下村博文さんは説明責任は果たした

東京都議会選挙の最中、下村博文衆議院自由民主党幹事長代理のスキャンダルが出てきた。これについて下村さんは一応の説明責任を果たしたと思う。後は有権者(この場合は東京都民だが)が適宜判断すれば良いだけの話で、それ以上外野がとやかくいうべき問題でもなさそうである。

が、下村さんの行動や説明の何が問題なのかがわからなければ、判断そのものができないかもしれない。バブル世代の人はだいたいこのあたりのことを知っていて議論をしているので、若い世代の人はキャッチアップのために読むとよいかもしれない。

中高年は企業献金というのはなんとなく後ろ暗いものだと思っている

週刊文春が問題にしたのは、内部文書に加計学園の秘書室長から100万円の入金があったという記載を見つけたという点にある。政治資金を規正する法律では、20万円以上の献金については報告することを義務付けているからだ。

問題はなぜそれが義務付けられているかという点なのだが、それはおいおい考えてゆく。が、週刊文春を読んでいるような世代の人は、企業献金は後ろ暗いものという印象を持っている。

下村さんは、この記述は、20万円以下のパーティー券の購入を11人分丸めたものであると説明している。誰が買ったかは言えないと言っているので後追いの取材ができないようにしているのだろう。が、形式的にはこれで説明をしたことになる。20万円以下であれば検証はできないものの形式的に法律には違反しないからだ。

形式的に違反しないにしても、なんらかの問題があれば、やはり責任がでてくるのではないかと思われる。文部科学大臣が学校から寄付を募っていたとなれば、やはり政策の意思決定に影響が出てくるだろう。だが、アメリカのロビーイング活動でもわかる通り、企業や個人が自分の政策を実現するために政治家に働きかけることは必ずしも悪いこととは言えない。

一方で下村さんは加計学園からの献金を(それが何であったかは別にして)隠す意図があったのは確かなようだ。献金があったと言っても、報告してしまえばいいからだ。なんとなく後ろ暗いという気持ちはあり、露見した時の言い訳もある程度考えていたのだろう。

つまり、必ずしもなぜ悪いかどうかはわからないものの、なんとなくバツが悪いから隠しているということになり、これはある程度の世代の人であれば共通して持っている感覚なのではないかと考えられる。

リクルート事件

かつてリクルートという企業が政治家・官僚・企業に働きかけて未公開株を優先的に提供したことがある。これが露見して大騒ぎが起きた。史上最大の贈収賄事件だとされているそうだが、詳細はwikipediaにも書いてある。連日のように、誰がリクルートから未公開株を受け取っていたかということがニュースになり「金権政治」が問題視された。

リクルート事件が露見すると中曽根内閣は退陣に追い込まれた。続いて竹下内閣(DAIGOのおじいさんだ)が倒れ、リクルート事件とは関係ない人を集めた宇野内閣が発足するのだが宇野首相は女性問題で退陣に追い込まれた。芸者を愛人として囲おうとしたというスキャンダルだった。

ではなぜ国民はそれほど怒っていたのだろうか。それは企業に減税が行われる一方で、消費税の導入が決まっていたからである。つまり国民は企業を贔屓してその負担を国民に押し付けたとみなされたわけである。自民党が消費税法案を強行採決したこともあり、消費税にはなんとなく負のイメージがついてしまうことになり、それは今でもあまり変わっていない。

ここで、政治家はバレなければ、企業とズブズブの関係になってしまうのだという印象がついた。実際に自浄作用は働かなかった。政治家というのはお金に汚いという印象を持った有権者が多かったのではないだろうか。

禊として導入された政治資金規正

最終的に自民党は内部分裂して、細川政権が生まれた。細川首相が担がれたのは熊本のお殿様出身であり、高貴な上に清廉だと見なされたからだろう。55年体制下では最初の非自民党政権である。1994年のことなのだが、背景には土地バブルの崩壊による国民の苛立ちもあったのではないかと思われる。

中選挙区制度で同じ政党同士で争うからお金がかかるのだという説明がなされ、企業からお金をもらわなくても選挙ができるようにしようという名目のもと、政治資金と選挙制度の改革が行われた。実際には政党本部の影響力の強化と弱小政党潰しが狙いだったのではないかという観測がある。これが現在の安倍政権の一強化につながっている。

この頃、金権政治家のレッテルを貼られることはタブーだった。例えば東京佐川急便が金丸信経世会会長に5億円のヤミ献金をしたという東京佐川急便事件がある。クリーンなイメージで登場した細川護煕首相だったが、この事件への関与を疑われ(実際には一度借りていたがすでに返済していたそうだ)て支持率を下げてしまった。これは自民党の印象操作にすぎなかったのだが、この程度でも内閣が倒れていたのである。

この後、自民党は社会党(現在の社民党)と組んで政権に復帰して、民主党に政権を奪還されるまで政権を維持した。

結局のところ下村さんの何が悪いのか

企業がその経済活動のために政治家に働きかけるのは、民主主義社会においては普通のことだと考えることもできる。が、一方で、企業と政治家が結びつくと、有権者が置き去りになるということが起こる。有権者は必ずしも合理的には行動しないので、いったん悪い印象がつくと、政党そのものが全否定されてしまう。

問題は一人ひとりの政治家が「これはまずいのではないか」と思ってはいても、他の人たちがやっていると競争上企業献金に手を染めてしまうという点にある。だから、一度倫理規定を緩めてしまうと、大きな汚職事件に発展する可能性がある。政治資金規正は、歯止めのための道徳律だと考えることができるわけだ。

あくまでも道徳律なので、破ったからといって直ちに不都合が起こるわけではない。しかし、誰か一人が道徳律を破ってしまうと歯止めが効かなくなる可能性が極めて高い。例えば下村さんの説明が通ると、1000人 X 20万円の企業献金も可能になる。これでは道徳律としての意味がなくなってしまう。

現在、私学の経営は極めて厳しくなっている。だから学校としては政治家との結びつきを強めたい。多分、他の学校がやっているならうちもということになるだろう。

下村さんが発したメッセージは、形式的に規正を守れば、何をしても構いませんよということなので、これが許されてしまうと、抜け駆けをする議員が増えることが予想される。そのうちに歯止めが効かなくなり、再び有権者の大きな怒りを買う可能性もあるだろう。

さらに、献金の規正は政党交付金とセットになっているので、関連企業から寄付を受けるならば、政党助成金制度も廃止するべきだろう。国民一人当たり250円を支出することになっているのだが、これは本来「企業からお金をもらわなくてもやってゆくため」のお金だったからだ。

