クロネコヤマトで荷物を追跡するときわかることとわからないこと

ヤフオクで買い物をした。最近は伝票管理システムがしっかりしているので配送情報が追えるようになっている。配送状況が追えるようになると「今どこにあるのかなあ」ということが気になって仕方がない。だが、実際に追ってみると完璧な追跡もできないようだ。そこで「いったい、どんな仕組みになっているんだ」ということが気になりだしてしまった。気になったのでヤマト運輸に問い合わせをした。




伝票データは、誰かが入力しないと記録が残らない。ヤマトのシステムを使って出荷伝票が起票されていればメールで予定などを教えてもらえるらしい。そのためには、名前と登録電話番号が一致し(電話番号がキーになっているのだろう)ている必要があるとのことだ。また起票システムは顧客側の管理らしいので、手書きなどはトラッキングができないのではないかと思う。いちいち入力するのが手間だからだろう。

箱BOONの追跡画面。ヤマト運輸から情報をもらっているのだと思うが、伝票ナンバーを覚えてくれないので毎回入力する必要がある。お届け予定日まではわかる。

いずれにせよ、伝票がヤマトのシステムに乗れば、あとはクロネコメンバーズを使って伝票を追うことができる。できるのだが、最初から全てがわかっているというわけでもなさそうだ。今回は伊藤忠が展開している箱BOONというサービス(現在は廃止済み)をお願いしたのだが、これはファミリーマートで起票する。この時点で伝票番号は振り出されるが、この時点ではヤマトのシステムには載っていないので、ヤマトの人がピックアップするまではシステムで追うことはできない。

実はこの時点で3つのシステムが使われている。ヤフオクのシステムからファミポートに移り、最後にヤマト運輸に乗る。どうやらシステム連携はされていないのではないかと思う。手書きデータならヤマト運輸のオペレータが入力する手間があるわけだが、システム連携すれば入力の手間はないから、最初から到着予測ができるような気もするが、そうはなっていないようだ。ちなみにファミリーマートは伊藤忠が物流サービスを行っているということなので、システムは一体化されているのかもしれない。

いずれにせよ、荷物がコンビニからヤマト運輸のドライバーに渡った時点でヤマト運輸のシステムに入る。この時点でセンター(0570-200-000)に問い合わせをすれば、次のホップ先にいつ着くのかということは教えてもらえる。また、クロネコヤマトのシステムに受け手が自分で伝票登録すればあとは伝票番号を入れなくても随時検索できるようになる。

この場合は岩手県から千葉県に送られている。が、千葉側が受け取るまでいつ届くかが予測できないために当然変更もできない。地図上では岩手県の営業所に止まっていることになっている。荷物にGPSついているわけではないので、まあこれは当然かもしれない。対象外と表示されているが、千葉につけば対象になるはずで、ちょっと表示が紛らわしい。

例えば、奈良から千葉に荷物を送る場合は、奈良のセンターは次のホップ先が千葉であるということはわかっているので、そこまでの情報は入るのだが、それ以降「いつどこに発送するのか」ということはわからないようだ。それは千葉のセンターの管轄なのだ。

箱BOONでは依頼するときに局留め指定をすることができる。もしここで局留め指定をせずに、あとでスケジュールを変更することもできるのだが、その指定は、千葉なら千葉に届いたときに行われる。管轄指定局に自動的にゆくのだが、それが受け手にとっては最寄りの拠点かどうかはわからない。ゆえにここで最寄りの営業所に転送してくれというと、さらに1日かけて最寄りにトランスファーする仕組みになっているようだ。転送処理は千葉に届いたときにしかできないので、Webなどで伝票をチェックしつつ、伝票が受け取り県のシステムに入った時点から出荷されるまでのわずかな間に依頼を行う必要があるようだ。ちょっと不便である。

このようなシステムの話には興味がない人がほとんどだと思うのだが、わかっていると問い合わせのときに便利ではある。と同時に今のシステムでは、システムの都合を受取人が「忖度」してやる必要がある。システムが目配りをしてくれるということはないのだ。

出荷伝票が起票された時点で最短経路と受け取れり予想日時がわかれば、柔軟に対応できるとは思うのだが、これができないのには2つの理由があるということがわかる。システムが実は意外とつぎはぎになっており、伝票を起票した時点で将来を予想することができないからである。

後者は、例えばGoogleなどでおなじみの技術だ。Googleでは現在地と目的地がわかれば最短経路と到着予想時間が確認できる。最初は間違いがあるかもしれないが、精度はだんだんと上がってゆく。このためにはAI技術を使う必要があるわけだが、技術自体は難しいものではなさそうだ。

難しいのは既存のシステムに「配達予測」を組入れることなのかもしれない。もしヤマト運輸のシステムがCOBOLだったとすれば、そこにAIを組み込むことはほとんど不可能なわけで、意外とそんなところが生産性の向上を妨げているのかもしれない。

