豊洲市場の問題は日本の衰退を端的に現している

森友学園が買った土地の問題を見ていて、ふとあることに気がついた。日本は確実に衰退しているらしい。
かつて土地というのは値上がりするものだと考えられてきた。これは都市でも地方でも同じだった。それは日本の人口がこの先も右肩上がりだと考えられてきたからだ。だからどんな土地でも値上がりしていた。だから政治は土地の転売を通じて利益を仲間内で分配していた。
しかし人口が縮小期に入ると地方の土地が値下がりを始めた。と同時に土地の選別が始まった。つまり都心や駅地下の土地が値上がりをし地方は空洞化している。空洞化などはまだいいほうで、災害から復旧できない線区も出始めている。
土地の大選別の時代が始まっているということになる。中心と終焉という構造だけではなく、過去にどんな使われ方をしたかによってその評価が下がる土地が出てきた。トランプで言うところの「ババ」である。
すると、ババを誰が引くかということが問題になってくる。「ババを作って土地の価値を毀損させたら、使った人が責任とってね」というような約束になっているのだが抜け穴があったようだ。
それが分かるのが豊洲と森友学園なのだが抜け穴を作れるのは政治だけである。豊洲の場合は、有毒な土地(豊洲にはマンションがたくさん建っているがあの土地だけは売れなかった)に魚市場を移転させることで、築地の土地を売って大もうけしようとしている人がいたのだろう。
東京ガスは有毒物質を除去すると土地の価値を超えることを知っていたために売り渋っていたのだが、濱渦副知事らは「政治が介入すればそんなことはたいした問題ではない」と言い含めたのではないだろうか。つまり、都民に損を寄せて自分たちはお金儲けをしようとしていた可能性がある。
森友学園の場合、売り手である国が有毒物質(つんとしたにおいがしたそうだ)について知っていたかどうかは分からないのだが、それが分かったと単に土地の価格が下がった。しかし何が土地の価値を毀損させたのかは隠蔽されたままだ。いずれにせよ森友学園は「別に子供が危険にさらされてもいいじゃん」と考え、掘り返した「つんとするにおい」をグランドに埋め戻したようだ。魚市場の地下にベンゼンがあってもいいじゃんというのと同じ感覚だ。
両者に共通するのは「損を被るのは一般庶民や子供」ということだが、背景には衰退を背景とした都心への集中という問題がありそうだ。一見都心部は「再び繁栄を取り戻した」ように見えるのだが、地方の衰退はやがて都市に及ぶ。日本は事実上移民鎖国しているので、外から人が入ってこない。地方が唯一の人材の供給源になっているのだが、地方は溶けつつある。
優良な限られた土地だけが値上がりし、周辺部が溶解し、さらに有毒物質は隠蔽された上で一般庶民や子供に押し付けられる。私たちはそういうニュースを見ていることになる。
原子力発電所の問題も同じように考えることができる。福島第一原発の処理費用がいくらになるのかは誰にも分からない。しかし依然として原発は「安い電源だ」という宣伝が繰り広げられている。これは損だけを切り離して国民に付け替えることができるからだ。つまり、政治が「損の再分配」をしており、関係した人が責任を取らなくてよいルールになっているのだ。
日本国内のプロパガンダをよそに世界的には「原発は制御できない」という認識が一般化している。原発産業は衰退に向かっており、ババを引かされた東芝は優良事業を切り売りすることになった。これも政治が(直接ではないが)絡んでいる。原子力発電は国策で優遇された事業なので関係者が増長してしまったのだろう。
つまり市場経済が「損」を抱えきれなくなり、それを誰に押し付けるのかという世界に移行しつつあることになる。経済は着実に衰退の方向に向かっているのだが、かかわっている人たちは案外そのことに気がつかないのかもしれない。
注目すべきなのは「ババ抜き」に政治が率先してかかわっているということだ。つまり、政治による不利益の分配が始まっており、政治に離れている人たちが損を押し付けられやすいという状況になりつつあるのである。

