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自民党が勝ち続ける理由

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今回のお話は自民党政治を支える二つの原動力について考える。一つは正統への憧れであり、もう一つは成果へのこだわりだ。民主主義は他者との絶え間ない接触から生まれた政体だが、日本人は日本列島という孤立した空間で育まれた独特の感性を持っている。そこですでに賞味期限が切れた権力体が生き残りやすい土壌がある。この二つの感性を克服できれば自民党政治を終わらせることができるのかもしれないが、現在の状況を見ているとそれは無理なようである。従って、政治は全体に腐敗したままでそのまま継続することになるだろう。

まず手始めに見て行きたいのが、リベラルと保守という言葉の混乱である。

リベラルと保守という言葉が日本では違う意味で使われているようだ。リベラルは優しいとか包摂的だという意味で捉えられているようで、本来の「政府からの自由」というような意味合いはなさそうである。だがよく観察するとそれとは別の意味で使われることがある。どちらかといえば蔑称である。それとは逆に新しさの意味で使われたりしている。若い人たちは共産党や社民党を保守と捉え、その対極にある自民党や維新をリベラルだと思っているという調査がある。この場合のリベラルは単に新しいという意味なのではないだろうか。

一方、私は保守だという場合それは「正統である」という意味で使われているようである。こちらも人によって全く別の意味で使われることになる。なぜならば何が正しいかは人によって違っているからである。さらに、とにかく自分は正統だということをいいたいだけで「保守」を使う人もいる。最近では漫画家の小林よしのりが「わしは保守だ」と言っているのだが、この人はいろいろな政党を応援しては見限っているので、自分こそが正統だという意味合いしかないのだろう。一方、共産党が保守だという人たちは、単に漢字に引きずられているだけかもしれない。確かに非合法時代を含めると共産党は日本で一番古い政党である。

このことからわかるのは、そもそも日本人は西洋の政治形態を輸入してきたために、政治を表す言葉と実感の間に絶望的な乖離があるということである。このため用語一つとってもまるでバベルの塔に住んでいるかのように分断されている。

では、日本人が捉える政体とはどのように分類されているのだろうか。これは誤用されている保守という言葉を見ればわかる。

日本人が考える保守は「正しい」というような意味なのだが、この言葉には2つの意味に分解できるように思える。一つは男性的な価値観だ。つまり居心地の良さや優しさよりも競争と強さを好むという指向性である。次に不確実性の問題がある。日本人は不確実で先が読めない状態が嫌いだ。前者を取ると日本人は男性らしい競争的な状態を「正しい」と考え、後者を取ると日本人は成果が出ていて実績がある人たちを正しいと考えるということになる。実際にはこれらが交わった点に保守がある。闘争的でかつて成果を上げていたアプローチが正道保守なのである。

自民党は高度経済成長期の政権政党だったので、これをもってして成功実績だと考えられているのだろう。そのあとに経済的な不調が続き、これに代わる正解がでなかった。だから自民党以外に成果を上げた政党がない。こうした見方は若い人たちに顕著で、自民党は若年層から支持されているそうだ。一方で高度経済成長期を過ごした人たちは自民党の内部が腐敗混乱していても経済が勝手に好成績を上げていた時代を知っているので、特に自民党と成功体験を結び付けないのだろう。

この「正統性」は過去の政権交代が起きた時の首班を見るとよくわかる。周囲から担がれた(つまり選挙で選ばれたわけではない)村山富市を除いてすべてお殿様か自民党の人である。細川護煕、羽田孜、鳩山由紀夫などがこれにあたる。つまり、日本人は自民党が組織としてボロボロになっても新しいアイディアや組織を信頼することはなく、中から再生されることを望むのである。

小池百合子はその意味では「正しい」政治家だった。もともとはよそ者だったのだが男性的価値観をことさらに表に出すことで主流派に潜りこんだ。しかし、やはりよそものだったので、東京都連内部では冷遇されており、ほとんど意見が聞き入れられることがなかったようである。そこで、女性たちに「男性的社会で成功を収めた女性」という価値観を振りまくことで、東京都知事選挙で風を起こした。

若い人は高度経済成長期の復活を望んでおりそれを再現するのは自民党だと信じている。同じように女性は日本社会で成功するためには男性的な価値観を身につけなければならないと感じていて、ことさら男性的な女性を崇拝するのである。

