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安倍昭恵さん問題をスピリチュアル的に解釈する

dot.という朝日新聞社のサイトに、安倍昭恵さんの不思議な行動はイデオロギーによっては説明できず、自分探しとスピリチュアリズムのせいだとする記事を見つけた。何人かの識者たちがこれに反応しているのだが、どうも自分探しというものに幼稚さを見出しているようだ。背景には、政治とかジャーナリズムは格上の真面目なものであって、スピリチュアリズムのような浮ついた遊びではないという含みがあるのではないかと思われる。
これは危険な態度だと思う。「公」の方が「私」より偉いと考えてしまうのは日本人の悪い癖だが。人間は生まれたからには「自分ならでは」の何かを追求する義務があると思う。人類の進歩は、一人ひとりが一歩ずつ歩んだ集積に過ぎないからだ。昭恵さんはそれをやっているだけだ。悪いのは周囲だ。夫は理解を示さずに金と便宜だけを与えた。勝手に居酒屋でも作られてはたまらないという気持ちがあったのかもしれない。そしてそこに悪い人たちがたくさん群がってきた。地位とコネが目的だ。
自分探しが誰かの金儲けの犠牲になるのは珍しくない。既存宗教が悩んでいる人の相談窓口として機能しないことや、普通の人たちが人生で起こりうる理不尽な出来事に対してあまり知識がないことが挙げられる。そのため、ちょっとした空虚さを感じて精神世界に興味を持つとそのまま新興宗教的な(大抵はいろいろな宗教のごった煮なのだが)世界にのめり込んでゆく可能性は極めて高い。
朝日新聞はスピリチュアリズムを「わけがわからないもの」を入れるためのブラックボックスとして使っている。精神世界の追求にもそれなりの構造や言語があるのだがそうしたものが一切無視されているようだ。
安倍晋三さんはデタラメな政治で多くの人を傷つけ、事実を曲げ、官僚のやる気をそいでいる。それでもジャーナリズムはそれをただ黙認しており何もしなかった。私的でくだらないはずの安倍昭恵さんの問題だけが総理の危うさを浮き彫りにしているのである。これがスピリチュアリズムのせいなら、スピリチュアリズムは大いに尊重されるべきではないだろうか。
人はいくつになっても不調を感じることがある。「自分探し」がいつ始まるかなど誰にもわからない。人生は理不尽なものだし、完全にコントロール仕切れるものではないということをしっかりと認識する必要がある。伝統的に日本人は自然や運命に立ち向かうことなく受け入れるというメンタリティを持っていたはずなのだが、こうした視線が失われて少し傲慢になっているのではないだろうか。精神世界に「逃げ出した」としてもそれは悪いことではない。ただ、周囲の助けは必要である。
確かに、世俗的に解釈すれば、安倍昭恵さんは自分探しをしておりわけのわからない人につけこまれたというようなことになるのだろうが、スピリチュアリズム的に解釈すれば「必然が引き寄せた」ということになる。つまり、あの下品そうに見える籠池理事長夫人と安倍昭恵さんには似たような一面があるかお互いに必要があるのだ。つまり、籠池夫人は安倍昭恵さんに代わって、安倍晋三さんに「どうして裏切ったんだ」と金切り声をあげて叫んでいると解釈できる。
そんな昭恵さんは晋三さんにとって全く無駄で足を引っ張る存在なのだろうか。そうとは思えない。安倍晋三さんは現実を捻じ曲げることによって今の地位についた。ただしこれは悪いこととばかりは言い切れない。大震災で不安だった日本人は彼の「このままで大丈夫だ」という嘘を必要としていたのだろう。これはある時点で総括されるべきだったが、日本人はそれにしがみついている。だが、晋三さんは、ある時点でこれまでの行動を総括し、成果に感謝しつつ自分を謙虚に認めるべきだった。何もかもをコントロールし続けることなどできないからである。コントロールできたとしてもいつか歪みが来る。今の内閣では情報の隠蔽が続いている。特に国家的な危機があるわけではなく、単なる自己保身である。
そんな晋三さんが唯一コントロールできないのが昭恵さんだ。母親から政治家という人生そのものをあてがわれた晋三さんが「理想的な嫁」として母親から割り当てられたのだろう。だが、そのお嫁さんは(記事によればだが)40歳を過ぎた頃から自分探しを始める。夫妻は精神的に結びついていないので、その行動を黙認せざるをえなかった。それでも、夫は最大限の便宜を図ったのだろう。秘書が5人もついていたという。
夫婦はもっとも親密な関係を築かなければならない他人だが、中には親密な関係が築けない人がいる。表面的なことしかわからないのだ。妻が空虚さを感じる裏にはもっとも親密であるべき他者と価値観を共有できないという事情があるのだろう。ゆえに晋三さんがもっと遠い他人とそうした関係を結べるとは思えない。
しかし、ちゃんとした人間関係が築けないからこそ会う人会う人に表面的な満足を与えられていたのかもしれない。お互いにしている話には整合性はないが、その場その場でその人たちが聞きたかったことをいい、つじつまが合わなくなると、周りを押さえつけて事実を歪曲してしまう。
つまり、安倍昭恵さんが暴走したのは偶然ではなく必然だということになる。こうした不誠実な態度はいつか復讐されますよということだ。これが日本にとってどういう意味を持っているかということはわからないのだが。少なくとも夫妻にとっては必要なことだったではないだろうか。
つまり籠池さんは奥さんを通じて安倍晋三さんが必然的に引き寄せているのだ。そのメッセージは比較的明確だ。それは「人を自分の都合に合わせて持ち上げたり切り捨ててはいけない」というメッセージである。安倍首相はいつものように都合が悪くなると、籠池さんを知らないといい、ついでに昭恵さんが夫のためにやっていたことを「私人が勝手にやったこと」として切り捨てた。今まではこうしたやり方でなんとかなっていたのかもしれないのだが、今回ばかりはコントロールができなくなった。
これに対して「因果応報だざまあみろ」ということも可能だがこれはよくない態度だ。私たちはうまくいっていても、うまくいっていなくても、時々立ち止まって感謝する時間を持つべきだということを学ばせていただいていると考えたほうがよい。
スピリチュアル的には起こったことに「良い」も「悪い」もない。ただそれを受け入れない限り、次から次へと同じことが起こり苦しみを生み出すだろう。全て必要があって配在されているからだ。


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