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砂川判決と政府の説明責任

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安倍晋三の心の安寧のために「利用された」砂川判決とは何か

先日来、説明責任について考えている。エージェントが投資者に行為の理由と結果を説明するのが説明責任だと定義した。この定義からは、政府は納税者に対して説明責任があるものと考えられる。が、政府が納税者ではなく別の人たちの要請に基づいて行動してしまうことがある。力による恫喝のこともある。一般に「主権が侵された」状態と言われる。日本は独立していなかった数年間があり、そのあともアメリカを宗主国のように扱っていた時期があり、その影響は現代まで続いている。

数年前、安倍政権はアメリカからの圧力に耐えかねて「限定なき集団的自衛権の行使容認」を決めた。限定なきというと大騒ぎになるので、政府の裁量によって制限するという訳のわからない説明をした。その結果、その夏の政治的資源が不毛な論争によって消耗されることになった。

さて、この集団的自衛権の容認の根拠として政府が持ち出したのが砂川判決だった。事情を知っている人の中には「よりによって砂川判決を持ち出すんだ」と呆れた人もいたのではないだろうか。が、我々にとってはあまり馴染みの判決ではなかったので「ああ、そういうのもあるんだ」くらいの感想しか持たなかった。

政府の説明は高村副総裁(当時)の理論に基づいている。

  1. 砂川判決で最高裁判所は日本の自衛権を認めた。
  2. その当時、国連はすでに集団的自衛権を認めていた。
  3. ゆえに、最高裁判所はすでに集団的自衛権を織り込んだ上で自衛権を認めたものと推認されるので、最高裁判所は集団的自衛権も容認したものと解釈する

ということで、冷静に考えるとこれは単に高村さんの推認であって確定したものではないということがわかる。ではなぜ、このように解釈する余地が生まれ、なおかつそのあと最高裁は自衛について何も言及しなくなってしまったのだろうか。

最高裁判所はアメリカの圧力に驚いて司法権を放棄した歴史がある

実は日本の最高裁判所はアメリカから司法介入を受けて判決を書き換えた歴史がある。これが、曖昧な解釈を生んだ。このため、安保法制の推進派は「集団的自衛権は裁判所のお墨付きを得た」と主張できる一方で、反対派は「裁判所は集団的自衛権を認めていない」と言い切っている。

実はこれはどちらも間違っている。つまり、裁判所は判断から逃げたのであって、どちらにもお墨付きは与えていない。ただし、自衛権そのものを否定してしまうと安全保障条約の根拠そのものがなくなってしまうので「自衛権はあるだろう」と言っている。が、所詮は逃げているだけなので、その内容について詳しく定義するようなことはしていない。

高村副総裁はドヤ顔で「これが唯一の判決だ」と言っているのだが、それも当然だ。アメリカからの強い圧力があったので、その後「自衛隊とか安全保障の問題には裁判所は関わらないよ」と言っているにすぎないからだ。つまり、どっちつかずの状態が生まれており、それが現在まで続く混乱の原因になっている。日本の裁判所は防衛政策についての自主判断を避けており、その意味では主権を自主的に放棄した状態が固定しているのである。

とはいえ、この件について裁判所だけを責めるわけには行かない。日本国憲法には「憲法は絶対に変えてはダメ」とは書いていないので、憲法を変えること自体は可能だ。曖昧な箇所があれば明確にすれば良い。これがうまく進まない理由は二つある。まず、政府は曖昧な日本の防衛関連の状況を総括したり清算したりしてこなかった。さらに国民も「よくわからない」と言って判断を避けている。判断すれば責任を問われてしまうからだ。

いずれにせよ、アメリカに圧力を受けて不当に判決が変えてから、日本の最高裁判所は自衛権について何の判断もしておらず、ゆえに政府が論拠にできるものが何もないのだ。その意味では高村副総裁は砂川判決を持ち出さしてこなければならなかったのだとも言える。

国民は最終的な責任を負いたくないので判断を避けている

国民は判断の結果によって生じる責任を負いたくないのだろう。真面目に考えて行くと支出を増やさざるをえない。日米同盟推進派のプロパガンダもあり「とんでもない額の初期投資が必要になる」とされている。その意味では裁判所と同様に「こんなややこしい問題に首を突っ込んでも責任が取れない」と考えている。

だから、政府は国民から権限を委託もしてもらえないし、承認もしてもらえない。にも関わらずアメリカからは突き上げを食らうので、安倍首相は耐えられなくなってしまったようだ。しかし難しいことはよくわからないので「集団的自衛権は政府の裁量でなんとでもできる」ととしてしまったのだろう。つまり、説明責任を果たさないと権限を得られないので、そのあともごまかし続けなければならないということになる