ショッカーはなぜ幼稚園バスを襲うのか

大学生のころサークルでよく聞く冗談に「世界征服を狙うはずのショッカーはなぜわざわざ幼稚園バスから始めるのはなぜかか」というものがあった。この答えは簡単で、子供向けの番組なので、ターゲット層にとって切実な問題を扱ったからなのだろう。
だが、よく考えると世界征服のために洗脳しやすい子供から始めるショッカーの作戦にはある程度の妥当性がある。だが、ショッカーの幼稚園に子供を通わせる親はいないからショッカーは幼稚園バスを襲うしかないのだ。
さて、そんなことを考えたのは、瑞穂の国安倍晋三記念小学校の件が政治的な大騒ぎになっているからだ。森友学園は幼稚園児を洗脳し次には小学生を洗脳しようとしていた。いわばショッカーが幼稚園を経営していたようなものだ。
そこで問題になるのは親がショッカーと分かって子供を通わせていたかそうでないかという点なのだが、今のところは「分からなかった」ということになっているようだ。ただしいろいろとおかしな兆候はあったようであり、全く気がつかなかったといういいわけも立ちにくい。
保護者たちは必ずしも愛国的教育にシンパシーを感じていたわけではなく「そこしかいくところがなかった」という親もいるそうだ。もし、近くにもっとよい幼稚園があればこのような幼稚園に子供を通わせる親はいなかっただろう。
ここで新しい疑問が沸いてくる。なぜ他の教育機関は稚園を作らなかったのだろうか。ここで、幼稚園とか小学校とかは面倒な事業になっており、まともな企業は手を出したがらないのではないかという可能性が見えてくるのだ。
学校に「洗脳」という側面があるというのは疑いようのない事実だ。例えばミッション系の学校はキリスト教を広めるために非キリスト教地域に作られる学校を意味するし、民主主義を学校から広めるのも「洗脳」と言えなくはない。ただし、善い考えは押し付けるものではなく「内面からよいと信じさせる」ものであるべきである。
今回の森友騒動(一部では疑獄と呼ばれているようだが)は安倍首相が「もし土地の斡旋に関与してたら俺は辞めてやる」などと口走ったおかげで「首相夫人を証人喚問しろ」とか「検察でてこい」みたいな話になっている。だがそれだけが問題なのだろうか。
教育というものに情熱を持つ人がいなくなっており」「変な政治的主張を展開するため」か「補助金を食いつぶすため」か「将来土地を高値で転売するため」だけに教育機関を作るような人たちしか残っていない末に生じた問題だと考えると、大分見方が変わってくる。
つまりショッカーが問題なのではなく、ショッカーくらいしか学校や幼稚園を作らなくなった(つまり誰かを支配したいという病的な欲求を持った人たちしか教育に興味がなくなった)世界だということになり、われわれ側の問題になってしまう。さらにこの問題は有毒物質の存在を政府が隠蔽したのではないかという疑念も呼んでいる。もし掘り返して何かが出てきたとなると、政府が知っていながら子供を危険にさらしたことになってしまうのだ。
言い古された言い方なのだが、日本にはたいした資源がなく、もう人的資源くらいしか未来を託することができるものはない。だから社会が子供を育てるのだというのはおおむねコンセンサスとして受け入れられてきた。そんな国で誰も教育に情熱を傾けなくなったとしたら、国には何が残るのだろうか。
保育園にいたっては、企業もお金を出したくないし、保護者もお金を出せないというような状況になっているようだ。給料も出せないので保育園を作ることすらできない。
高度経済成長期のショッカーは幼稚園を経営できないので幼稚園バスを襲うのだが、もしショッカーしか幼稚園を経営する意欲がないような世界ができてしまったら仮面ライダーも手の施しようがないのではないだろうか。
意外とそんな情けない社会になってしまっているのかもしれない。

