下村博文さんは説明責任は果たした

東京都議会選挙の最中、下村博文衆議院自由民主党幹事長代理のスキャンダルが出てきた。これについて下村さんは一応の説明責任を果たしたと思う。後は有権者(この場合は東京都民だが)が適宜判断すれば良いだけの話で、それ以上外野がとやかくいうべき問題でもなさそうである。

が、下村さんの行動や説明の何が問題なのかがわからなければ、判断そのものができないかもしれない。バブル世代の人はだいたいこのあたりのことを知っていて議論をしているので、若い世代の人はキャッチアップのために読むとよいかもしれない。

中高年は企業献金というのはなんとなく後ろ暗いものだと思っている

週刊文春が問題にしたのは、内部文書に加計学園の秘書室長から100万円の入金があったという記載を見つけたという点にある。政治資金を規正する法律では、20万円以上の献金については報告することを義務付けているからだ。

問題はなぜそれが義務付けられているかという点なのだが、それはおいおい考えてゆく。が、週刊文春を読んでいるような世代の人は、企業献金は後ろ暗いものという印象を持っている。

下村さんは、この記述は、20万円以下のパーティー券の購入を11人分丸めたものであると説明している。誰が買ったかは言えないと言っているので後追いの取材ができないようにしているのだろう。が、形式的にはこれで説明をしたことになる。20万円以下であれば検証はできないものの形式的に法律には違反しないからだ。

形式的に違反しないにしても、なんらかの問題があれば、やはり責任がでてくるのではないかと思われる。文部科学大臣が学校から寄付を募っていたとなれば、やはり政策の意思決定に影響が出てくるだろう。だが、アメリカのロビーイング活動でもわかる通り、企業や個人が自分の政策を実現するために政治家に働きかけることは必ずしも悪いこととは言えない。

一方で下村さんは加計学園からの献金を(それが何であったかは別にして)隠す意図があったのは確かなようだ。献金があったと言っても、報告してしまえばいいからだ。なんとなく後ろ暗いという気持ちはあり、露見した時の言い訳もある程度考えていたのだろう。

つまり、必ずしもなぜ悪いかどうかはわからないものの、なんとなくバツが悪いから隠しているということになり、これはある程度の世代の人であれば共通して持っている感覚なのではないかと考えられる。

リクルート事件

かつてリクルートという企業が政治家・官僚・企業に働きかけて未公開株を優先的に提供したことがある。これが露見して大騒ぎが起きた。史上最大の贈収賄事件だとされているそうだが、詳細はwikipediaにも書いてある。連日のように、誰がリクルートから未公開株を受け取っていたかということがニュースになり「金権政治」が問題視された。

リクルート事件が露見すると中曽根内閣は退陣に追い込まれた。続いて竹下内閣(DAIGOのおじいさんだ)が倒れ、リクルート事件とは関係ない人を集めた宇野内閣が発足するのだが宇野首相は女性問題で退陣に追い込まれた。芸者を愛人として囲おうとしたというスキャンダルだった。

ではなぜ国民はそれほど怒っていたのだろうか。それは企業に減税が行われる一方で、消費税の導入が決まっていたからである。つまり国民は企業を贔屓してその負担を国民に押し付けたとみなされたわけである。自民党が消費税法案を強行採決したこともあり、消費税にはなんとなく負のイメージがついてしまうことになり、それは今でもあまり変わっていない。

ここで、政治家はバレなければ、企業とズブズブの関係になってしまうのだという印象がついた。実際に自浄作用は働かなかった。政治家というのはお金に汚いという印象を持った有権者が多かったのではないだろうか。

禊として導入された政治資金規正

最終的に自民党は内部分裂して、細川政権が生まれた。細川首相が担がれたのは熊本のお殿様出身であり、高貴な上に清廉だと見なされたからだろう。55年体制下では最初の非自民党政権である。1994年のことなのだが、背景には土地バブルの崩壊による国民の苛立ちもあったのではないかと思われる。

中選挙区制度で同じ政党同士で争うからお金がかかるのだという説明がなされ、企業からお金をもらわなくても選挙ができるようにしようという名目のもと、政治資金と選挙制度の改革が行われた。実際には政党本部の影響力の強化と弱小政党潰しが狙いだったのではないかという観測がある。これが現在の安倍政権の一強化につながっている。

この頃、金権政治家のレッテルを貼られることはタブーだった。例えば東京佐川急便が金丸信経世会会長に5億円のヤミ献金をしたという東京佐川急便事件がある。クリーンなイメージで登場した細川護煕首相だったが、この事件への関与を疑われ(実際には一度借りていたがすでに返済していたそうだ)て支持率を下げてしまった。これは自民党の印象操作にすぎなかったのだが、この程度でも内閣が倒れていたのである。

この後、自民党は社会党(現在の社民党)と組んで政権に復帰して、民主党に政権を奪還されるまで政権を維持した。

結局のところ下村さんの何が悪いのか

企業がその経済活動のために政治家に働きかけるのは、民主主義社会においては普通のことだと考えることもできる。が、一方で、企業と政治家が結びつくと、有権者が置き去りになるということが起こる。有権者は必ずしも合理的には行動しないので、いったん悪い印象がつくと、政党そのものが全否定されてしまう。

問題は一人ひとりの政治家が「これはまずいのではないか」と思ってはいても、他の人たちがやっていると競争上企業献金に手を染めてしまうという点にある。だから、一度倫理規定を緩めてしまうと、大きな汚職事件に発展する可能性がある。政治資金規正は、歯止めのための道徳律だと考えることができるわけだ。

あくまでも道徳律なので、破ったからといって直ちに不都合が起こるわけではない。しかし、誰か一人が道徳律を破ってしまうと歯止めが効かなくなる可能性が極めて高い。例えば下村さんの説明が通ると、1000人 X 20万円の企業献金も可能になる。これでは道徳律としての意味がなくなってしまう。

現在、私学の経営は極めて厳しくなっている。だから学校としては政治家との結びつきを強めたい。多分、他の学校がやっているならうちもということになるだろう。

下村さんが発したメッセージは、形式的に規正を守れば、何をしても構いませんよということなので、これが許されてしまうと、抜け駆けをする議員が増えることが予想される。そのうちに歯止めが効かなくなり、再び有権者の大きな怒りを買う可能性もあるだろう。

さらに、献金の規正は政党交付金とセットになっているので、関連企業から寄付を受けるならば、政党助成金制度も廃止するべきだろう。国民一人当たり250円を支出することになっているのだが、これは本来「企業からお金をもらわなくてもやってゆくため」のお金だったからだ。

問題はどこにあるのか

下村さんは多分後ろ暗いところがあり、加計学園との関係を隠していたというのは間違いがないだろう。が後ろ暗いところがあるのだから当然言い訳も考えていただろう。つまり、この点で下村さんを罪に問うことはできない。が、そもそも政治資金関連の法律は、国民の印象をよくするという曖昧な目的のために作られているので。明確な契約に基づいたものとは言えず、正確な意味では説明責任に馴染まない。

これが選挙期間中に出てきたのは、こうした背景によるものだ。有権者はなんとなく「金権自民党」を思い出してしまうと投票を控えてしまうので、スキャンダルが出た瞬間に目標は達成されていると言えるのだ。

