ざっくり解説 時々深掘り

宗教と民主主義に関するやや長い雑感

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先日インドの写真を整理していたとき、ムガル朝について勉強した。デリー近郊にある遺構はほとんどがイスラム教のものなのだが、インドの今の宗教はイスラム教ではない。調べてわかったのはムガル朝はもともとモンゴルの系統だったのだが、途中でイスラム化・トルコ化した。さらに二代目がペルシャの庇護を求めた時にシーア派に転向した。シーア派はどちらかといえば非アラブ系のイスラム教であり、現地の宗教と混合している。ムガル朝にはこのような背景があるので、現地の非イスラムの人たちとうまくやっていけていた。

しかし、この平和はアウラングゼブ帝の時に崩壊する。アウラングゼブ帝はスンニ派だったからである。なぜスンニ派になったのかはわからないのだが、現在のパキスタンとインドのイスラム教はスンニ派地域になったようである。非イスラム教徒に再び課税したために反乱が起こり、そのあとムガル帝国は崩壊に向かうことになった。

ムガル帝国が外来勢力だった。つまり、支配者層はトルコ系のイスラム教徒だったのだが、被支配者層はペルシャあたりからやってきたアーリア人と南インド系のドラビダ人だった。今でもインドには多様な人たちがおり、民族と身分制度がごっちゃになった国に住んでいる。色が白い人が色の黒い人たちを差別するような世界である。だからインド人には「民族」という概念が薄く、同じ言語を持った共同体という意識が強い。つまり、純粋なインド人という人はおらず、多民族国家だなどと言われる。

しかし、この多民族国家という概念そのものが後になって「捏造」されたものである。

王朝では支配者と被支配者の民族や人種が違っている状態は珍しくない。例えばエジプトのプトレマイオス朝はマケドニア人というギリシャ系の一派だった。この人たちは現地の宗教と自分たちの宗教を混合して「セラピス」という宗教を作ったという。多神教なのでいくつかの神を同時にまとめることができたのだろう。神は今のような創造神ではなく、どちらかといえば民族のトーテムのようなものだったと考えられる。

ムガル朝もとプトレマイオス朝の共通点は民族的に孤立していたがゆえに肉親同士が殺しあっていた。支配者たちのコミュニティが小さかったので、争いが激化したのだろうと考えられる。プトレマイオス朝はお互いが殺しあったために最終的にローマに介入されて滅びた。

なぜ、孤立した王家がお互いに殺しあうのか。例えば朝鮮民主主義人民共和国には人民から選ばれたのではない<王家>が君臨している。彼らは支配している人たちと同じ顔をしており同じ言葉を喋っているが、ソ連の後ろ盾で権力を奪取したという意味ではよそのものであり、したがって国民を信頼することができない。ゆえに一族だけを信じることになるのだが、どういうわけか孤立を深め兄弟を殺したり叔父を殺したりしている。

彼らがムガル朝と違っているのは、宗教の代わりにイデオロギーを掲げているという点だ。もともとイギリスに発祥した宗教である共産主義を改訂して主体思想というものを作り、金日成を教祖としている。もともと日本と戦っていると噂されていた老将軍の名前をソ連が利用したとされているそうである。

日本の宗教も現地の神々と外来の神々を混合させたものだと考えられる。天皇家は多分よそからやってきた人たちなのだが、これが現地の神々と協力して国を治めることになったことになっている。猿田彦というのが現地の神の代表で、彼らが天孫と呼ばれる人たちを手引きしたのだと伝えられるのがその証拠である。その後も出雲系の神が残ったが、彼らは死者の国を治めることにして、現世は天孫系の人たちに譲ったなどとされている。日本は多神教の世界である。我々を日本人と呼ぶにしても大和民族と呼ぶにしても、それは現地人と外来支配者の混合体だろう。

支配者と被支配者は違った人種の人であるという国はヨーロッパにもある。イギリスの今の王家はドイツ系だし、もともとはフランスからきた人たちが治めていた。ノルウェーも王様をフランスから迎え入れたのだし、スペインのハプスブルク家もよそからやってきた人たちである。ただし、彼らは神様を混合して自分たちのオリジナルの宗教を作ったりはしていなかった。彼らを結びつけているのがキリスト教だ。ローマは一族統治でないがゆえに王権が滅びなかった。しかし、多言語・多宗教世界だったために共通の価値観が必要になる。そこで目をつけたのがキリスト教でだったのだろう。最終的にキリスト教の権威であるローマ法王が王権を認めることにより正統性を獲得するという政治形態が広まった。それでも、戦争そのものはなくならなかった。

インドの例をみるとわかるように、そもそも民族という形態は後から生まれたものだ。第一、同じ言語を話すからといって同じ人種であるという保証にはならない。アメリカ人が英語を話すからといって全部同じ人種ですとは言えないし、ブラジルでポルトガル語が流通しているからといって日系ブラジル人は白人にはならない。例えば、東ヨーロッパではドイツ系の人たちが現地のスラブ系を支配するという社会があった。例えばバルト海沿岸にはバルト・ドイツ人と呼ばれるドイツ語話者の集団がおり、エストニアとリトアニアでエリート層を形成していた。つまり、ヨーロッパもかつてはインドと同じような多民族社会だったわけである。ドイツ人という意識は後から作られたものである。

