政治的主張とインスタグラム、あるいはまた伸びてしまった安倍政権の支持率について

エイプリルフールの日曜日にぐだぐだとTwitterを見ていた。いつものように無責任にツイートしていたらレスポンスをいただいたのだが「これはどう対処すべきか」と迷った。かなり極端な主張だったからだ。個人的になんとなくいろいろなトラブルを抱えていらっしゃるようなのだが一貫性がない。嘘と断定することもできないのだが、何か虚実入り混じっている感じがある。一つだけ確かなのかこの人がこの主張を様々な議員の所に持ちかけて信じてもらえてなかったという点である。そこで拒絶された人の問題点を探し出して人にふれ回っている可能性がある。誰にも話を聞いてもらえないというのはなかなかしんどいだろうなと思った。

もし、この人がビジュアル系のサービスを持っていると、だいたいどんな人かがわかるのではないかと思った。センスの良し悪しは別にして精神状態がある程度わかるからだ。被写体を探し、構図を決めて、写真を撮影するというのは総合的な作業で、気持ちにある程度の余裕がないとできない。つまり、精神の安定性が写真に出るのである。Twitterは言葉だけのサービスなのでその辺りが判断できないのだ。

ということで、政治的な主張を通した人や困難があってそのことの追求に一生懸命になっている人(実際にTwitterでフォローしている人の中にはそういうアカウントがある)こそ、信ぴょう性を増すために、事象以外のことを呟いたりビジュアル系のサービスを導入すべきだと思った。思っている以上に他人は政治的な呟きだけのアカウントを極端な人格だと捉えている可能性があると思う。例えて言えばコールセンターの人が全ての顧客を「潜在的なクレーマーであり人格破綻者」として扱うのに似ている。だから、様々なソーシャルメディアをつかって「セルフブランディング」すべきなのだ。真実は自然と伝わると考えて「ブランディング」や「マーケティング」を嫌う人もいるだろうが、人は意外と外面しか見ていない。

さて、このことは意外と重要な問題になりつつある。安倍政権の支持率が出たのだが、持ち直しているようである。なぜか支持率の数字の増減だけで安倍政権が正義なのかそうでないかを決める極端な考え方の人が多いようで「森友問題の禊は終わったのだ」などと考える人すら出始めているようだ。ヘッドラインだけではわからないので少し記事を読んでみた。

共同通信の調査について伝えている毎日新聞によると、支持率は若干持ち直したものの、不支持率が高い状況が続いているという。毎日新聞は「内閣支持率増加に転じる」とは書きたくなかったのだろう。タイトルのつけ方を<工夫>している。少なくとも森友の問題が終わったと考えている人は多くないようだ。一方、読売新聞では続落している。たまたま見かけたこの分析によると一旦下がってから、再び持ち直した可能性があるとのことだ。分析は調査の感覚に違いに着目している。

このこと浮かび上がる可能性は「どちらとも言えない」層の一部が内閣不支持に転じ、支持していた人たちの中からも不支持者が出たのだが、佐川証言を聞いて「最悪内閣が倒れることは直近ではなさそうだ」と判断したというものだ。また、デモが盛り上がるのを見て「このままではまたあのデタラメな民主党系の内閣ができて地震とリーマンショックがやってくる」と考えた可能性もあるだろう。意外と「その場の雰囲気で流された人が民主党政権を支えた」と思っている人が多いのではないだろうか。

ここで安倍首相が信任されたなどと主張するつもりはないのだが、野党支持者にとって重要なのは群衆の姿しか見えない「安倍やめろ」コールは、偏った集団にしか見えないということだろう。もちろん政府は文書の一貫性などどうでもよいと感じているのだろうが、野党支持者も「ただ単に安倍政権をやめさせたいだけでしょ」と見られている可能性がある。「プロ市民」といわれる極端な考え方を持っている人たちというイメージだ。

この印象を払拭するためには「普通の市民が怒っていますよ」という印象を与える必要がある。やはり日本人は同調性が高いので自分と同じような人が怒って初めて「そろそろ自分も不支持に転じようかな」などと思うからである。

極端な一部の人が騒いでいると感じられると多くの人は態度を保留しておこうと考え、一部の人はこのままでは大変なことになるといって逆に支持に転じてしまう。決して政府のやっていることを容認しているわけではないのだが、政府側は「禊は終わった」と考えて結局問題をうやむやに処理してしまうのだ。

もちろん報道のやり方を変えるべきだとか、民主党系の諸政党は数合わせのゲームを今やるべきではないなどと思うこともあるのだが、相手をコントロールすることはできないわけで、まずは自分たちの側から戦略的に見せ方を変えてゆくべきだろう。このまま政権不支持が広がらなければ、森と問題は容認される形となる、公式文書の書き換えを容認する国が国際的に受け入れられることはないだろうから、海外からの健全な投資は減ってゆくだろう。これは国力の衰退にもつながることだろう。

インスタでのんきに写真など撮影している場合ではないなどと思うかもしれないのだが、多分この国の将来は不支持層をどう演出するかによって大きく変わってくる可能性があるのではないかと思う。

この国では意味が人を殺す

夢を見た。ある凡庸な男がノートを移すのが上手だという理由で学校に入りどこかに採用される。最初は単純な書写をしていたがそのうち複雑になってきた。彼には何が書かれているのかはさっぱりわからない。しかし、ハネが違っているとか位置が違うと文句を言われるとその通りに書き直さなければならない。最終的にはノートの内容がシールで隠されるようになる。実はシールの下にはこう書いてあったと言うたびに周囲の同僚からざわめきが起こるのだが、シールの下にはまたシールがあり……と続く。

気分的には悪夢だったのだが、起きてから色々と意味を考えた。この男は官僚組織で働いているのではないかと思った。官僚は法律で定められた通りにプロセスを実行するのが仕事であり、その背後に意味や文脈を考えていてはいけない。つまり、わけがわからなくてもその通りに実行することを期待された人たちであると言える。実際にこれが悪夢にならないのは、手順が明確に決まっているからだろう。