問題はどこにあるのか

下村さんは多分後ろ暗いところがあり、加計学園との関係を隠していたというのは間違いがないだろう。が後ろ暗いところがあるのだから当然言い訳も考えていただろう。つまり、この点で下村さんを罪に問うことはできない。が、そもそも政治資金関連の法律は、国民の印象をよくするという曖昧な目的のために作られているので。明確な契約に基づいたものとは言えず、正確な意味では説明責任に馴染まない。

これが選挙期間中に出てきたのは、こうした背景によるものだ。有権者はなんとなく「金権自民党」を思い出してしまうと投票を控えてしまうので、スキャンダルが出た瞬間に目標は達成されていると言えるのだ。

だが、いったん紳士協定が破られてしまうと、その後はなし崩し的に形骸化してしまい、政治的な混乱につながることになるものと予想されるのだ。

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豊田真由子議員と見捨てられ不安

まとめ

  • 自分と他人の区別がついていない。
  • 他人との関係が崩れると自分の世界が崩壊してしまう。
  • コントロールへの異常な執着が見られる。

こういう人とは関わらない方がいいし、関わるなら最低限にした方がお互いのためだ。


対人関係に問題を抱えていた豊田議員

豊田議員の病的な絶叫を聞きながら、何が彼女をここまで変貌させてしまったのかを考えてみた。これまでの報道から、トヨタ議員がかなり早い段階から対人関係に問題を抱えていたようだ。対人関係の構築に問題があった人が政治という正解のない世界に身を置いてしまったことで病的な側面が拡大したのではないかと考えられる。有権者に見捨てられたら終わりだという強迫的な思い込みがあったようだが、もともとはお勉強をしないと親や先生に見捨てられるという不安の続きだったのではないだろうか。

こうした見捨てられ不安を持っている人は、同じ相手に異常に接近したり、逆に攻撃したりすることが多い。しかし、有権者には悪い顔はできないので、有権者への攻撃を秘書に転嫁したのだろう。これが人格障害なのかは議論のあるところだが、秘書が100名以上変わっているということはまともな社会的生活を営めなくなっているということなので、なんらかの治療が必要な状態だったと言えるだろう。

だが、考えてみると、こうした人は珍しくない。

対人関係に問題を抱えている人の共通点

例えば、自分自身をペットに投影する人もいる。飼っているペットを家族が大切にしないと言って突然怒り出すのだ。が、実はペットは単なる投射物になっていて、本来は家族が自分を大切にしてくれないと怒っているだけなのだろう。裏を読むと「自分を大切にしてほしい」という感情を表に出すことを禁止しているということになる。

また、相手を直接支配できないので部屋の掃除にこだわる人もいる。部屋の掃除は自分が思い通りにできる領域なので、相手をも支配できると思ってしまうのだが、相手を直接的に縛り付けることはさすがにできないと感じているのだろう。

本人の頭の中には地図ができているのだが、それが他人から見ると理解不能だというのが、この人たちの第一の特徴である。

と、同時にコントロール性についての問題もあることがわかる。豊田議員は秘書を支配できる存在だと思い込んでおり、それが期待通りに動かないと脚で蹴っていた。ペットは言葉を発しないので自分が思いのままに動かせると考えるのだろう。さらに、掃除にこだわる人は、掃除を通じて部屋や空間を支配できると考えているのだ。

こういう人たちは突然怒り出すという共通点がある。本人の頭の中では完全につじつまが合っているのだが、それは本人が作った地図に基づいているだけなので、他人からは理解不能である。

支配欲にかられるのはどうしてか

こうした人たちには支配欲求があることがわかった。が、それを含めた内的世界を他人に説明ができていない。が、果たして他人に説明できていないだけなのかという問題がある。

例えば、お掃除と夫のコントロールが大好きだった松居一代さんは自分の行動の動機をうまく説明ができなかった。つじつまが合わないので、これを見た人は精神疾患にかかってしまったのではないかと思ったようだ。

人間の頭には新しい脳と古い脳があると理解してみよう。古い脳はなんらかの行動原理で動いているのだが、これを新しい脳のルールが「不当に」押さえつけている。これに反抗する動きが「怒り」なのだろう。が、新しい脳は何に怒っているのかが理解できない。そこでつじつまが合わない地図がその場しのぎに作られているものと仮説ができる。

つまり、過剰に他人をコントロールしたがる人は、実は自分自身がよくわかっていないということになる。さらに自分と他人の間に線が引けていないので、他人が予測不能な動きをすると、世界が崩壊するように感じるのではないかと予想できる。それは、自分の手足が突然動き出して、何をしているのかがわからなくなるような感覚なのではないだろうか。

暴力的な支配欲を持っている人とつきあうにはどうしたらいいのか

こういう人は、自分の手足だと認識すると相手との距離が取れなくなる。だからできるだけ関わらない方がよい。が、どうしても関わる場合には相手との距離をきちんと線引きし、決して感情的な交わりを持つべきではないだろう。逆に線引きをすることで問題を単純化させてやったほうが親切というものだ。

冷淡に聞こえるかもしれないが、日本には「議員先生のために尽くせばいつかはわかってくれる」という独特の甘え文化があり、これがかえって依存的な関係を増長させてしまった。100人秘書が変わっても、それは改善されず、状況がさらに悪化した。豊田議員は苛立ちを募らせ、却ってあまり有能ではない秘書が次から次へと入れ替わるという悪夢のような状況が生まれてしまったのである。

誰かが「殴られたら運転はしません」と言っていれば状況は変わっていたかもしれない。有権者に失礼があったら自分は見捨てられると感じているわけだから、秘書に見捨てられたらやってゆけないということも学べただろうからだ。

つまり議員は二重人格なのではなく、有権者というコントロールが効かない人に対して感じた怒りを、従属物である秘書にぶつけることで秘書に依存しているだけなのであって、秘書はその投影物に過ぎないからだ。これを合理的なルートで問題するのは難しいのではないだろうか。

これは障害なのかスキルなのか

さて、ここまで豊田議員の問題を人格障害のように扱ってきた。が、これが生得的なものなのか、後天的なものなのかはよくわからず、したがって再考の余地がある。

例えば、対人関係はスキルだという考え方ができる。対人関係のスキルの測り方には様々なフレームワークがあるだろう。例えば、EQでは、自分の考えを伝える能力、自分のネガティブな感情をきちんと伝える能力(アサーション)、対人関係の問題解決力をスキルとして捉えており、後天的に獲得できると考えているようだ。