サイト内Google検索


Google Recommendation Advertisement



アジア性が恥ずかしかった猪瀬直樹さん

猪瀬直樹さんというかつて一世を風靡したノンフィクションライターの方がいる。だが、寄る年波には勝てなかったようだ。かわいそうにと思った。


1990年代のアメリカには過剰に日本文化を持ち上げる人たちが多かった。日本人はローフィッシュのように低脂肪のものを食べているからスリムでかっこいいというような印象があったのだ。マリブには日本食を食べさせる「サムシングズ・フィッシー(魚料理が出てくるのだが、フィッシーには怪しいという意味がある)」というふざけた名前のレストランがあり(2003年に閉店したそうだ)、そこの常連だというのを何人にも自慢されたし、碁はマインドフルネスに良いというようなわけのわからない話も聞いた。アメリカのエリートは体に気を使うのがかっこいいとされているので、当然健康的な食事を取らなければならず、ということは箸が使えたほうがエライということになっていた。当然、築地はそうした外国人の聖地なのである。
こういう風に過剰に持ち上げられた感覚を例えるのは難しいが、インド人に「俺は広尾のインドレストランの常連で、手づかみで辛いインド料理を食べられるんだぞ」と自慢しているのと同じ感覚かもしれない。インド人が「インドはカレーばかりで恥ずかしい」と思っていると「なんかバカにされている」と思うかもしれないし、インド料理は単に辛いわけではないですよと言いたくなる可能性もある。インド人も外国人の前だと手づかみしないことがある。スプーンを使ったほうが文化的だという概念はあるからだ。だが、多分自慢している日本人は本当にカレーが好きで、辛いカレーが食べられるのが嬉しいだけで、他意はないに違いない。
このノンフィクションライターさんはこうした多様な価値に触れることができなかったのかもしれない。多分アメリカとの接触はあったと思うのだが、当時のアメリカ人はステーキとハンバーガーしか知らなかったのかもしれないし、山盛りでてくるフライドポテトとコーラに豊かさを感じてしまった世代なのかもしれない。
この発言を聞いて石原慎太郎氏の発言を思い出した。彼も築地は単に汚い場所にしか思えなかったようだ。こちらがモデルにしていたのはフランスらしい。パリの内陸に市場があるのだから、築地を多摩に持って行ってはいかがかというような話をしていたのが思い出される。
日本人観光客はフランスのマルシェに行ったりするのだが、これも現地のひとたちからみると「前近代的で小汚い屋台」なのかもしれない。だがフランスの人はこのように日本人が来るのを恥ずかしいと思っているとは考えにくい。それは彼らが他の文化と比較して「自分たちは恥ずかしいなあ」などとは思わないからだろう。
このように考えて行くと、築地移転の問題の背景には「アジア性という恥ずかしさを払拭する」という極めて昭和的な感覚があった可能性もあるんだなあと思った。平成に入ってから外国に接した世代の人たちにとってはなかなか共有しがたい感覚だ。平成の初期は逆に日本人が過剰にもてはやされていた時代で(それなりに差別もあったが)日本人と付き合うのはかっこいいというような時代だったからだ。
そう考えると、今の「愛国右翼」的な人たちは、外国と接しないまま「アジア的なものは恥ずかしい」という感覚を昭和の人たちから受け継いでいるのかもしれない。自己肯定感が得られないから、過剰な対応をしてしまうのだ。
ただ、こういう感覚を持ったままで外国人と接すると対応がちぐはぐになってしまうかもしれない。多分、外国から日本にきている人たちは好きで来ているわけだし、彼らには彼らなりの価値観というものがあるのだ。それを間違えて脳内で勝手に反応すると、このノンフィクションライターさんのように、わけのわからない羞恥心を抱えてしまうのかもしれない。
例えば福岡市では1974年生まれの市長が屋台(これも古くて汚く「アジア的」で恥ずかしいという意見があった)の観光化が進められたようだ。お役所的なやり方に文句も出ているようだが、首長の世代によって、アジア性の扱い方が変わってくるのが面白いところだ。

東京にミシュランの星を獲得したレストランが多い理由

最近、YouTubeで動画ばかりを見ている。アメリカ人の子供が外国の食べ物を体験して様々なリアクションをするという他愛もないものだ。

日本食編では、生卵のかかった発酵した大豆、生魚、魚のケーキ、緑色の激辛スパイスなどが出てきてその度に子供達がしかめっ面をする。その他にもエチオピア、フランス、フィリピン、インドネシア食のバージョンがあって、アメリカ人の子供達の悪戦苦闘ぶりが面白い。
これを見てアメリカ人の食の間口がこんなに狭いのかと驚いた。と同時に日本人はとても食の間口が広いんだなあとも再認識した。
間口が広い最大の要因は、発酵食品、生魚、生卵など生の食材が食べられるということにありそうだ。これに海藻類やエビなどが加わる。流通や市場が発展していないと傷みやすい食料は普及しないはずだ。ビデオの中では「これは生魚なんだよ。調理してないんだよ」というセリフがある。普通の国で調理していないものを食べると体を壊してしまうのだ。
アメリカ人の子供に一番人気だった日本食は天ぷらなのだが、これはもともとは西洋由来だろう。つまり日本人は古くから西洋の食事を受け入れたためにアメリカに行っても困らない。同じように麺料理はアジア圏に広がっているのでアジアを旅行しても何か食べるものは見つかる。アメリカ人は、魚醤を使ったフォーを気持ち悪がったりするわけだが、日本人には馴染みのある調理方法だ。
明治期に入って日本人は肉食を受け入れ(これはかなりハードルが高かったのではないかと思うのだが)さらに昭和の終わりごろから平成にかけて韓国やインド料理が流入した。つまり激辛料理も体験したことになる。動物の内臓にも拒絶反応はないので、残っている食べられないものは、昆虫、牛やアヒルの頭、ワニやカエルくらいだろう。
このように日本人が食べ物に対して並々ならぬ関心を持っており、関心を持つだけでなく日本流にアレンジしてでも取り入れてきたのには間違いがなさそうだ。だから外国からのレストランをそのまま受け入れる余地があり、食の豊富さにつながっている。ミシュランガイドに載っているレストランが多いのはもちろん料理人が優秀だという理由もあるのだろうが、日本人の食に対する間口の広さが原因の一つになっているのではないかと思った。

豊洲移転問題を解決する3つの処方箋

昨日の減価償却についてのつぶやきを見たあとで、錯綜した議論の原因を探そうとおもいいろいろと調べてみた。簡単におさらいすると、豊洲市場移転問題の議論で「減価償却はサンクコストだから考えなくて良い」という話があり、それに対して築地存続派の人たちが「どんなのデタラメだ」と言っていたというのを見かけたという話だ。
これを例えるとこういう話になる。

バカ息子が突然訪ねてきて「築地の家は汚いし補修も大変だ。で豊洲に家を買っちゃったんだけど、ローンが払えなさそうなので代わりに払って欲しい。」と申し出る。豊洲のタワーマンションの景色が気に入ったらしい。

で、バカ息子は続けてこう説明する。でも、もう豊洲の家を買っちゃったし、これってサンクコストでしょ。サンクコストはネグっていいんだよ。築地は維持費がかかるけど、豊洲はそういうの(しばらくの間は)無視できるから、豊洲のキレイなマンションに住んだ方が生活が楽になるんだよね。

