しばらく選挙戦では「誰が気に入らない」というような話が続くだろうから、あまり人気がなさそうな話題を取り上げて行きたい。その一つが地方分権である。地方分権議論を見ていると日本人が長い間に自分たちの国の有り様を設計できなくなっているということがわかる。この人たちが一生懸命に自主憲法の制定をやりたがっているのだから、身の程知らずというのは恐ろしいものだなと思う。
地方分権が最初に議論されたのは小泉政権下だった。資産バブルが崩壊し人口も減少するだろうという予測があったので、小泉政権では小さな政府構想が推進された。のちに一連の政策は、強いものだけが生き残る新自由主義と批判されることになる。
小泉政権が地方分権を言い出したのは、地方交付税交付金がまかないきれなくなるだろうという予想があったからだろう。しかし、小泉政権は税源の移譲を十分に行わずに交付金を削減しようとしたために、地方がこれに警戒感を示した。結局、三位一体の改革と言われたリフォームプランは頓挫し、平成の大合併という市町村合併だけが推進されることになった。つまり地方自治体の数を減らせば議員や庁舎が減らせるから経費が削減できるだろうというようなプランに矮小化されてしまったのだ。
しかし、日本人が全て建設的な制度設計ができないというわけでもない。この頃から大前研一が道州制を推進し始めた。日本をアメリカのような州に分割した上で、分散型の国家にしようと考えたのではないかと思う。これに乗った政党が現在の日本維新の党である。しかし、維新の目論見もまた矮小化されてゆく。大阪に首都機能の一部を移転すれば、大阪が儲かるだろうという皮算用に変異していった。あるいは単に「東京が羨ましい」という気持ちを票に変えるだけのスローガンだったのかもしれない。最終的には東京の真似をして特別区を作れば大阪が繁栄するという単純化した議論に変わっていった。そのあとに聞こえてくるのは、病院を民間に変えたら事業者がいなくなったとか、公立の幼稚園が消えたというような話ばかりである。
大前研一の道州制論を読むと、行政単位をヨーロッパの国程度の大きさに分けた上で思い切った権限移譲をすべきだと提案していることがわかる。例えばリンクした記事では、九州をアジア経済のハブにするためは九州が独自で税制の制度設計ができるようになるべきだというような話が書かれている。
こうしたリージョン設計はアメリカでも主流の考え方だった。都市政策に興味を持っている人ならクリエイティブ都市論―創造性は居心地のよい場所を求めるは読んだことがあると思うのだが、書かれたのは2009年である。都市には産業生態系が作られるようになり、他地域よりも優位に立てるだろうというようは話である。これは州間・都市間で競い合うアメリカの地方制度が基本になっている。つまり、都市が競い合うことで複数の産業ハブができるだろうという構想だ。ヨーロッパにも複数のリージョンがあり、お互いに競い合っている。
ところがこの道州制の議論はうまく進まなかった。財務省は徴税権を手放したがらず、総務省は交付税の配分権限を手放したくなかった。地方も税源は欲しいが責任は負いたくないのでリスクをとって地方分権を進めようという機運は生まれなかった。さらに悲劇的なのは政治家が国家レベルの構想力を持たなくなってしまったことである。
この間の政治家の動きを見ていると「日米同盟を強化して世界に誇れるべき国を作るべきだ」などという主張が横行することがわかるのだが、この着想の元になっているのは第二次世界大戦前の列強が帝国域を競い合っている頃の世界モデルである。日米同盟に頼って高度経済成長を成し遂げ毛亭待ったので、70年の間彼等の世界観はアップデートされなかったのだろう。
結局、小泉政権の後継は政権維持に失敗してしまったため地方分権の議論は沙汰止みになり、次第に荘園型モデルに変質してゆくことになる。安倍政権の特区は許認可権限や徴税権を保持したままで地方に小さな特区を作ろうという試みなのだが、行政単位が小さすぎるのでヨーロッパの国家レベルの効果を挙げられないばかりか不正の温床になっている。加計学園問題も中期的な見方をすると意識変革の堕落と失敗の象徴と言えるのだが、有権者の頭の中にも都市間で競い合って成長競争をするというモデルがなく、単に「安倍首相はずるい」というような話に落ち着いてしまうのである。
