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神道って本当に宗教なのか

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籠池理事長の家族がTwitterをはじめたらしいので早速フォローした。いろいろなリーク情報があって面白いのだが、あるツイートにひっかかりを感じた。


多分、発信者は愛国人脈がまじめなお父さんを仲間外れにしようとしているということを世間に訴えたいのだと思うのだが「え、神官の資格って一年で取れるの?」と思ったのだ。仏教の修行でもそれなりの時間がかかりそうだし、キリスト教の司祭職だともっとかかる。少なくとも他の信仰を捨ててその宗教に帰依することが求められるわけで気持ちが揺れない(あるいは一時の気の迷いではない)ことを証明する必要があるからだ。しかし、神官の場合は通信講座で一年勉強すれば取れてしまうらしい。
さらに驚いたことに、学校がそれを取り消せばそのお勉強はなかったことになるようである。多分國學院としては累が及ぶのを恐れたのだろうが、「騒ぎが起きたから信仰心も否定する」というのはあまりにもご都合主義と言えるだろう。確かに籠池夫妻の信条にはいろいろな問題があるわけだが、だったら1年のカリキュラムで気がつくべきだ。とはいえ通信教育ではそれはわからないだろう。
これにひっかりを感じたのは、神官がいると神社を名乗ることができて宗教法人の資格が取れるからだ。そうすると税制上の優遇が受けられるというわけである。神道は他宗教を拒絶しないので(多神教なので拒絶する必要がないのだが)別の宗教を信じたままで信徒になることも可能で、通信教育で1年勉強すれば司祭的な資格さえ得られてしまう。これは「税の公平」の面で如何なものかと思うのだが、まあ税制上の優遇を求めて神社になる法人も多いのかもしれない。「なにぶん便利だから」ということだ。神道ってその程度のものなのだ。
何を常識と考えるかというのは人によって違うのだが、これから神社を見てもあまりありがたく思えない気がする。多分通信教育で教えられるのは儀式のやり方とか歴史などの外形的な知識だと思うのだが、神道には統一した儀式体型みたいなものはない。多分、各神社がそれぞれ伝統的なやり方を引き継いでいるはずだ。つまり日本在来の土着宗教をまとめて神道と言っているのではないかと思える。にもかかわらず外形的な知識が存在するということは、誰かが何かからコピペしてきて作ったということではないか。
例えば橿原神宮とか明治神宮も明治時代にできた新興宗教みたいなものだから、それを古くからある神社と一緒に考えるのは間違っているのかもしれない。福岡(宗像神社など古い神社が結構多い)とか京都・奈良(それこそ古い神社がいくつもある)の人たちにはなかなか信じがたいことである。
でも東京の人はありがたがって明治神宮にお参りをして「自分は伝統的な日本人だ」というような気分に浸るわけだから、ある意味開けているというかあっけらかんとした民族だなあとも思う。こういうこだわりのないところが日本人のいいところなのかもしれない。だからこそ箔をつけるために「2600年の歴史」とか「世界一古い皇統である天皇家」などという権威づけが必要になるのだろう。