僕だったらバカ息子をぶん殴って<議論>は終わりだ。が、経済用語が出てくると「あれ、これってバカ息子の方が正しいんでは」という疑念がでてきてしまうのだ。
この議論はそもそも、豊洲移転について試算をやり直したところ「移転は難しい」という報告書が出たというのが端緒になっているようだ。移転ができる(つまり豊洲移転プロジェクトが正当化される)条件はいくつかあるのだが、利用料金を二倍にする(収益を増やす)か、初期投資費用を税金で賄う(負債を減らす)か、他の儲かっている市場と会計を合一にする(枠を変える)必要があるらしい。その中に「減価償却」という用語が使われており、それが一人歩きしたようだ。減価償却はイニシャルコストと追加でかかる補修費を指しているらしい。
この議論が混乱した最初のきっかけは小池さんだったようだ。カタカナ語が多いことで知られているのだが、付け焼き刃的な知識も多いのかもしれない。小池百合子都知事は「無駄な投資」の意味でサンクコストを使ったのではないかと思う。どうやら「私が介入した結果豊洲は安全になった」というシナリオがあり、豊洲の投資が無駄にならないようにという意味で「サンクコスト」という言葉を使ったのかもしれない。それを聞いた経済学の専門家(多分わかっていて)が議論をまぜっかえし、お調子者の政治家が追随した。そこで「それはおかしい」と直感的に考えた人が騒ぎ出したようだ。
減価償却がサンクコストかどうかが問題になるのは、キャッシュアウトしているにもかかわらず、会計上の支出はあとで起こるからだ。つまり、お金の出入りと会計上の処理が時間的にずれるために錯誤が生じるのだ。プロジェクト計算をする時に「あれ、キャッシュベースで考えるんだっけ、会計ベースなんだっけ」と迷うことがあるので「減価償却はサンクコストですよ」と暗記するわけである。過去の投資の失敗をなかったことにするために使う魔法の言葉ではない。
もともと豊洲の収支計画は議会に提出されており、工事も終わっているわけだから、何らかの形で支出は終わっているはずだ。つまり、議会が承認した結果キャッシュは外に出ている。だから今更「費用の負担をどうしましょうか」という議論が出てくること自体「あれ、何かおかしいな」という気がする。
その上、実務はもっとややこしいことになっているようだ。つまりキャッシュアウトと会計処理に時期的な違いがあるだけでなく、ローンの話が絡んでいるのではないだろうか。豊洲が失敗したと仮定して「無駄金」を払い続けることになっても、過去の承認がなかったことになるはずはない。つまり議論としては簡単で「あてにしていた収支計画がデタラメだったから、それを税金で補填しなければならない」というだけの話なのだ。移転しなければお金は全く入ってこないし、移転してしても期待ほどのお金は得られないということになる。
いずれにせよ「どうお金を工面するのか」という問題は「A/Bプロジェクトのバリュエーション」と分けて考えなければならない。それを一緒くたにするとわけがわからなくなるのは当然じゃないかと思うのだが、この一連の議論を追ってみると、それを気にしている人はいないように思える。
ではなぜそんなことが起こったのか。気にしてテレビを見ているとコンテンツビジネスに詳しい国際弁護士を名乗るコメンテーターが「イニシャルコスト」の意味で「減価償却」を使っているのを見つけた。わかって使っているのかもしれないが、これは議論をややこしくするだろうなあと思った。
ここで豊洲がいいのか築地がいいのかという議論をするつもりは一切ないし、そのような情報も会計知識もない。一つだけ言えるのは、議論の参加者に会計の基本的な知識がないために、いろいろな人がそれぞれの勝手な思い込みで議論を理解して問題を複雑化しているということである。その上雪だるま式に様々な問題が一緒くたになるのでいったい何を議論しているのかということがわからなくなっているようだ。
この状況を改善するためにはどうしたらいいのだろうか。3つほど処方箋を考えた。
一つは外野を黙らせることだ。誰が何を決めているかが明確になればこの問題は解決する。この原因を作っているのは小池都知事である。小池さんは「いつまでに何を決めたいのか」がさっぱりわからない。従って、誰が責任を持って何をどこまで決めるかが明確にならない。
次にやることは、何を議論しているのかというスコープを明確にすることである。政治問題なので実行は難しそうだが、いつまでも揉めているよりは楽になりそうである。この場合は「リスク要因の確定」「投資のバリュエーション」「政治的な責任問題」などに分けられる。多分予算の話ができるのはそれ以降ではないだろうか。不確定要素が多い上に単純な意思決定もできていないのに、総合的な意思決定などできるはずがない。
最後にやることは共通言語の獲得である。が、これはすぐには難しい。今回の議論では会計用語の基礎と倫理問題(持続性や安心安全に関わる)の基礎を知っていないと議論に参加できない。アメリカでこういう不毛な議論が起こりにくいのは、マネージメントを行う人が、修士レベルで経営の基礎知識を学んでいるからだ。一つひとつは実務レベルの知識ではないので「こんなの勉強してどうするんだろう」などと思うわけだが、よく考えてみると、基本的な知識の粒を揃えておかないと議論すらできなくなってしまうのだなあと思う。その意味では日本人はバベルの塔に住んでいる。同じ言語を話しているつもりで全く相手のいうことがわかっていないのである。

減価償却はサンクコストです、が……

減価償却はサンクコストというのは嘘だという書き込みを見つけた。で、これにレスをつけようと思ったのだが、なんかややこしい話になりそうなのでまとめる。


確認したわけではないけれど、多分、池田信夫さんのこの文章が元になっているものと思われる。
まず減価償却は初期投資の変形だ。つまり、過去に支払いが終わった費用を分割して計上しているだけなので、すでに投資は終わっている。ゆえに減価償却はサンクコスト(埋没費用ともいう)だ。このあたりは検索してみるといろいろと出てくる。
ただ、この一連の発言のもとになった小池さんの発言の意味がわからないので、議論自体あまり意味がないんじゃないかと思う。サンクコストを「取り返しがつかない何か」と言っているように思える。実際には「すでに発生した出費」はすべてサンクコストなので人間が恣意的にサンクコストを作ることはできないからだ。

小池さんは「サンクコストにならないためにどうすべきか客観的、現実的に考えていくべきだ」といいましたが、(池田さんの文章から引用しました)

ということで投資の最大化ということを捉えると、池田さんの言っていることが正しいように感じられる。豊洲はこのままで安全なのか(つまり追加投資コストはかからないのか)という議論が出てくるのだが、多分それがわかっているので不自然な位置で「飲み水じゃないから大丈夫」という話が出てくる。これは多分予防線になっているのではないか。
そもそも初期投資が終わっているとはいっても、支払いはすんでいないらしい。出費はあったのだろうが、どこかから借りているのではないだろうか。プロジェクトの提言をみるとその費用をどう議会に説明するかという問題が起きているように見える。文章によると提言は次のようになっているという。以下引用。