特にアサーティブさは、自分の不安を言語化して、消化するという意味では重要な能力だと考えられる。日本人は謙譲の美徳を持っており、これがかえってネガティブな感情の発露を妨げていると言えるだろう。だが、問題は言語化してみて初めて補足が可能になり、対応ができるようになる。

世の中が複雑化してくると、固定的な人間関係の中で親密なつながりを維持するのが難しくなってくる。アメリカで早くからこうした対人関係スキルの構築に関心が集まっているのは、日本よりも早く社会構造が複雑化したからだろう。日本のビジネスマンにとっても、対人関係スキルを磨くことは、より一層重要になるのかもしれない。

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わからないというのはどういう状態なのか

政治についてのブログを書いていると政治問題について語っている人の声を聞くようになるのだが「一般の国民にはちゃんと伝わっていないのではないか」というような苛立ちの声を耳にする。だから、説明すればいいんじゃないかということになるのだろうが、実はその対応は考えものである。そもそも「わかっていない」ってどういうことなのかは、わかっている人にはわからないからである。

こういう時は、何かわからないことを勉強してみるのがよい。ということでファッションについて勉強している。ファッションについて勉強できる素材は豊富にあるので、もし情報が足りないことが「わからない」を解消するなら、多分数日でファッションがわかるようになるだろう。

が、ファッションがわからない人が、ファッション雑誌やWEARを見るとこうなる。

すべてのコーディネートがそのまま入ってくるので却って混乱してしまうのである。そもそも情報が多すぎてよくわからない。つまり、情報は少なすぎてもわからないのだが、多すぎてもわからなくなる。この図はまだマシなものだ。なぜならば本来は色がついておりテクスチャーもある。こうなるともうカオスだ。ファッション雑誌などは企業のタイアップが入るので、ますます混乱度合いが増す。WEARやPinterestはフォルダーを作って整理ができるので、似ているものを集めてみよう。

集めてみると、なんとなくまともになったが、これもよくわからない。なぜならば、何をもって似ていると判断しているかがよくわからなくなってしまうからだ。最初は色が同じようなものを集めていたのに、途中で形に注目したりするし、形に注目してもグラデーション状になっているので、何がどれと似ているのか途中でわからなくなり混乱する。

これを克服するためには情報軸を自分で決め込む必要がある。今回はトップスの大きさとボトムの大きさで分類した。

すると4つの類型ができる。上下が細いもの、上下が太いもの、片方が太いものの4つだ。これに「普通」が入るので、全部で5つの類型になる。さらにパンツの裾だけを絞って細さを追求したものが派生し、細いままで裾だけにゆとりをもたせて(いわゆるベルボトムみたいなやつだ)が派生する。つまり、自分なりに軸を作って並べて初めて全体像が見えるということになる。右下はスカートのような感じなので男性はあまりやらないファッション領域になる。つまり、この順列組み合わせがすべて成り立つわけではないということもわかる。

軸を作るということはつまり、その他の要素を捨ててしまうということである。つまり、情報の刈り込みが必要になる。もう一つ重要なのは、学習する人が自分で軸が作れないと、いつまでも全体像が理解できないということだ。

ファッション上級者は別の見方をしているらしい

では、ファッション雑誌が軸を作ってあげればよいということになるのだが、ファッション業界の人は多分軸が作れないのではないかと思う。例えばIラインとかAラインとか言う言葉がある。Iラインを基準にして、ボトムにゆとりをもたせたのがAラインなのだが、これを別の人が見ても「普通の」格好に見えてしまう。なぜならばそもそも標準が異なるからだ。

一昔前のジーンズにはもう少しゆとりがあった。バブル期に青春期を過ごしたような人から見るとこれが標準で、Iラインが「細く」見える。つまり、人によって基準となる場所が違うのだ。これを模式化したのが下の図だ。

基準点が異なっている上に、細い服を体をがっちりした人が着るとIラインではなくなってしまう。つまり、標準が移動するのでラベルがあてにならないのだ。例えばIラインに大きいジャケットを羽織るとそれがVラインになるという見方もあれば、Iラインに太いVラインを追加しただけだという見方もできる。こういうとややこしいのだが、単純化すると、熟達者は比較の中でものを見ているのである。

地図は作ることに意味がある

「上下のバランスをきちんと決めるとよいのだ」ということがわかると地図自体にはあまり意味がなくなる。さらに、これにテイスト(軍隊由来のものを持ってくるとか、白と青でまとめてマリンと呼ぶのか、アメリカ由来のものを持ってくるとか、いろいろな香りづけがある)を加えるのだが、これは付加的な情報だということになる。つまり、形が先にあり、次にテイストがくるという重み付けが「内面化」された時点で、だいたいのことが「わかった」ということが言える。そうなると、あとは、地図を片手にどこまでが許容範囲なのかとか、どれが一番ウケがよいのかということを探って行けばよいことになる。

これは地図を俯瞰で見るのか、あるいは特定の場所から見るのかというのに似ている。「わからない人」と「わかる人」が話し合えないのは、実は視点の違いにあるのではないかとも思える。

政治がわかる人とわからない人の違い

例えば、右翼・左翼は普遍的な定義のように見えるが、実は比較の問題であって、政治についてわからない人には意味が取れない。多分、自分の立ち位置があり、それによって右翼・左翼の定義はまちまちなのではないだろうか。現在の右翼・左翼というのは自民党政権から見た距離の違いでしかない。55年体制が基準点になっており、その中心から、どれだけ周縁に離れて行くかによって、感覚的に計測しているだけなのだろう。が、基準点もアクターも動いているので、世代によっては捉え方が異なるのではないだろうか。

顕著な例としては、自民党内部の権力闘争に負けて新天地である社会主義リベラルに移動した小沢一郎がいる。多分、今の人たちは小沢一郎は山本太郎と組んでいるので左翼だと認識しているのではないだろうか。が、田中派の人たちはもともと地方分配派なので、政治手法はあまり違っていないのかもしれない。当時のタカ派の人たちは中央よりやや右寄りだったが、今では主流派になっており。これを日本の右傾化と呼んでいるのだが、若い人たちにはピンとこない表現だろうし、そもそもそんなことに興味がない人にとってみれば「みんなが揉めているのだが仲良くできないものだろうか」くらいにしか思えないのではないか。

感覚的にわかる人と地図を作らないとわからない人

ここから、そもそも「わかる」ということはいくつかの別のことを指しているのではないかとい可能性が浮かび上がってくる。

例えば、ユングは世の中の理解を「感覚的なのか直感的か」で分類した。ルールを元に世界を理解する人もいれば、ディテールでものを見る人もいるというわけだ。ディテールで見る人には「自分が好きなファッション」があり、そのディテールを埋めてゆくことが世界を理解するということなのかもしれない。つまり、全体の地図が作れなかったとしてもそれほど「わからない」という感覚には陥らない可能性がある。

