ムガール朝のムガールがモンゴルだと聞いて驚いたという話の続き。ここで気になったのがジンギス・カンがどれくらいかけてモンゴルからイランあたりまでたどり着いたのかということだった。感覚的には10年くらいかけないと歩いてたどり着けないような気がするのだが、実際には数年で到達しているのだという。よく考えてみると国境検問所などもなく、イギリス人が持ち込んだ武器によって周囲の治安が極端に不安定化しているということもないわけだから、昔の方が旅行がしやすかったことになる。ちょっと複雑な気がする。
歩いて行くのは難しいのだろうが、馬を使うと意外と簡単にいけるということだ。しかしながらジンギスカンが走った土地は決して見知らぬ土地ではなかった。なぜならばそもそも人類は西から歩いてモンゴルまで到達しているはずだからである。
途中で騎馬技術を身につけたのではと思えるのだが、農業が始まったのは23,000年前ごろの話らしい。さらに、牧畜は農業に付随して始まったようなので、当時の人たちが馬に乗って前進したとは考えにくい。
モンゴルが中央アジアを支配するのはかなり簡単だったようである。あまりにもあっけなく征服で来てしまったので勢い余った人たちが各地で暴れまわったという話がある。モンゴル人が現地の人たちが持っていない優位性を持っていたということになるのだろう。
そんなに簡単に行き来できるのだったら、アフリカを出てからモンゴルや中国にくるのも簡単だったのではないか。そこで「アダムの旅」という本を読んでみた。現代では遺伝子解析から人類がどのように広がっていったのかということはおおよそわかるのだそうである。この本はY染色体(つまり男性側)からみた広がりについて書いてある。
50,000年前にアフリカを出た人たちは複数の経路をへて東へと向かった。もっとも早い集団は海沿いを伝ってオーストラリアまで出て行く。海産物を追いかけているうちにオーストラリア近辺までたどり着いたわけである。いわゆるアボリジニやパプアニューギニアの原住民などはこの系統だと考えられる。彼らは今でも狩猟・採集に依存した生活をしている。これは農業が始まる前にホモサピエンスが広がり始めた証拠になるのだという。
もう一つの系統は45000年前にアラビア半島へ進出しそこでヨーロッパに向かった人たちとイランに別れた。イランからインドに進出した人たちと北に向かった人たちがいる。また、35000年前には狭いルートを通って中国に進出していった人たちがいた。ここで進路が別れたのは天山山脈などに阻まれて東進が難しかったからだそうである。
この本の中にジュンガルギャップという言葉が出てくる。キルギスとタジキスタンのあたりは山になっているのだが、雪解け水が谷に溜まった湖が点在している。急峻な山道を越えて湖を伝って行くと、現在は中国領になっているカラマイという街に行き着く。この辺りがジュンガル盆地と呼ばれているので、これをジュンガルギャップと呼んでいるのだろと思われる。ここを越えてゆくとやがて米の農業に向いた温暖な地にたどり着くわけだが、確かによほどの物好きではないとここに到達するのはあまり容易ではなさそうだと思える。
現在農業の最も古い遺構は23000年ほど前のイスラエルで見つかっているらしい。すなわち人間はしばらくは獲物を狩るためだけに広がっていったことになる。牧畜も農業に伴って発達したようだ。
アフリカには食べ物が豊富にあったためにわざわざ定住して農業などというしんどいことをする必要はなかった。環境が変わるかあるいは食べ物があまりない土地に行き着いたからこそ腰を据えて農業を行う必要があったことになる。そもそも、サハラの環境が悪化したことにより獲物が少なくなったからこそ新世界へと広がる必要があったことになる。その後砂漠化が進行すると今度はサハラは障壁になってしまう。