しかしながら、ヨーロッパでは民族という概念が発明され、これが主権国家を形成する要件であるというような主張が生まれる。これは自明のものではない。一種のイデオロギーだ。

一説にはフランスが革命を起こしフランス民衆が自決する過程で民族主義というイデオロギーが生まれたとされているそうである。これをナショナリズムというようだ。ナポレオンがヨーロッパを席巻したとき、彼が率いた軍隊によってナショナリズムが各地に広まった。その後ナポレオンが失脚したのでウィーン体制が作られたが、ナポレオンが植え付けたナショナリズムはなくならず「諸国民の春」を経てヨーロッパに広がったとされているそうだ。この一連の出来事を1848年革命と呼んでいるということである。これがオスマン帝国やオーストリア・ハンガリーの領域にも広がったとされている。

民族という概念は人々をまとめ上げるための仲立ちとしても働くのだが、同時に排他性も持つ。例えばドイツ語話者はなかなか「ドイツ人性」を持てなかったのでユダヤ人という明らかに違っている人たちを持ち出してそれを強化しようとした。その結果起きたのが600万人以上が殺されるという事態である。ヒトラーはバルト・ドイツ人が支配していた領域ももともと「ドイツ人の土地だ」などといったのだが、これは明らかな錯誤である。なぜならば当時はドイツ人などという概念もなければ、ある民族が一定の領域を支配すべきだなどという考え方もなかったからである。

民族という発明が人殺しに利用されたこともあった。例えばルワンダではヨーロッパ系の人たちが現地人を背の高い人たちと低い人たちにわけて、それぞれ別の民族だとした。彼らには対立意識が残り、最終的にラジオからのプロパガンダに先導されてお互いに殺しあうことになった。1994年の100日間で50万人から100万人が殺された。ルワンダでは民族という考え方は疫病そのものだった。

民族というのは厄介な概念なのだが、かといって宗教に戻ることもできない。そこで、民主主義という価値観で結ばれていると考えている人たちが一つにまとまるようになった。これがイデオロギだ。資源を共有し市場を一つにすれば共存共栄できる。これがいわゆる「価値観を一つにした人たちの集まり」ということになる。

しかし、面白いことに民主主義はいつも正常に機能するとは限らない。スペインではカタルーニャの人たちが独立すると言っている。民主的に意思決定されると彼らの富が収奪されてしまうからである。ヨーロッパは同じ言葉を持つ人たちが集まりを作ったはずなのだが、域内には有色人種が流れ込み言葉を獲得しても差別されたりする。さらに少数派と呼ばれる人たちが必ずできるので、厳密に分割してゆくと混乱が生じることになる。こうしたことが起こるのは「民族国家」という概念が実は人工的なまとまりによって設定されているからなのではないだろうか。

いずれにせよ、民族国家という概念があるせいで、多民族国家という概念も生じるのだが、実はこれもイデオロギーの一種であると考えられる。実はさまざまなものを国をまとめる原理として利用できる。言葉や見た目はその一つに過ぎないということになるだろう。大切なのはこうした原理はすべて人工的に作られたものであり、意図的に努力しないと一瞬で崩れ去ってしまうということである。

日本にはまず同じ見た目の人たちが同じ言葉を話しているという意識があり、ここから民族という概念が作られた。さらに、それを強化するためには教義が必要であるということになり宗教が再編成された。戦後には民主主義が輸入されそれが宗教のように利用されてきた。

この宗教を支えていたのは善意ではなく経済的な発展だった。経済が発展しているからこそ再分配ができたのである。しかし、再分配ができなくなると新しい統合原理が必要になる。今目立っているのは民族を再利用して国民を統合させようとしている人たちなのだが、やがては敵を必要とすることになるだろう。

今の政権を信頼している人たちを見ていると、特に景気の回復を実感しているわけではないが「とにかく日本人なのだから政府を信頼してやって行かなければならない」と信じており、なおかつ「北朝鮮には制裁を加えるべきだ」と考えているようだ。この人たちの期待が守られるかどうかは、実は為政者がこの人たちを「仲間だ」と考えているかどうかにかかっている。70年前の戦争では日本人というのは戦争のコマのようなものであり、利用された挙句餓死させられた。

一方、民主主義がまだまともに機能していた時代の人たちも残っている。彼らは同じような体制が続くことを望んでおり、最近では言葉を変えて「立憲主義」などと言われているようである。立憲主義が機能するためには、人々が「よりよい社会を一緒に作ってゆくのだ」という目的意識が必要だが、これが見つけられるのかということがよくわからない。そもそも立憲主義の人たちの話を聞いていると言っていることは再分配の議論なので、必ずしも法が守られることと実際の期待が同一かどうかはわからない。

しかし、どちらも人工物に過ぎないので、危ういバランスが崩れてしまうと国というまとまりは一瞬にして崩壊してしまうのかもしれない。

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