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アカウンタビリティとは何か・なぜ重要なのか

public goodという言葉を「公共善」と訳していたのですが、どうやらgoodsのgoodではないかと思った。辞書によると単に公益や公共財のことを指すそうだ。ということで一部書き直した。一応書き直したのだが、つじつまの合わない箇所が残っているかもしれない。

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いつも答えを書いてばかりなので、Quoraに自分の疑問も書いてみようと思った。英語にはアカウンタビリティという言葉がある。これが大切なことはわかるのだが、なぜ大切なのだろうか。政治がうまく行われているなら、説明責任などいらないのではないかと思ったからだ。

しかし、この質問には回答がつかなかった。多分あまりにも当たり前のことだからかもしれない。Quoraには回答をリクエストするという仕組みがある。すると二つだけ答えが来た。最初の回答はかなり基本的な線を抑えていて、こんな感じになる。

政治家は市民に選ばれた公僕です。彼らは公共のために税金を集め、よりよい社会を作るために法律を制定し、インフラを整備し、役人・軍人・法の執行官を任命したり採用したりします。いろいろなレベルの政治家いますが、低位の政治家であってもアカウンタビリティはあります。そもそも政治家の仕事の中にはアカウンタビリティが含まれています。

いくつかポイントがある。

  • 政治は公共のための行為である。
  • 市民は税金を政治家に委託しているので、それを何に使ったのか、なぜ使ったのかなどを他の人にわかるように運用する必要がある。

この2つは民主主義社会の基本なので、そもそも証明する必要がないと考えられているのだろう。だから「政治家にとってアカウンタビリティはなぜ重要なのか」ということは民主主義国ではそもそも考える必要がない問題なのだ。

もう一つの答えは学生によるものだ。大学はイギリスのケント州にあるそうだ。この回答は次のように始まる。

アカウンタビリティとは画家の署名のようなものであり、説明責任を果たせば信頼が得られ、収入も上がる。以下省略

画家がいるということは画商と買い手がいるということである。ここでいう画商とは有権者のことになる。大学生だけあって、論文としての体裁を抑えている。日本人の政治家にこういう文章を書ける人はいないのではないかと思った。一般論を端的な文章で押さえたうえで、現在の政治において説明責任を果たすことが難しくなっているという現状が語られ、最後にはトランプ政権について言及している。

この二つにはいくつかの発見がある。最初の答えでは「役人を雇う」のが政治家の責任になっているのだが、これは日本の制度とは明らかに違っている。考えてみれば、自分が組織した集団だから責任が取れるわけで、何をやっているのかわからなければ説明はできないだろう。日本の官僚組織は所与なので、そもそも政治家には責任の負いようがないとも言えるのである。

企業でもマネージャーが部下の採用権限を持つのは当たり前だ。つまり、まずは仕事があり、それを実現するためにお金を預かり、人を雇って実現するのが民主主義だという理解なのだろう。他人おお金を預かるから、それを何に使ったかを説明しなければならない。

が、もう一つの答えは政治家の善について焦点を当てているように思える。絵の良し悪しは利害だけでは語れないからだ。回答者はコメント欄の中でこれが必ずしも正しい答えではなく、一つの側面にすぎないことを認めている。画商や絵の買い手が良い絵を正しく評価できるから、画家は良い絵を書けるということになる。同じように有権者が善を追求するから、政治家は良い政治を行うということになるだろう。

ここから逆に考えると日本の政治が民主主義を忘れてしまったわけではなく、そもそも民主主義とはかなり異なっているということがわかる。日本の政治は個人ではなく<集団>を基礎にしている。ここでいうカギカッコ付きの<集団>とは安全保障と事業の単位を意味する。その集団が代表者を出して物事を決めるのが集団指導体制だ。この体制では説明責任は集団の内部にあるということになる。

では集団とは何かということになるのだが、例えば自民党とか公明党といった政党だったり、政党の中の派閥だったりする。政府という単独の集団はなく、各省庁が集団を形成している。文部科学省と内閣府が内部闘争を起こしたり、麻生副総理が安倍首相の退陣を画策するのはそのためだ。

では政治の役割とは何だろうか。それは水面下で行われる取引を最終的に表に出して政党なものにするための儀式である。つまり、ありがたみがあればそれでよいわけで、議論そのものに大した意味があるわけではない。その意味では安倍首相は極めて真っ当なことをしている。

安倍首相の決定の裏には彼を支えている各組織の思惑がある。調整は水面下で行われるし、利益もそうした集団に配分される。これをマスコミは「お友達」と呼んでいるようだが、例えばアメリカなども利益集団の一つとして認識されているのだろう。

しかし有権者もそれを承知している。だから「損さえ被らなければ」とそれを黙認している。ゆえに説明はなんとなくもっともらしければ良い。

安倍首相にとって計算外だったのは、私益を追求すると内部に「抱き込めない人たち」が出てくるということだろう。例えば民進党などは本気で政権が取れると錯誤してしまっているので、政権に挑みかかってくる。もともと儀式にすぎなかった民主主義で「本気で説明責任を果たせ」などと言ってくるわけだ。これは正月に神社に行ったら「神様はいない」と叫ぶ人がいて、正月の厳かな気分が台無しになるというのと同じである。

「私」の行使はあくまでも水面下で行われるべきだったということだろう。が、籠池さんや萩生田さんのような人が次から次へと湧いてきて、表立って周囲を蹂躙する。「公共だという主張すれば、国民が文句を言えないように憲法を変えよう」などと言い出して周囲を大混乱に陥れている。

そもそも「公共」というのは、個人が集団を作って契約を結ぶという概念と対をなしてるようだ。行為に紐付いた目的別の集団が作られるから、説明責任を果たすことができるわけである。日本の場合の「公共」とは村の境にある共有地くらいの位置付けになるのではないだろうか。ゆえに説明責任などというものはそもそも存在しないのだ。

安倍首相は国会が終わった後で記者会見を開いて「説明責任」を果たしたつもりになっている。周囲にいる政治記者たちを抱き込んで共犯にした上で、儀式的に説明責任を果たしたつもりになっている。正月に神社に行って厳かな気分に浸っていたら、去年殴った人たちから罵声を浴びせられた。正月気分が台無しになったので自宅に神社を作って参拝をやり直したというような感じだ。が、塀の外にはたくさんの恨みを持った人たちが騒ぎを起こしている、ということになる。

今回ちょっとショッキングだったのは、英語だと学生でもかなりまともな議論ができるのだということがわかったことである。理路整然としており、懸念も表明されている。もちろん、実名で荒れにくいという事情もあるわけだが、それだけではなく、短文でも考えがまとめられるように訓練されているのだろう。これから日本語のTwitterを覗くのだが、ちょっと憂鬱な気分になるのではないかと思う。

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