よく多様性などという言葉を使うわけだが、概念的なことばかりだとよくわからない。シングルマンはマイノリティとされる同性愛を扱った映画である。現在はオープンに語られることもある同性愛だが、キューバ危機当時のアメリカではやはりおおっぴらに語られることはほとんどなかったようだ。しかしながら舞台がロスアンジェルスというオープンな都市なので全く隠しているというわけではなく、隣人は「多分そうなのだろう」ということがわかっている、という状態である。
コリン・ファースが演じる主人公は2つの意味で異端者である。第一に同性愛であり、イギリスからロスアンジェルスに移り住んだ外国人でもある。大学の先生をしていてあまり優秀でない学生に文学を教えている彼の人生は味気ない。
ここで扱われるテーマの一つは「同性愛は本物の恋愛なのか」というようなことだ。主人公は女性を愛することができるので選択的に同性愛を選んでいる。また16年連れ添った恋人を交通事故で失っており、その穴を埋めがたいものとして感じている。さらに現在でも付き合うことができる女性もいる。これらの条件から同性愛は異性愛の代替物ではなく、本物の愛なのだということが主張されている。
出てくる登場人物はみな美しい。というより、その端正さを見たいためにこの映画を手に取る人の方が多いのではないかと思う。よく知られているようにトム・フォードは自身のブランドも手がけるデザイナーで、登場人物の衣装もいくつか手がけている。やはり衣装はどれもすばらしく、男性の個性を引き出し美しく見せている。トム・フォードが手がけるのは多分自身を投影しているだろう主人公と、主人公の熱烈な信奉者である学生の衣装なのだが、学生の方はフワモコの白い衣装をつけている。多分、AKBの推しメンに「こういうのを着てほしいなあ」というのと同じような感覚なのではないかと思えるほどだ。
いくつかの映画評をみると「これはゲイを扱った映画ではない、人間を扱った映画だ」とか「男女の関係ではありえないプラトニックさを扱っている」とか「コリン・ファースはゲイの役ではなかった」というものがみられた。が、残念ながら男性は欲望の対象だと考えられており、肉体関係に及ぼうとする描写も見られる。そのため、ある種のポルノ映画っぽさ(よく言えばイケメンのプロモ映画)が残っている。
すべての登場人物が否応無しにモテてしまうので、この映画にはいわゆる歌舞伎町的なくねくねしたおかまっぽさもないし、逆にハードゲイ的な過剰なマッチョさもない。さらに登場人物たちが自分たちの存在を誰かに認めてほしいという過剰な欲求もない。これがこの作品の世界を美しく守っている。
だが、主人公と男性たちはすぐさまお互いが「特別な人たち」であることを見抜いてしまい、恋愛関係に進んでもいいかなと思ってしまうようである。つまり、ものすごくモテるわけだが、これが現実的に起こり得るのかというのはよくわからない。その意味ではゲイのファンタジー映画になってしまっているようにも思える。
ここからゲイというのは他の人たちとは違った特別な人たちなのだというような意識が見られるのだが、これが意図されたものなのかそうでないのかはわからない。見方によっては、トム・フォードが考えるゲイ社会とはルッキズムで形作られた一種のエリート社会であり、醜い人間が入り込む余地はないとも言える。
一方、作中では隠れたマイノリティとしての同性愛者が一般の人たちには恐怖の対象として捉えられてしまうのだというような主張がある。これもマイノリティの被害者意識からきているのか、それとも実際の感覚なのかということはわからない。つまり、外見による階層でのエリートでありながらも、一般の価値観と共存できないのではないかという被害者意識も抱えているようである。
一般にマイノリティというと「多数派に虐げられるかわいそうな人たち」という印象を持ちがちなのだが、実はマイノリティの中にも価値の階層があり、それがマジョリティとの間に軋轢を生む可能性があるということになる。もちろんトム・フォードはそのようにはとらえず「得体の知れない人たちに感じる恐怖なのだ」と主張したがっているのかもしれない。
劇中に出てくるハクスリーは「すばらしい新世界」というディストピア小説やLSDに対する関心で知られているようである。すばらしい新世界はルッキズムと知性で形成された階層社会であり、人々は副作用のない薬物で幸福を得ているという設定なのだそうだ。原作者のクリストファー・イーシャーウッドはイギリスからロスアンジェルスに移り住んだ同性愛の作家である。
この映画は考えようとするといろいろなことが考えられる映画ではあるのだが、題材がきれいなだけにその背後にある主張を受け入れるのはなかなか難しいのかもしれないと思った。実際には美しい男性を鑑賞する映画として楽しんでみたほうが良いようにも思えるのだが、コリン・ファースは中年期に差し掛かっており、ようやく作品世界をぶち壊さない程度の肉体を持っている。
なお、映画を見ている時には全く気がつかなかったのだが、隣にいる人たちがやたら攻撃的なのはマイノリティの人たちが経験する多数派の悪意や攻撃性を象徴しているのだと解説している人がおり、なるほどなと思った。
また、この映画を見る前に結末を知っていたのだが、知らないでみたほうがよいのかもしれない。知ってしまうと、すべてが予定された調和の中で進行していると思えてしまうからだ。