰り返して対して希望も持てなくなっている人と話すために、トントンと車のドアを叩いて「愚民ども選挙に行け」などと言ったら何が起こるだろうか。多分殴られるかもしれないが、選挙に行ってくれる人はいないのではないだろうか。Twitterで「愚民」とか「家畜」などというのはつまりそういうことだろう。

かといって「立憲主義は素晴らしいもので、あなたには理解できないかもしれないが、日本の政治にとって必要である」と訴えたところでどうなるものでもない。「ご高説を垂れる賢いあなた」に対して敵意を向けることになるのではないかと思う。人は誰かが自分よりも賢いと認めるのが嫌いだからだ。

こういう人たちを選挙に行かせるためには多分なんらかの欲求を満たしてやる必要があるのだろう。これを外的インセンティブという。例えば、金券を配るとかみんなで(多分きれいな女の人なんかがいいだろう)褒めてやるとか、そういった類のことだ。しかし、それで「立憲主義がなされるような」政治が実現できるだろうか。とてもそうは思えない。権力を私物化したい側の人たちが同じことをすれば、外的インセンティブで動く人たちは容易にそちらになびくに違いない。

そもそも、どうして多様性が包摂されるような政治がなされるべきなのだろうか。この答えを導くのはそれほど難しくはない。アメリカやヨーロッパで繁栄している地域は包摂性が高い地域が多い。これにはいくつか理由があり、その理由を知ることで少なくとも「なんだかモヤモヤとした気持ち」を払拭することはできる。それを自発的に知って理解するのは大切である。

例えば多様性がある都市は付加価値を高めて高度な産業と才能のある人たちを惹きつける。こうしたことはリチャード・フロリダダニエル・ピンクなどの著作を読むと理解できる。また、ダンカン・ワッツなどもスモールワールド現象を引き合いにして「弱い絆」が成功のためには有益であるなどということを書いている。人々が出入りすることで新しいアイディアが生まれて成功しやすくなるからである。新しいアイディアを生み出すためには多様なインプットがあった方が良いわけである。

実際には多様性の推進というのは経済的実利に基づいた話であって、共産主義などとはあまり関係がない価値観なのだ。

同じように女性が働きやすい環境にあった方が経済が豊かになる。単純により多くの才能が経済に向かうからである。さらに消費者の半分は女性なので女性に受け入れられやすい商品やサービスが生まれる。これも特に左派思想とは関係がない。

問題なのは当のいわゆる左派リベラルの人たちがこのことを信じていない点にあるように思える。そういう社会を見たことがないからだろう。農業しか国の経済がない人に「映画や演劇を見せる仕事がありますよ」などと言っても信じてはくれないだろうし「何も用事がないのに車で遠くに出かける」ために車を買う人がいるのですよなどといっても笑われるに違いない。それはエンターティンメントやドライブなどという概念を見たことがないからである。同じように多様性を知らなければ多様性を信じることはできない。

加えて、リベラル=共産主義という思い込みがあり、さらに共産主義=社会から受け入れられないという決めつけがある。つまり自分たちで自分たちのことを縛り付けている。考えてみると奇妙な状態になっている。

何人かの人と話をしてみた。

ある人たちはデモをやっても何も変わらない現実に負けかけているようだ。原発反対のビラがなくなり、特定の政党を応援するポスターが消え、戦争法反対のポスターもなくなり、憲法第9条の勉強会も行われなくなった。彼らが抱えている問題は例えば姑の介護の問題とか、子育てをしている間は会社のキャリアからは脱落するとかそういうことである。しばらくお勉強会や抗議運動をしているうちに、社会に怒ってみてもその声はどこにも届かないし、自分が見放されている現実というものは変えられないという現実に直面してしまうのだろう。そこで「難しいことはわからない」と政治から引きこもってしまうのだ。