それによると、市場の豊洲移転が案として成り立つためには、お金の問題を解決しなければいけないとして、(1)豊洲の赤字を防ぐため、他の10市場も含めて使用料を2倍に上げる、(2)11市場を順次売却して、その収益を市場会計に繰り入れて赤字を補う「たこ足生活」で対応する、(3)減価償却分(大規模修繕・改修などの設備費用)約3050億円と豊洲建設費の不足分、市場の赤字は、すべて税金で賄う―の3点を挙げている。

普通プロジェクトの投資計画を建てる時には、便益と費用を並べて現在価値を出した上で投資の正当化するはずだから、豊洲建設が決まった時点で費用のアプルーバルは出ているはずだ。お金を使ってしまって建物が建っているのに今更「プロジェクト自体が成り立たないかもしれない」などと言い出すのはおかしな話なのだが、それがまかり通っているのが都議会なのかもしれない。
この文章の一番大きな問題は何だろうか。それは政治的な説明責任と経営上の投資の最大化という問題がごっちゃに語られていることなのではないかと思う。
政治責任は過去に起こったことに対して問われるのだから、埋没費用だろうがなんだろうが関係がない。税金を無駄遣いしたのなら正されなければならないし、運営体制がいい加減ならそれも精査されるべきだろう。また、過去にいい加減なお金の使い方をした人は将来にわたってもそういうお金の使い方をする確率が高いからである。さらにモニタリングすらまともにできていなかったわけだから「追加費用がかからない」という言葉の信頼度もわからない。つまり、説明責任に対するクレディビリティの問題だ。これも信用問題で、平田座長は「安心は政治マターだ」みたいなことを言っている。
つまり、政治問題はプロジェクト運営能力と発言の信頼性に分解できそうだ。
一方、商人の世界では持っているお金を最大化しなければならないわけだから、過去にとらわれるのはよくない。サンクコストが問題になるのは長々と投資をしていると成果が上がらなくても「なんとなく後ろ髪引かれる」気分になるからだ。今まで使った金をドブに捨てるのかという気分になる。これが問題になるわけである。このつぶやきの前段には「損きりの言い訳に使われる怪しげな用語」というようなニュアンスがあるのだが、これはある意味では正しい。
さらに、文章の後段は主観やリスクの話をしているので、さらに話がややこしくなっているのだが、この文章は「無理を承知でめちゃくちゃな出費をしたとしても既成事実を作ってしまえば問題はなかったことにできる」と言っているように聞こえる。問題を放置した責任までなかったことにできるんですかと言われれば「それは通らないですよね」としか言いようがない。
同じような論法は原子力発電でも見られると思う。原発事故は起こってしまったので除染に一兆円かかろうが二兆円かかろうがそれはサンクコストだ。ゆえに原発は一番安い電力なのだと言われれば「それは将来同じような災害が起こったらその費用も度外視するつもりなんですよね」としか言えない。だが、実際にはその類の議論がまかり通っている。
豊洲・築地の問題は、利権の絡んだ面倒な政治問題だ。加えて感情的な議論を起こしてページビューを稼ぎたい人たちがたくさんいて、袋叩きすら商売になっている。なので、あまりテクニカルなところには立ち入りたくはない。だが、議論の顛末を見ていると、つくづく党派性のない試算とモニタリング結果が見たいなあと思ってしまう。
長々と1900文字も書いてしまったが、豊洲の問題は「政治的問題(プロジェクト運営能力)」・「政治問題(信頼性)」・「経営(将来の収入と追加投資)」「リスク」の問題がごっちゃになっていることが問題だと思う。中にはわかっててわざとごちゃごちゃに書いている人もいるので、なかなか始末に負えない。
 

小泉農林部会長の孤軍奮闘

幼児教育の無償化を…「こども保険」創設を提言へという記事を見つけた。最小に見た時に「ああ、うまいこと考えたな」と思った。

安倍首相は政権が吹き飛ぶ可能性が高い消費税増税に消極的で収入増に行き詰っている。社会保障の負担は膨らんでゆくばかりなのでこども向けの財源は確保できそうにない。社会保険料は天引きされるので0.1%程度増えてもあまり痛みを感じないだろう。別出しにならないと支払っているという感覚がわきにくいからだ。

いずれにせよ、日本の成長は行き詰っていて納税者の負担増以外には道がなさそうだということはよくわかる。これまでは「アベノミクスの果実」などと言っていたのだが、そんなものはなかったのだ。

いろいろな選択肢の中から精一杯「若手」が考えた策なので応援してあげたいが、なかなかそういう気分になれない。まず、周囲は勝手なことばかり言っているようだ。毎日新聞から引用する。

ただ、いずれの案も決め手を欠く。教育国債は「借金に過ぎない」(財務省)、消費増税は「政治的に難しい」(党中堅)との批判があり、こども保険にも「リスクに備えるという保険の趣旨に合わない」(厚生労働省関係者)との懸念が漏れる。党は、政府が6月にも決定する経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)に財源論の明記を目指すが、とりまとめは難航が必至の情勢だ。
ニュースサイトで読む: http://mainichi.jp/articles/20170330/k00/00m/010/161000c#csidx9a1cb8cfc4139c99084c0157899af3e
Copyright 毎日新聞

さらに安倍首相は一切間違いを認めない人なので、いつも「俺たちの政策はうまくいっているが、もし恩恵を感じていないのだとしたら、お前らが悪いんだ」というような言い方をする。

それだけでも怪しいのに、同じ時期に日本会議の人たちが集まって「憲法改正するぞ」と怪気炎をあげたそうだ。これまでの言動を見ていると、日本会議の目的は国家の私物化だ。国会議員が国民を指導する彼らの取っての理想国家の樹立を夢想しており、負担だけを国民に押し付けるような政策が理解されるはずもない。

税金や社会保険料による国民の負担増は難しい。それはなぜだろうか。

日本の税制は企業、国民、政府の間の経済循環で成り立っていた。ここから企業を除いた結果起きているのが今の不況だと考えられる。企業は国内投資(生産性の向上、賃金、生産施設の建設)などを行わなくなり、蓄積しはじめた。ここから循環に回る資金が枯渇し、消費に回る金がなくなり、ますます市場が干上がるという悪循環が生まれている。子育ての費用も正社員への手厚い賃金という形で企業が担ってきたのだが、最近では「保育園をいくらつくっても足りない」という状態になっている。保育園ができれば、それにあわせてパート従業員を増やすというような循環があるのではないかと考えられる。つまり消費税増税や社会保険料による徴収は企業を巻き込まない限り、間違った政策となってしまう可能性が高い。