直感的にわかることとわからないこと

その他に、直感的にわかることと、考えなければわからないことというのがある。例えば、都議会議員選挙では、豊田真由子議員の件の方が稲田朋美議員の問題よりも大きな影響を与えているそうだ。自衛隊が政治的運動を禁止されているということはある程度歴史や法律の体系を知らないとわからないが、豊田さんの人格がちょっとおかしいということは誰にでもわかるからだ。

また、加計学園のように「誰かを贔屓している」というのは支持率を動かすが、憲法違反の疑いのある安保法制の問題はあまり支持率を動かさなかったという事例もある。これは「贔屓をする人は危ない」という経験的な理解が日本人の間に浸透しているからだろう。

これが「感覚的に物事を見ている」ということなのか、それともまた別の要素なのかはわからない。あるいは過去の経験則から判断の基準を作る人と、内面化したルールから未来予測をする人の二つに別れるのかもしれない。

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なんでもできるようにしてきた世代と何にもできなくなっていった世代

先日、バニラ・エアに「歩けない人は搭乗できない」と言われた障害者が自力でタラップを上ったというニュースについて書いた。Twitterを見る限りでは、大抵の人は「障害者を排除するのはかわいそうだ」という意見を持ったようだ。このブログはこれは障害者だけの問題ではないのではないかと書いたが、そういう意見は少数に止まるようで、概ね企業のオペレーションの問題ではなく人権問題として捉えたのだろう。

だが、Twitterを眺めていると「航空会社はダメだと言っているのだから我慢すべきだ」という意見をいくつか見つけた。当事者である体が不自由な方の意見もあったのだが、やはり若い人ほどそういう感想を持つらしい。つまり、人権問題をみると「人権屋がわがままを言っている」と思う人が多いようなのだ。こうした若い人たちの中には自民党や現政権を応援する人が多いという印象もある。一方で、年配の人の中にはいわゆるリベラルを支援する人が多い。人権は追求されるべきテーマであって、あまりそのことに疑問を持つことはないのではないだろうか。

この違いはどこから来るのだろうか。乙武さんのつぶやきだ。切り拓くというキーワードが出てくる。この辺りがポイントになっているのではないかと思った。

これを読んで、もしかしたら木島さんは「わざとやった」かもしれないなあと思ったが、若い人はここに「活動屋」の匂いを嗅ぎ取るのかもしれない。活動屋は現状を壊す破壊者であり容認されるべきではないという味方だ。

考えてみると、我々は年々いろいろなことができるようになってきた世代に育った。白黒のテレビがテレビがになり、便利なコンビニができ、海外のブランドものが買えるようになっていった。海外旅行にも行けるようになった。そのうちにコンピュータが発達し、ネットを使って色々なことができるようなってゆく。

ただし、単にエスカレータに乗っていたという感じではなく、切り拓いてきた人たちも多い。顕著な例としては女性総合職だ。もともと女性というのは男性の補助的な仕事しかさせてもらえなかった。法律ができて状況は整ったのだが、会社側の準備は整わなかったので「戦ってきた」と考えている人も多いのではないだろうか。障害者にしても家に閉じこもっていたのだが、昔に比べれば色々なところに出かけて行けてゆけるようになった。これも勝ち取ったものであると考えられる。

実際に木島さんが意地で上ったおかげで「では昇降機をつけましょう」ということになった。つまりやればよかっただけのようだ。場合によっては無理に切り開かないといつまでも変わって行かないことがあるのだが、成長する年代に育った人たちはそのことを知っているのである。

しかし、「若者は奴隷としてしつけられてきた」と切り捨てていいのだろうか。確かに、若い人たちは「会社ができないって言っているんだから、無理をいうのはわがままだ」と思っているようだ。さらに誰かがわがままを言ったとしてもリソースは限られているので、別の誰かが損をするというゼロサムの世界に生きている可能性は多いにある。彼らはバブルが崩壊した後に生まれており、以前ならできていたことがだんだんできなくなってきた時代に育っているからだ。

企業もギリギリで回しているので、一人を特別扱いしていると、余裕がなくなり全体がうまく回らなくなるというような経験をしている。つまり、もともとが我慢を強いられる時代を育ってきており、自分が頑張れば後の人たちが楽になるという体験をしていないのかもしれない。

異議申し立てというのは、それによって世の中がよくなるという経験があってはじめて正当化されるのなのだろう。Twitterには障害を利用したプロ市民だなどとい書き込みがあり、年配の世代からみると悪魔のように思えるのだが、そもそも「みんなが工夫した結果社会が少しづつよくなってゆく」という経験がなければ、そう思っても無理はない。さらに、特別扱いして欲しければJALかANAに乗れなどという人もいるが、これも「安いんだから我慢して当然」という企業や社会に対する低い期待の表れなのだろう。

このことを考えると、心からかわいそうだなあと思った。と、同時にいくらすべての人が平等に扱われるべきだなどと説いても、そもそも我慢を前提に生きている人たちには響かないだろうなあと思った。こういう人たちを説得するためには、多様性が結果的に社会の成長性をあげるというようなことを証明しなければならないことになる。それは意外とやっかいな仕事なのかもしれない。

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バニラ・エアの何が問題なのか

バニラ・エアで障害を持った人が搭乗を拒否されそうになり自力でタラップを登ったというニュースが出た。バニラ・エアは「不快にさせた」と謝罪をし、アシストストレッチャーで搭乗できるように対応した。

この件、いったい何が問題だったのだろうか。本当に「不快にさせた」ことが問題の本質だったのか。


この件について、最初からアシストストレッチャーを装備していればよかったのか、それともアドホック的な対応に過ぎないのかがよくわからないことに気がつきました。なにかご存知の方やご指摘がありましたらご教示ください。

コメント欄に「空港側の問題では」という書き込みがあったのだが、どうやら航空会社固有の問題らしい。

今後のために、奄美空港の責任者に確認しました。
「歩けない人単独は完全NG」。「車いすを担ぐのはNG」。
「同行者のお手伝いのもと、階段昇降をできるならOK」とのこと。 このルールが認められていいんでしょうか?