こうなると、気がつけば「安倍政治を許さない」というビラだけが扉に貼ってある。もう「許さない」ということしか訴えたいことは残っていないということになる。彼らがこの数年で学んだのは絶望することだけである。希望を抱くから絶望するのであり、だったら最初から期待しない方がいいということを学ぶのだ。

また別の人たちは自民党のおごった政治に辟易しているのだが、よく聞いてみると「自分と同じ考えの人がいないか」を街に出て確かめたことはないようである。だが言いたいことは色々とあるので、長い返信を書いてきたりする。こういう人たちはまだ絶望できていないということになる。

ここでできることは何だろうかと改めて考えてみた。第一には現実とありたい姿の間に乖離があるということを認めることなのではないかと思った。その上でどうしたいのかということを考えてみるべきだろう。

ただ、こういう鬱屈とした思いを抱えている人たちは大勢いるはずだ。だから、仲間を探すこと自体はそれほど難しいことではないのではないかと思う。仲間を探すのが嫌だと思う人は多様性や創造性について勉強してみるのもいいかもしれない。いずれにせよ、まずは怒りや苛立ちについて見つめてみなければ、何をすべきかは見えてこないのではないかと思う。

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安倍首相が掴んだ民意の正体は何だったのか

今回の衆議院選挙の結果についてTwitterを見ていると「日本の民主主義は死んだ」とか「こんな愚民に投票権をもたせてはいけない」などという怨嗟の声が渦巻いている。しかしながら自民党の大勝こそが日本の民意なのだと思う。では、その民意というのは何だったのかが気になるところである。

第一に日本の選挙の特徴は投票率が53.6%だったという点だ。前回とあまり変わらず大きなイシューがなければ投票率が上がらないということを意味している。大きなイシューとは「選挙に参加して劣等なものを排除する」という競争意識である。つまりこれは二人に一人が政策そのものに興味がないということを意味している。だから自民党としては明確な論点を作らず選挙を行った方がよいということになる。今回の選挙は「大義なき解散」などと言われたのだが、大義がない方が都合がよかった。

選挙にいかないのは民主主義の否定だなどというのだが、実際には放任か白紙委任という民意であると考えられる。つまり、何があっても責任は取らないから好きにしてくれということである。

次に挙げられる特徴は、国民は常に不安にさせておいた方が良いということである。これは産経新聞のアンケートをみるとよくわかった。彼らは加計森友問題の責任は果たされており、北朝鮮は制裁すべきであると考えている。しかし、消費増税が良いことなのかや、原子力発電所がどうなるかについても意見が二分する。つまり、現状を追認し明白な悪を叩くことには興味があるが、実は経済やエネルギー政策などについては迷っている。さらに景気がよくなったと思いますかという問いには「思わない」と答えている人が多い。

もちろん産経新聞を読んでいる人だけが自民党支持者ではないだろうが、必ずしも景気が良くなったから自民党を応援しているわけではなく、これ以上悪くなるのを避けたいという気持ちが強いのではないだろうか。

マズローの欲求五段階仮説というものがある。マズローはお腹がいっぱいになると人は高度の満足を求めるようになると考えた。人間の欲求に高低差をつけるのは如何なものかという批判はあるが、ある意味正論を含んでいる。

もし国民が自分の生活に自信を持つと今度は「筋の通った」政治を求めるようになるだろう。国民が筋の通った政治を求めてしまうと、安倍政権には都合が悪い。やっていることは国家権力の私物化だからである。だから、政治についてあまり考えさせず、興味を持ったとしても常に不安にしておくのが良い。だから、老後について完全に保証するのはよくないし、正社員にするのも考えものである。契約社員などの非正規として明日がよくわからない状態で働かせておいて、死なない程度の年金を与えるのが、自民党にとって合理的な政策ということになる。後の福祉政策や労働政策は切り捨てるべきなのだ。