だが、いったん紳士協定が破られてしまうと、その後はなし崩し的に形骸化してしまい、政治的な混乱につながることになるものと予想されるのだ。

Google Recommendation Advertisement



豊田真由子議員と見捨てられ不安

まとめ

  • 自分と他人の区別がついていない。
  • 他人との関係が崩れると自分の世界が崩壊してしまう。
  • コントロールへの異常な執着が見られる。

こういう人とは関わらない方がいいし、関わるなら最低限にした方がお互いのためだ。


対人関係に問題を抱えていた豊田議員

豊田議員の病的な絶叫を聞きながら、何が彼女をここまで変貌させてしまったのかを考えてみた。これまでの報道から、トヨタ議員がかなり早い段階から対人関係に問題を抱えていたようだ。対人関係の構築に問題があった人が政治という正解のない世界に身を置いてしまったことで病的な側面が拡大したのではないかと考えられる。有権者に見捨てられたら終わりだという強迫的な思い込みがあったようだが、もともとはお勉強をしないと親や先生に見捨てられるという不安の続きだったのではないだろうか。

こうした見捨てられ不安を持っている人は、同じ相手に異常に接近したり、逆に攻撃したりすることが多い。しかし、有権者には悪い顔はできないので、有権者への攻撃を秘書に転嫁したのだろう。これが人格障害なのかは議論のあるところだが、秘書が100名以上変わっているということはまともな社会的生活を営めなくなっているということなので、なんらかの治療が必要な状態だったと言えるだろう。

だが、考えてみると、こうした人は珍しくない。

対人関係に問題を抱えている人の共通点

例えば、自分自身をペットに投影する人もいる。飼っているペットを家族が大切にしないと言って突然怒り出すのだ。が、実はペットは単なる投射物になっていて、本来は家族が自分を大切にしてくれないと怒っているだけなのだろう。裏を読むと「自分を大切にしてほしい」という感情を表に出すことを禁止しているということになる。

また、相手を直接支配できないので部屋の掃除にこだわる人もいる。部屋の掃除は自分が思い通りにできる領域なので、相手をも支配できると思ってしまうのだが、相手を直接的に縛り付けることはさすがにできないと感じているのだろう。

本人の頭の中には地図ができているのだが、それが他人から見ると理解不能だというのが、この人たちの第一の特徴である。

と、同時にコントロール性についての問題もあることがわかる。豊田議員は秘書を支配できる存在だと思い込んでおり、それが期待通りに動かないと脚で蹴っていた。ペットは言葉を発しないので自分が思いのままに動かせると考えるのだろう。さらに、掃除にこだわる人は、掃除を通じて部屋や空間を支配できると考えているのだ。

こういう人たちは突然怒り出すという共通点がある。本人の頭の中では完全につじつまが合っているのだが、それは本人が作った地図に基づいているだけなので、他人からは理解不能である。

支配欲にかられるのはどうしてか

こうした人たちには支配欲求があることがわかった。が、それを含めた内的世界を他人に説明ができていない。が、果たして他人に説明できていないだけなのかという問題がある。

例えば、お掃除と夫のコントロールが大好きだった松居一代さんは自分の行動の動機をうまく説明ができなかった。つじつまが合わないので、これを見た人は精神疾患にかかってしまったのではないかと思ったようだ。

人間の頭には新しい脳と古い脳があると理解してみよう。古い脳はなんらかの行動原理で動いているのだが、これを新しい脳のルールが「不当に」押さえつけている。これに反抗する動きが「怒り」なのだろう。が、新しい脳は何に怒っているのかが理解できない。そこでつじつまが合わない地図がその場しのぎに作られているものと仮説ができる。

つまり、過剰に他人をコントロールしたがる人は、実は自分自身がよくわかっていないということになる。さらに自分と他人の間に線が引けていないので、他人が予測不能な動きをすると、世界が崩壊するように感じるのではないかと予想できる。それは、自分の手足が突然動き出して、何をしているのかがわからなくなるような感覚なのではないだろうか。

暴力的な支配欲を持っている人とつきあうにはどうしたらいいのか

こういう人は、自分の手足だと認識すると相手との距離が取れなくなる。だからできるだけ関わらない方がよい。が、どうしても関わる場合には相手との距離をきちんと線引きし、決して感情的な交わりを持つべきではないだろう。逆に線引きをすることで問題を単純化させてやったほうが親切というものだ。

冷淡に聞こえるかもしれないが、日本には「議員先生のために尽くせばいつかはわかってくれる」という独特の甘え文化があり、これがかえって依存的な関係を増長させてしまった。100人秘書が変わっても、それは改善されず、状況がさらに悪化した。豊田議員は苛立ちを募らせ、却ってあまり有能ではない秘書が次から次へと入れ替わるという悪夢のような状況が生まれてしまったのである。

誰かが「殴られたら運転はしません」と言っていれば状況は変わっていたかもしれない。有権者に失礼があったら自分は見捨てられると感じているわけだから、秘書に見捨てられたらやってゆけないということも学べただろうからだ。

つまり議員は二重人格なのではなく、有権者というコントロールが効かない人に対して感じた怒りを、従属物である秘書にぶつけることで秘書に依存しているだけなのであって、秘書はその投影物に過ぎないからだ。これを合理的なルートで問題するのは難しいのではないだろうか。

これは障害なのかスキルなのか

さて、ここまで豊田議員の問題を人格障害のように扱ってきた。が、これが生得的なものなのか、後天的なものなのかはよくわからず、したがって再考の余地がある。

例えば、対人関係はスキルだという考え方ができる。対人関係のスキルの測り方には様々なフレームワークがあるだろう。例えば、EQでは、自分の考えを伝える能力、自分のネガティブな感情をきちんと伝える能力(アサーション)、対人関係の問題解決力をスキルとして捉えており、後天的に獲得できると考えているようだ。

特にアサーティブさは、自分の不安を言語化して、消化するという意味では重要な能力だと考えられる。日本人は謙譲の美徳を持っており、これがかえってネガティブな感情の発露を妨げていると言えるだろう。だが、問題は言語化してみて初めて補足が可能になり、対応ができるようになる。

世の中が複雑化してくると、固定的な人間関係の中で親密なつながりを維持するのが難しくなってくる。アメリカで早くからこうした対人関係スキルの構築に関心が集まっているのは、日本よりも早く社会構造が複雑化したからだろう。日本のビジネスマンにとっても、対人関係スキルを磨くことは、より一層重要になるのかもしれない。

Google Recommendation Advertisement



わからないというのはどういう状態なのか

政治についてのブログを書いていると政治問題について語っている人の声を聞くようになるのだが「一般の国民にはちゃんと伝わっていないのではないか」というような苛立ちの声を耳にする。だから、説明すればいいんじゃないかということになるのだろうが、実はその対応は考えものである。そもそも「わかっていない」ってどういうことなのかは、わかっている人にはわからないからである。

こういう時は、何かわからないことを勉強してみるのがよい。ということでファッションについて勉強している。ファッションについて勉強できる素材は豊富にあるので、もし情報が足りないことが「わからない」を解消するなら、多分数日でファッションがわかるようになるだろう。

が、ファッションがわからない人が、ファッション雑誌やWEARを見るとこうなる。

すべてのコーディネートがそのまま入ってくるので却って混乱してしまうのである。そもそも情報が多すぎてよくわからない。つまり、情報は少なすぎてもわからないのだが、多すぎてもわからなくなる。この図はまだマシなものだ。なぜならば本来は色がついておりテクスチャーもある。こうなるともうカオスだ。ファッション雑誌などは企業のタイアップが入るので、ますます混乱度合いが増す。WEARやPinterestはフォルダーを作って整理ができるので、似ているものを集めてみよう。

集めてみると、なんとなくまともになったが、これもよくわからない。なぜならば、何をもって似ていると判断しているかがよくわからなくなってしまうからだ。最初は色が同じようなものを集めていたのに、途中で形に注目したりするし、形に注目してもグラデーション状になっているので、何がどれと似ているのか途中でわからなくなり混乱する。