ところが現実の官僚組織はそのようには機能しない。それがどうしてなのかはわからないが、彼らなりの価値判断基準があるからだろう。

例えば理財局は「国の財産を適正な価格で売り渡す」べきというミッションがある。つまり悪夢に出てきたように「自分が何を書き写しているのかわからない」という状態にはないはずである。

しかしながら、問題が二つある。一つ目の問題は公益に関わるものである。これは実は憲法改正で大きな問題になっている。

適正な価格というのはどう算出されるのだろう。理財局の場合「いくらで仕入れたか」ということはわからないのだから、実際にはどれくらいの需要があるかということが問題になるのだろう。できるだけ高いお金で売るのがよいのだから、土地は競売にかける必要がある。

では、買い手はどうやって適正な価格がわかるのだろう。それはその土地が算出する価値の一定期間の総和である。何か工場を作るなら、その工場の儲けから人件費と原材料費を差し引いて、経済成長分の価値を割り引いてやれば土地の適正な価格が出る。

ところが今回問題になっているのは公益性があるとされる学校だ。産業は利潤のないところには支出はしないのですぐに利益が上がらない学校のようなものには投資しない。しかし「誰かが」次世代の子供を育てるのを怠れば社会は荒廃するだろう。そこで国が支出して学校を作る。だから学校向けの土地は優先的に提供されてもよいというロジックがみちびきだせる。

しかし、実際には学校は国の補助金を優先的に貰い受けるための言い訳として使われることが多い。公益を考える時、利益計算は度外視して良いという理屈が成り立つからだ。何が公益にあたるかということは「政治の判断」になり、官僚組織が知ることはできない。

憲法改正問題で自民党がやたらと公益を入れたがるのはこのような理屈による。彼らは理屈はわからなくても「公益」と叫べば自分たちの願いが叶うということを知っているのである。だから、曖昧なままで自民党の憲法改正案を推進してしまうと日本経済はほどなくしてガタガタになるだろう。裁判所も官僚も公益性を判断できないのだから、全ての憲法規範に党の意思決定が優先することになる。理屈としては中間人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国と同じ体制になるということなのだが、東アジアで同じ指向性の国が出てくるというのは理由はわからないにせよ重要な視点なのではないかと思う。。

ところが、官僚組織が押し付けられた意味はこれだけではなかった。これが二番目の問題点である。

今回、日本会議の影響があったと言われているわけだが、日本会議は日本の伝統が守られるべきだと考えている。神道の影響があるので政教分離の原則から見ると政治との関係は不適切なのだが、実際には宗教と政治は密接な関係がある。あるものをないと言わなければならない。さらに籠池夫妻がどれくらい日本会議を本当に信じていたのかは曖昧である。単に商売としての学校経営に有利だからという理由でお近づきになっていた可能性もある。つまり、宗教という合理性とは別の価値判断が入ったためにさらに状況が複雑になった。ここによくわからないままで安倍昭恵さんが入ってきて話はさらに複雑になった。この人がどう関わっているのかは結局よくわからなかった。しかし「よくわからない」という点だけが重要である。

現場の人はよくわからなかったので「政治から要請があった」と書いた。それが妥当なことなのかということは彼らにはよくわからないし、よくわからなくても構わなかったはずである。

ところがここで問題が起こる。首相が「関与があったらやめるし役所が適切に処理している」と国会で不規則発言をしてしまったからだ。何が関与なのかという定義が曖昧な上に、ここで首相と学校の関係を証明できれば首相は嘘を言ったということになりやめなければならないという別の意味も生まれた。

このように森友学園問題にはいくつもの曖昧さと意味が生まれているので、もし本当に原因が解明したいなら複雑な意味を取り除いてやる必要がある。少なくとも「首相退陣」と「役人の道義的責任」は取り除いてやる必要があるだろう。しかし、感情的に一年以上も滞ったものがあり「冷静に判断しろ」というのは無理な話なのだろう。

合理性のない意味が政治を動かしている。しかし、籠池夫妻は「この学園には首相が応援している思想が入っており、夫人の関与がある」という意味をほのめかさなければ土地は手に入れられなかっただろう。また、首相が「関与があったらやめる」などとこの件に意味を与えなければ(たとえ野党がそう主張しても)理財局長は嘘の答弁をしなくても済んだであろう。つまり、誰かの発言が意図しない意味をうみ、意味が人を動かした。

さらに、財務省は「いったん行った答弁は絶対に間違っていない」と考えた。これは財務省がプライドの高い館長でありメンツがかかっていたからである。組織として守るべき別の意味が生まれた。さらに現場担当職員は「財務省は適正な値段で国有財産を処分しなければならない」と考えておりその証拠を文章に残そうとした。そうしないと後で犯罪や責任問題に発展しかねないし、職業倫理的にも許されないと考えたのだろう。これを遡って消されてしまったことで「あってはならないことが起きた」と感じた。

つまり、意味の入る余地がなければ、この問題がここまで大きく複雑になることはなかっただろう。国会審議が一年に渡って紛糾するはずはなかったはずだし、何よりも人が何人かが亡くなることはなかったはずだ。

意味はどこに生まれるのか。それは人と人との間に生じる。決して誰か一人の人が何かを言ったからと言って生じることはない。それは目には見えず、あとから厳密に観察はできない。それでも意味は存在する。

森友事件で、職員たちは意味に殺されたということになる。日本は意味が社会的生命を奪ったり人を殺す化け物になる国なのだ。

森友問題と安全保障 – 安倍こそが国難の本当の意味

多くの人が森友問題について考えている。様々な分析ツールが提供されておりそれを眺めるだけでも楽しい。ある人は官僚主義の類型について語り、またある人はゲーム理論として捉えているという具合だ。このブログでは主に隠された文化様式について考えている。例えば文脈とか小利権集団としての村などの構造である。

日本人は文脈と事実を分離して考えることができないので、後から分析することができないという結論が得られた。事実そのものが解釈なしには成り立たないので。後から検証しようとすると観察者の主観が入り事実そのものが変化してしまうのである。だから事実解明のための証人喚問は役に立たない。証人喚問は人民裁判としての意味合いしか持たないのだ。

実際、太田理財局長は自民党から公開懲罰を受けている。西田昌司議員は明らかに「理財局が自民党を騙した」というストーリーで太田さんを攻め立てており、空気を読んだ太田さんもまた西田さんのストーリーにあった供述をしていた。