やりたいことをやって他人に迷惑をかける人たち

つい最近「やりたいことをやったほうが世の中よくなるんじゃないか」というようなエントリーを何回か書いた。で、森友学園の件が騒がしくなり、ちょっと考え込んでしまった。やりたいことをやって「ああ、これなのか」と思ったからだ。
森友学園は「愛国ごっこ」がやりたかったらしいのだが、周囲にかなり迷惑をかけている。とりあえずほかに選択肢がない地域の子供たちに変な考えを吹き込んでいるらしいし、保護者の中には罵倒されたり辞めさせられたりした人もいるようだ。土地を格安で斡旋した政治家や役人の何人かも無傷ではすまないかもしれない。
森友学園はやりたいことをやった。だが、その中身はスカスカだった。「中国と韓国はけしからん」とか「子供のオムツがいつまでも取れないのは親が子供を甘やかすからだ」とか「コーラを飲むのは韓国人だ」みたいなことが政治的なメッセージだった。それを軍服や教育勅語で水増ししていた。
それだけでは飽き足らず、多くの人を巻き込んで、「憲法も変えなければダメだ」というような運動まで始めた。しかし、憲法を変えて何をしたかったんだろうということを改めて考えると、何もなかったんじゃないかと思えてくる。
森友学園の愛国教育は単なる戦前コスプレになっていた。これは出来が悪い二次創作である。二次創作が悪いとは思わないのだが、最近は二次創作でもそれなりの競争がある。読んでもらうためには中身を工夫しなければならない。続けてゆくには愛や研究心が必要だ。
森友の愛国コスプレとコミケの違いは何だろうか。例えて言えば、漫画が好きな子が「一番尊敬される漫画家って誰だろうか」と考えて手塚治虫のアトムのコスプレをしているうちに「俺は漫画がうまい」と思ってしまったということになる。そしてその漫画を読ませようとしたが誰も振り向いてくれないので誰も幼稚園を作らないような場所に幼稚園を作って観客を集めてアトムごっこをし、さらに自分の漫画が気に入らないやつを罵倒し、それには飽き足らず小学校まで作ろうとしたがお金がないので、政治家と役人を巻き込んで国の土地を安価で掠め取ったという図式だ。
これは観客にも問題があるだろう。コミケの客は目が肥えているのでつまらない同人誌は読んでもらえない。しかし「愛国」とか「二千六百年の歴史」というのには陶酔感があるわりに誰も原典を読んでいなかったのではないかと思える。
かつて保守を名乗るためには、少なくとも中国から入ってきた哲学体系などを学んだ上でそれなりの見識を持たなければならなかった。見識だけではダメで「行動」もそれなりのものでなければならなかった。儒教は形骸化した歴史があり「やはり実践が大切」ということになっているからだ。しかし、観客も含めてそうした研鑽を積んでいるような形跡はない。
安倍首相などが典型だろうが、この人もやりたいことがなく首相になってみんなからちやほやされたいということだけが行動原理になっている。政治には困った人を救うというような役割もあるのだが、政治そのものが自分の願望を充足させるための道具に過ぎないのでこうした人たちの声は聞こえない。
すべてをオリジナルで作ることなど不可能なので、二次創作はかまわないと思うのだが、それでも内面から出てくるものを加えてあげないと、自我が肥大して周りを巻き込んだ上で、周囲を混乱や不安に陥れたり、大きな間違いを犯す可能性があるということが分かる。
やりたいことは追求すべきだと思うのだが、心から好きだと思えるものじゃないと、このように壮大にやらかしてしまう可能性が強い。愛国はかなり毒性が強い。三島由紀夫は文学の世界では最高峰といえるような才能だったが、おもちゃの軍隊を作り、自衛隊で嘲笑された挙句自殺してしまった。
いずれにせよ今後、コミケで三年くらい修行したあとではないと「愛国者」と呼ばないようにしてはどうだろうか。国会でできの悪いコスプレを披露されては困るからだ。