これを克服するためには情報軸を自分で決め込む必要がある。今回はトップスの大きさとボトムの大きさで分類した。

すると4つの類型ができる。上下が細いもの、上下が太いもの、片方が太いものの4つだ。これに「普通」が入るので、全部で5つの類型になる。さらにパンツの裾だけを絞って細さを追求したものが派生し、細いままで裾だけにゆとりをもたせて(いわゆるベルボトムみたいなやつだ)が派生する。つまり、自分なりに軸を作って並べて初めて全体像が見えるということになる。右下はスカートのような感じなので男性はあまりやらないファッション領域になる。つまり、この順列組み合わせがすべて成り立つわけではないということもわかる。

軸を作るということはつまり、その他の要素を捨ててしまうということである。つまり、情報の刈り込みが必要になる。もう一つ重要なのは、学習する人が自分で軸が作れないと、いつまでも全体像が理解できないということだ。

ファッション上級者は別の見方をしているらしい

では、ファッション雑誌が軸を作ってあげればよいということになるのだが、ファッション業界の人は多分軸が作れないのではないかと思う。例えばIラインとかAラインとか言う言葉がある。Iラインを基準にして、ボトムにゆとりをもたせたのがAラインなのだが、これを別の人が見ても「普通の」格好に見えてしまう。なぜならばそもそも標準が異なるからだ。

一昔前のジーンズにはもう少しゆとりがあった。バブル期に青春期を過ごしたような人から見るとこれが標準で、Iラインが「細く」見える。つまり、人によって基準となる場所が違うのだ。これを模式化したのが下の図だ。

基準点が異なっている上に、細い服を体をがっちりした人が着るとIラインではなくなってしまう。つまり、標準が移動するのでラベルがあてにならないのだ。例えばIラインに大きいジャケットを羽織るとそれがVラインになるという見方もあれば、Iラインに太いVラインを追加しただけだという見方もできる。こういうとややこしいのだが、単純化すると、熟達者は比較の中でものを見ているのである。

地図は作ることに意味がある

「上下のバランスをきちんと決めるとよいのだ」ということがわかると地図自体にはあまり意味がなくなる。さらに、これにテイスト(軍隊由来のものを持ってくるとか、白と青でまとめてマリンと呼ぶのか、アメリカ由来のものを持ってくるとか、いろいろな香りづけがある)を加えるのだが、これは付加的な情報だということになる。つまり、形が先にあり、次にテイストがくるという重み付けが「内面化」された時点で、だいたいのことが「わかった」ということが言える。そうなると、あとは、地図を片手にどこまでが許容範囲なのかとか、どれが一番ウケがよいのかということを探って行けばよいことになる。

これは地図を俯瞰で見るのか、あるいは特定の場所から見るのかというのに似ている。「わからない人」と「わかる人」が話し合えないのは、実は視点の違いにあるのではないかとも思える。

政治がわかる人とわからない人の違い

例えば、右翼・左翼は普遍的な定義のように見えるが、実は比較の問題であって、政治についてわからない人には意味が取れない。多分、自分の立ち位置があり、それによって右翼・左翼の定義はまちまちなのではないだろうか。現在の右翼・左翼というのは自民党政権から見た距離の違いでしかない。55年体制が基準点になっており、その中心から、どれだけ周縁に離れて行くかによって、感覚的に計測しているだけなのだろう。が、基準点もアクターも動いているので、世代によっては捉え方が異なるのではないだろうか。

顕著な例としては、自民党内部の権力闘争に負けて新天地である社会主義リベラルに移動した小沢一郎がいる。多分、今の人たちは小沢一郎は山本太郎と組んでいるので左翼だと認識しているのではないだろうか。が、田中派の人たちはもともと地方分配派なので、政治手法はあまり違っていないのかもしれない。当時のタカ派の人たちは中央よりやや右寄りだったが、今では主流派になっており。これを日本の右傾化と呼んでいるのだが、若い人たちにはピンとこない表現だろうし、そもそもそんなことに興味がない人にとってみれば「みんなが揉めているのだが仲良くできないものだろうか」くらいにしか思えないのではないか。

感覚的にわかる人と地図を作らないとわからない人

ここから、そもそも「わかる」ということはいくつかの別のことを指しているのではないかとい可能性が浮かび上がってくる。

例えば、ユングは世の中の理解を「感覚的なのか直感的か」で分類した。ルールを元に世界を理解する人もいれば、ディテールでものを見る人もいるというわけだ。ディテールで見る人には「自分が好きなファッション」があり、そのディテールを埋めてゆくことが世界を理解するということなのかもしれない。つまり、全体の地図が作れなかったとしてもそれほど「わからない」という感覚には陥らない可能性がある。

直感的にわかることとわからないこと

その他に、直感的にわかることと、考えなければわからないことというのがある。例えば、都議会議員選挙では、豊田真由子議員の件の方が稲田朋美議員の問題よりも大きな影響を与えているそうだ。自衛隊が政治的運動を禁止されているということはある程度歴史や法律の体系を知らないとわからないが、豊田さんの人格がちょっとおかしいということは誰にでもわかるからだ。

また、加計学園のように「誰かを贔屓している」というのは支持率を動かすが、憲法違反の疑いのある安保法制の問題はあまり支持率を動かさなかったという事例もある。これは「贔屓をする人は危ない」という経験的な理解が日本人の間に浸透しているからだろう。

これが「感覚的に物事を見ている」ということなのか、それともまた別の要素なのかはわからない。あるいは過去の経験則から判断の基準を作る人と、内面化したルールから未来予測をする人の二つに別れるのかもしれない。

Google Recommendation Advertisement



松居一代と精神疾患についての報道のあり方

マツイ棒で有名な松居一代さんのブログが一部で話題になっている。ストーカーに追われているので逃げていたというのだ。これが精神疾患のせん妄症状にきれいに合致してしまったがために、具体的な病名をあげて松居さんは気が変になったのではないかという声が相次いだ。

実際にブログを読んでみた、確かに、明らかにおかしいと思う。死のうとしたのだが、追われていることに気がついたので死ぬことができないというのはそもそもつじつまが合っていないし、心の中から声が聞こえたなどと言っているのもどこか異常さを感じさせる。

が、それよりも壮絶に思えたのは過去の書き込みである。コメントにすべて応えなければならないと強迫的に思い込んでいるようで、徹夜して書き終えたという。明らかにブログに依存しており社会生活に困難が出始めている。しかも、その書き込みがすべて消えてしまったという。運営会社のアメブロのせいだと考えて、アメブロに抗議もしているようだ。

だが、こうした状態になったのはつい最近のようである。読み進めて行くと、花の写真、ラジオ体操、銭湯の写真など、普通の記事が多い。が、異常なところから読み始めているので「あれ、これはおかしいな」と思うところもいくつかある。

例えば死産した娘について言及している箇所がある。また、夫から車をせしめたという報道に対して「私が自分で車を買った」と主張している。経済的にはかなり混乱している様子がうかがえる。安いものに反応したかと思えば、車などには贅沢をしており、生活には困っていないと言っているのだ。

最近のニュースを調べてみると、夫が二時間ドラマを降板したとブログでほのめかしたことが話題になっていたようだ。もう一つは夫がNHKでの大きな仕事を受けるにあたり「スキャンダルはなしにして欲しい」と要請され、離婚を諦めたという話である。別居しているが籍は抜かないことにしたというのだ。夫との間に緊張があったことが伺える。

