ざっくり解説 時々深掘り

なぜおじいさんたちは何もしてくれなかったのかについて書残す未来への手紙

今日、政府が財政破綻宣言をした。思えば、問題が表面化してから坂道を転がり落ちるように今の状態になった。あとは「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」必要があるのだが、今の人たちはそんな言葉は知らないかもしれない。

若者の中には「なぜ、2000年代の初頭に何もしてくれなかったのか」などと書き込む人が多い。確かに今にして思えばその通りなのだが、その当時の状況を知っている身としては言い訳をさせてもらいたいと思ってこの手紙を書残すことにした。検索か何かで引っかかるかもしれない。

一言で言えば一人の人間ができることは少なく、仕方がなかったんだと言いたい。

日本人は無茶な戦争をして負けた。戦争に負けたのはとてもショックだったのだが、もっとショックだったのはアメリカが日本と戦争をしている間にも豊かだったということだった。そこで日本人はアメリカ人から質のいい品物を作る技術を学んで、一生懸命働いた。日本人はこの点はとても優秀で短い間に西ドイツを抜いて世界第2位の経済大国になった。戦争の前は5大国などと呼ばれており、実はそこそこ優秀な国だったのである。

しかし、そうやって稼げたのは都会だけだった。地方は取り残されて不満に思う人が出てきた。そこで自民党政権は都市で稼いだお金を地方にばらまくことにした。都会は豊かだったのでそれに疑問を持つ人はあまりいなかった。そうやって自民党は自由主義的な経済政策と大きな政府という保守・リベラル混合の政党になった。

やがて会社にお金が貯まってくると、人々は一生懸命に働かなくても土地や株を買えば儲けることができるということに気がついた。そして一生懸命に土地を買いあさり資産バブルが起きた。慌てた当局は通達を出して「あまり土地を買ってはいけませんよ」といった。すると、通達一つで資産バブルはあっさりしぼんでしまった。

怖くなった銀行は企業にお金を貸してくれなくなった。それどころか今持っているお金を引き上げようとした。だから、企業が銀行が信じられなくなったのは当然だ。その後景気が通常に戻ったが、企業は「正社員を抱えていてはいざという時に切れない」し「銀行は信頼できない」と思うようになった。一方有権者はなんとなく不安な気持ちになりその気持ちを政治家にぶつけた。

自民党には党派争いがあり「もう自民党では政権が取れないだろう」と思った人たちが外に出て新しい政権を作った。焦った自民党は長年の敵だった社会党を仲間に引き入れた。社会党はこの時に「政権に入るなら自衛隊は認めないと」といった。だが、これは長年社会党を支持してきた人たちにとっては裏切り行為だった。社会党は有権者から見捨てられ、小さくなった社会党は自民党から見捨てられた。名前を変えてみたがそれでも受け入れられず、大分県を地盤とする小さな政党になった。

しかし、もちろん自民党が信頼されたわけではなかった。そこで、小泉純一郎という人が「自民党を中からぶっ壊す」と言いだした。自民党には党派争いがあったので、小泉は相手陣営の支持母体を壊す必要があった。さらに小泉純一郎は政府が国民の生活をまる抱えするような政策はいつか行き詰まるだろうと考えていた。そこで特定郵便局が悪者になりそれを支援する自民党の党派は敵であるとしたのだ。

そんな茶番が通るのかと思えるのだが、有権者は細かい理屈はよくわからなかった。なんとなく「ああこの人たちのせいで俺たちは不安だったんだな」と思えたからだろう。郵政族は自民党にいられなくなり、小泉は人気の政治家として首相のキャリアを終えた。

しかし、このあとの行き詰まりの目はできていた。小泉がかりそめの改革を行ったため自民党の政治家は「いざとなったら演技すればいいんだ」と考えるようになった。さらに派遣労働者が解禁されて正社員制度が破壊された。当時の企業には「終身雇用で労働者の人生をまる抱えしたくない」という気持ちがあり、派遣労働は賃金の抑制に使われた。こうして消費は冷え込むようになってゆくが、当時の人たちは後世にそんな影響が出るなどとは考えなかった。

しかし、そのあとの人たちは続かなかった。小泉さんのように悪者を作って正義の味方を演じなかったからだ。これで嵐は過ぎ去ったと考えていたのか、緩みきった空気は元には戻らなかった。三代の首相が一年ごとに交代した。それが、安倍・福田・麻生だった。すべて、首相の子供や孫である。

そんな中で嵐がやってきた。まずヨーロッパとアメリカで金融バブルがはじけてものが売れなくなった。これは100年に一度の未曾有の危機だと言われた。しかし麻生首相は経済がわからずついでに漢字も読めなかった。「みぞうゆうのきき」などと言って、国民を大いに呆れさせた。足元では麻生を引き摺り下ろそうという動きがあり、身動きが取れず何の対策も取らなかった。

テレビでは連日自民党を批判する番組が盛り上がり、そんな中で活躍したのが自民党を追い出された人、自民党に入れなかった人、社会党から流れてきた人などだった。彼らが作ったのが民主党という乗り合いバスだ。大した主張があるわけではないが「自民党はくだらない」というのだけが、彼らの一致した主張だった。だが、テレビのショーを盛り上げるためにはそれで十分だった。

