前回、懐風館高校の「髪染め事件」について見た。規則を守ることが優先されて本来の目的が完全に見失われているという状況だった。こういう状況は日本では珍しくないのだろう。多くの人が生徒の側に立ったコメントを出していた。
しかしながらもう少し詳しく見てみると政治が大きな影響を与えていることがわかる。それは政治への無関心が生み出した悲劇なのだが、ちょっと見ただけでは影響がわからない。さらにいったん崩れてしまったシステムを元に戻すのはとても難しい。ポピュリズムを未然に防ぐことが重要なのかがわかるのである。
なお、この件についてはまともな報道がない。そこで断片的な情報をつなぎ合わせることになる。評価のためには一人ひとりが何が起きているのかを調べる必要があるだろう。
マスコミがこの問題についてあまり取材をしないのでよくわからないのだが、口コミサイトなどを見ると「先生によって黒髪の基準が異なり」「判断基準がわからない」という声が多い。もともと何のために外見を揃えるのかがわからないのだから、その基準が曖昧になったとしても不思議ではない。加えて「先生同士で統制がとれておらず、それぞれ思い込みで指導している」様子が伺える。
こうした基準の曖昧さは「モラルの低下」を招いているように思える。別の生徒の指摘では「ある学年では窃盗が多かった」という情報があった。
つまり「とりあえず外見を取り繕わなければならないが、理由も基準もわからない」というのは「では、表向きは先生にへつらってあわせておけば裏では何をしてもよい」というメッセージになってしまうのである。
これはとても恐ろしいことだとは思うのだが、実はこの恐ろしさはなかなか伝わらないのではないかと思う。なぜならばこうした状況は日本では常態化しているからである。
例えば、ワークライフバランスをとるために残業時間を減らすべきだという目標は、オフィスのパソコンや照明を自動的に落とすという形式的な目標に還元される。だから無駄な作業を減らして労働時間そのものを削減するなどというような対策は取られない。結局、持ち帰りの仕事が増えて家に仕事を持ち帰るだけになってしまうというのがその一例である。
最近では国会でもとりあえず審議時間を長くすることによって「よく話し合った」と説明されることがある。これも何のために審議をするのかという目的が失われ、単に時間をかけることが議論だと見なされている。野党側は単に反対することが野党の存在意義なのだと考えるので、結果的に「あの法律の趣旨には賛成だったが法律の体裁が悪すぎる」などと言い出す人が出てきてしまう体たらくである。
さて、こうしたことが起こるのはなぜなのだろうかということを調べたところ意外なところで政治とつながった。どうやらモラルが崩壊する裏には維新の会の選挙公約と大阪府知事の教育への無関心があるようだ。
まず、公立高校が統廃合されたのはどうしてなのだろうか。それは、公立校の人気がなくなったからだ。公立高校に行かなくてもいいという空気が生まれたのは、私立高校への人気が高まったからだそうだ。私立高校に「無償」で行けるようになったため「経済的な理由で仕方なく公立を選ぶ」人が減ってしまったのである。
さらに、私立高校が枠を広げたので公立高校人気がなくなった。そこで偏差値45という学校で「度々定員が埋まらない」という状態が起きているのである。
そのため、公立高校では前期後期試験をなくしたようだ。こうすると「行きたい学校に行けなくなる」可能性が高まり、公立に「仕方なく止まる」人が増える。こういうやり方でしか公立高校に人をつなぎとめておけないほど、下位の公立高校には人気がない。
そこで口コミサイトを見ていると「施設が老朽化していて、お金の使い方が間違っているのでは」という声が複数見られた。
大阪は「本当だったら私立に行きたいが、お金の関係で仕方がなく公立」という人が多かったのだろう。南北格差があり、南部では公立が荒れているので私立人気が高いが、北部では公立が充実しているのでよい私立が育たなかったなどと書いているブログを見かけたりもした。
このブログでは無償化についてかなり否定的な議論が展開されている。どうやら、大阪の高校無償化制度はかなりの問題を含んでいるようである。もともと、補助金によってある程度の多様性を確保していたようだが、これが崩れてしまい「定員を大幅に増加させてでも生徒を確保した方がトク」ということになってしまったようだ。そうなると、講師を増やして増えた生徒に対応すればよいのだから、じっくりと腰を据えた教育がおろそかになる可能性が出てくるのだという。