これを念頭におくとちょっと違った面も見えてくる。アメリカのトランプタワーを買ったという報道をこれを否定している文章がある。その時に「別荘を一生懸命に掃除していたが、そこで夫が浮気をしていたことがわかった」ので怒りでいっぱいになり、その後は別荘の購入を考えなくなったということである。

松居さんは夫に対する厳しい監視で知られていた。その裏には過去のトラウマと強い分離不安があったのだなということがわかる。一度裏切られているから強い不安を抱き、新しい夫も監視するのだが、それに息苦しさを感じた夫が却って離れてしまうといういたたまれない構図である。

そう考えると「サスペンス」と繰り返すところに執着心を感じる。つまり、単なる妄想とは違っているのではないかという見立てができる。妄想であれば、他人の同情を引くための演技ができるとは思えないのだが、文章をよく読むと注意深く書かれた箇所がある。まず「旅立つ」と仄めかし、途中で「死んでいる場合ではなくなった」といい、ハッシュタグで「死の準備」と書いてある。つまり、自殺を仄めかして誰かを心配させたいというような動機が見て取れるわけである。

が、一方で夫に対する恨みごとはブログには一切書かれておらず「娘さえ生きて産んでいれば気持ちがつなぎとめられていたのではないか」ということがほのめかされている程度である。書かれていないことには強い執着があるのではないだろうか。

つまり、巷で仄めかされているような病気ではなく、別の症状である可能性もあるわけだ。

が、ここで問題になるのは世間の偏見と実はあまり発達しているとは言えない精神医療だ。そもそも精神疾患には世間の偏見があり「そうなのではないか」と書いた瞬間に人格攻撃になりかねない。伝える側は、面倒だしよくわからないのでとりあえずそのことには触れないで記事を書くことになる。幾つかのネットメディアが松居さんのブログについて書いているのだが「追われていると書いてある」という表記になっており、何がなんだかわからない。が、このことが却って世間の偏見を印象付ける。

さらにお医者さんにかかったとしても、頭の中のことなので詳しいことはよくわかっておらず、とりあえず薬で状況を緩和してそれで終わりになってしまうことが多いのではないだろうか。つまり、誤診断であっても「症状がでないからそれでいいや」となりかねない。さらに症状がおさまらないと薬の量が増えるだろう。最終的には社会生活も送れないが、とりあえず症状はなくなったということになりかねない。

つまり、適切な診療が行われないから、精神疾患=社会生活不適合ということになり、それが世間の偏見を生じさせるという悪循環が生まれている。よくわからないから、報道はそれに触れなくなり、却って正しい知識も広まらないということになってしまうのである。

なんとなく「すべてをコントロールしたいがままならず、それによって家族が離れて行く」という状態が不安を生じさせているように思えるのだが、根本的なところが変わらないと不安はなくならないのではないかと思う。

掃除にこだわるのも過剰なコントロール欲求の表れだが、それを「良い奥さんだ」と持ち上げてしまっているので、症状を悪くすることになっているのかもしれない。つまり、不安からくる現象を頑張ってやってしまうのだが、それが根源的な不安を解消することにはならず、却って症状が悪化してから表面化しているのではないかと思うのだ。

松居さんの事例は、こうした不安を抱えた人間が「我慢して頑張った」末に人格の崩壊を起こしても、他者が何もしてあげることができないということを示しているのではないだろうか。気軽にカウンセリングして不安を打ち明けられるような仕組みが、実はこの国には欠けているのだと思う。

Google Recommendation Advertisement



砂川判決と政府の説明責任

安倍晋三の心の安寧のために「利用された」砂川判決とは何か

先日来、説明責任について考えている。エージェントが投資者に行為の理由と結果を説明するのが説明責任だと定義した。この定義からは、政府は納税者に対して説明責任があるものと考えられる。が、政府が納税者ではなく別の人たちの要請に基づいて行動してしまうことがある。力による恫喝のこともある。一般に「主権が侵された」状態と言われる。日本は独立していなかった数年間があり、そのあともアメリカを宗主国のように扱っていた時期があり、その影響は現代まで続いている。

数年前、安倍政権はアメリカからの圧力に耐えかねて「限定なき集団的自衛権の行使容認」を決めた。限定なきというと大騒ぎになるので、政府の裁量によって制限するという訳のわからない説明をした。その結果、その夏の政治的資源が不毛な論争によって消耗されることになった。

さて、この集団的自衛権の容認の根拠として政府が持ち出したのが砂川判決だった。事情を知っている人の中には「よりによって砂川判決を持ち出すんだ」と呆れた人もいたのではないだろうか。が、我々にとってはあまり馴染みの判決ではなかったので「ああ、そういうのもあるんだ」くらいの感想しか持たなかった。

政府の説明は高村副総裁(当時)の理論に基づいている。

  1. 砂川判決で最高裁判所は日本の自衛権を認めた。
  2. その当時、国連はすでに集団的自衛権を認めていた。
  3. ゆえに、最高裁判所はすでに集団的自衛権を織り込んだ上で自衛権を認めたものと推認されるので、最高裁判所は集団的自衛権も容認したものと解釈する

ということで、冷静に考えるとこれは単に高村さんの推認であって確定したものではないということがわかる。ではなぜ、このように解釈する余地が生まれ、なおかつそのあと最高裁は自衛について何も言及しなくなってしまったのだろうか。

最高裁判所はアメリカの圧力に驚いて司法権を放棄した歴史がある

実は日本の最高裁判所はアメリカから司法介入を受けて判決を書き換えた歴史がある。これが、曖昧な解釈を生んだ。このため、安保法制の推進派は「集団的自衛権は裁判所のお墨付きを得た」と主張できる一方で、反対派は「裁判所は集団的自衛権を認めていない」と言い切っている。

実はこれはどちらも間違っている。つまり、裁判所は判断から逃げたのであって、どちらにもお墨付きは与えていない。ただし、自衛権そのものを否定してしまうと安全保障条約の根拠そのものがなくなってしまうので「自衛権はあるだろう」と言っている。が、所詮は逃げているだけなので、その内容について詳しく定義するようなことはしていない。

高村副総裁はドヤ顔で「これが唯一の判決だ」と言っているのだが、それも当然だ。アメリカからの強い圧力があったので、その後「自衛隊とか安全保障の問題には裁判所は関わらないよ」と言っているにすぎないからだ。つまり、どっちつかずの状態が生まれており、それが現在まで続く混乱の原因になっている。日本の裁判所は防衛政策についての自主判断を避けており、その意味では主権を自主的に放棄した状態が固定しているのである。

とはいえ、この件について裁判所だけを責めるわけには行かない。日本国憲法には「憲法は絶対に変えてはダメ」とは書いていないので、憲法を変えること自体は可能だ。曖昧な箇所があれば明確にすれば良い。これがうまく進まない理由は二つある。まず、政府は曖昧な日本の防衛関連の状況を総括したり清算したりしてこなかった。さらに国民も「よくわからない」と言って判断を避けている。判断すれば責任を問われてしまうからだ。

いずれにせよ、アメリカに圧力を受けて不当に判決が変えてから、日本の最高裁判所は自衛権について何の判断もしておらず、ゆえに政府が論拠にできるものが何もないのだ。その意味では高村副総裁は砂川判決を持ち出さしてこなければならなかったのだとも言える。

国民は最終的な責任を負いたくないので判断を避けている

国民は判断の結果によって生じる責任を負いたくないのだろう。真面目に考えて行くと支出を増やさざるをえない。日米同盟推進派のプロパガンダもあり「とんでもない額の初期投資が必要になる」とされている。その意味では裁判所と同様に「こんなややこしい問題に首を突っ込んでも責任が取れない」と考えている。