しかし、これに対して日本の有権者は直接政府に抗議をしたりしないで、政治と独特の距離の取り方をする。一度取られた税金や社会保険料はなかったものとみなすようだ。政府を監視して税金の使い方を精査しようなどという気持ちはない。

しかし、新奇性のものに対しては極めて敏感に反応する。例えば消費税増税の可能性をほのめかしたり実行した政権はことごとく潰れている。最近では野田政権の没落が記憶に新しいのだが、それまで人気のあった細川内閣も国民福祉税構想を言い出した途端に崩壊した。当時の状況は日経新聞に詳しい。

どうも日本人は「負担」を言い出すとそれに見合うような見返りを求めるようだ。ある種の契約意識が働くのだろう。増税は「損」なのでそれに見合う「オトシマエ」を欲しがるという意味ではヤクザ的な気質があると言えるのだが、もしかしたらヤクザの方が日本の伝統的な契約観を持っているのかもしれない。感覚的には、お上を告発したら死罪相当という感じなのかもしれない。千葉には佐倉宗吾という人がいるのだが、お上に直訴したということで子供もろとも処刑されてしまった。佐倉藩を飛び越えて将軍家とやりとしたというのがいけなかったのだと思うのだが、そうでもしないと付近の農民は飢えて死んでいただろう。

つまり何かを言い出す時には命を差し出さなければならず、それ以外は契約としては認めないよということだ。日本人は書かれたものを信頼せず、何かを言い出したら過大な犠牲をコミットメントの証明として使うのだ。

いずれにせよ、安倍政権がどんなに情報を隠蔽しようが、土地を不当な価格で払い下げようが、大臣が記憶に頼る曖昧でめちゃくちゃな答弁を繰り返そうが、私人をリンチまがいに告発しようが、国民は特に怒らない。それは安倍政権が「アベノミクスの果実でなんとかするから国民の負担は一切増えませんよ」と言っているからである。

多分、この提案がどのような報じ方をされるかはわからないし、どういう受け止め方をされるのかはわからないのだが、有権者がこれを「やっぱりアベノミクスの果実だけではダメだったんで負担してください」と受け取ってしまった時に何が起きるのか、ちょっと楽しみである。

青年将校の暴走を抑えられなくなった安倍首相

お詫びと訂正:TBSの報道によると、くだんの国会議員の記者会見は官邸の強い意向によるものなのだそうだ。まさか一国の首相が私人をい吊るし上げろと部下に命令するなどとは信じられなかったのでこんな記事になってしまった。公明党は「予算委員会が決めるはずなのに、なぜ委員でもない国会議員が」と抗議したそうだ。

青年将校たちが週刊誌ネタを人権問題にした

籠池さんを偽証の罪で告発する動きが出てきたそうだ。これを見て「ああ危ないなあ」と思った。安倍政権がこういう崩壊の仕方をするとは思わなかったからだ。
この問題はもともとは週刊誌レベルのネタだった。大阪のおもろいおっちゃんが「なんか悪いことしている」という図式である。だが、知らず知らずのうちにみるみる大きな問題に発展した。
しかし、単なる民間人である籠池さんを寄ってたかって国会議員が吊るし上げる証人喚問から意味合いが変わってきた。国家権力が民間人を恫喝する人権問題になってしまったのだ。これを主導しているのは安倍政権が抱える血気盛んな「青年将校」たちだ。彼らは行政経験がなく、首相の威光を振りかざして官僚を恫喝している。こうした態度が官僚を萎縮させるということにすら気がつかないのだろう。
もちろん、詐欺まがいの(というより詐欺かもしれないのだが)寄付金集めをしていた籠池さんも悪いのだけれど、国有財産である土地を格安で処分してしまうというのもかなり悪質性は高い。悪質性は高いのだけれど「経緯はわからない」とか「記録が残っていない」などとして隠蔽するのは悪質性がもっと高い。しかし「法的なプロセスに沿っている」というだけの理由で彼らは免罪されてしまう。
さらに、これは忠誠心争いになっている。ポストに恵まれない将校がボスへの忠誠心を示すために民間人を吊るし上げているのだ。かつての自民党ならこっそりと検察に手を回してやったことを今では白昼堂々と行っている。何か感覚がおかしくなっているのだろう。

国際問題に発展しかねない隠蔽体質

まず隠蔽体質は、国際問題にまで発展する可能性がある。自衛隊の活動記録(いわゆる日報)も隠蔽されている。伊勢崎賢治さんは記録の大切さを説明しているのだが、これは国民向けの説明資料ではない。海外で活動することがそのまま紛争の当事者になるということを意味しており、正当性を主張するためには証拠資料が必要だ。ところが日本は必要に応じて証拠資料を隠蔽してしまう体質があるということを内外に向けて発信してしまった。南スーダンで今まで何も起きていないからといって、これからも言われもない指摘をされないとはいいきれない。しかし自衛隊は今回の件で自らの正当性を証明できるかもしれない証拠を隠滅してしまったのだ。
もちろん、これで外国人が想起するのは、第二次世界大戦下のアジアで日本軍が起こした一連の出来事である。日本側に証拠資料がないので、あとは目撃証言などから犯罪を検証してゆくしかないので日本人の言い分は一切認められないのである。
稲田防衛省はこうしたことを考えて記録の問題を精査しているとはとても思えない。これも安倍政権が政府を抑えられなくなっていることを示唆している。

共謀罪も危険

国家は国有財産の不当な処分を隠蔽しそれをなかったことにする。もともとは問題を隠蔽するのに「私人だ」と言い張り、国民が安倍首相に反撃すると数日で態度を変えて国会に呼んで恫喝する。こんな政府が「法律を恣意的に運用することはない」などと言って誰が信頼するだろうか。こんな中で共謀罪が審議されているのだが、恣意的にテロリスト集団を決め込んで計画段階で犯罪化できる共謀罪はとても危険だ。
これで思い出すのが礒崎陽輔議員だ。以前Twitterでレスポンスをもらったことがあるのだが、憲法を改正して「国民に規範を示すものにしたい(専門的には訓示的というそうだ)」と主張していた。
つまり自民党には「国民は党の指導に従って行動すべきだ」という考えを持った人たちがいて、それを隠そうともしない。かといって一貫した方針があるわけではなくその場の勢いで突っ走るようなものでしかないようだ。