この問題は解決したわけでもなく、かといって政権が放棄したわけでもないので、燠火がくすぶるように政権にとっては火種であり続けるだろう。さらに問題なのはいつまでたっても成長モデルが作れないということだろう。
この辺りに日本の難しさがある。一億人以上の人口を抱えており行政単位としては大きすぎるということが一つと、一度に一つのアイディアしか試せないという変革時間の遅さがある。例えば東京が独自に意思決定できれば東京の成功モデルが作れるかもしれないのだが、「国政に進出しなければ変革できない」と都知事に言わせてしまう背景がある。大阪や近畿圏も勝手に自分たちのアイディアを試してくれればいいのだが、東京に出てきて「大阪はうまく言っています」と嘘をつかなければならない。その中間にある名古屋は比較的おとなしい。トヨタ自動車を中心としたエコシステムができているので「この税金を自分たちだけで使えればなあ」と考えているわけである。
この道州制の議論の背景にあるのは、民主主義的な政体がどれくらいの大きさをひとつのまとまりにするのが効率的かという算術問題だ。計算はできないかもしれないが、経験的な数値は得られる。
一般に国が大きくなれば市場としては効率的になる。一つのルールで商売ができるからである。だが、意思決定は遅くなるので小さな単位にしたほうが生産性が増すという予想ができそうだ。
そこで、実際に一人当たりのGDPを上位30位分抜き出した上で産油国を取り除いた。こうして取り出したGDPと人口をプロットしてみた。
一つ目の成功例は、連邦制を採用した人口にまとまりのある国だ。アメリカ合衆国、ドイツ、オーストラリアがそれにあたる。アメリカは単独の市場を形成しており複数の州が参加するという形になっている。ドイツはそれ自体が連邦だがさらにEUに加盟しておりこれが市場になっているという具合である。オーストラリアも連邦だが単一市場としては数億人の単位がない。そこでアジアでの連携を模索している。
次のまとまりが一千万人から五百万人程度の国や地域だ。ヨーロッパにはこのような国が多く、香港とマカオは中国経済圏に組み込まれている。これらの国はアメリカでいう州のような恩恵を受けていると言えるだろう。イスラエルやニュージーランドのように数億人規模の経済圏と切り離された国も入っている。例外はリヒテンシュタインだが金融のハブになっているようである。リヒテンシュタインの人口規模は都市レベルだ。
最後のまとまりが中央集権が進んでいる国家群である。イギリス、フランス、スペイン、イタリア、日本などがこれにあたる。
このうちイタリアとスペインには分離運動がある。スペインはカタルーニャ地方がGDPの20%を占めているそうだが、スペインの他の地域に税金が使われるのが許せないという声があるようである。カタルーニャはスペインで唯一産業革命が成功した地域だが、国の全域にその動きが波及することはなかったようだ。同じようにイタリアも北部は工業化が成功しているものの南部がお荷物になっている。
ヨーロッパは単一市場があるのだが、単一市場の中央にあるフランスを除いてこうした分離運動が起きているのは偶然ではないかもしれない。
日本はこの中でとても中途半端な位置にある。一億人以上の人口がありながら単一の行政単位だ。このため身動きが取れない上に、都市の稼ぎを地方が吸い取るという状態が続いている。だが、日本ではこのことに対して不満が出ない。国の借金が制限されていないために「稼いだぶんしか使えない」という制限がないからだろう。もし、日本がヨーロッパと同じ基準でしか財政支出できなければ、政府支出は6割程度に抑えなければならないはずなので、暴動や分離運動が起こるかもしれない。日本は国民が蓄えた貯金を国があたかも税金のように支出することで、なんとか破綻を先延ばしにしている状態だと言える。
自民党は憲法改正を主なアジェンダとして挙げているのだが、中には県で参議院議員が出せるように憲法を改正するという項目がある。県は補助金を受け取るための単位となっているので、これを既得権益として抱えたいのだろう。しかし、明治維新期に偶発的に作られた行政単位がいつまでも継続できるという保証はない。
道州制の議論がいつのまにかバラマキの議論に変わってしまうのは、国が簡単に借金できてしまうからである。と同時にファイナンスできている間は道州制の議論はたいして進まないものと予想される。その間、不人気な政権が空虚な憲法改正論を推進し、政治的リソースを精進するというかなり絶望的な状況が続くのかもしれない。