だから、政府は国民から権限を委託もしてもらえないし、承認もしてもらえない。にも関わらずアメリカからは突き上げを食らうので、安倍首相は耐えられなくなってしまったようだ。しかし難しいことはよくわからないので「集団的自衛権は政府の裁量でなんとでもできる」ととしてしまったのだろう。つまり、説明責任を果たさないと権限を得られないので、そのあともごまかし続けなければならないということになる

実はヤブヘビになるかもしれなかった砂川判決

さて、もし国民が主権者としての矜持を持っていれば、高村発言は、日本の主権が侵されているという問題を白日のものにさらし、別の論争を生む可能性があった。しかし、当時の議論を思い返してみると「日本は主権国家であるべきだ」などという人は誰も(野党も含めて)いなかった。それは、軍事的にアメリカに依存しているという事実を薄々ながら皆が共有していたからだ。

日本の裁判所が自衛権について判断したのは砂川判決だけなのだが、そもそもこの裁判はアメリカの司法介入によって歪められている。つまり、独立国の司法として外国に介入されただけでなく、その後の司法権を放棄し続けるという状態が続いているという意味では極めて重要な判決なのだ。

砂川事件が起こったきっかけは滑走路の拡張だ。これはアメリカの世界戦略の一環であり、日本の防衛とはあまり関係がない。もっと詳しく調べると技術革新によって飛行機が大きくなったことで滑走路が手狭になることへの対応だったようだ。

しかし、アメリカのやり方が強引な上に政府の対応も稚拙だった。アメリカは日本政府に「なんとかしろ」と対応を丸投げし、慌てた日本政府はそれをそのまま地元に通達してしまった。地元は大慌てになり、反対運動が盛り上がる。敷地に侵入する人が出て、裁判沙汰になった。その人たちは土地を取られるのを恐れるあまり日米同盟は違憲で無効だと言い出し、それが判決に反映されてしまった。今で言う所の「炎上案件」であり、日米同盟や防衛のあり方について真面目に議論した結果ではない。

これに驚いたマッカーサー大使(マッカーサー元帥の甥なのだそうだ)が、日本の司法のことはよくわからないが、と前置きした上で、この判決はアメリカの世界戦略上の邪魔になりそうなので、判決を潰す必要があると本国に書き送る。これも外交上の問題というよりは本人が失点になるのを恐れただけかもしれない。

そのあと、日本の外務大臣が閣議前に大使にご説明に上がり、なおかつ最高裁判所も時期を区切った上で「この判決は潰しますので」と情報を漏洩している。外国の政府に自国の裁判情報を流すというのは屈辱でしかないが、マッカーサーは大使ではなく宗主国の総督として振る舞ったことになる。

砂川事件当時の日本は形式的には独立していたのだが、心理的にはアメリカに従属していたものと考えられる。今ならば「まあ、仕方がなかったのかな」と思えるし、十分に長い時間が経っているのだから、総括してもよさそうだ。2008年に新島昭治という人がマッカーサー大使の文書を発見しているので、アメリカはこのことを特に秘密にはしていなかったようである。そもそも、アメリカが日本側に丁寧に説明していればこんな事態にはならなかったかもしれない。

当時の地方裁判所が日米合意が違憲だと判断する裏には、独立したのに従属国として扱い続けるアメリカへの反発があったのかもしれない。このあたりで当事者間にどのような心理状態があったのかは今ではよくわからないし、そもそも日本政府や最高裁判所はこのこと自体にコメントしない。

説明責任を果たさなかったことで、現状を変更しようとするたび大惨事になる

このことから現状は変えられているのだからいいではないかという話もあるのだが、説明責任の大切さがわかる。国民がその都度納得していれば、自衛隊絡みの変更のたびにいちいち国を二分するような大騒ぎにならなかった可能性がある。いったん秘密裏に処理をしてしまうと、その結果は後々に渡って深刻な影響を与え続けるのである。

このあとすぐに安保法制の改正があり、岸信介首相が独断で安保法案を改正してしまい、大騒ぎになった。のちに国連に自衛隊を派遣すると言って騒ぎになり、今回の安保法制でも国を二分する騒ぎになった。次は憲法改正すると言っているのだが、これも騒ぎになるだろう。こうなってしまうと難しい上に面倒な揉め事なので関わり合いになるのはやめておこうという気分になる。

次に問題が起こるのは、派遣先で自衛官が死んだときなのだろうが、これも「なかったこと」にされてしまうのかもしれない。今でも、自殺者が大勢出ているそうだがほとんど報道されない。自衛隊はどこまでも不都合な存在として隠蔽され続けており、彼らの問題が公で語られることはない。「不都合なことはすべて当事者である個人に押し付ける」という日本人らしい態度ではある。亡くなった自衛官に全てを押し付ければ、誰も責任を取らずに丸く収まり誰も責任を取らなくて済む。

日本人は説明責任を果たさないで、不都合が起きると、個人の責任にして「丸く収め得て」しまう。が、我慢させられる個人にとってみればたまったことではないかもしれない。

Google Recommendation Advertisement



おじさんたちはこうやって時代に取り残されてゆく

この夏は何が流行っているんだろうと思い、WEARのランキング一覧を覗いてみた。すると上位のコーディネートは白いTシャツに普通のパンツというコーディネートだった。一瞬「最近の若者は貧乏だからこういうシンプルコーデがいいんだな」などと思ってしまった。が、実際に持っているTシャツやカットソーを着てもこうはならない。おじさんで体型が違うからなんだろうなあと諦めて終わりになった。

今回のお話は、POSデータだけをみていると、若者の動向などがわからなくなるよというお話である。

そうこうしているうちに、Tシャツについてちょっとした発見をした。いくつかのオンラインファッションサイトが手持ちのアイテムと売っているアイテムを比較してくれるサービスを導入している。どうやらデータベースは共有になっているらしく、一箇所で登録しておくと他の場所でも比較ができる。面白そうなのでいくつか登録してみた。

この登録がかなり面倒だ。着丈や袖といったデータを登録しなければならないのは仕方がないとして、幅を3箇所計測しなければならない。面倒だなあと思ってやってみたのだが、そこで発見したのは、ものによって、幅というのがまちまちだという事実である。あるTシャツは脇の下が52cmで一番下が57cmくらいあったりする。つまり、台形になっている。一方でユニクロやGUのようにあまり変化がないものも存在する。こちらの方が作るのは簡単そうで生地の無駄も少ないのではないだろうか。実は、これがシルエットにかなり影響を与えている。台形になっていた方がゆったりとしたシルエットが作れるのである。この緩い感じが重要なのだ。

改めて流行のランキングを見てみると、流行しているのはゆったりとした印象を受けるシルエットだということがわかる。つまり、ランキングをつける人たちはどうやらそれがわかっていて投票しているようなのだ。

もちろん、サイジングが重要ですよなどという人はいるわけだが、どこが大切なのかを教えてくれる人はほとんどいない。つまり、そういう情報や了解は若い人たちの間にだけ流通しており、商品を企画する大人にはあまり知らされない可能性が高い。

実際にいくつかのサイトで手持ちのTシャツと売れ筋のTシャツを比較してみたが、今は裾にかけて広がっている「デザイン」が流行のようだ。

50歳台の人たちはバブルを経験しているのだが、アパレルというと海外から輸入されたハイブランドを意味していた。そこで高級ブランドや使っている生地などのストーリーには極めて強く反応する。その一方で輸入品なので日本人の体型には合っていなかった。このためサイジングには無頓着になりがちなのではないだろうか。