確かに障害者が人並みに飛行機に乗れずに「かわいそうだ」という話があるのだが、当事者になった木島英登(ひでとう)さんがかわいそうかどうかは本人に聞いてみなければわからない。問題は多分別のところにあるのかもしれない

木島さんが搭乗を拒否されたのは、規則に合わなかったからであると説明されている。「危ないからダメ」ということなのだそうだ。確かに障害者が自力で搭乗できるように設備を改装するのはちょっと面倒だしお金もかかるように思える。しかしながら、実際にはアシストストレッチャーを使えば搭乗は可能だったのだから、あまり例外的な処理について考慮していなかった可能性の方が高い。当事者や専門家に聞かずに勝手に「面倒だから」という理由で判断していたのだろう。

当初このニュースを聞いたときには規則だからダメだといった融通の利かない現場社員が悪いなどと思っていたのだが、実際に規則の裏にある理由は理解されていたようである。ただし、そのルールがきちんと考えられていたのかと言われると「実はちゃんとした解決策があった」ということになり、組織的な問題であることがわかる。

奄美空港に行くキャリアはバニラ・エアだけではなく、格安だから仕方がないという見方はできるわけ、が、この航空会社は通常の安全対策はきちんと取っているのだろうかとか、現場や関係者の話を聞いた上で様々な対応をしているのだろうかという疑問がわく。

いちいち小うるさいかもしれないが、面倒なことをなかったことにして効率化を図るということはいろいろなところで行われており、時には大きな事故を招いたりする。それを「一人のお客さんを不快にさせてごめんなさい」というのは、残念ながら矮小化にすぎない。

いったん大きな事故が起こると「想定外だった」とか「気がつかなかった」ということになるのだが、実際には「めんどうだから考えないようにしておこう」としているだけということが多いのではないか。つまり、気がつかなかったのではなく目を背けていたにすぎないのだ。

確かに、足の悪い障害者の場合は少しでもお金をかけてちゃんとした準備が整ったキャリアを使うべきですよという論は展開できるだろうし、完全に安全が確保できないから事前に知らせておくべきだという論も間違っているとは思わない。だが、ちょっと考えてやればできたことをやらなかったというのは、実はちょっと深刻なことなのかもしれないと立ち止まって考えたほうが良い。

この件は、自力でタラップを昇る「かわいそうな」障害者のイラストがついていたせいで、わりと炎上気味になっているのだが、実際には「まさかの時の安全対策をきちんと取っていない可能性がある」ということの意味を考えるべきではないだろうか。

もっとも、まさかの時のことは考えずに安い飛行機代を優先したいという方もいらっしゃるだろうし、自分が旅行するにしてもそういう選択はするかもしれないので、そこは自己責任としか言いようがない。その辺りは一人ひとりの判断で選択すべきだろう。

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松居一代と精神疾患についての報道のあり方

マツイ棒で有名な松居一代さんのブログが一部で話題になっている。ストーカーに追われているので逃げていたというのだ。これが精神疾患のせん妄症状にきれいに合致してしまったがために、具体的な病名をあげて松居さんは気が変になったのではないかという声が相次いだ。

実際にブログを読んでみた、確かに、明らかにおかしいと思う。死のうとしたのだが、追われていることに気がついたので死ぬことができないというのはそもそもつじつまが合っていないし、心の中から声が聞こえたなどと言っているのもどこか異常さを感じさせる。

が、それよりも壮絶に思えたのは過去の書き込みである。コメントにすべて応えなければならないと強迫的に思い込んでいるようで、徹夜して書き終えたという。明らかにブログに依存しており社会生活に困難が出始めている。しかも、その書き込みがすべて消えてしまったという。運営会社のアメブロのせいだと考えて、アメブロに抗議もしているようだ。

だが、こうした状態になったのはつい最近のようである。読み進めて行くと、花の写真、ラジオ体操、銭湯の写真など、普通の記事が多い。が、異常なところから読み始めているので「あれ、これはおかしいな」と思うところもいくつかある。

例えば死産した娘について言及している箇所がある。また、夫から車をせしめたという報道に対して「私が自分で車を買った」と主張している。経済的にはかなり混乱している様子がうかがえる。安いものに反応したかと思えば、車などには贅沢をしており、生活には困っていないと言っているのだ。

最近のニュースを調べてみると、夫が二時間ドラマを降板したとブログでほのめかしたことが話題になっていたようだ。もう一つは夫がNHKでの大きな仕事を受けるにあたり「スキャンダルはなしにして欲しい」と要請され、離婚を諦めたという話である。別居しているが籍は抜かないことにしたというのだ。夫との間に緊張があったことが伺える。

これを念頭におくとちょっと違った面も見えてくる。アメリカのトランプタワーを買ったという報道をこれを否定している文章がある。その時に「別荘を一生懸命に掃除していたが、そこで夫が浮気をしていたことがわかった」ので怒りでいっぱいになり、その後は別荘の購入を考えなくなったということである。

松居さんは夫に対する厳しい監視で知られていた。その裏には過去のトラウマと強い分離不安があったのだなということがわかる。一度裏切られているから強い不安を抱き、新しい夫も監視するのだが、それに息苦しさを感じた夫が却って離れてしまうといういたたまれない構図である。

そう考えると「サスペンス」と繰り返すところに執着心を感じる。つまり、単なる妄想とは違っているのではないかという見立てができる。妄想であれば、他人の同情を引くための演技ができるとは思えないのだが、文章をよく読むと注意深く書かれた箇所がある。まず「旅立つ」と仄めかし、途中で「死んでいる場合ではなくなった」といい、ハッシュタグで「死の準備」と書いてある。つまり、自殺を仄めかして誰かを心配させたいというような動機が見て取れるわけである。

が、一方で夫に対する恨みごとはブログには一切書かれておらず「娘さえ生きて産んでいれば気持ちがつなぎとめられていたのではないか」ということがほのめかされている程度である。書かれていないことには強い執着があるのではないだろうか。

つまり、巷で仄めかされているような病気ではなく、別の症状である可能性もあるわけだ。

が、ここで問題になるのは世間の偏見と実はあまり発達しているとは言えない精神医療だ。そもそも精神疾患には世間の偏見があり「そうなのではないか」と書いた瞬間に人格攻撃になりかねない。伝える側は、面倒だしよくわからないのでとりあえずそのことには触れないで記事を書くことになる。幾つかのネットメディアが松居さんのブログについて書いているのだが「追われていると書いてある」という表記になっており、何がなんだかわからない。が、このことが却って世間の偏見を印象付ける。

さらにお医者さんにかかったとしても、頭の中のことなので詳しいことはよくわかっておらず、とりあえず薬で状況を緩和してそれで終わりになってしまうことが多いのではないだろうか。つまり、誤診断であっても「症状がでないからそれでいいや」となりかねない。さらに症状がおさまらないと薬の量が増えるだろう。最終的には社会生活も送れないが、とりあえず症状はなくなったということになりかねない。