青年将校たちの危険性

ここまでとりとめもなく自民党のヤバさについて考えてきたのだが、崩壊の危険性はいくつもある。
一つ目の可能性は自民党が国民の制圧に成功してしまうというものだ。これは日本の北朝鮮化を意味する。日本は国際競争から完全に取り残されて貧しい国家へと転落するだろう。
しかし国民がこれを許容するとも思えない。すると、政権についている間は完全に隠蔽ができるが、一度ティッピングポイントを越えると国民の不満が爆発するというものである。韓国がこのような状態にある。政権が数年ごとに処罰されてしまうという状態だ。つまり日本の韓国化だ。
外国から非難される可能性もある。一つは勇ましい青年将校たちが中国や韓国を刺激するという通路だ。アメリカはとても内向き化していて、日韓の調停はしてくれないだろう。東アジア圏で日本が孤立する可能性がある。安倍首相が孤立化させるというわけではなく、周囲が緊張をエスカレートさせてしまうのだ。
もう一つの通路は国際紛争に首を突っ込んだ挙句、現地で問題を起こすという通路だ。南スーダンの事例をみると日本人はあまり気にしないように思えるが、国際社会では日本は取り返しのつかないダメージを受けるのではないか。間違いから現地人を殺してしまうかもしれないし、逆に時期を読まずに撤退して「日本は逃げるのか」と非難されることも考えられる。つまり泥沼化の危険性だ。

新しい形の崩壊

このように見ていると、安倍首相はかつての支持母体だった「愛国者」のみなさんの暴走を抑えられなくなっているようだ。愛国者たちはいろいろなものに忠誠を誓っているように見えるのだが、実際には自分の欲望にのみ忠実だ。だからこそ自分たちが搾取される心配をしないで、他人に犠牲を強いることができるのだろう。つまり天皇を特に尊敬しているわけでもないし、多分安倍首相も権威として利用しているだけなのだろう。
足元の東京都ではすでに崩壊が起きている。小池百合子さんは「党費を払っていないので党員ではない」と言っているが、党の方は「まだ党員だ」と主張する。つまり、党そのものが溶解しかかっている。都議会自民党は都民から見捨てられているので、あとは名誉をとって討ち死にするか、恥を忍んで敵陣営に願えるかしかなくなっている。
さらに野党に政権提案能力がないために、打倒すらしてもらえない。もし野党の議席が増えれば党内が引き締まるだろうから、実務能力がまし、人権抑圧的な動きは退潮するはずだ。これは冷戦構造が崩れることで西側社会が内部崩壊したのと同じような構造を持っていると言えるだろう。
つまり、今回の安倍政権の崩壊は、党がなくなるわけでもないし、政権が変わるわけでもない、新しい形の崩壊なのだということが言える。

安倍昭恵さん問題をスピリチュアル的に解釈する

dot.という朝日新聞社のサイトに、安倍昭恵さんの不思議な行動はイデオロギーによっては説明できず、自分探しとスピリチュアリズムのせいだとする記事を見つけた。何人かの識者たちがこれに反応しているのだが、どうも自分探しというものに幼稚さを見出しているようだ。背景には、政治とかジャーナリズムは格上の真面目なものであって、スピリチュアリズムのような浮ついた遊びではないという含みがあるのではないかと思われる。
これは危険な態度だと思う。「公」の方が「私」より偉いと考えてしまうのは日本人の悪い癖だが。人間は生まれたからには「自分ならでは」の何かを追求する義務があると思う。人類の進歩は、一人ひとりが一歩ずつ歩んだ集積に過ぎないからだ。昭恵さんはそれをやっているだけだ。悪いのは周囲だ。夫は理解を示さずに金と便宜だけを与えた。勝手に居酒屋でも作られてはたまらないという気持ちがあったのかもしれない。そしてそこに悪い人たちがたくさん群がってきた。地位とコネが目的だ。
自分探しが誰かの金儲けの犠牲になるのは珍しくない。既存宗教が悩んでいる人の相談窓口として機能しないことや、普通の人たちが人生で起こりうる理不尽な出来事に対してあまり知識がないことが挙げられる。そのため、ちょっとした空虚さを感じて精神世界に興味を持つとそのまま新興宗教的な(大抵はいろいろな宗教のごった煮なのだが)世界にのめり込んでゆく可能性は極めて高い。
朝日新聞はスピリチュアリズムを「わけがわからないもの」を入れるためのブラックボックスとして使っている。精神世界の追求にもそれなりの構造や言語があるのだがそうしたものが一切無視されているようだ。
安倍晋三さんはデタラメな政治で多くの人を傷つけ、事実を曲げ、官僚のやる気をそいでいる。それでもジャーナリズムはそれをただ黙認しており何もしなかった。私的でくだらないはずの安倍昭恵さんの問題だけが総理の危うさを浮き彫りにしているのである。これがスピリチュアリズムのせいなら、スピリチュアリズムは大いに尊重されるべきではないだろうか。
人はいくつになっても不調を感じることがある。「自分探し」がいつ始まるかなど誰にもわからない。人生は理不尽なものだし、完全にコントロール仕切れるものではないということをしっかりと認識する必要がある。伝統的に日本人は自然や運命に立ち向かうことなく受け入れるというメンタリティを持っていたはずなのだが、こうした視線が失われて少し傲慢になっているのではないだろうか。精神世界に「逃げ出した」としてもそれは悪いことではない。ただ、周囲の助けは必要である。
確かに、世俗的に解釈すれば、安倍昭恵さんは自分探しをしておりわけのわからない人につけこまれたというようなことになるのだろうが、スピリチュアリズム的に解釈すれば「必然が引き寄せた」ということになる。つまり、あの下品そうに見える籠池理事長夫人と安倍昭恵さんには似たような一面があるかお互いに必要があるのだ。つまり、籠池夫人は安倍昭恵さんに代わって、安倍晋三さんに「どうして裏切ったんだ」と金切り声をあげて叫んでいると解釈できる。
そんな昭恵さんは晋三さんにとって全く無駄で足を引っ張る存在なのだろうか。そうとは思えない。安倍晋三さんは現実を捻じ曲げることによって今の地位についた。ただしこれは悪いこととばかりは言い切れない。大震災で不安だった日本人は彼の「このままで大丈夫だ」という嘘を必要としていたのだろう。これはある時点で総括されるべきだったが、日本人はそれにしがみついている。だが、晋三さんは、ある時点でこれまでの行動を総括し、成果に感謝しつつ自分を謙虚に認めるべきだった。何もかもをコントロールし続けることなどできないからである。コントロールできたとしてもいつか歪みが来る。今の内閣では情報の隠蔽が続いている。特に国家的な危機があるわけではなく、単なる自己保身である。
そんな晋三さんが唯一コントロールできないのが昭恵さんだ。母親から政治家という人生そのものをあてがわれた晋三さんが「理想的な嫁」として母親から割り当てられたのだろう。だが、そのお嫁さんは(記事によればだが)40歳を過ぎた頃から自分探しを始める。夫妻は精神的に結びついていないので、その行動を黙認せざるをえなかった。それでも、夫は最大限の便宜を図ったのだろう。秘書が5人もついていたという。
夫婦はもっとも親密な関係を築かなければならない他人だが、中には親密な関係が築けない人がいる。表面的なことしかわからないのだ。妻が空虚さを感じる裏にはもっとも親密であるべき他者と価値観を共有できないという事情があるのだろう。ゆえに晋三さんがもっと遠い他人とそうした関係を結べるとは思えない。
しかし、ちゃんとした人間関係が築けないからこそ会う人会う人に表面的な満足を与えられていたのかもしれない。お互いにしている話には整合性はないが、その場その場でその人たちが聞きたかったことをいい、つじつまが合わなくなると、周りを押さえつけて事実を歪曲してしまう。
つまり、安倍昭恵さんが暴走したのは偶然ではなく必然だということになる。こうした不誠実な態度はいつか復讐されますよということだ。これが日本にとってどういう意味を持っているかということはわからないのだが。少なくとも夫妻にとっては必要なことだったではないだろうか。
つまり籠池さんは奥さんを通じて安倍晋三さんが必然的に引き寄せているのだ。そのメッセージは比較的明確だ。それは「人を自分の都合に合わせて持ち上げたり切り捨ててはいけない」というメッセージである。安倍首相はいつものように都合が悪くなると、籠池さんを知らないといい、ついでに昭恵さんが夫のためにやっていたことを「私人が勝手にやったこと」として切り捨てた。今まではこうしたやり方でなんとかなっていたのかもしれないのだが、今回ばかりはコントロールができなくなった。
これに対して「因果応報だざまあみろ」ということも可能だがこれはよくない態度だ。私たちはうまくいっていても、うまくいっていなくても、時々立ち止まって感謝する時間を持つべきだということを学ばせていただいていると考えたほうがよい。
スピリチュアル的には起こったことに「良い」も「悪い」もない。ただそれを受け入れない限り、次から次へと同じことが起こり苦しみを生み出すだろう。全て必要があって配在されているからだ。