ユニクロのようなメーカーは大量に品物を捌く必要があり、その裁断も単純なものになりがちであろうと予測できる。デザインの専門家と違って一般人は「色や形を工夫すればデザインになる」と思いがちだ。同じようにユニクロもサイジングにはこだわれないぶん、企業のロゴマークをつけた色とりどりのデザインを好む傾向にある。

つまり、見ている人によってものの本質は全く異なっているのだが、過去に成功体験があったり、企業の都合などが加わると、それがわからなくなるのではないかと思う。

こうやって時代に遅れて行くのだなあと思った。

この話の厄介なところは、ソーシャルリスニングなどをしても、視点が発見できないという点である。そもそも仮説を立てる時点で「どの色がいいのか」などとやってしまうと、サイジングなどの視点が抜け落ちてしまうからである。

と、同時に店舗で服を買うという人は減ってゆくかもしれないと思った。お店でメジャーを持って洋服を買っている人がいたらそれは確実に変な人だが、スマホが登場した現在では人目をはばからず洋服のサイズを比較できるわけだ。もともと凝り性で「オタク気質」と言われる日本人には、実は細かいサイジングの追求というのは極めてのめり込みやすいトピックなのではないかと考えられる。

Google Recommendation Advertisement



バカが最高責任者になるとどうなるか – 安倍首相という実験

安倍首相が、産経新聞の正論という雑誌の講演会で、獣医養成学校の認可を全国展開し、なおかつ自民党の憲法改正案を臨時国会の会期末に提出すると発言したそうだ。これを聞いて、安倍首相というのはバカが権力を握るとどうなるかという壮大な実験なんだなと思った。

最初にお断りしておくと「あいつはバカだから」というレッテルを貼ることで印象操作をしようとしているわけではない。もし、仮にバカ以外のニュートラルな言い方があれば言い換えても良いと考えている。。

前回、前川善事務次官の記者会見について観察して「頭のいい人」に対して絶望的な違いを感じた。我々のような凡庸な人間と違って、頭の良い人は物事の本質だけを抜き出して、それを相手にわかりやすく説明することができる能力を持っている。複雑な問題のパターンを抜き出せるのが「頭が良い」ということなのだ。

中でも顕著だったのが頭が良い人間は、最も複雑な事象である感情についても理解をしているという点だった。人を動かすためには他人の感情を理解できなければならない。前川さんの会見からはその意味のインテリジェンスを感じることができた。

ここから逆にバカの定義ができる。重要な部分が見出せないなりに間違った類推を行うのがバカなのだろう。いわゆる「本質」が抜き出せないのか、豊富な情報量に圧倒されて間違った本質を抜き出してしまうのだ。

安倍首相を見ていてわかるのは、本質について間違った理解をすると、自分たちが作ったストーリーに合わせて周りを改ざんすることことでつじつまを合わせようとすることになる。過去の記録、法律や憲法の解釈、人の気持ちなどが自分たちのストーリーに合わせて都合良く歪曲されている。それでも隠しきれなくなってしまったので、ついに記録がなかったことにしてしまった。

例えて言えば天動説と地動説に似ている。地動説の方が簡単に惑星の動きを開設できるのだが、地球は動かないという前提を置いてしまうと、かなり複雑な模型を作って惑星の動きを正当化しなければならなくなる。

これまで、法律の制定や運用といった問題はバカに攻略されてしまった。だが、安倍首相の「バカレベル」は次のステージに至っている。このストレスに耐えられるかが次の注目点だろう。次のレベルというのは党内統治である。

安倍首相にとって今一番大切なことは総裁選に向けて党内地盤を固めることである。このためには直近の選挙でぜひ勝たなければならない。他の党の党首は国政選挙並みの体制で東京都議会選挙に注力しているのだが、安倍首相は距離をおいてしまった。小池都知事の登場で東京都の自民党が不利な状況に置かれているので、距離をおいて責任を追求されないようにしたと考えられる。

確かにかけ学園の問題さえなければ「関係ない」と言い張ることができたのかもしれない。しかし、下手な言い訳に終始した上、実際に資料が見つかったので不利な立場に置かれている。

であれば黙っていれば良かったのだが、正論という右翼系雑誌の講演会で気分が良くなってしまったのだろう。冒頭の憲法発言に至る。苦境にさらされている都議会議員やそれを取りまとめる国会議員は「選挙を差し置いて憲法かよ」と思ったに違いない。

そればかりか、この動きは谷垣総裁事態に作った憲法草案を何の手続きもなしに全否定している。河野太郎衆議院議員は自身のブログの中で「悪ノリだった」と言っているのだが、党内では総括が進んでいないのに「あれは単なる悪ノリだった」ということになってしまったのだ。多分、悪ノリ認定された人たちは今回の議論には参加しないだろう。

ここまでは「安倍首相がバカでした」で済む問題なのだが、正論という雑誌がそもそも「バカ」が作った雑誌だ。バカというと聞こえが悪いので、アンチインテリジェンスと言い換えてみても良い。反知性的という人もいるが、これは御用だという話があるそうだ。

もともと日本はインテリが左翼運動を推し進めてきた。理性的に政治を行えば、貧困問題や社会矛盾が解決するのではないかという見込みがあったのだろう。社会主義といっても濃淡は様々であり、ソ連の急進的な社会主義を推し進める共産党から、ヨーロッパにあった民主主義と共存した社会主義を推進する人までがいた。

しかし、インテリの人たちが左派運動を支援すると、当然それに反発する人たちが出てくる。「何を偉そうに」というわけだ。自分たちがいくら聞いても良くわからない理想をを押し付けてくるうえに、社会に反抗し、中国やソ連と仲良くしましょうなどという主張に危機感を募らせる。そこで作られたのが右派系の雑誌だ。右派系の雑誌では「人(主に敵のことだが)は理性的に行動できないのだから、対抗措置として強い軍隊を持たなければならない」などという主張になる。

正論にしても安倍首相にしても本質が分からないので、人がどのような動機で動くかはわからない。そこで期間を区切って命令すれば人は動かざるをえないと考えてしまったのだろう。結論がありそこに向けて行動するという意味では頭がいい人たちとそうでない人たちに違いはない。が、頭がいい人たちが、心理的なルールを抜き出してどうしたら人が動くだろうかという作戦を練ることができる。一方、頭の良くない人たちは他人がどのような理屈で動くかということがわからないために「偉い人が命令すればいいのだ」というような単純化を行う。そして、その通りに人が動かないとなると、恫喝したり泣きわめいたりするのだ。

バカが政治を支配しても日本にはさほどの混乱は起こらなかったし、これが直接戦争に結びつくということはなさそうだ。しかし、統治にバカが発揮されてしまうと統治機構が脳死状態を起こす可能性がある。官僚の賢さは目的の遂行にできるだけ無駄な動きをしないということなので、そもそもの目的にエラーが起きると何も解決できなくなってしまうのだろう。例えて言えば、超高性能のコンピュータでエラーばかりのコードを走らせるようなものだ。高速でわけのわからない文字列を出力することになるのだ。

さて、ここまでは安倍首相と右翼がバカだという話を書いてきたのだが、一方の左翼側も「相手をどう動かすか」ということがわからなくなっているようだ。現在の左翼運動はこちらが主流になっており「デモで安倍首相を退陣させよう」と言っている。右翼にも左翼にもそれなりのインテリジェンスを持った人たちがいたはずなのだが、なぜこのように劣化してしまったのかはわからない。