つまり、適切な診療が行われないから、精神疾患=社会生活不適合ということになり、それが世間の偏見を生じさせるという悪循環が生まれている。よくわからないから、報道はそれに触れなくなり、却って正しい知識も広まらないということになってしまうのである。

なんとなく「すべてをコントロールしたいがままならず、それによって家族が離れて行く」という状態が不安を生じさせているように思えるのだが、根本的なところが変わらないと不安はなくならないのではないかと思う。

掃除にこだわるのも過剰なコントロール欲求の表れだが、それを「良い奥さんだ」と持ち上げてしまっているので、症状を悪くすることになっているのかもしれない。つまり、不安からくる現象を頑張ってやってしまうのだが、それが根源的な不安を解消することにはならず、却って症状が悪化してから表面化しているのではないかと思うのだ。

松居さんの事例は、こうした不安を抱えた人間が「我慢して頑張った」末に人格の崩壊を起こしても、他者が何もしてあげることができないということを示しているのではないだろうか。気軽にカウンセリングして不安を打ち明けられるような仕組みが、実はこの国には欠けているのだと思う。

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なぜ日本人はインフルエンザの予防にマスクが必要だと信じているのか

面白い質問を見つけた。なぜ日本人はあんなにマスクをするのだろうかというのだ。海外ではマスクは病気を連想させるので嫌われることがあるのだが、日本では多用されている。中には特に理由もないのに外出するときはマスクと決めている人もいるのではないだろうか。

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Don’t take it personally. 批判と人格攻撃は違う

最近、若い人たちが批判をされるのを極端に嫌う、という話をよく見かけるようになった。ははてなの匿名ブログが発端になっているのだと思うがよくわからない。いずれにせよ、大学教育の現場などで批判をすると怒り出してしまう学生がいるという話も読んだ。

が、この問題は実は昔からあったのかもしれない。以前、英語でマスターのコースを受ける機会があった。アメリカの学校なのだが校舎は日本にあるので日本人が半分くらい通っていた。そこで最初に言われたのが「Don’t take it personally」である。つまり、議論というのは論の否定であって、人格の否定のように受け取ってはいけませんよというのだ。

こんなことを言われる背景には、やはり日本人が論争を人格攻撃のように取って怒り出したという経緯があったのかもしれない。マスターコースなのでプレゼンと議論をしないと何も始まらないのだが、批判を恐れてシャイになったり、逆に人格攻撃を始めてしまうと、議論が成立しなくなり、授業そのものが成り立たなくなるのだろう。

しかし、ここから誰でも議論と人格攻撃の区別はつかなくなる可能性があり、お約束として「人格攻撃はしない」し「人格攻撃と受け取らない」ということを明確にしておく必要があるということがわかる。言ってみれば「ボクシングは喧嘩と違いますからね」というのと同じことである。実際に授業ではかなりムッとすることを言われるし、調査が足りなかったりすると全否定されることも珍しくはない。

このことから「最近の若い子は打たれ弱い」などと批判するのではなく、議論のときには人格を否定してはいけませんよと教えるべきなのではないかと思う。アンダーグラデュエイトだとまだ討論中心の授業はないだろうから、発表の講評も人格攻撃ではないということを明確にすべきだろう。

もう一つ思うのは、支持するトピックについて全人格を乗せてはいけないのではないかということだ。例えば、全人格を乗せて原子力発電所はいけないとか自民党はけしからんなどと言ってしまうと、それを否定された時にかなり感情的になってしまう。ということで、いったん別の立場から考え直してみることはとても重要である。

例えばこういう引用ツイートをいただいたことがある。

「思うと断言されていないですし、自身の考えに自信がないのでは」と言及されているのだが、Twitterの議論には全人格をかけないと論拠が弱いように思われてしまうということの裏返しなのかもしれないと思う。自分でも批判的に見るような癖をつけないと、間違えてしまう危険性があるように思えるのだが、それではダメなのだろう。が、こうした議論が殴り合いに発展するのも容易に予想できる。

何かを発言するためには全人格を乗せなければならないと考えるのはなぜなのだろうか。日本人は表向きでは和を保たなければならないという圧力を常に受けているので、意思表明自体がある種、人格をかけた最後の叫びのようになってしまうのかもしれない。いわば「殿に物申す時には切腹覚悟」という考え方があるのだろう。

ということは、普段から小出しに政治的議論をしていれば、全人格をかけた殴りをを防ぐことができるということになる。いわば、芸能人の結婚や今日のお天気について話をするのと一緒だから、いちいち全人格をかけるのは疲れるし馬鹿馬鹿しいと思えるのではないだろうか。

感情的にならないためのテクニックとして、最近メタ認知ということが言われるようになった。いったん議論を俯瞰してみることによって、別の視点が生まれ、トピックや論の構造自体を客観的に見ることができるようになるということだ。論の客観視は、自説の弱点を潰すのに役に立つということもあるのだが、客観的になった方が感情的に楽であるということも言える。

このメタ認知は例えばクソリプをもらった時にも使える。つまりこの人は論を攻撃しているのではなく、生活の中でつまらないことがあり、誰か攻撃する対象を探しているのではと考えるわけである。実際にそのことを指摘することで、相手の攻撃をかわすというテクニックもあるそうなのだが、Twitterなどだと別に関わらなければいいだけの話だし「ああ、これはネタに使えるなあ」などと思えば気分が楽になる。

この件で一番の懸念は、政治家が人格攻撃を多用するということだろう。彼らは議論のロールモデルとされているのだが自分たちの立場が弱くなると、議論をやめて殴り合いを始めることが多くある。

例えば、最近では獣医師の需要と供給の問題が、前川前事務次官の人格攻撃の議論にシフトされかけたという事例があったばかりだ。最近では戦略特区自体が否定されかねないという恐れから、前川さんを討論会に呼んでみんなで吊るしあげようという話になっているようだ。このように、政治や言論の現場でいじめまがいの人格攻撃が大手を降って横行している。罪深いのは、この人たちの中にアメリカなどで大学院レベルの授業を受けた人が混じっているということである。つまりアメリカではお行儀よく振る舞うし、そう振る舞うべきだと知っているのに、日本では殴り合いをしていることになる。

だから大学生だけに「議論は人格攻撃ではありませんよ」などと言ってもあまり説得力はないかもしれない。

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砂川判決と政府の説明責任

安倍晋三の心の安寧のために「利用された」砂川判決とは何か

先日来、説明責任について考えている。エージェントが投資者に行為の理由と結果を説明するのが説明責任だと定義した。この定義からは、政府は納税者に対して説明責任があるものと考えられる。が、政府が納税者ではなく別の人たちの要請に基づいて行動してしまうことがある。力による恫喝のこともある。一般に「主権が侵された」状態と言われる。日本は独立していなかった数年間があり、そのあともアメリカを宗主国のように扱っていた時期があり、その影響は現代まで続いている。