この「筋を持った政治」がいわゆるリベラル思想である。マズローがいうところの「高度な欲求」だ。アメリカではリベラルな政治を民主党が担い、防衛本能に根ざした政治を共和党が担っている。共和党はもともと自分たちが成長するのを政府が妨げてはいけないという主義の政党だったが、ブッシュ後の民主党政権時代に変質し、ついにはトランプが代表するポピュリズム政党になった。これはリベラルの人たちが「政治を私物化」し、白人をのけ者にしようとしたという被害者意識に根付いているかもしれない。日本の民主党政権も同じような働きをした。つまり「改革」などと「かっこいいこと」をいって政治をやらせると「なにか大変なことが起こる」という単純化と被害者意識だ。

アメリカの選挙で赤と青の地図を見たことがある人がいるかもしれない。民主党と共和党で分かれているのだが、両岸にはリベラルな民主党地域が広がっており内陸部には共和党地域が広がる。アメリカ両海岸の人たちはオバマ政権のやっていることが理解できたのでそれほど恐怖心は持たなかった。しかし、内陸部の人たちはオバマが何をやっているか理解できず、被害者意識だけを募らせたのだろう。

オバマ政権の時代は、ちょうどリチャード・フロリダが都市と多様性の著作を出していた時期なので、繁栄する都市の人たちは変化を楽しみその果実を享受することができた。しかしながら内陸部の人たちは「ただ置いて行かれる」と感じてしまったのだ。

では、日本の「民主党地域」はどんな場所なのだろうか。今回は小選挙区で自民党以外の政党を選んだ地域を見て行きたい。特に立憲民主党は「日本で立憲主義が徹底されること」を目指している。これは「単に食べて行けるだけではなく、政治においても正義がなされることを望んでいる」ということになるだろう。

そこで、ネットにあった選挙区を区分けした白地図を党ごとに色分けをしてみた。かなり露骨に先進地域が分かる。なお確認はしたが間違いがあるかもしれないので、このサイトの引用は避けていただきたい。使ってもらっても構わないが間違いを含んでいるかもしれない。

まずは愛知県だ。愛知県は緑色の希望の党が豊田市を中心に広がっており、その近隣には無所属が勝った地域がある。豊田市の候補はもちろんトヨタの労組が押している候補者だった。さらに名古屋市の一部には立憲民主党が勝った地域がある。つまり、その他の地域が、自民党に期待する地域だということになる。

ここからわかるのは、トヨタのような優良企業があると人は団結し、さらに筋の通った政治を求めるということである。つまり、日本にトヨタのような安定した企業を作ってしまうと自民党にとっては不利なのである。ここから日本人が求めているのはアメリカのような変化ではなくさきの見通しということになるのではないだろうか。次は神奈川県である。こちらには日産自動車があるのだが、どういうわけか労働組合にはそれほどのプレゼンスはないようである。こちらは横浜の郊外と鎌倉市、藤沢市にかけて立憲民主党と無所属が勝った地域がある。ちなみに無所属で勝ったのは江田憲司さんだ。こうした地域は経済的に余裕があり家を建てられるような人たちが住んでいるのではないだろうか。つまり横浜市でもいわゆる「私鉄沿線」は非自民の人が多いということである。この地域には東京に通勤している人が多いものと思われる。ここも先進地域のようだ。川崎市北部では希望の党が勝っている。

ちなみに関東南部で固まって非自民党地域があるのはここだけである。後の例外は船橋市(野田佳彦)と旧大宮市(枝野幸男)である。

千葉市の中心部も非自民党地区だったが、候補者が希望の党に「寝返り」自民党に惜敗した。千葉市には美浜区という東京に通う人たちが集まる高層マンションが集まった区域があるのだが、多分この地域を中心に「小池さんは信用できない」という批判が多かったのではないだろうか。いずれにせよ不安定化するとリベラル地域は減るのである。一方、中央区には大手の地元企業がある。今回自民党候補者は逆に得票数を伸ばしていた。不安になると自民党への依存が増えるのだろう。