一生懸命結論を出そうとしたのだが、これといった結論は出なかった。かろうじて思ったのは、人を動かせる人たちは政治のような不毛な議論には没頭しないのではないかというものだ。偉い人が命令しないと社会は変わらないと思っているような人たちだけが、政治に集まるのかもしれない。

Google Recommendation Advertisement



前川前文部科学事務次官の要約する力

前川前文部科学事務次官が記者会見を行って、これまでの経緯を説明した。とても爽やかに思えた。爽やかに思ったのは、前川さんの人となりが素晴らしいと思ったからではない。筋が通っていてわかりやすかったからだ。

これまで政府は、十分に説明責任を果たしてこなかった。本来の意味での説明責任を果たさなかったというのはもちろんだが、そもそも説明にすらなっていない。論理構成がめちゃくちゃなので継ぎ接ぎだらけのストーリー展開になっているうえに役者はその筋書きすらおぼえていないという体たらくだ。そのため、メモを読んだり、後ろにいる脚本家たちにセリフを聞きながら、たどたどしい演技を続けていた。とてもお金をもらって見る芝居という感じではない。

一方、前川さんは自分の見聞きしたことを話せば良い。メモなども最低限で、質疑応答にもすらすらと答えていた。が、多分「筋が通っていてわかりやすい」のはそのせいだけではなかったのではないだろうか。

話を聞いていて、官僚の頭の良さは複雑なことを覚えておける能力ではないなと思った。物事の本質を見極めた上で、周囲の複雑さを削って行くのが彼らの頭の良さなのだ。

前川さんは攻めるべきポイントを絞り込んでおり、それ以外のことについてはニュートラルな姿勢を貫いている。萩生田さんを味方につけて和泉さんをターゲットとしているというのもその一例なのだろう。例えば、義家副大臣などは別にどうでもよいコマなので「役人が書いたものを読まされているんじゃないですかね」などといなした。こうすることによって、党派性で発言しているのではなく、歪んだ政治を正したいだけなんですよねという印象が生まれるし、マスコミもヘッドラインが書きやすくなり、さらに野党側も追求の方針が立てやすくなる。が、後から考えてみると何も指示はしていない。

さらに人を動かすテクニックも持っている。国民主権ということを訴えている。つまり、人の善意に働きかけていることになる。安倍首相が憎くてやっているわけではないが、そろそろ正しいと思うことをやってみませんかというように聞こえる。

こうしたことができるのは、前川さんの意図が絞られているからだろう。加計学園の獣医学部新設さえ潰せればいいわけだ。例えば成田の学校は厚生労働省が需給計画を出しているのだが、農水省は獣医学部の需給関係についての資料が出せなかったそうだ。内閣府側は「農水省はコミットしなくて良いから、黙って見ていろ」といい、文科省に認可を迫ったというストーリーになっている。つまり、認可するにしてもそもそもの裏打ちがなかったことになる。

野党側は安倍首相の関わりを証明して退陣に持って行きたいのだろうが、そんなことをしなくても手続きがめちゃくちゃだったことは明快なので、この点に絞り込めば加計学園の計画を潰すことは可能だ。最終的に「お友達のために安倍首相は無理をしたんだろうなあ」という印象が残ればそれで良いのである。あとは、有権者が適当に判断するだろう。

前川さんの人格がどうだったのかという話もあるのだが、これも本当のところはよくわからない。

ボランティアの件ももともと告発の予定があり、後で話が出ることを見越して「いい人」を演じていた可能性がある。人格攻撃が予想されているとすればそれくらいのことはやって当然だと言える。ほとんどチェスや将棋の世界だが、これくらいのことができないと官僚にはなれないのだろう。政治家が最終的に手玉に取られても当然だなと思った。

素直に一連の話を聞くと、背景には安倍一派と麻生一派の緊張関係があったように思える。前川氏は福岡の選挙で安倍側が勝利してパワーバランスが変わったのではないかとほのめかしつつ、慎重に「何があったかはわからないんですがね」などと言っていた。裏を読めば、実は文部科学省は麻生派についており、安倍派を潰すのに協力しているなどと考えることもできるだろう。もしかしたら政治家同士の対立を利用する極悪人なのかもしれない。が、それは本筋にはあまり関係がない。

マスコミの対応はいくつかに分かれた。これも官僚の頭の良さと比べると劣等さが目立つ結果になった。最初の類型は政府を追求したい人たちなのだが、安倍首相の責任問題を追求するために、彼らが考えているストーリーの裏打ちになるネタを要求していた。何を要求しているのかは明確にわかっているのだから、なんとなく応えてあげたくなるところだが、前川さんの側にも当初作ったストーリーがあるわけだから「わからないことはわからない」と繰り返すにとどまった。多分、情報が多すぎてマスコミの人たちも整理できていないのだろう。

次の類型はあからさまに「ネタをよこせ」という人たちだ。産経新聞は政府側に立っているので文部科学省の情報提供者を明らかにせよと要求して拒否されていた。産経新聞は記者の知能を劣等化させるように、食べ物か水に何か混ぜているのではないかとすら思った。独特なキャラと声で有名なTBSラジオの武田さんは「他に何かネタはないか」とあからさまな要求をした。ネタはあるかもしれないが、今後の政府からの攻撃も予測されるので、ここですべての弾を射つはずもなく、「今の所はない」などと言われて終わりになった。この人たちはそもそも何が本質かということにはあまり興味がなさそうだ。

最後の類型は引退してフリーになったもののNHKの肩書きにこだわっている老人だ。彼は民主主義の危機だという演説を行った後で「質問は何か」と聞かれていた。組織で仕事をしていると最後はああなってしまうのだなという痛々しさがあった。

頭がいいというと、いろいろな情報を集めてそれを記憶する能力だなどと思うわけだが、昨日の記者会見を聞いていると、複雑さを排除して本質に集中するのが本当に頭がいい人なんだと思った。

Google Recommendation Advertisement



関税に関するアメリカの身勝手な申し入れ

それはあまりにも一方的な物言いだと思う。アメリカ合衆国通商代表のライトハイザー氏は「日本は一方的に譲歩すべきだ」と発言した。安倍首相がまた妥協してしまうのではないかと考えて、調べてみた。結論からいうと、妥協の余地は少ないように思われる。が、アメリカにとってはあまり賢い選択とは言えないと思う。

ライトハイザー代表の発言は、日本がアメリカ産の牛肉に対して38.5%の関税をかけたことを念頭に置いていると見られている。オーストラリアとの間にはEPAがあり、関税が次第に引き下げられることになっている。つまり、アメリカはこの点でオーストラリアとの競争に負けているのである。オーストラリアとの関税協定にはセーフガードもあり、日本の畜産業者が急激に圧迫されるようなことがあれば関税が元に戻る仕組みが確保されている。日経新聞の記事によると、オーストラリアからは牛肉よりもワインの輸入が伸びているそうである。

本来関税は国内消費者には不利に働くので、なくすのが望ましいと考えられている。しかし、国内政治的には妥協だと見られるため、政府は見返りを求めるのが常だ。オーストラリアには顕著な自動車産業がなく自動車や家電などの関税をなくして行くことを決めた。お互いに得意分野を分けることでいわゆる「win-win」の関係が築けたというお手本のような貿易協定なのだろう。また同時に知的財産や投資のルールも定めた。

一方、アメリカは「一時的でもいいから一方的に譲歩しろ」と迫っている。ライトハイザー代表は弁護士で「何も失うものがないのになぜ関税を撤廃しないのかわからない」と主張している。議会や国民が「聞きたい歌を歌っている」のだ。