「日本には四季があって美しい」というエセ保守をしかる

朝起きて窓の外を見て「日本には四季があって美しいというやつはバカだ」ということに気がついた。季節外れの霜が降りていたからだ。この季節に霜が降りるとまだ根付いていない植物が枯れかねない。
お彼岸が過ぎると様々なイベントがやってくる。まずはヒカンサクラが咲き、続いてソメイヨシノが咲く、最後にヤエザクラが咲いて終わりになる。この間には足元でムスカリやクリスマスローズが開花し、ユキヤナギが可憐な花をつける。つまり植物はカレンダー代わりになっている。
確かにこの移り変わりは「生きていてよかったなあ」などと思うほど美しいのだが、単に「綺麗だね」というだけでは終わらない。準備している苗を外に出したり、地植えする植物の種を準備しなければならない。早すぎると霜に当たってしまうし、遅すぎると夏の暑さに間に合わない。例えばトマトなどは暖かくなってから外で発芽させたいのだが、夏には間に合わないので、室内で苗を準備しなければならない。
現在は温室技術なども発達しているのでそれほど気にしないのかもしれないのだが、気象情報もない先祖にとっては季節の移り変わり目は死活問題だったはずだ。カレンダーなど何の役にも立たない。植物を見たり、山岳地方では渓谷の雪の溶け具合などを見て気温の移り変わりを感じていたはずだ。
もちろん四季がある地域は多いのだが、小麦は寒さに当てて成長させるのでそれほど季節にはセンシティブにならないのではないかと思う。稲はもともと熱帯の植物なので日本では作れる時期が限定される。そこで四季(特に冬から春)の移り変わりには特に敏感にならざるをえなかったのだろう。
つまり春の花が美しいのは「ああ、今年も稲が育てられるね」ということであり、四季があるから他の地域よりえらいという意味ではないのである。こういう考え違いが多いのは、自分で植物を育てる経験をしないからだろう。つまり伝統から切り離されてしまっているのだ。
だから、米か野菜を数年育てた経験がある人でないとその気分はわからないから、彼らには保守を名乗る資格はないのだ。
 

加計学園疑惑の何が問題なのか

まとめ

ほかの人と話を合わせるだけなら覚えておくべきなのは次の点だ。「安倍首相はずるい」ということになる。

  • 首相と仲が良い加計氏を首相が贔屓してずるいのではないかと疑われている。プロセスには違法性はないのだが、本当にこんな贔屓がまかり通っていいのかという問題がある。京産大も獣医学部を作ろうとしたのだが後で規制項目が増えて京産大は排除された。
  • 首相は「もし圧力をかけたなら責任を取る」と言っているので野党が頑張っている。働きかけをしたのは間違いがなさそうだが、これが忖度(勝手に推し量った)、圧力(首相が不当に圧力をかけた)、業務上の指示だったのかが曖昧になっている。どちらにせよ説明するつもりがないのに言いのがれていて、これもずるいのではないかということが言える。

が、もしもう少し考えたいなら次の点を考えてみると良いと思う。ここまで考えると多分民進党の議員には勝てる。

  • 規制を温存して利権を確保しつつ特区を作ってさらに利権を呼び込もうとした点が状況を混乱させているんじゃないか。
  • 国力の基礎になるはずの教育までが利権の対象になっているのはいかがなものか。競争力を確保するためにどのような学校制度をつくるべきかという根本的な議論がないのはよくないのではないか。
  • 忖度などと言われているのだが、そもそも誰がプロジェクトを推進して、誰が説明をして、誰が責任をとるかが全く曖昧になっている。豊洲とか国立競技場などこのような曖昧なプロジェクト管理が横行するのはなぜかという論点がある。
  • 実際に学校を誘致した結果として財政が破壊された自治体もあるのだが、全く総括も反省もされていないのはどうしてか。ここで反省しておかないと同じような問題が繰り返し起こる可能性もある。