いったん中央アジアに止まった人たちの中には30000年前にヨーロッパに向けて西進した人たちととシベリアに行った人たちがいたようである。シベリアに行った人たちは寒さに耐えることを覚えた。シベリアは寒いがマンモスなどの大きな哺乳動物がおり、いったん獲物を仕留めればそのあとは比較的楽に過ごすことができる。このシベリアに行った人たちの顔は寒冷地適応のために平たくなりいわゆるアジア人っぽい顔つきになった。最後のマンモスは紀元前1700年ごろに北極海上の島で狩猟されたという説があるそうだ。人間が狩りつくしたか、一緒に連れてきた家畜からの伝染病がうつって滅びたという説が有力だそうだ。
人類は気候が悪くなって獲物が取れなくなると遠くに出かける必要が出てくる。しかしながら、気候が良いからこそ移動ができる。そして気候がまた悪くなり砂漠化や寒冷化が進むとその場所に閉じ込められる。こうして広がったり孤立したりを繰り返しているうちに「人種」が固定したのだろうと考えられているようだ。
気候変動によって孤立したり定住が起きると集団が生まれる。それがある程度のまとまりをつくると同じような言葉を話すまとまりが作られる。一方で、いったん狩猟採集を捨てて農業を覚えた後で、さらに移動しながら遊牧をするようになった人々もいる。彼らは遊牧で移動しながら、ユーラシアの東西で生まれた発明や技術を別の地域に持ち込んだ。
例えばモンゴル人が中央アジアを席巻した時には乗馬と製鉄技術を持っていたのだが、製鉄技術はもともと小アジアのヒッタイトで生まれたものだと考えられているそうだ。もともとは国家で秘密裏に管理していたのだが、国家が衰退して周辺国に広がった。これが中央アジアを経てモンゴルまで伝わったということは、この頃に遠距離を移動する技術と通商経路があったということになる。逆に火薬は中国から西に伝えられたようだ。これも短い間にヨーロッパにまで広がったと考えられる。
人類の移動を阻んだのは山脈や裁くだけではなかった。ヨーロッパにホモ・サピエンスが入るには時間がかかったが、いったん中央アジアで農耕などの技術を蓄積した後で進出しているということはなんらかの地理的ではない障壁があったからである。本の中にはネアンデルタール人との競合について書かれている。
こうした人類の足跡は遺伝子によってたどることができるのだが、ある程度言語とも関連があるそうである。例えば、いったん中央アジアからヨーロッパに行った人たちが話しているのがいわゆるインド・ヨーロッパ語族である。一方で、ヨーロッパには少数ながら孤立する言語を話す人たちが残っている。例えばイベリア半島にはバスク人がおり、ジョージアの険しい山脈の南北にはコーカサス諸語を話す人たちがいる。海を伝ってパプアニューギニアやオーストラリアに渡った人たちは少人数だけが理解できるお互いにあまり系統だっていない諸言語を話す。どちらかといえば後から集団で渡った人たちは系統だった言葉を話し、先に行った人たちは孤立している言語を話している。面白いことに孤立した言語を話す人たちの集団はそれほど大きくならない。「国」のようなまとまりを作るためにはある程度大型の農業を通じて社会を形成する必要があるからだろう。
さらにモンゴル人やトルコ人は定住地を持たなかったのでインド・ヨーロッパ語族の人たちとは違った民族的な広がりを持っている。例えばトルコ系の言語はアナトリアから新疆ウィグル自治区にまで広がっているが比較的お互いの意思疎通が簡単なようだ。これが文化を繰り返してお互いに意思疎通ができなくなったインド・ヨーロッパ語族とは異なっている。
日本というのはまた別の意味で極めて特殊なようだ。北方、東方、南方経由でアジアにやってきた人たちが最後に集まるのが日本列島である。その人たちが話す言語もバラバラだったはずだ。しかしながら、現在日本列島には語族は二つしかなく、大多数は日本語族のいずれかの言語を話す。こうした雑多な人たちがお互いの要素をなんとなく許容したままで溶解してあたかも一つの民族のように振る舞うようになった。
一方で、大規模な農業経験を持たなかったアイヌの人たちはどの語族とも関係性が見つからない孤立した言語を話し、小さなコミュニティにわかれて住んでいた。サハリンにはニブフというこれもまた孤立した言語を話す人たちが住んでいる。