結局、民主党は寄せ集めの約束に「マニフェスト」という洒落た名前をつけて選挙に勝った。2009年だった。しかし、その政権は安定しなかった。さらに2011年には大地震が起こった。1000年に一度の地震なのだと言われたのだが、さらに国民を不安にしたのが原子力発電所の事故だった。

「未曾有の危機」の影響で株価はさがり、雇用も回復していなかった。国民は難しいことがわからないのでこれは民主党のせいだと思うようになった。放射性物質や中国が日本を攻撃しようとしているのを意図的に隠そうとしているのではと噂された。

結局、民主党のマニフェストは行き詰った。政権を取るために作った急ごしらえの約束で「ダメだったら謝ればいい」程度のものだったからだ。実際に野田首相が「ダメなので消費税をあげさせてくれ」といったことで大騒ぎになり、民主党の政権は3年で終わった。

不幸だったのは、自民党がまったく反省をしなかったということだった。彼らは逆ギレし「自民党が政権を追い出されたのはバカな有権者が天賦人権などをアメリカから与えられて浮かれているからだ」と結論付けて、それを憲法草案にぶつけた。さらに安倍晋三は「自分が政権を追い出されたのはどうしてだろう」と考えた。そこで「国民に本当のことをいったのがよくなかったのだ」と結論付けたようだった。

民主党政権が自爆し、経済も回復過程にあった。そこで自民党は政権を奪還した。そしてもう金輪際本当のことを言わないことを決めて「全部うまくいっているし、細かいことは気にしないでいいから任せてよ」ということに決めた。

国民はそれを歓迎した。バブルが崩壊してからこの時まで国民の生活はよくなっていなかった。いつも、漠然とした先行き不安があった。そしてどの政治家も「国民が変わらなければこの国はうまく行かない」と主張していて「そのための手伝いをさせてくれ」といっていた。しかし、国民はそんなメッセージが嫌いだった。自分たちが間違っているなどと認めたくなかったし、損を押し付けられるのも嫌だった。

今、明確に困っているわけではないのだが、どうやらこの先に大変なことが起こるらしいというのが大体の認識だった。だから国民が我慢して変わらなければなければならないのだという。ではいつまで我慢すればいいのか、国民にはわからない。それに貧乏な生活にも慣れ始めていた。ものを買わなくてもそれなりに楽しい生活は可能だし、海外旅行に行けなくても見た目が派手な食べ物の写真を自慢し合っていれば、そこそこ愉快な生活が送れるということがわかってしまったのである。

だから安倍晋三はこうした厳しい現実を言わないことにした。株価も安定した。デフレではない状況を作り出した。就職もよくなった。それはすべて安倍晋三がすでに問題を解決したからだ。国民は正しい選択をした。だから、もう何もしなくて良いと言ったのだ。

いったんついた嘘が受け入れられた安倍晋三はもう嘘が怖くなかった。憲法の解釈をごまかしても、GDP統計をいじっても、出口のなさそうな日銀の金融緩和を行ってももう怖くない。なぜならばそれが国民が聞きたがっている声だからである。

一方、国民の側も改革が信じられなくなっていた。一度民主党政権でひどい目にあったと感じているからだ。細かい理屈は分からない。しかし、政権を変えるよりも今の政権が抱えている矛盾を見過ごす方が安全だと思うようになったのである。

確かにいろいろなデモは起きた。原子力発電所をすぐに止めろというデモもあったし、戦争法は嫌だというデモもあった。さらに、最低賃金をあげろというデモも行われた。でも、その運動は国民には広がらなかった。なぜならば国民は今困っているわけではないし、政治の難しいことはよくわからない。それにデモで騒ぐのは不愉快だ。政治はなんだか難しく、そしてとてつもなく厄介なものになっていった。デモをしていた人たちは特定の候補者を応援するのをやめて最後には「アベ政治を許さない」というステッカーだけが残った。

そんななか2017年に選挙があった。みんなはよく知っていると思うけれど、特区を使って仲間を優遇しようとした安倍晋三が自爆的に起こした意味のない解散だった。憲法学者がいうようにこれは憲法に書かれていない解散権の乱用だった。しかし、台風が日本を直撃したこともあり、改革に疲れていた有権者は対して関心を持たなかった。

その上、国民の支持が集まらないと考えて焦った民主党(この時には民進党という別の名前になっていたのだが)が分裂したり、東京都知事が立ち上げた政党がめちゃくちゃな政権公約を掲げたり、嘘つきや性格が破綻した人たちが「大阪ではうまくいっています」と叫んだりして、とてもまともに政権を担える人たちがいないような状況だった。改革は詐欺の手口だということにみんな気がついていた。まともに政策を立案する能力は残っておらず、どうやったら国民に振り向いてもらえるかということを考えるだけで精一杯だったのだ。

そういうわけで、当時の国民は問題解決をするためには何もしなかった。今のみんなから見ると「破綻は確実なのに、なぜあの時にまともな議論をしてくれなかったんだ」と思うかもしれない。確かに、今振り返ってみるとなぜ真面目に議論しなかったのかよくわからない。しかし、その時にはそういう空気があり「仕方がなかったんだ」としか言えない。

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です