安倍晋三の悪い友達と大阪の荒廃

昨日の国会は森友学園祭りだった。大阪に新しく作られるという「安倍晋三」小学校がかなりめちゃくちゃなことになっていたからだ。Twitterから流れてくる話をまじめに読んでいると気分が悪くなる。
政治家が介入しないとあんなに不自然な取引は行われないはずだという声があるのだが、もしかしたらそういう話でもないかもしれない。NHKは安倍首相が「勝手に名前を使われて迷惑している」と態度を表明してからおずおずとこの件について報道しはじめた。それまでは「森友学園は支持者だ」などと言っていたので「なんか触るとやばいんじゃないか」と考えて調査していなかったのだろう。NHKは報道機関という名前を広報機関に変更したほうがよいと思うが、直接働きかけを受けたというよりも「官邸に脅されたらやばいな」と思っていたのかもしれない。
つまり官邸は、普段からやくざまがいの恫喝を行っていたことがわかるのだが、「森友学園」という安倍首相のお友達もかなりのタマだったようだ。俺のバックには首相がいるんだぞと嘯(うそぶ)きながら、土地を借り、それを原資にして各種補助金を引き出していた。途中から「ごみが出てきている」と難癖をつけて安い価格で土地を買い叩いた。政治家の斡旋があったかどうかは各機関が調査すればいいと思うのだが、本当に斡旋はなく「やばい人みたいだけど首相ににらまれたら厄介だから」と考えて言いなりになった可能性もある。「もう土地は要らないから後から難癖をつけてこないでね」という契約になっているようだ。
森友学園は安倍首相のお友達だ。安倍さんがおなかを壊して首相を辞めてから年寄りしか読まない右翼系の雑誌で「安倍さんが悪いんじゃなく、安倍さんを否定した世間が悪いんだ」などと盛り上げていた。「見かけは不良なのだが実はいいやつ」という評価なのだろう。しかしやっていることは怪しかったので、自分は合おうとせず奥さんをお使いに出していた。最終的には「私は知りません」と言えるからだ。安倍さんの国会でのあわてぶりをみていると「予想はしていたんだろうなあ」と思えてくる。
しかし安倍首相の愉快なお友達は「ワシは安倍首相と友達やねんで」と雑誌などで吹聴し、寄付金を集めていた。民進党が調査したところでは、森友にはお金がなく、当局もそれを知っていたようだ。そもそも学校が作れるかどうかすら怪しい団体だったのだ。
このように学校を補助金ビジネスにしようとしていた森友だが、運営している幼稚園はさらにひどかった。教育勅語を暗唱させ……などと言われていたが、実際には「右翼コスプレ」だったようだ。天皇・皇后の写真がぞんざいに飾られていて敬意などなかったのではという記事があった。
また「中国韓国に謝罪させるぞ」と幼稚園児に宣言させる一方で、子供がトイレに行かせるのが面倒なので時間にならないとトイレにいかせなかったそうである。汚物に腹を立てて子供のバッグにお弁当箱と一緒に突っ込んでいたそうだ。さらに、汚染物質が出てくるといっていた土も「お金がないから」という理由で敷地に埋め戻していたそうである。子供が遊ぶ土地だからきれいにしてやろうという気持ちは一切なかったようだ。
つまり子供は彼らの政治的な主張を刷り込む道具であって、子供の世話なんかどうでもよかったということになる。
ではさぞかし複雑な政治的主張があるかといえばそういうわけでもない。「中国と韓国はダメ」というような全く中身がないもので、中には「コーラは韓国人が飲むものだからダメ」というようなものもあったようだ。この理屈だとアメリカ人は韓国人ということになってしまう。
つまり「現在の愛国主義者」というのは俺の言うことを聞かせるための道具として天皇の権威や子供を利用するだけの人ということになる。安倍首相はそういうやばい人たちを「でも俺のファンだからだなあ(永田町用語では「私の考え方に非常に共鳴している方」)」といって放置していた。いつもマスコミや役所を恫喝していたので「安倍のお友達」を放置していた。
さて、ここまでは「森友学園ってひどいね」という話だがもう一つ驚いたことがある。かなりひどいことが知られていた塚本幼稚園だが「淀川区にはほかに通わせる幼稚園がない」という理由で通わせていた親が一定数いたそうだ。市立幼稚園がない地域もあるという。
さすがに「幼稚園がまったくない区」というのは関東圏では考えられないような気がする。淀川区がどんな地域かは知らないが、よほどの貧困が進んでいるのだろう。維新の党は国会でも全く中身のない質問を繰り広げているが、経済が荒廃するとこういう人たちが沸いてくるのだ。
もともと大阪は政治に信頼感がなく昔からテレビタレントなどを市長や府知事にしていた。これが貧困を生み、貧困がさらに中身のない政治家を増殖させるという構図があるのかもしれない。これを「日本の大阪化」と呼びたい。
日本が大阪化すれば憲法レベルで森友学園みたいな存在を容認することになるかもしれない。当然子供は単なる道具のように使われることになる。国家レベルで推進しなければならない事業なんかあるわけはないので、国の私物化が始まるのだろう。

日本人はなぜ平気で嘘をつくのか

最近、政府や都の隠蔽が話題になっている。豊洲、南スーダン、豊中の小学校、文部科学省の天下りなどなど枚挙に暇がない。しかも当事者たちはあまり罪悪感を感じているように見えないので、Twitterの人たちは「嘘つきだ」「隠蔽だ」といって怒っている。しかし当事者たちはこれを嘘だとは思っていないのではないかと思う。それは日本人は嘘をついても平気だからだ。




近所の公園にト「レットペーパーがないので市に苦情を入れた。すると「公園は委託先が管理しているのでそんなことはありえない」という返事が来た。写真つきのレポートを提出してもらっているのだそうだ。これはクレームに対する一時的な反応としては理解できる。つまり「文句を言われたのでそんなことはないうとリアクションしてしまった」のだ。

ところがそれは嘘なのだ。もう何ヶ月も紙が入っておらず、フォルダーには芯さえなく、代わりに桜の枝がつけてある。掃除もされていないのでごみが産卵していた。

ということで写真をつけて公式のクレーム窓口に送った。それだけでは不十分だと思ったのでブログにアップしてURLを添付しておいた。するとそのまま音沙汰がなく2ヶ月くらい経ってから市長名で返事が来た。時間がかかったのは部門間で調整するからだろう。一部をそのまま引用する。太字はこちらで引いた。