例えば安倍昭恵さんが証人喚問されたとしても彼女がどう考えていたかという解釈が中心になる。ある時点では政治に介入する意図を持って口出しをしていたのかもしれないのだが、正確にはそれを政治課題だとは思っていなかった可能性もある。しかし、当初の意図が明確でなかった分、のちに証人喚問されれば、与党のストーリーに従って「何も知らなかった」と答え、野党のストーリーに従い「私が悪かった」などと言い出すかもしれない。

同じことが佐川元理財局長にも言える。もともと佐川理財局長は安倍首相の不規則発言(首相も議員も辞めますよ)をカバーしようとして泥沼にはまってゆくのだが、そもそも「関与の定義」もわからない上に、今では立場も変わってしまっている。だから、事実を調査したいなら本来はアンダーテーブルで行うべきなのである。

これまで森友問題を理財局と官邸の問題として扱ってきた。だから証人喚問をやっても意味がないが、ショーとして楽しみたいならそれでも構わないと思っていた。しかし、ちょっと状況が変わってきている。

森友問題の本質の一つに「官僚機構という意味の積み重ね」が突発的で曖昧な圧力に極めて弱いという問題がある。籠池夫妻は半ば戦略的に日本会議や首相夫人との関係をほのめかしつつ理財局に圧力をかけたのだが、全体として自分が何をやっているかよくわかっていなかった様子がうかがえる。安倍昭恵さんも自分の立場をわきまえずにふらふらと行動し、公務員を自分の私設秘書のように使っていたようだ。つまり、この3人は官僚機構にとって異物でありそれが毒として作用したのだ。毒のせいで意味が伝わらなくなり、結果として嘘が蔓延し、少なくとも一人以上の死者が出た。

ここで重要なのは籠池理事長夫妻は理不尽なディールメーカーでありお金のない自分たちが土地を手に入れるためにありとあらゆる手段を使ってきたという点だ。

さて、これと似たような環境が現在できつつある。それがトランプ政権である。トランプ大統領は典型的なディールメーカーである。ディールメーカーとは自分が有利な条件で取引するためにありとあらゆる手段を使って相手を揺さぶる人だ。最近では北朝鮮情勢と韓国のFTAを混ぜて話をしている。さらに、ティラーソン国務長官をTwitterで解任した。

トランプ政権はコミュニケーションパスや一貫性を気にしない。それどころか曖昧さを利用してディールを仕掛けてくる。専門家は次のように見立てている。

引用されている記事には要約が書いてある。

  • President Donald Trump appeared to threaten to pull U.S. troops out of South Korea if he didn’t get his way on trade with Seoul, The Washington Post reported Wednesday.
  • “We lose money on trade, and we lose money on the military. We have right now 32,000 soldiers between North and South Korea. Let’s see what happens,” Trump said, according to audio obtained by the Post.

これまでも、韓国が同意しなければ自由貿易協定から離脱するということは言い続けてきたようだが、今度は在韓米軍を退却させるという脅しをかけたようである。32000人が引き上げたらどうなるか見てみようと発言したというのである。

これは日本の安全保障にも大きな影響がある。不安になった韓国が文化的により親密度が高い中国に接近することは明らかだからだ。韓国が共産化することはないだろうが、これは東アジアにアメリカの同盟国としての日本が取り残されるということを意味しているばかりか、アメリカは日本にも同じような働きかけをしかねない。実際に「安倍首相と北朝鮮問題について話し合うついでに日本市場の解放について話した」とTweetした。

こうした恫喝に対抗するためには、まず国益を明確にした上で、官邸が本気になって部門調整をして、トランプ政権に対処してゆくしかない。しかしながら、そもそもそのようなディールメーカーに弱い上に、安倍政権は「政権浮揚のためにはトランプ大統領の気持ちをつなぎとめておかなければならない」という心理的な依存も強そうである。さらに日本政府と日本の官僚組織との関係も悪化している。財務省を「トカゲの尻尾」扱いしてしまったわけだから、他の省庁も同じような目に遭いかねないと警戒されても不思議ではない。

担当者が何人か亡くなっているし8億円の値引きが絡んでいるので「この程度のこと」などと言ってはいけないのだろうが、それでもまだ日本の安全保障問題と比べると「この程度のこと」である。なぜならば土地が不正に払い下げられたとしてもそのこと自体で命が失われることはないからだ。

しかし、これが国の安全保障の問題になるとどうだろうか。国のトップの意思決定の誤りがそのまま多くの人命に関わる。たとえば自衛官がなくなるということもあり得るだろうし、ことによってはそれではすまされないかもしれない。いったんなんらかの問題が起これば「情報を隠蔽した」とか「官僚の面子が」などという問題では済まされない。

ということで、本来ならば保守を自称する人たちの方が深刻にこの問題を捉える必要がある。ブログの片隅でやや反政府的な傾向のある人が心配しても本気にはしてもらえないだろうが、日本の存続にとって大きな危機が訪れようとしている。北朝鮮の問題は外務省と防衛省がうまくやってくれているだろうと考えている人が多いのだろうが、実際には官僚組織は不規則な揺さぶりに弱い。

これまでの問題は、安倍政権がリスクを扱えるかという問題だったわけだが、この程度の問題すらマネージできない人たちが北朝鮮情勢などコントロールできるはずはない。その意味では「安倍こそが国難」という指摘にはきちんとした根拠がある。

森友学園の問題について深刻に捉えるならば選挙のための儀式として財務官僚を叩くのはやめたほうが良い。それよりも実際に何が起きていたのか、安倍官邸に関係がない人が真剣に調査すべきである。野党の協力も得て、次の政権を担う自民党のリーダーを早く決めたほうが良い。

粛清を求める人たちとその行く末

森友問題でいよいよ佐川国税庁元長官が証人喚問されるそうである。一方で安倍昭恵さんは招致されない。自民党は財務省に責任を押し付けて政治は知らなかったという所を落とし所にするのだろう。しかし、佐川さんを血祭りにあげたところで国民は納得しないだろう。すでに西田さんというネトウヨ議員が歌舞伎ばりに理財局長を吊るし上げたが「どうせ芝居だろう」と見抜かれてしまっている。そこで、どうやって自民党政権に痛みがあるように「見せるか」というのが次の焦点になりそうである。