数年前、安倍政権はアメリカからの圧力に耐えかねて「限定なき集団的自衛権の行使容認」を決めた。限定なきというと大騒ぎになるので、政府の裁量によって制限するという訳のわからない説明をした。その結果、その夏の政治的資源が不毛な論争によって消耗されることになった。

さて、この集団的自衛権の容認の根拠として政府が持ち出したのが砂川判決だった。事情を知っている人の中には「よりによって砂川判決を持ち出すんだ」と呆れた人もいたのではないだろうか。が、我々にとってはあまり馴染みの判決ではなかったので「ああ、そういうのもあるんだ」くらいの感想しか持たなかった。

政府の説明は高村副総裁(当時)の理論に基づいている。

  1. 砂川判決で最高裁判所は日本の自衛権を認めた。
  2. その当時、国連はすでに集団的自衛権を認めていた。
  3. ゆえに、最高裁判所はすでに集団的自衛権を織り込んだ上で自衛権を認めたものと推認されるので、最高裁判所は集団的自衛権も容認したものと解釈する

ということで、冷静に考えるとこれは単に高村さんの推認であって確定したものではないということがわかる。ではなぜ、このように解釈する余地が生まれ、なおかつそのあと最高裁は自衛について何も言及しなくなってしまったのだろうか。

最高裁判所はアメリカの圧力に驚いて司法権を放棄した歴史がある

実は日本の最高裁判所はアメリカから司法介入を受けて判決を書き換えた歴史がある。これが、曖昧な解釈を生んだ。このため、安保法制の推進派は「集団的自衛権は裁判所のお墨付きを得た」と主張できる一方で、反対派は「裁判所は集団的自衛権を認めていない」と言い切っている。

実はこれはどちらも間違っている。つまり、裁判所は判断から逃げたのであって、どちらにもお墨付きは与えていない。ただし、自衛権そのものを否定してしまうと安全保障条約の根拠そのものがなくなってしまうので「自衛権はあるだろう」と言っている。が、所詮は逃げているだけなので、その内容について詳しく定義するようなことはしていない。

高村副総裁はドヤ顔で「これが唯一の判決だ」と言っているのだが、それも当然だ。アメリカからの強い圧力があったので、その後「自衛隊とか安全保障の問題には裁判所は関わらないよ」と言っているにすぎないからだ。つまり、どっちつかずの状態が生まれており、それが現在まで続く混乱の原因になっている。日本の裁判所は防衛政策についての自主判断を避けており、その意味では主権を自主的に放棄した状態が固定しているのである。

とはいえ、この件について裁判所だけを責めるわけには行かない。日本国憲法には「憲法は絶対に変えてはダメ」とは書いていないので、憲法を変えること自体は可能だ。曖昧な箇所があれば明確にすれば良い。これがうまく進まない理由は二つある。まず、政府は曖昧な日本の防衛関連の状況を総括したり清算したりしてこなかった。さらに国民も「よくわからない」と言って判断を避けている。判断すれば責任を問われてしまうからだ。

いずれにせよ、アメリカに圧力を受けて不当に判決が変えてから、日本の最高裁判所は自衛権について何の判断もしておらず、ゆえに政府が論拠にできるものが何もないのだ。その意味では高村副総裁は砂川判決を持ち出さしてこなければならなかったのだとも言える。

国民は最終的な責任を負いたくないので判断を避けている

国民は判断の結果によって生じる責任を負いたくないのだろう。真面目に考えて行くと支出を増やさざるをえない。日米同盟推進派のプロパガンダもあり「とんでもない額の初期投資が必要になる」とされている。その意味では裁判所と同様に「こんなややこしい問題に首を突っ込んでも責任が取れない」と考えている。

だから、政府は国民から権限を委託もしてもらえないし、承認もしてもらえない。にも関わらずアメリカからは突き上げを食らうので、安倍首相は耐えられなくなってしまったようだ。しかし難しいことはよくわからないので「集団的自衛権は政府の裁量でなんとでもできる」ととしてしまったのだろう。つまり、説明責任を果たさないと権限を得られないので、そのあともごまかし続けなければならないということになる

実はヤブヘビになるかもしれなかった砂川判決

さて、もし国民が主権者としての矜持を持っていれば、高村発言は、日本の主権が侵されているという問題を白日のものにさらし、別の論争を生む可能性があった。しかし、当時の議論を思い返してみると「日本は主権国家であるべきだ」などという人は誰も(野党も含めて)いなかった。それは、軍事的にアメリカに依存しているという事実を薄々ながら皆が共有していたからだ。

日本の裁判所が自衛権について判断したのは砂川判決だけなのだが、そもそもこの裁判はアメリカの司法介入によって歪められている。つまり、独立国の司法として外国に介入されただけでなく、その後の司法権を放棄し続けるという状態が続いているという意味では極めて重要な判決なのだ。

砂川事件が起こったきっかけは滑走路の拡張だ。これはアメリカの世界戦略の一環であり、日本の防衛とはあまり関係がない。もっと詳しく調べると技術革新によって飛行機が大きくなったことで滑走路が手狭になることへの対応だったようだ。

しかし、アメリカのやり方が強引な上に政府の対応も稚拙だった。アメリカは日本政府に「なんとかしろ」と対応を丸投げし、慌てた日本政府はそれをそのまま地元に通達してしまった。地元は大慌てになり、反対運動が盛り上がる。敷地に侵入する人が出て、裁判沙汰になった。その人たちは土地を取られるのを恐れるあまり日米同盟は違憲で無効だと言い出し、それが判決に反映されてしまった。今で言う所の「炎上案件」であり、日米同盟や防衛のあり方について真面目に議論した結果ではない。

これに驚いたマッカーサー大使(マッカーサー元帥の甥なのだそうだ)が、日本の司法のことはよくわからないが、と前置きした上で、この判決はアメリカの世界戦略上の邪魔になりそうなので、判決を潰す必要があると本国に書き送る。これも外交上の問題というよりは本人が失点になるのを恐れただけかもしれない。

そのあと、日本の外務大臣が閣議前に大使にご説明に上がり、なおかつ最高裁判所も時期を区切った上で「この判決は潰しますので」と情報を漏洩している。外国の政府に自国の裁判情報を流すというのは屈辱でしかないが、マッカーサーは大使ではなく宗主国の総督として振る舞ったことになる。