実はヤブヘビになるかもしれなかった砂川判決

さて、もし国民が主権者としての矜持を持っていれば、高村発言は、日本の主権が侵されているという問題を白日のものにさらし、別の論争を生む可能性があった。しかし、当時の議論を思い返してみると「日本は主権国家であるべきだ」などという人は誰も(野党も含めて)いなかった。それは、軍事的にアメリカに依存しているという事実を薄々ながら皆が共有していたからだ。

日本の裁判所が自衛権について判断したのは砂川判決だけなのだが、そもそもこの裁判はアメリカの司法介入によって歪められている。つまり、独立国の司法として外国に介入されただけでなく、その後の司法権を放棄し続けるという状態が続いているという意味では極めて重要な判決なのだ。

砂川事件が起こったきっかけは滑走路の拡張だ。これはアメリカの世界戦略の一環であり、日本の防衛とはあまり関係がない。もっと詳しく調べると技術革新によって飛行機が大きくなったことで滑走路が手狭になることへの対応だったようだ。

しかし、アメリカのやり方が強引な上に政府の対応も稚拙だった。アメリカは日本政府に「なんとかしろ」と対応を丸投げし、慌てた日本政府はそれをそのまま地元に通達してしまった。地元は大慌てになり、反対運動が盛り上がる。敷地に侵入する人が出て、裁判沙汰になった。その人たちは土地を取られるのを恐れるあまり日米同盟は違憲で無効だと言い出し、それが判決に反映されてしまった。今で言う所の「炎上案件」であり、日米同盟や防衛のあり方について真面目に議論した結果ではない。

これに驚いたマッカーサー大使(マッカーサー元帥の甥なのだそうだ)が、日本の司法のことはよくわからないが、と前置きした上で、この判決はアメリカの世界戦略上の邪魔になりそうなので、判決を潰す必要があると本国に書き送る。これも外交上の問題というよりは本人が失点になるのを恐れただけかもしれない。

そのあと、日本の外務大臣が閣議前に大使にご説明に上がり、なおかつ最高裁判所も時期を区切った上で「この判決は潰しますので」と情報を漏洩している。外国の政府に自国の裁判情報を流すというのは屈辱でしかないが、マッカーサーは大使ではなく宗主国の総督として振る舞ったことになる。

砂川事件当時の日本は形式的には独立していたのだが、心理的にはアメリカに従属していたものと考えられる。今ならば「まあ、仕方がなかったのかな」と思えるし、十分に長い時間が経っているのだから、総括してもよさそうだ。2008年に新島昭治という人がマッカーサー大使の文書を発見しているので、アメリカはこのことを特に秘密にはしていなかったようである。そもそも、アメリカが日本側に丁寧に説明していればこんな事態にはならなかったかもしれない。

当時の地方裁判所が日米合意が違憲だと判断する裏には、独立したのに従属国として扱い続けるアメリカへの反発があったのかもしれない。このあたりで当事者間にどのような心理状態があったのかは今ではよくわからないし、そもそも日本政府や最高裁判所はこのこと自体にコメントしない。

説明責任を果たさなかったことで、現状を変更しようとするたび大惨事になる

このことから現状は変えられているのだからいいではないかという話もあるのだが、説明責任の大切さがわかる。国民がその都度納得していれば、自衛隊絡みの変更のたびにいちいち国を二分するような大騒ぎにならなかった可能性がある。いったん秘密裏に処理をしてしまうと、その結果は後々に渡って深刻な影響を与え続けるのである。

このあとすぐに安保法制の改正があり、岸信介首相が独断で安保法案を改正してしまい、大騒ぎになった。のちに国連に自衛隊を派遣すると言って騒ぎになり、今回の安保法制でも国を二分する騒ぎになった。次は憲法改正すると言っているのだが、これも騒ぎになるだろう。こうなってしまうと難しい上に面倒な揉め事なので関わり合いになるのはやめておこうという気分になる。

次に問題が起こるのは、派遣先で自衛官が死んだときなのだろうが、これも「なかったこと」にされてしまうのかもしれない。今でも、自殺者が大勢出ているそうだがほとんど報道されない。自衛隊はどこまでも不都合な存在として隠蔽され続けており、彼らの問題が公で語られることはない。「不都合なことはすべて当事者である個人に押し付ける」という日本人らしい態度ではある。亡くなった自衛官に全てを押し付ければ、誰も責任を取らずに丸く収まり誰も責任を取らなくて済む。

日本人は説明責任を果たさないで、不都合が起きると、個人の責任にして「丸く収め得て」しまう。が、我慢させられる個人にとってみればたまったことではないかもしれない。

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