日本人は言葉を信頼しない。もともと正解があってその正解に合わせて言葉を作るからだ。本質的な議論はアンダーテーブルで行われることを知っている。だからそのアンダーテーブルの議論に一定期間(あるいは永遠に)参加できないことだけが「本当の反省」を示す手段になる。だからすぐに「辞めさせろ」ということになるわけである。

しかし、誰かを血祭りにあげても安倍政権は倒れないであろう。これは、安倍昭恵さんを国会に引っ張り出してきてマリーアントワネットのように断罪し、安倍首相の「処刑」を望む人たちの欲求が満たされないということである。それは皮肉なことだが、日本が法治国家だからである。法治国家では裁判なしに人を裁くことはできないし、国会は裁判の場所ではない。

この戦いに勝利しそうなのは、実は自民党の反主流派の人たちである。安倍官邸側に「貸し」を作ることになるからだ。野党もこれに乗らざるをえない。なぜならば国会に出てこないと自分たちの利権を守ることができないばかりか、存在感も示すことができない。野党は佐川元理財局長に対する証人喚問が行われることで国会を「正常化」することに決めたらしい。

つまり、左翼の人たちはいずれにせよ勝利を手にすることはできないことになる。

怖いのはその反動である。

3.11後の原発反対運動を思い返すとよくわかるのだが、盛り上がったあとで「何も達成できなかった」という揺り戻しが来る。確かに彼らの主張通り原発がなくても電源が足りているということは証明できたし、多くの人が集まってくることによる連帯感も確認ができた。しかし、結果的に彼らの声は無視された。日本は小集団の利権で動く国であって、反対運動にはその場の盛り上がり以上の意味はない。そしてそのあと「あんな戦いに参加しても達成感が得られない」ということになってしまい、運動は縮小した。あの時「原子力発電所はなくしてしまえ」といって盛り上がっていた人たちは「憲法第9条は戦争への道」といういつもながらのスローガンに逃げ込むか、「もともとお付き合いで参加していただけだ」としか言わなくなった。

断罪に期待感を抱いている人はいますぐその希望を捨てるべきだと思う。野党に裏切られたあとで揺り戻しがくることは明白だからである。

日本の政治を健全なものにしたいという意識があるのなら、まずは「立憲主義を取り戻す」とか「法治主義の破壊は絶対にダメだ」などというスローガンを捨て去らなければならない。代わりに法治主義や立憲主義が何のために存在するのかを真面目に勉強しなければならないのだが、そのためにはそれが機能している国を実際に体験する必要がある。

実際には左翼の人もまた正解に支配されている。だから、民主主義という探索型の行動が理解できない。

安倍首相を避難している人たちは最初から「安倍はダメ」という正解を決めてしまっており、あるべきストーリーを設定し、そのストーリーに固執し続ける。現在安倍政権の説明は完全に破綻しているが、それはネトウヨの人たちにとってはどうでも良いことだ。安倍政権がそれを主張していているという事実だけが大切なのである。こうしたメンタリティが成り立つのは、実は説明の内容などどうでもよいからである。

しかし、左翼の人もまた同じ行動パターンを持っている。法治主義や立憲主義が絶対だと思い込んでいる。これは野党がそう言っているからである。野党もまた権威付けのために憲法学者などを利用するのだが、彼らの中には憲法は国際法規よりも上位にあると主張する人たちがいるそうである。

この両者は政治的に対極にいるように思えるのだが、実は小さな村を形成しているという意味では似通っている。お互いにすでに排除された経験を持っているので、ことさら何らかの権威にしがみつくのだろう。

現在、官僚機構に何らかの問題が起きており、その問題のせいで何人かが亡くなったということはたしかになっている。これは官僚組織という「意味の人間ピラミッド」が破綻しており、その破綻を支えきれなくなっているということを意味する。本来なら何が破綻しているかを突き止めて、その原因を取り除いてやる必要がある。

しかし、実際に行われていることはその破綻を誰かのせいにして自己の正当化を図ろうという浅はかな試みだ。政権側は官邸が間違いをおかしたとして国会の場で官僚を恫喝して見せた。しかし、反対側の人たちも実は安倍昭恵さんらを恫喝して見せしめにしようとしている。そして政治家は「どっちに乗ったら今後得なのか」を考えて様々な発言を繰り返している。

このままでは矛盾が起きるたびに誰かを血祭りにあげる粛清国家が出来上がり、その度に派閥などの小勢力が得をするという不毛な社会が作られるだろう。

安倍昭恵さんを証人喚問すべきではないと思う理由

前回、安倍昭恵さんにも責任があると書いた。にもかかわらず今回は安倍昭恵さんを国会で証人喚問にかけるべきではないという論を書こうと思う。矛盾しているではないかと思う人もいるかもしれないし、逆張りだと罵しる人も出てくるかもしれない。

今回は女性に対する人権侵害という観点からこれを書く。キーワードは知的纏足である。纏足とは中国で女性が遠くに行けないように足を小さく矯正してしまうという習慣だ。小さな足の女性はセクシーだと思われていたともいう。つまり、か弱く男に頼るしかない女性の方が「きれいで可愛い」という価値体系だ。日本には纏足という習慣はない。しかし代わりに知的纏足というべき悪習があるようだ。

安倍昭恵さんは森永製菓の社長令嬢として生まれた。もともと父親は番頭筋と思われる松崎家の方なのだが母親は創業家の出身なのだという。聖心専門学校の英文科を卒業した後、電通にお勤めして政治家の妻となった。ちなみに森永創業家出身の安倍昭恵さんの母親も聖心(学校の名前が異なる)の英文科を出ているそうだ。

戦前の女性は家の従属物だったので学歴をつけて職業婦人になるというようなコースには乗らなかった。職業婦人は「卑しい家の人」がやることであり、女性は余計な学問など身につけるべきではなく教養だけを見につけるべきだと考えられたのだろう。安倍昭恵さん自体は電通にお勤めしているのだが、これも結婚前の社会見学のようなもので本格的な職業ではなかったはずである。