ここから少しばかり見えてくるのは、自民党への依存は必ずしも経済指標と連動しているのではなく、先の見込みに関連しているのではないかという仮説である。つまり、不安を煽れば煽るほど自民党にとっては有利なのではないだろうか。

さて、ここまで「裕福な地域ほど立憲民主党と無所属が勝つ可能性がある」という乱暴な仮説を立ててみたのだが、これは東京でも成り立っている。違っているのは都心部であっても立憲民主党が強かったという点である。この地域はかなり所得が高い人でないと住めない。さらに渋谷区、世田谷区北部などでも勝っている。武蔵野市も東京に近くやや高級と見なされている。ここでは菅直人氏が勝っている。

緑が一つだけあるがここで勝ったのは長島昭久さんだ。かなり保守寄りの人で近郊エリアでは保守の人のほうが勝てるということなのではないかと思われる。

ここから神奈川県を振り返ると、東京のように経済が安定している地域とのつながりが多い地域はリベラル化しやすいということだ。が東京の東部には自民党地域が広がっている。かなり露骨に大企業や優良企業ほど非自民化しやすいということがわかる。

どうしてこのようなことが起こるのかはわからないが、旧来型の製造業やサービス業大手が強い地域では終身雇用が比較的に守られているのではないかと考えられる。すると、自民党型の政治にしがみつく必要がないので変化に傾きやすいという仮説が立てられる。

もちろん、都市部は浮動票が多いという仮説も成り立つ。しかし、浮動票は東京全体に広がっているはずだ。「草の根リベラルが正義を貫くために立憲民主党を応援した」という仮説はどうも立てにくい。そういう側面もあったかもしれないが、安定している地域ほど自民党に依存しなくても済むと考えたほうがわかりやすいのである。

日本の特徴は地域の経済圏ではなく、企業がリベラルさを支えているということである。日本ではリベラルさに耐えられる企業は東京の都心と愛知県の東部(つまりトヨタ自動車のことである)以外には残っていないのではないかと考えられる。例えばパナソニックはかつては裾野の広い会社だったのだろうが、大阪で大したプレゼンスはない。

大阪では京都に近い二地域で非自民が勝っており、南部(堺市の南と和泉地域)では維新の党が勝っている。都市があまりにも貧しくなってしまうとポピュリズムに走るのではないかと考えられるが、日本人はポピュリストの無責任な約束にはかなり慎重な立場を示すようだ。泉南地域以外では維新の党に騙される人はおらず、従って支持は広がらなかった。

多分、日本人が抱えているのは「漠然とした不安」だ。特に目立った問題があるというわけではないがなんとなく不安なので政治について考えたくないか、変化を起こして欲しくないと考えるのだ。こうした不安は若年層の方が強く、従って若年層の方が自民党支持率が高い。高齢である程度経済力がある人は「立憲民主党のような贅沢」を支持する余裕があると考えられるわけである。

こうした行為を「しがみつき」と呼びたい。しがみつきが起こるのは変化に対する恐怖心なので改革という言葉を使ってもいいが「誰か他の人が変わるのであなたは変わらなくてもよい」というメッセージにする必要がある。もはや変革に疲れているので、これ以上「変わって下さい」などとは言ってはいけないのだ。

しかしながら、このためには犠牲になる地域が出てくる。つまりゴミ箱のようにして矛盾を捨てる必要がある地域があるのである。不安が具体化すると今度は離反が起こる。今回、非都市型で自民党から離反したのが原発を抱えて「第二の福島」になりかねない新潟県と基地を抱える沖縄県である。不安が具現化すると今度は自民党に対する拒絶意識が出てくる。

つまり、自民党は国民が勝手に漠然とした不安を抱えている限りは政権政党でいられるということになる。ゆえに日本人は全体として財政再建が進まないし、企業が新陳代謝を起こすことがない政治を洗濯している。つまり、民意は社会の緩慢な死を選んでいるのだ。

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