だから、民進党の蓮舫元代表は「間違った」政治家であったことになる。第一に自民党出身ではなく、父親は台湾人だった。さらに女性らしい美しさを持っていて、国会でファッション写真のような写真を撮影させたりしていた。さらに双子の母親であるということが広く知られていた。こうしたことはすべて男性だけでなく女性からも「間違っている」と考えられる要素になる。ゆえに彼女がいくら「自分は保守政治家だ」などと言ってみても信じてはもらえない。

同じように野田聖子も母親になりたがったことで「女々しい女だ」とか「総理候補にはふさわしくない」と言われるようになった。母性というのは女性が社会的に成功するためには排除されなければならない属性なのである。だから皮肉なことだが、マスコミや広告代理店に入った女性が過労死する事例が散見される。女性はもともと弱い存在なのでそれだけでは成功し得ない。だから、死ぬまで働かなければ認めてもらえないと感じてしまうのではないだろうか。

この正統性の希求は対立軸を疲弊させる方向に働いている。希望の党を見ているとそのことがよくわかる。民進党は「正統」ではなく、支持が得られなかった。もともとは正統である鳩山由紀夫を追い出してしまったからである。鳩山は正統にしては包摂的すぎた。これは競争社会の否定であり「間違った弱々しい」主張である。だから追い出された。しかし、結局非自民党の人たちが正統性を認められることはなかった。「市民活動家上がり」の菅直人も「財務省に丸め込まれた」野田佳彦もシンボルとしては不十分だったのである。

彼らは自分たちに政策立案能力がないから支持が得られないのだろうなどとは考えなかった。実は彼らも正統性への強いこだわりがあったからである。そこで「外から首相候補を擁立すべきだ」などという論がまかりとおることになった。彼らが期待したのは小沢一郎と小池百合子だった。

だが、小池百合子も小沢一郎も「正しさ」とは縁遠い。どちらも党派で集団的な意思決定ができないから自民党にいられなかった人である。最初のうちは期待されるがどちらも「壊し屋」であるという評価が出てきて自滅してしまう。このように対立する軸がでてこないからこそ、自民党は安泰なのである。

一方で、立憲民主党を支える人たちも正統さへのこだわりを持っている。彼らはさらに屈折している。本当は競争者意識を捨てられないのだが、競争に負けかけているという実感を持っている。だからこそ「あなたこそ本当の勝者なのですよ」などと言われると「涙を流して」しまうのだろう。

だが冷静に考えてみると、彼らは主流派ではないがゆえに被害者意識を持っているわけだ。主流派でないのだから、彼らの主張が他人への共感を広げることはないだろう。つねに1/3程度は鬱屈した気持ちを抱えながら政治への恨みごととつぶやくことになる。

このことから日本人は政治家を政策ではなく「正しさに属しているか」ということで判断する。これは結果に対する評価なので将来がどうなるかということはわからない。さらに新しいアイディアは排除されてしまうので、既存のアイディアが役に立たなくなっても新しいアイディアを試すことはない。

しかし日本人は現在のやり方が有効でないということには気がつかないだろう。例えば「日本人は競争への過度なこだわりがある」などと言っても誰も信じないはずだ。「他人に優しくしなさい」と言われて初めて戸惑いをみせるのだが、それでも決して自分が競争的であるということは認めようとしないだろう。

特にこれで苦しんでいるのが女性である。女性は優しくて居心地がよい状態を求めるものだが、それは「弱々しい」ことなのであまり認めたくない。そこで「男性的に闘争して企業社会で生き残る」か「女性として家で子供を育てるが、企業社会からは敗者として認定される」かという二律背反の状態に自分を追い込んでしまう。さらに「子供を持っているにもかかわらず幸せそうな」女性を電車で見かけると「勝ったつもりでいるのか」などと攻撃してしまうのである。

また、新しいアイディアを試せそうな若年の人たちも「高度経済成長こそが自分たちを救ってくれるのだ」と考えて、自民党を支持することになる。正統性に帰依することが魂の救済をもたらすからである。

さらに野党議員も自分たちの政策がより良いということを証明するよりも、自分たちこそが正統であるということを証明するのに躍起になっている。安倍政権の経済政策や労働政策は失敗していることがわかっているのだから、新しいアイディアを試せる土壌を作ればよいのだが、それがなされることはないだろう。野党議員は被害者意識を持っているが、反主流の学者たちに間にも被害者意識があり、正統性を希求してしまうからである。

だが、これは彼らの自発的な選択なので、これを咎めることはできない。つまり、自民党政権が続くのは仕方がないことだと結論付けることができる。結局は我々がこれを選択しているのである。

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