こうした習慣は戦前の上流階級では当たり前で、特に女性虐待などとは言えなかったはずだ。しかし、その目的はかなりあからさまだ。中国で小さくて自立できない女性が美しいとされたのと同じように、日本では従順で扱いやすい女性の方が美しいと考えられたのだろう。知的に制限されていれば夫に従う他はなく、遠くに逃げられないのだ。

安倍昭恵さんのプロフィールからはいくつかのことがわかる。従順な妻であることを要求されたのだが、政治家の家にとって重要な後継を作らなかった。そして子供ができないことがわかると、それに代替えするように学歴をつけようとした。ところが、その後の活動をみるとどこか怪しげなものが多い。森友学園の問題に関与したという問題の他に様々な活動への関与がネット上で噂になっている。彼女の社会貢献の意欲は本物だったのかもしれないが、それを本気になって指導してやろうという人は誰もいなかったということになる。

加えて夫のお友達と仲良くする間に歪んだ政治観年まで身につけるようになる。今叩かれているのは「野党がバカな質問ばかりする」という書き込みに「いいね」をしたことである。彼女は自分の置かれた立場を理解していないばかりか、何をしでかしてしまったのかまったくわかっていない。結果的に官僚組織に影響を与えて、財務省担当者の命が失われた。この担当職員の妻の立場からみると理不尽な形で夫が奪われた。しかし、それでも安倍昭恵さんには自分の状況ややってしまったことを理解する知的能力がないのである。

政治家の妻として一番期待されていることを果たさなかった代わりに様々なことを試みるのだが、それは奥さんの気まぐれとしか捉えられなかった。つまり、彼女は遠くに行くことができなかったことがわかる。

彼女の証人喚問を要求する人は安倍昭恵さんに明確な国有財産私物化の意図があることを明らかにすることなのだろうが、その期待は裏切られるのではないか。私物化を意図するならばそれなりに知的な能力があり、関与したことについて合理的に認識している必要がある。ところが安倍昭恵さんにはその能力がなさそうだ。つまり、国会に呼び出されたとしても自分がやったことについて分析的には語れないであろう。誘導尋問のような形で叩けばそれなりの言葉を引き出すことはできるかもしれないが、それでは意味がない。

以前、安倍昭恵さんは私人なのか公人なのかという議論があった。しかし、こうしたプロフィールをみる限り彼女はそもそも個人として扱われていなかったし、個人として振舞うだけの知的能力がなかったことがわかる。ある時は松崎家、森永家の従属物であり、またある時は安倍家の付属品として扱われいる。

もし証人喚問するとしたら、安倍昭恵さんがいかに思慮のない女性で、自分の影響がどの程度あるのかということをまったく考慮しないままで行動していたかということを逐一訪ねることになるだろう。そのことでわかるのは自分の影響力について客観的に理解できない浅はかな人間を野放しにしていた夫の責任であり、過剰に忖度を働かせて最終的に職員の死まで招くほど混乱した官僚組織の愚かさだ。三浦瑠麗さんは叩かれていたが「人が死ぬような話」ではなかったはずなのだ。

分析できるほどの理性もなく、周りから真面目に取り合ってももらえない人を広場に連れ出して「罪状」を告白させようとしても、そもそも最初から自分の言葉を奪われている人にそんなことができるはずはない。

戦前には当たり前だったこういう女性のあり方も、現代においてはある種虐待めいた待遇になっている。女性であるというだけで個人が本来持っている可能性を最初から奪われてしまうからである。公的な活動に携わり首相の退陣につなげられるからという理由だけで「個人としての反省を述べよ」などと言ってみても、それは虐待されてきた女性に対する二次的な加害にしかならない

この件の痛ましいところは、彼女が社会的な問題に目を向けて、学校にまで通いそれなりに度量をしてきたという点にあるように思える。だが、なぜ結果的にこんなことになってしまったのか、社会はどういう援助をしてやれるはずだったのかということをもっと真剣に考えてもいいのかもしれないと思う。

結果的には多くの人の人生が狂わされたのだから、責任は生じる。その意味で安倍昭恵さんが全く無謬だとは思わない。しかし、裁かれるのは官僚の人事に首を突っ込み大きな影を作り出した上で妻を放置した夫にあるのであって、安倍昭恵さんを叩いてみてもその本質を変えることはできないだろう。

森友学園問題と安倍昭恵さんの責任

森友学園問題でついに財務省が書き換えを認めた。意外だったのはNHKがこれをかなり攻めて伝えたということである。当初は政権に非難の矛先が向かわないようにすべてを伝えないのではないかと思っていたのだが、実際には逆だった。これがどういう意味を持つかはおいおい考えるとして、まず報道された内容を比較して行こう。

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人の心を失った化け物が7時40分から会見を開くのを見た感想

蓮舫参議院議員が憲法104条による調査の呼びかけをしている。与党はこれに応じるべきだと思う。


最初にこの話を聞いた時、国会は自らの調査権限を手放すことで検察・警察に命運を委ねようとしており危険だという筋で文章を書くつもりだった。しかし、その後現場担当者が遺書を残して亡くなったという話を聞き、これはもう法治国家とか民主主義とかいうレベルの話ではなくなってしまったのだなと思い直した。
これはもう政治の問題ではない。いわば「人間の良識」の問題だ。良識というと贅沢品のように聞こえるかもしれないが、人が人であるために必要不可欠なボトムラインと言い換えて良いだろう。これをそのまま放置すれば大切なものが失われる。たいていの間違いは許されるものだが、決して許されるべきでないこともあるのだ。
麻生財務大臣はこのテストに不合格だったようだ。彼は会見で次のように語った。

  • 佐川国税局長官がふらっと入ってきて「俺は辞める」といった。「やり方がまずかった」と言って責任を感じているようだった。
  • 自分は佐川は適任だと思っているが、彼が辞めたいと言っているんだから、辞めさせてやることにした。
  • 詳しいことは俺にはわからないが、週末も調査しろよと言っておいた。どうなるかわからないが何かわかるかもしれない。
  • 佐川には「今の調査で何か出てきたら追加処罰もあり得るからなと」釘は挿しておいた。俺はいうことは言ったのだ。
  • なお、職員が自殺したらしい。話は聞いたが俺は何も知らないし何も感じない。