このニュースに注目したのは、安倍首相が元来持っている「弱腰さ」を懸念しているからだ。加計学園問題や北方領土交渉でもわかる通り、安倍首相は自分より強い相手に対して一方的に妥協してしまうところがある。強い人や憧れている人には何かをしてやらないとならないという強迫的な気持ちがあるのではないだろうか。加計学園の件では多分政治生命を危うくするような働きかけまでして「頭が上がらない」加計氏の希望を叶えてやっている。

一連の安保法制もアメリカからの強力なリクエストに耐えかねたからだという観測がある。報道特集で田原総一郎氏がこう言っている。

安倍首相から「実は憲法改正する必要がなくなったのです」と聞いた。「集団的自衛権の行使を決めたらアメリカは何も言わなくなった」「多分満足しているんだと思う」

確かに安倍首相の気持ちは穏やかになっただろうが、このために支払った代償は憲法の無効化と国内の深刻な政治的分断だった。だが、安倍首相にとってはアメリカはどうしても妥協しなければならない相手であって、国内の有権者の優先順位はその下でしかないのだろう。だが、冷静に考えると憲法改正という自らの政治的主張すら危うくしてしまったのだと考えられる。安倍首相には正常な判断力はないので直ちに退陣すべきだ。

だが、皮肉なことに日米貿易協定は麻生副首相マターだ。安倍首相に近い世耕経済産業相が暴走すると心配なことが起こりそうだが、安倍・麻生は緊張関係にあり、なくなったはずの派閥だけが安全装置になっていることがわかる。

これに加えてアメリカでも「日本は一方的に妥協すべきだ」という意見はニュースにはなっていない。検索するとわかるのだが、日経新聞とジャパンタイムスの記事が見つかるだけである。

実はトランプ政権は、メキシコやカナダとの貿易協定の見直しを計画している。従来、包括的に交渉していたのだが、今回は別々に行うのだそうだ。これだけでも大仕事になるだろう。ただし、トランプ政権の政策はほとんどが失敗しており、この一方的でわがままな貿易協定が通る見込みはそれほど高くなさそうである。あれほど熱心に「メキシコとの間に壁を作る」などと言っていたのだが、ソーラーパネルを設置してメキシコが負担する費用を軽減してやるなどと言い出している。費用の捻出ができず、もちろんメキシコがそれを払うはずなはい。トランプ大統領の交渉力は実は大したことはないらしい。ニューヨークで他人から不動産を掠めとるように国際交渉はできないのである。

畜産が盛んなカリフォルニアのロスアンジェルスタイムスは日本市場単独についての記事を出していないようだ。日本は農産品の市場としてはそれほど期待されていないのかもしれない。ただし、TPPから一方的に離脱したことを言及した記事はあるので「一方的にわがままな交渉をしても通用しないのではないか」という懸念は共有されているように思える。

Google Recommendation Advertisement



怒りを抑えられない豊田真由子議員について思うこと

豊田真由子さんという聞きなれない議員が自民党を離党したそうだ。秘書を罵倒する声がニュースで<報道>されていた。

ちょうど説明責任について書いていたのだが、マスコミは豊田議員は説明責任を果たすべきだとしていて、強い違和感を覚えた。多分マスコミの人を含めて「怒りが抑えられない人」を身近に見た経験がないのだろうと思う。

世の中には怒りが抑えられない人が存在する。こうした人たちは表面的には正常な社会生活を送っており、遂行能力も高いことから「優秀な人」とみなされることも多い。だが、遂行能力の高さとは「身の丈に合わない頑張りを常に強いられている」ということでもある。常に誰かから評価されていなければならないと感じているのだろう。そのストレスのはけ口が「身内」に向かうのだ。

自分で何かをやる場合それをいちいち自分に説明する必要はない。自分で考えていることはすべてわかっているからである。他人の場合は言葉で説明する必要があるのだが、怒りが抑えられない人はそれがわからない。自分の秘書があたかも麻痺した手のように見えて苛立ちを持ってしまうのだろう。

豊田議員の場合(たまたまなのだろうが)秘書が宛名を間違えたことを問題にしている。それを「殴られた」と感じていることから、痛みとして処理していることがわかる。

間違った宛名の入った案内状を支持者が受け取る。その支持者は豊田議員のことを「ちゃんとしていない」と思い軽蔑するだろう。それを考えるだけで殴られたのと同じ痛みを覚える。だから秘書に報復して、同じ痛みを覚えさせなければならないと感じる。そのためには娘を事故死させるのがよいだろう、という理屈だ。

学習には2つのルートがある。一つは褒められて嬉しいというルートで、これは報酬系が関係している。もう一つは殴られると痛いというルートだ。

ここで重要なのは、怒りと痛みが同じ場所で処理されているという点である。あのテープだけを聞くと、全く辻褄が合っていないめちゃくちゃな発言のように聞こえるが、実は「脳が現象をどう捉えるか」という意味では辻褄は合っている。骨が折れているのに選挙活動をしたということなのだが、骨折の痛みよりも、相手を失望させて感じる痛みの方が強かったのかもしれないとすら思える。多分豊田議員ほ褒められて嬉しいから議員活動を頑張っているのではなく、叩かれると痛いから議員活動を頑張らざるをえなかったのではないだろうか。

細かく見ると痛みや怒りは脳の原初的な部分で処理され、それを抑制する働きは脳の新しい部位にある。脳科学では「大脳辺縁系で生じそれを前頭葉で抑える」と説明される。説明ができるのは脳の新しい部位なので、多分本人にはそれはわからないだろう。抑えられなくなっているのがもともとの問題なのか、強いストレスにさらされて起きたことなのかはわからない。

仮に豊田さんが優秀な人だったと仮定すると党は組織として彼女をサポートするべきだった。逆に、最初から問題行動が多かったとすれば、そもそも強いストレスのかかる国会議員として不適格だったということになる。つまり、自民党は豊田議員に対して責任があるので、党を辞めさせれば済むという問題ではないはずである。

さらにマスコミの対応もひどかった。家庭内暴力も同じようなメカニズムで起きているはずで、本人が気をつければ済むのなら家庭を崩壊させ、子供を死に追いやるほどのひどい事件は起きないはずだ。マスコミは日常的にドメスティックバイオレンスや子供の虐待などを報道しているのに、そのメカニズムは気にしていないのだろう。「自己責任社会」の根深さと罪深さを感じさせる。虐待された子供やひどいパワハラを受けた部下などにれだけ深刻な問題が起きるかということを全く理解していないのだろう。

日本の精神医療への偏見もある。「あの人は頭がおかしい」と言われるのを恐れて、心理カウンセリングに行かない人も多いだろう。さらに的確なカウンセラーに巡り会えたとしても、費用がかさむかもしれない。日本の場合、投薬に重きが置かれており、問診ではあまり診療報酬がもらえないという事情もある。費用がかさむのを恐れて、民間のカウンセラーを探すことになるのだが、かなり人格の根本に関わる秘密を共有するので、宗教に勧誘されたり、高いものを売りつけられたりということもあり得るだろう。つまり、風邪をひいたから内科にかかるようには、心理カウンセリングは受けられない。

この問題が重要なのは、会社が個人を守ってくれなくなり、前頭葉の働きが弱まった高齢者がますます増えてくるからだ。アンガーマネージメントは社会問題なのだが、そういう認識がなく「本人が我慢すればいいんですよ」という自己責任にすり替えられてしまう。

つまり、実は単なるスキャンダルに見えるのだが、組織が個人をどう支えて行くかということや、医療のあり方とい極めて政治的な問題が含まれているということになる。

Google Recommendation Advertisement