砂川事件当時の日本は形式的には独立していたのだが、心理的にはアメリカに従属していたものと考えられる。今ならば「まあ、仕方がなかったのかな」と思えるし、十分に長い時間が経っているのだから、総括してもよさそうだ。2008年に新島昭治という人がマッカーサー大使の文書を発見しているので、アメリカはこのことを特に秘密にはしていなかったようである。そもそも、アメリカが日本側に丁寧に説明していればこんな事態にはならなかったかもしれない。

当時の地方裁判所が日米合意が違憲だと判断する裏には、独立したのに従属国として扱い続けるアメリカへの反発があったのかもしれない。このあたりで当事者間にどのような心理状態があったのかは今ではよくわからないし、そもそも日本政府や最高裁判所はこのこと自体にコメントしない。

説明責任を果たさなかったことで、現状を変更しようとするたび大惨事になる

このことから現状は変えられているのだからいいではないかという話もあるのだが、説明責任の大切さがわかる。国民がその都度納得していれば、自衛隊絡みの変更のたびにいちいち国を二分するような大騒ぎにならなかった可能性がある。いったん秘密裏に処理をしてしまうと、その結果は後々に渡って深刻な影響を与え続けるのである。

このあとすぐに安保法制の改正があり、岸信介首相が独断で安保法案を改正してしまい、大騒ぎになった。のちに国連に自衛隊を派遣すると言って騒ぎになり、今回の安保法制でも国を二分する騒ぎになった。次は憲法改正すると言っているのだが、これも騒ぎになるだろう。こうなってしまうと難しい上に面倒な揉め事なので関わり合いになるのはやめておこうという気分になる。

次に問題が起こるのは、派遣先で自衛官が死んだときなのだろうが、これも「なかったこと」にされてしまうのかもしれない。今でも、自殺者が大勢出ているそうだがほとんど報道されない。自衛隊はどこまでも不都合な存在として隠蔽され続けており、彼らの問題が公で語られることはない。「不都合なことはすべて当事者である個人に押し付ける」という日本人らしい態度ではある。亡くなった自衛官に全てを押し付ければ、誰も責任を取らずに丸く収まり誰も責任を取らなくて済む。

日本人は説明責任を果たさないで、不都合が起きると、個人の責任にして「丸く収め得て」しまう。が、我慢させられる個人にとってみればたまったことではないかもしれない。

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教室でのインシュリン注射を禁止した先生は説明責任を果たすべき

朝日新聞デジタルに教室でインシュリン注射を打つことを禁止した先生の話題が出てきており話題になっている。先生は、教育という事業を保護者から委託されているエージェントであり、そのために必要な権限を保護者から委任されている。「教室で注射を打つな」というのはその権限の行使であると考えられる。つまり、先生の行為には説明責任が生じる。教育現場であることも考えあわせると自主的に説明責任を果たすべきだろう。

この先生の判断は「インシュリン注射は危ない」という事実誤認に基づいているように思える。保健室で打たせるというのは、清潔で安全な場所で打てという意味合いで、まだわからなくもない。しかし、あまり清潔でないトイレでの注射を指示したということは「自分の視界から消えてくれ」という意味合いが強かったものと思われる。

他人が注射をしているところを見ると自分も痛いような感覚に襲われることがある。これは人間に共感能力が備わっているからだ。こうした感覚的なものは、当人も十分自覚していない可能性があるので、じっくり話を聞く必要があるだろう。

さらに、先生が「インシュリン注射は危ないのでは」と考えた時、周囲のサポートや情報があれば間違った判断をしなくて済んだかもしれない。だが、日本人には協力し合う文化がないので、間違った思い込みがそのまま温存されてしまったのだろう。つまり、何か問題があった時に周囲と話し合いをするという文化を学校が醸成することも実は大切なことなのだろう。

なぜ、隠れて注射させることがいけないのだろうか。それは、隠すことによってインシュリン注射が異常で恥ずかしいことのような印象を与えてしまうからだ。本人はインシュリン注射さえあれば普段通りの生活が送れるのだからできるだけ平常に過ごさせるべきだ。これはメガネは遺伝的な欠陥であり恥ずかしいものだから、人前では装着しないようにと指導するのに似ている。

記事の中で生徒は「将来このような無理解から注射する場所が確保されなくなるのではないかと不安を感じている」と考えていることが紹介されている。先生が与えた心理的プレッシャーは実はとても大きい。

さらに生徒は「インシュリン注射は安全である」と説明している。生徒は自分の健康状態に自分で責任を追っているだけで、その行為をとやかく言われる必要はない。にもかかわらず、先生は他人の行動を制限し、なおかつ話すら聞かなかったのである。

さて、このブログでは日本には説明責任という言葉がないと考えてきた。これは先生に説明責任を理解させるのが難しいということだけを意味するのではないようだ。学校側も単に「世間を騒がせて新聞ネタになってしまい申し訳ない」というようなことを考えている可能性もある。また受け止めたTwitterの反応も「実名を晒して社会的に制裁せよ」という声が大きい。

説明責任のような外来概念は理解されないのだが「和を乱したから制裁せよ」というような問題解決はそれよりも理解度が高いものと考えることができるだろう。村人が掟を破った人を制裁するのに似ている。村の場合は関わり合いをなくして、社会的に制裁するのだが、Twitterでは実名を晒して石を投げるのが制裁になっている。

社会的な制裁が説明責任に優先されれば、学校側は萎縮してしまい、インシュリン注射に対する正しい理解は進まないだろう。一方で、エピペンを禁止すると社会的に制裁されると考えた人たちがそれについて何も言わなくなる可能性はある。

このようにして、社会的制裁を通じて問題解決をするというのが日本人のやり方なのだろうから、それなりに尊重されるべきなのかもしれないのだが、いったんここから開き直って「問題そのものが存在しない」という、菅官房長官語法を使われると、問題があったことの証明に話が入り込み、社会を苛立たせるだけに終わってしまうといえるのではないだろうか。

こうした問題には意外と本質的な怒りが含まれている。

  • 組織が周囲と協力しつつ新しい知識を取り入れることができないため、社会的な偏見がいつまでたってもなくならならず、間違った知識が温存される。
  • 力や立場が弱い人が一方的に我慢させられる。
  • 責任の追求を恐れて問題そのものがなかったことになってしまう。

こうした不毛な議論をなくすためにも、教育現場なので、より正確な知識に基づいて、個人が説明責任を果たせるようにするべきなのではないかと考えられる。多分、一番深刻なのは知識を更新する役割を担った学校が偏見を温存して改める気がないという点なのだろう。

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