つまり、俺は知らないが佐川がやってきて辞めたいと言ったから辞めさせてやったと言っているのだ。記者会見で自分に非難が向かっているということはわかったようで、それを心理的にかわすために「俺が会議を仕切っているんじゃない」とも言っていた。あくまでも議事進行についてを言っているのだと思うのだが、実際に言いたかったのは「役所が勝手に安倍を忖度してやったんだろう、俺は知らないよ」ということなのだろう。
この人は人間の洋服を着て日本語のような言葉を話している(あいかわらず、有無を「ゆうむ」と読んで、あとであるなしと言い換えていたが)のだが、もう人間の心は持っていないのだろう。人が一人亡くなっているのだから自分の持っている範囲の権限を使ってなんとかしてやろうと考えるのが人間の情というものなのだろうが、彼は「ああ、面倒なことでバカが騒いでいるよ」くらいにしか思っていないのではないだろうか。
そもそもこういう人が日本の財政政策に関与しているということに戦慄を覚えるのだが、もはやそのようなレベルの話ではなさそうだ。組織は個人を守るために存在するのであって、いかなる人も犠牲になるべきではない。仮にも組織のトップに立ったのなら責任感を持って間違った方向に向かいつつある組織をなんとか正常化すべきだろう。麻生財務大臣はそれができるのだが、やろうとは考えていないようだ。
官邸は明らかにこの問題から距離を置きたがっているようだ。安倍総理大臣は「佐川国税局長官を任命したのは麻生財務大臣だ」と答弁を避けていたし、菅官房長官も「今回の辞任については話を聞いていない」と開き直ったそうだ。彼らも立派な背広を着て歩いているが、多分中身はもう人間ではないと思う。
国会は国会法の規定によって政府を調査する権限がある。その根拠規定は憲法62条にあるそうだ。だが憲法規定は「することができる」と書いてあるだけで、しなくてはならないとは書いていない。つまり、これは権限があるというだけで必ずしもやらなければならないということではない。ゆえに利益がないと考えるなら与党には協力する義務はない。
だが、これをできるのにやらなかったということは、この権限を誰が別の人に譲渡するということを意味している。この場合検察が事件化すれば内閣の責任問題になるし、握り潰せば内閣への貸しになるということを意味している。すなわち、予算が成立するかどうかは検察が決めるということになってしまう。形式上検察も政府の一部なのだから内閣の管理監督下にあるはずだが、検察の意向が政府の意思決定に影響するようになれば、検察が内閣の監視から自由になるということを意味している。
これは国民にとっては警察国家という悪夢への第一歩だが、議会にとっても職権の放棄と自己否定を意味している。つまり、与党は単なる内閣の追認装置であって、国民の要請に従って政府を監視するという役割を放棄したことになる。追認装置としてしか存在しないのであれば、少なくとも参議院は必要がない。
さらに麻生発言からわかるように、政府は今起きていることを「役所の不始末によるドタバタ」と考えているようで、自殺者が出てなお態度を変えるつもりはないようだ。
自民党は「与党対野党」というフレームに夢中になっていると思うのだが、実際には議会対検察という構図になりつつあった。しかし、今問題になっているのは国という集団が国民を守ってくれるのか、それとも国を私物化しようとした人たちが自ら作り出した混乱を他人事のように眺めるだけの装置に堕落ているのかという点にある。
国が国民のことを考えることを「徳」と言うと思うのだが、今の政府は明らかに徳を失っており正統な政府であるとは言えない。であれば、今行われていることは政治ではなく単なる暴力であろう。不作為であっても問題なのだが、発端は総理大臣の不規則な発言から始まっている。
最後に付け加えると、一人がなくなるまでこうした強い憤りを示さなかったことに対して、個人的に反省をしている。民主主義や法治主義がなくなっても日本型の統治さえされていれば問題はないと考えていた。
これはいじめによる自殺の問題に似ていると思う。誰がか亡くなるまで周りの人たちは本気になって「根本的なあり方が間違っているのだ」と思わないものだ。その態度が「自殺による一発逆転」を許してしまい、いじめの問題が解決しない原因になっている。今回の件はこれが国レベルで起きていたのだと思う。

我々は日本が枯死するプロセスを目撃している

前回、期待と不安が入り混じった気持ちで「多分変われないんだろうな」という文章を書いた。森友問題で国会が自浄作用を示せなかったということは、この国の命運は議会の手を離れて警察と検察に握られていることになる。日本は警察と検察が何を事件化するかということで首相の意思決定が変わってしまうという社会になったのだ。

朝日新聞社に続いて毎日新聞社が「森友学園問題は特殊な事例だ」としていた文書を発見したということなので、文書改竄があったことは間違いがなさそうである。これは犯罪だということなので、官僚側が犯罪行為を認めるはずはない。彼らが自白するはずはないのだから、政府の方から状況を正常化させなければならない。だが、安倍首相はこの状態を直視すること自体を拒んでいるようだ。つまり、彼は形式的には首相に止まる道を選んだのだが、政府のコントロールを手放したのである。

後に続くのはそれぞれがそれぞれの思惑でいろいろな方向に逃げ惑うというゲームだ。別の言い方をすると政府も自民党もパニックモードに入ってしまったことになる。

しかしながら、それは我々の毎日の生活とは関係がなさそうである。報道も「たくさんあるニュースの中の一つ」として扱っているようだし、私たちの生活は政治とは関係なく進んで行く。

だったらこのままでいいのではないかとも思える。

そこで改めて「このニュースの何がまずいのか」を考えてみた。一通り書いてみて思ったのは、これは日本が枯死するプロセスなのだろうということだ。日本を大きな植物に例えると、多分根が腐っているのだ。しかし、根は地表からは見えないので、我々は手遅れになるまでそのことに気がつかないのではないかと思う。

では根が死んでゆくというのはどういうことなのだろうか。

参議院野党は審議拒否だった。そもそも参議院野党は予算編成の意思決定には関われない。参議院の同意は必要がない上に、多数決の意思決定から締め出されているからである。つまり関わらなかったとしても何も困らない。そもそも野党は大きな利益団体を代表していないので闘争が机上の空論になりがちなのだが、加えて意思決定から排除されているうちに「審議拒否」以外の意見表明ができなくなってしまったようだ。

