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今日民主主義が死にました

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今日、多くの人が「日本の民主主義が死んでしまった」と嘆いていた。が、まだできることはあるだろう。それは太陽が西に沈んでも、また東から昇ってくるようなものだ。ただし、待っていてもそれが起こることはないだろう。70年前、日本は民主主義を上からいただいた。が今度は自分たちで勝ち取らなければならないのではないだろうか。

民主主義とは何だろうか。それは日本人にとっての徳のようなものだろう。

安倍政権は徳を失った。加計学園問題で疑惑の目が自分に及ぶのを恐れて、国会を閉じる必要があった。恥ずかしくて国民に何があったかを説明できなかったからだ。

そこで共謀罪の成立を急いだ。しかし、無能な法務大臣のせいで日程が足りなくなってしまったので、委員会採決を飛ばして中間報告の末に共謀罪を成立させた。もともと問題のある法案だったが、さらに重い十字架を背負わせた。自分の地位の安定のために民主主義のルールを無視し法体系を歪めた罪は重い。公明党は都議会議員選挙で汚いイメージがつくのを恐れてそれに連座した。やはり恥ずかしいという意識を持っていたからだろう。

日本の民主主義は優れたリーダーのみによって行われるわけではなく、優れたスタッフによる提案によって支えられている。良い言い方をすると「和」が前提になっている。政治を実質的に支えているのは官僚なのだが、内閣府の青年将校のような人たちが現場の官僚たちを恫喝しているらしい。それを放任しているのは安倍首相だ。

先日、民進党が加計学園問題関連のPDFファイルを改ざんしているのではないかということを書いたのだが、実は文書は存在したらしい。照明はできないものの、同じ文書を解像度やフォントなどを変えて二度印刷したのではないかと類推される。もちろん証明はできないわけだが、こう考えると面倒な加工が説明できる。

印刷を二回してそれを継ぎ接ぎしたのかもしれない。電子ファイルは持ち出せないので印刷したのだろうが流出経路が印刷機によって特定されるのを恐れたのではないか。義家副大臣という青年将校じみた人の官僚への恫喝を考え合わせても、官僚が必死の思いで本来国民が知るべき文章を流出させたのではないかと考えてしまう。プリンターの特定を恐れていたとしたら、どれほどの恐怖心があったのかがわかる。

安倍政権がやっているのは、自分たちの身内を徹底的に贔屓し、それを邪魔する人たちを反乱勢力として粛清して行くという分断政治だ。共謀罪が成立し、政府が「誰が一般人か」を指定できることになったので、この分断政治はもうすぐ国民にも及ぶようになるだろう。坂道を転がり落ちるように警察国家化が進むはずだ。

もちろん、警察が国民を監視するということも考えられるのだが、このような悪政のもとでは警察予算がいくらあっても足りない。安倍政権に近い人たちを利権で優遇し、それに敵対するまっとうな徳の心を持った人たちを「反乱者」とか「抵抗勢力」という名前の元に排除するわけである。が、国民にスパイをやらせると罪悪感を感じるのでこれを「公益のため」と言い換えるのだ。公徳心の上着の下には、自分だけがいい思いをしたいというような醜い心が隠れている。

共謀罪の審議の際、何回も「普通の人は対象にならない」という言葉を聞いた。これは、政府に敵対する人はもはや普通の人ではないという宣言と取ることもできる。利権を餌にして反政府的な人を通報させる制度が作られるのではないか。すると、警察予算は抑制でき、国民を監視することもできる。たとえばあるジャーナリストは女性を準強姦した疑いが持たれているが、彼は安倍政権では「善良な一般市民」となる。

「そんなことは起こるはずはない」と思いたい気持ちはわかる。しかし、どうだろうか。数年前に、誰が内閣府が官僚を恫喝するなど想像しただろうか。が徳のない安倍政権はその一線を軽々と飛び越えてしまった。

確かに、日本人にとって民主主義は馴染まない制度で、儀式にしかすぎないのかもしれない。中国で作られた鏡をありがたがって神社に飾るというのと似ているのだろう。しかし、だからといってその鏡を打ち捨てていいということにはならない。安倍政権は織田信長が比叡山を焼き討ちしたように、民主主義を蹂躙したのだ。徳を失い私利私欲にまみれた手で民主主義という鏡を打ち捨てたのだ。

私たちが昨日今日という日をどう過ごしたのかはわからないが、家畜のように政権に従わないと反逆者の汚名を着せられる分断国家という未来を選んでしまったことになる。官僚組織ではもう起こっているようだ。「国民は何があったのかを知る権利がある」という極めて真っ当なことを言っている人が、地位に恋々としがみつく抵抗勢力だと罵倒される狂った世界を生きているのだ。

今、私たちにできることはあるのだろうか。デモをしても「それは一部の特殊な人たちのやっていることだ」として一顧だにされないのだろう。この際はっきり言っておくが、デモは単なるノイズにしか過ぎない。それは徳がないからだ。地位のために大衆の怒りを利用しようとしても支持は得られない。だから、民進党はあてにならないので放置しておこう。彼らは単に政権が欲しいだけで、すでに政治家としての徳を失っていると見られている。もちろん彼らが徳を取り戻すことはできるだろうが、それは彼らの仕事だ。

そこでできるのはまず自民党の政治家がどのような「良いこと」をしたのかを勉強することだ。つまり、徳を思い出させる必要がある。そして、自民党の政治家の事務所に電話して、今度の選挙でも先生を心から応援したいのだが、今の政権では無理だと言おう。もし仮に今まで民進党を応援していたとしても構うことはないし、別に自民党に入れるつもりがなくても構わない。自分たちだけでやっても無駄なので、できるだけ多くの人に同じようなことをしてくれるように頼んでみよう。

東京都に住んでいる人にはさらにできることがある。公明党の候補者に連絡するという手もあるが、フレンド票欲しさの創価学会員が近寄ってくるだろう。いつもなら軽くあしらうところだが、今回はできるだけ憂いを帯びた表情で「創価学会はついに徳を捨てましたね。日蓮さんはどうお思いでしょうか」と残念そうに言おう。「あなたは信仰心のある良い人だからぜひ応援したいのだが、今の安倍政権ではどうですかね……」というと良いかもしれない。別に日蓮さんを信じていない人は嘘をついていることになるが、これは世の中をよくする方便なので仏様も許してくださるはずだ。

つまりはこういうことだ。日本は確かに民主主義国家ではなかったのかもしれない。しかし、民主主義というのは現代の徳なのだ。徳を失った政治家は天から見放され、災いをもたらすというのが日本の伝統的な姿である。安倍政権は一線を踏み外し、公明党の執行部も徳を失った。これを変えられるのは中にいる人たちだけなので、彼らの徳に訴えるべきなのである。もし今度の党首選挙で安倍政権が再任されれば今度は自民党が徳を失ったとみなされるだろう。

「自民党を応援する」と言っているのだから反逆者とはみなされないだろう。つまり、これは共謀には当たらないのではないだろうか。

政治家に徳を思い起こさせるのは主権者である大衆の仕事だと思うのだが、いかがだろうか。

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