何が問題かよくわからないがとにかく政局化しようとしている民進党

森友学園問題が大きくテレビで取り上げられたせいなのか、第二の森友問題を作ろうという動きが見られる。安倍政権下では戦略特区を作って学校を誘致して国や自治体の土地と補助金を注ぎ込むとおいうスキームができつつあるらしいのだが、もともと民主党政権時代の規制緩和路線を安倍首相が乗っ取る形で進んでいるように思える。自民党は、民主党の作った規制緩和路線の旨味に気がついたのだろう。つまり、全面的に禁止するのではなく、全国では禁止して利権を守りつつ特別待遇の区域を作ってそこでも利権を確保したほうが「美味しい」のだ。
加計学園問題を批判的に見る人は、何が問題なのかということをよく知った上で議論に参加しなければならないと思う。問題点は規制緩和の私物化である。規制緩和とは政府の関与を減らして民間の活力を高めるという手法なのだが、それを歪めると国家関与を強めることができるのである。
民進党が攻めあぐねているのは、実は彼らは自分たちが推進した規制緩和が何なのかをよく理解できていなかったからなのではないだろうか。
私たちは森友学園から二つのことを学んだはずだった。

  1. そもそも、学校の認可がとても複雑なプロセスで
  2. 一度認可が降りてしまうと行政府の監視の目が行き届かない

ということだ。大学入試と同じで入るのは難しいが入った後はフリーパスという構成になっている。
獣医学部の新規設立には業界団体がこぞって反対していたらしい。つまり、新規認可が難しいがゆえに学校が既得権益化しているのだろう。加計学園の場合は複数大臣が「談合」して加計学園だけを参入させるという操作をしたようだ。そういうやり方でしか新しい学校が作れないのだ。

大臣の権限が曖昧

そもそも山本地方創生大臣は首相と今治の特区の件について話をしたことがないと言い張っている。つまり忖度がなかったと言いたいのだが、実はおかしな話だ。安倍首相は特区の責任者なので何も知らないとしたら、上司に報告してなかったことになってしまうのだ。いったい山本地方創生大臣の役割は何かがよくわからない。おまけに「麻生大臣が反対している」という話がある。財務省に睨まれると予算がもらえなくなるかもしれない。などなどと考えると、誰が最終責任者で、どの人に何を聞けばいいかがさっぱりわからない。つまり、これはうまく行かなくても誰も責任を取らないということなのだ。
国民としてはなぜうまく行くのかを説明して貰えばいいだけの話だし、うまく行かなければ責任を取ってもらいたいと考えるだろう。が責任をとってくれそうな「偉い人」が誰もいないのである。

そもそも本当に新しい学校を作るべきなのか

加計学園プロジェクトが妥当かを考える上では、学校(特に高等教育)が本当に市場の要請にあった形で存在しているのかという議論が実は重要だ。獣医さんたちの充足状況に問題がないのなら、このままでよかったわけで新規参入は特に必要なかったことになる。獣医さんの需要(実は家畜医師が多いのだという)が減っているので獣医師の妖精はあまり必要がないという声がある。
同じことが他の学部(特に医学・歯学系)にも言える。だが、こうした議論が行われることはなく「怪文書」とか「首相のご意向」などばかりが取りざたされる今の状況には大きな問題があると言える。
果たして自由主義と社会主義は共存できるのだろうか。例えば、獣医になる人は不況が続く地方よりも大都市に出て行ったほうがよいと考えるだろうから地方の学校に生徒を集めるのは難しい。そこで、国が関与して不自然な獣医学の割り当てをすると、最終的には儲からない学校を国や地方自治体が助成し続け、育成した獣医が都市に戻るという不公平が生まれる。かといって、獣医を地方都市に縛り付けておくわけにはいかない。

学校問題の背景にある地方の衰退とその具体例

学校の誘致問題の裏には地方の衰退という辛い事情がある。衰退した地域は政治力を駆使して新産業を誘致しようとするのだが、地方に誘致するのは容易ではない。そこで比較的コントロールしやすい学校に目がゆくことになる。「地方を支える人を育てる」という美しいお題目を否定できる人は誰もいないので、こうした学校に補助金が注ぎ込まれてしまうのだ。
がこれが悲劇を招くことがある。
千葉県の東端にある銚子市は人口減が進んでいる。産業といえば漁業・キャベツ栽培・醤油製造くらいしかない。利根川を挟んだ茨城県の神栖市や鹿嶋市に人口が流れている。神栖、鹿嶋には立派な港湾設備と大きな工場がいくつもあり、税収に差がある。つまり銚子市は地域間競争に負けてしまったのだ。
そこで銚子市は千葉科学大学を誘致し初期投資として土地などを含めて77億円を支出した。学校が誘致されると生徒や先生が銚子市に住むようになり、地方交付税が2億円以上増収になり元が取れるという説明だったようだ。だが、無理をして大学を誘致したものの思った様な効果は得られなかった。銚子市が大学誘致にかけた金のうち回収できていない借金が2016年5月時点で44億円もあり、さらに財政危機が進んでしまった。
さらに大学には中学校や高校レベルの教育も理解していない様な生徒が集まっているという噂もある。生徒数を確保する必要があり、まともな入試が行われていない。優秀な生徒は都市部に出てしまうだろう。学生時代ならではの経験も(たぶんアルバイト先すらない)できないし、就職にも不利だからだ。
千葉科学大学も「アベトモ」の加計学園の事業なので「最初から政治力を使って地域を騙そうとした」といううがった見方もできるのだが、そもそも最初から事業として無理があった可能性が高い。いずれにせよ「過ち」の代償はとても大きい。頼みの綱だった新しい企業誘致が結果的に市民生活に大打撃を与えるということが実際に起こるのだ。
だが、安倍政権が銚子の問題を反省している気配は感じられない。特区に関する朝日新聞のリーク文書には「千葉は時間がかかりすぎた」という文言が入っていた。誘致させるまでが政権の仕事であとは野となれ山となれという刹那的な意識が強いのだろう。

最後に

実はかなり複雑で根が深い問題がたくさんあるのだが、これらが整理されて議論されているとはとても言い難い状況だ。多分、最初から全てを把握するのは難しいだろうから、一つひとつを取り出して考えてみるのがいいと思う。