仮に日本を法治主義の社会だと仮定すれば、その意思決定のために蓄積された資料が改ざんされたということは予算の成立過程に正当性がないことになってしまう。裁量労働制の問題で資料をでっち上げたことからも、政府は事実を積み上げて一つの形にするという能力を失いつつある。裁量労働制はあまりにもあからさまだったので法律自体がなくなったのだが、予算はこのまま正当性のないものが通ってしまいそうである。

だが、野党抜きの審議を見る限り、自民党と公明党の議員はあまりそれを気にしていないようである。彼らにとっては自分たちの支援者に約束した予算さえ勝ち取れれば(あるいは勝ち取ったふりができれば)その成立過程がデタラメでも構わないのだろう。ここで重要なのは、与党は関わろうと思えば意思決定に関わることができたのだが、それをしなかったということだ。つまり、彼らは勝ち取ることには興味があるが作り出すことには興味を持っていないということである。

もともとアイディアを作り出していたのは官僚だった。ところが、今回の一連の国会審議を見ていると、官僚組織にアイディアがないということが実は明確に示されている。特に世耕大臣は「現場に知恵を絞ってもらう」という形の経済政策を多く披瀝していた。官僚にアイディアがないので民間からアイディアを募りたいのであろう。経済産業省はアイディアの箱は作れるが、かつての日本の官僚のようにアイディアを作り出せなくなっているのだ。そもそも意思決定における文書さえまともに管理できないのに、それぞれの官僚が話し合って日本をよくするアイディアを集約できるはずもない。

加えて国民の間にも諦めがある。自分たちが関与したところで政治は良くならない。諦めには苛立ちもあるが、同時に「責任を取らなくてもよい」という気楽さも含まれている。政治家は勝手に私服をこやしたり、自分たちの地位が向上するように文書を改ざんしているわけだから、自分たちも好きなことをやればいいということだ。ただし、そのアイディアをうっかり外に漏らさないようにはしなければならない。いったん目をつけられたら政治家が群がって潰されてしまう可能性がある。

多くの人は自分の権益を守ることと、言い訳を考えて国の財産から搾り取ったり、予算をもらうことには熱心だ。しかし、自分でアイディアを出し、それを組織的に集約して、形にして行こうという人は誰もいないということがわかる。

ここから「価値を作り出すアイディア」を出す人が日本からいなくなっているのではないかという可能性が浮かんでくる。そればかりか、それが破壊されていることに誰も興味すら向けなくなっている。

だが、日本という樹には過去の蓄積があり、まだまだ倒れそうにはない。少なくとも外見上はまだまだ大丈夫なように見える。

財務省が気まぐれな首相の答弁に合わせて何種類の決済書類を作ったかがわからなくなっているということがわからなくなっており、誰が主導したのかも曖昧になっている。これ自体には犯罪の可能性があり、問題がないとは言えない。官僚が犯罪に手を染めざるをえなかったということは深刻な問題なのだが、実際の問題は自浄作用が働かなかったという点にある。

もともと、日本の組織はトップに情報がなく、細かい情報は現場が抱えている。その現場が何を考えてどういう意思決定をしたのかということをトップがつかみかねている。さらに集団の内部では「これはいけないことだが、誰かが責任をとってくれるだろう」という集団思考的な無責任さが蔓延しているということを意味する。言い換えれば「自分だけが美味しい思いをすれば国は全体としてやせ細ってしまうだろう」ということがわかっていても「きっと誰かがなんとかしてくれるだろう」という気分が蔓延しているということになる。

植物でいうと栄養を幹にあげる根が死んでいるのだが、まだ幹には栄養があるので幹を腐らせる菌だけが繁殖しているという状態になっている。菌の正体は「誰かがなんとかしてくれるだろう」という集団主義的な無責任さではないだろうか。つまり、我々が見ているのは多分「法治主義と意味の死」などという観念的な崩壊過程はなく、日本が価値を想像できなくなり実際に枯死してゆくプロセスなのだろう。

その意味で野党がやるべきなのは安倍首相の追い落としではない。彼にはもはやそれほどの価値はない。むしろ問題なのは、自分たちも含めた政治家が日本に価値を提供できなくなっているという事実を受け入れて、それを与党と共有することなのである。

だが、Twitter上での騒ぎを見ていると、一人でこんなに真面目ぶっていても仕方がないというような気分にさせられる。それよりも安倍打倒祭りにのって一緒に騒いだ方が楽しそうだし、達成感もありそうだ。タイムラインを眺めていると本当にそう思う。

多分変われないであろう日本の運命を決める1日が始まる……

先日は日本は近代法治国家を偽装した村落共同体の集まりであると書いた。その真ん中には巨大な真空があるのだが、安倍政権は自らがプレイヤーとなることでこれを毀損してしまったという分析だった。

ゆえに、安倍政権は崩壊して日本は法治国家を真に理解した国家に生まれ変わるべきだと書きたいのだが、どう考えてもそうそうはなりそうにない。逆に安倍政権は「村落的優しさに包まれて」後退してしまうのではないかと思える。つまり、今までのように決められる政治から決められない政治に逆戻りしてしまうのではないだろうか。

日本人の法治主義に対する理解は極めて限定的だが、政局になるとマスコミもアクターである政治家も急に生き生きしだす。現在も二階幹事長が張り切って動いているようだが「自分の損得」で動くという日本型の村落主義の方がみんなに理解されやすいからだろう。

この中で切られそうになっているのは、どうやら筋を通そうとして頑張ってしまう麻生副総理らしい。日本人らしい「助け合い」が理解できない人だ。逆に村落性を意識して動いてきた安倍首相が下されるという兆候はない。日本の村落が筋を通すことよりも人間関係の貸し借りに敏感であることがわかる。安倍さんは「それが自分の手柄だ」と増長しだしたために「お灸をすえる」必要があると判断されたのだろう。菅さんのように身内の話を聞いているだけではダメで、これからはみんなの言うことをよく聞きなさいよということだ。