さらにこういうつぶやきを見つけた。ブログの文章の中で「なぜ定員を少なく申告し、その結果として公立校に行けない人が出た」理由がわからなかったのだが、こういうことをやっているようだ。その危機感はかなりのものだ。つまり、学校がなくなれば生徒が受け入れ先を失ってしまう。さらに先生たちも選別されることになるだろう。正規職員はどこか別のところで雇ってもらえるかもしれないのだが、非正規の職員たちは「なんとかしなければ」と焦りを覚えるのではないだろうか。
維新が「三年連続で定員割れの高校は例外なく廃校」というめちゃくちゃな政策やってるんだけど、その実態は「定員200人で入学者180人」という感じ。「廃校にしたら、この180人はどうするのだ」という話に当然のようになってる。でも決めた方針だからと無理やり潰してる。おかしくなって当たり前。
— モン=モジモジ (@mojimoji_x) 2017年10月29日
どうしてこのようなことになったのか。共産党のウェブサイトはかなり批判的なトーンで橋下徹大阪府知事時代の政策を批判している。橋下さんは教育現場に自由主義を持ち込もうとした。本来ならいろいろなアプローチで魅力的な教育を提供できるようになるのが自由主義のはずだ。しかし、同時に無償化を提案してしまったために状況が混乱した。つまり、ただで行けるならできるだけ有利なところに行こうということになるのだが、その有利さが日本では「偏差値」という一つの尺度でしか計測されない。さらにリストラと予算削減を絡めたために「是が非でも生き残らなければならない」という競争が生まれたのだろう。
学区制も廃止されたようで競争が激化した。大阪の場合は兵庫県や京都府の私立などにも生徒が流れることがある。
競争が激化するのだからどうにかして生き残らなければならない。本来ならば先生が努力をして教育の質をあげるべきだろう。だが、日本ではそうはならない。外から見て良い生徒を育てているという風に「見せよう」としてしまうのである。今回のケースではたまたまそれが「みんな黒髪で制服の着方がきれい」というものだったのだろう。上位校の場合は家での教育が厳しい場合が多く、おのずとい外見が整うのでそれほどの指導はしなくてもよい。しかし、中位下位の学校ではそもそも家で勉強するというような生活態度も届きにくいだろうから、規則で押さえつけることで見た目を整えようとしたのではないだろうか。
教育の無償化が提案されたのは、維新の党が大阪で勢力を得るために提案した政策なのだろう。つまりポピュリズムである。しかしながら、なんらか別のところからお金を持ってくる必要があり、補助金を削減した。さらに学校全体のリストラ策も進行している。そうなると真っ先に切り捨てられるのは「学校は人を育てるところだ」という理念なのだろう。理念では食べて行けないからだ。
教育現場が混乱すると生き残りをかけた競争が始まるのだが、その競争は競争のための競争になる。最終的には「肌がボロボロになっても構わないから髪の毛を染めてこい」などという過剰な要求が生まれる。
この状況の恐ろしさはこうしたポピュリズムに人々が慣れていて「せっかくみんなが一生懸命にやっているのに和を乱すな」という人たちが大勢出てくるということだ。理屈は何でもよいので「サラリーマンはみんな地味な色のスーツを着ているのだから、学生も髪を染めるべきだ」などという論が横行する。
ポピュリズムの恐ろしさがわかる。
個人のブログなのでこのように断片的な情報でいろいろなことが書けるわけだが、実際にこれを改良するためにはこうした問題を一つひとつ証明して元に戻す必要がある。それは膨大な作業になるだろう。
今は大阪だけの問題だが、同じような議論は国政レベルでも行われている。大阪の場合は収支を改善して維新の実績を作るために教育が犠牲になったわけだが、国政の場合は民主主義に疲れた与党が憲法を改正するための「アメ」として教育無償化が話し合われている。
両者に共通するのは教育という未来への投資が、権力欲によって蹂躙されてしまうという姿である。あまり悲観的なことは書きたくないのだが、この国は本当にもうダメなのかもしれない。