一連の動きを見ていると、この政局は日本が近代民主主義を取り戻す機会にはならないだろう。むしろかつてあったかばい合いを前提にした村落の温情主義が際立ち、日本は村落社会へと一歩後退することになる。それは、既得権を守るために何も変えないで、結果的にドロップアウトした人たちを見捨てるという社会である。

思い返してみると、日本はこうした村落型の社会を脱却して「決められる社会」を目指したはずだった。その行き着いた先が安倍政権であるということを考えるとこの動きはとても皮肉なものに感じられる。

バブル経済が崩壊した後、日本人の多くは利益共同体である村落を失い「難民」となった。多くの都市住民にとってそれは正規雇用を意味した。また、別の人たちは地域の商店街が崩壊することで利益集団をなくしてしまった。この象徴になっているのが例えばイオンモールだ。商店街の代わりにできたイオンのショッピングモールは非正規の人たちによって運営されている。かつてあった商店街のような生業(なりわい)ではないし、多くの従業員はイオンにとっては使い捨て労働者である。

こうした人たちが、既存の利益集団に敵対意識を持ち生まれたのが小泉政権の「自民党をぶっ潰す」というスローガンだった。小泉首相がターゲットにしたのは特定郵便局という既得権益だ。そもそも自民党が派閥という村落の共同体なのだが、派閥を潰すことで「指導力のある近代国家」を目指したのが小泉主義だったと言える。

小泉政権は同時に派遣労働者を増やす政策をとった。表では既得権をなくして皆様の政治を行いますよと言っていたが、裏では既得権を守るために「余分な労働者」を企業共同体から排除したのである。つまり、小泉政権がやったのは既得権からの脱却ではなく、自分たちの既得権が延命できるように他者を潰すことだった。だから小泉政権は日本が村落共同体を脱却した後の統治の仕組みを考えなかった。

村落というのは自らの損得のために個々人がそれぞれに動くというある意味では極めて民主的な仕組みである。ただし、損得というのは限定的・局地的な情報しか持たないので、その共同体がある程度以上に大きくなる可能性はない。日本が集団として大きく変われないのはそのためだろう。日本人は所与の仕組みの中でどう立ち回るかとうことは考えられるのだが、仕組み自体を変えることはできない。例えば憲法も「県という枠組みを温存して既得権を復活させよう」という議論と「例外を作って絶対的な縛りを脱却しよう」という二本立ての議論にしかならない。自民党の村落共同体は人権という絶対的な概念が気に入らない。人権はその場その場の判断とぶつかる可能性があるからだ。自分たちの利益をどう守るかは自分たちが知っているのであって、人権のような絶対的な縛りはその邪魔になると考えるのが、村落的民主主義なのである。

そのために憲法の解釈が変わったり、決済文書にバージョンができるのは彼らにとっては極めて自然なことなのだろう。例えば決済文書を書き換えることは犯罪だがそれは検察のさじ加減でいかようにもなるわけだし、逆に決済文書を守ろうとして筋を通そうとすれば、官僚の立場が危うくなるかもしれない。そこは「柔軟に」対応したいわけである。だから麻生財務大臣のように「筋を通したがる人」は排除される必要がある。面倒くさいからだ。

いずれにせよ小泉政権が「脱村落」を訴えたのに、その統治機能を作らなかったので続く勢力は混乱した。結果的に自民党で三代、続く民主党で三代の首相が交代した。その間に起こったのは、内部からの情報リークと仲間同士の罵り合いだった。麻生降ろしで国民はかなりうんざりしたが、その後の民主党政権ではその罵り合いはさらにひどいものになり、現在でも続いている。そもそも権力を持って変えることが目的だったはずなのだが、決めたことに対して内部から様々な異論が出てくる。そして決めた方も間違いを決して認めようとせず地位にしがみつく。こうして政治不信が強まっていった。日本人は変われなかったし村落的民主主義を脱却することがどういうことなのかよくわかっていなかった。

そして自らで枠組みを作れるかもしれないと感じて暴走を始めた。枠組みづくりには仲間同士の協力と言葉による契約が必要なので、所与の環境で自分の利益をどう最大化するという計算が効かない作業だったからだ。

これが表向き収まったのが安倍政権だ。安倍晋三は「私について行けば間違いがない」といい、仲間をかばい、ポストを派閥に分配した。やっていることは村落政治そのものだが、表向きは「決められる民主主義社会のリーダー」として振る舞った。つまり、決められる政治を偽装することで枠組みを定めたということになる。この枠組みの中で自民党の派閥政治家たちは再び安心して利益誘導ができるようになったのだ。

表向きの顔と裏にギャップがあるのだから、安倍政権は多くの事実を歪める必要があった。憲法の解釈も歪められたのだが、日本人は気にしなかった。日本人はそもそも人が決めたルールを信頼しないし、法治主義主義は「儀式」としての役割しか期待されていない。さらに、以前の6年間の混乱を知っている。安倍政権は「安心・安全」の装置として機能しているということになる。

現在起きている動きはあたかも「政治の手続きの歪み」が正されることであると思っている人も多いようだが、実際には「国民一人一人が不都合で面倒な事実に向き合わなくて済むように、政治の辻褄があっているように見せられるか」が大切なのかもしれない。

政治家がそろって「大丈夫だ、何も問題がない」とさえ言ってくれれば、人々は生活困窮者の問題、人口減に苦しむ地方、基地負担や原発事故に苦しむ地域の問題を考えなくても済む。そうした問題は「政権によって適切に管理されており」「不満がある人は、どこか個人的な問題があるか何かをしくじった人なのだろう」と思えるからである。仮に野党のいうように、人々が政治に関心を持ち常に関しなければならないとしたら、こんなに面倒なことはない。監視して他人の苦痛を知ったとしても重苦しくなるだけで何の得もないからである。

個人的には今日1日の目覚ましい野党の活躍が日本の膿を出しきってくれることを期待している。だが、同時にあまり期待をすべきではないなとも思う。いずれにせよ、今日の一連の動きが単なる儀式に終わるのか意味のある1日になるのかはこの時点ではわからない。

期待と不安が入り混じってしまうのだが、経過を冷静に見守りたいと思う。