六方調整池内のトイレの清掃について

 まず、ご指摘のあったトイレの紙の補充等につきましては対応いたしました。トイレの清掃等につきましては、業務委託により、月4回程度実施し、作業後に受託業者から写真を添付した報告書を提出させ、確認を行っておりましたが、清掃後のトイレ内全体の状態を十分に確認することができておりませんでした。

今後の維持管理について

 今後は、受注業者に対し、清掃作業毎のごみの撤去及び消耗品の補充について徹底するとともに、トイレ内全体が確認できる作業報告を行うよう指示し、清掃作業等が適切に行われるようにしてまいります。

 また、千葉市職員によるパトロールを行い、トイレ等の施設を含めた調整池全体の適正な維持管理ができるよう努めてまいります。


やってなかったことを認めたのだが「調査もしないで虚偽の回答をした」ことについてのお詫びはない。回答が遅くなってゴメンねとは書かれていた。しかし、点検もそのあと行われなくなった。5月には再びトイレが汚れていたので担当者に電話したところ「やっぱりできませんでした」という回答を得た。その場その場で嘘をついていてあとで追求するとごまかすということが常態化しているようだ。

日本人は相対的な善悪を生きているので、絶対的な事実にあまり重きを置かないことが分かる。何を認識していたかということが真実なのだ。つまり「知らなかった」なら現場を見ていなくても嘘をついたことにはならないのだ。南スーダンの稲田大臣の答弁を聞いていると「ああ、あるよなあ」と思える。

彼らにとっては公園の管理がどうできているかというのはどうでもいいことで、誰が何を知っていて、それがどの範囲でどう知られているかということが重要なのである。個人が「市はけしからん」と思ってもそれは彼らには痛くも痒くもないのだが、それが広まるのはよろしくない。写真があれば「見ていなかった」とはいえなくなってしまうのだ。

豊洲の問題でも「誰が何を知っていたか」ということが問題になっているのだが、十年も経ってしまうとそんなことは分からなくなってしまう。それでもそのことが問題になるのは日本人にとって「現場がどうだったか」はむしろどうでもよいことだからだ。つまり、都民にばれなければ地価にベンゼンが充満していてもどうでもよいと考える人が大半なのである。

このこと自体は考え方の特性なのでとやかく言うつもりはない(とやかく言っても直らないので仕方がない)のだが、これには困った点がある。今回市は市長名で公園の巡回をすることを決めてしまった。つまりクレームがくるとそれに対するアドホックの対応を行う。巡回だけが決まりごととして生き残るので、市には「何で始まったか良く分からない作業」がたくさんたまってゆくはずである。これが複雑さを生み生産性を下げてゆくことになるだろう。これは市民の税金の無駄遣いである。

さらに「決まっているからやるのだ」ということになると「決まっていないことはやらない」ということになるだろう。こうして別のクレームが生まれる要因になる。

これを修正するためには業者が「業者としての責任感を持って公園をきれいにし」「市職員が自発的にそれを指導する」とすればよいのだが、責任感と良心に従ってベストを尽くすという発想は日本人にはない。「熱血ウザイ」といわれるのが関の山だ。

さてここまで「日本人は」という主語で括ってきた。こんなエピソードがある。カナダ人の英語の先生(たまたまシスターなのだが)がとても怒っていた。この先生は同じR(かL)が入った単語を二箇所で回答させるテストを作ったらしいのだが、一方をLにして一方をRにする生徒が目立ったらしいのだ。

カナダ人の先生にしてみれば正解は一つしかないわけでテストの点数のためにそれを曲げるというのが許せなかったのだが、最初は何で怒っているのか分からなかった。テストのテクニックとしてはアリのように思えるからだ。

キリスト教圏では「内部の良心に従って判断を下す」という態度は珍しいものではない。神という規範が外にあるわけではないし生きてしゃべったりはしないからだ。教会でも「神様がこういっているから駄目なのだ」みたいな言い方はしない。「あなたの良心に尋ねなさい」みたいな言い方になる。

これに従って考えると「業者はごまかしを行っていたので業者としては不適格だ」ということになるのだが、日本人はそういう風には考えない。「まあ、見てないところではズルもするよね」と思う。それは生きてゆくための方便だ。そこで不都合が起きると「監視によって外から押さえつける」ことになる。決まりごとや監視システムが過剰になるのはこのためなのだろう。

嘆かわしいことに日本の政府はTwitterの監視と炎上なしには機能しなくなっている。つまりTwitterはボランティアで政府の倫理部門として働かされているのだ。

日本人のような倫理観は村単位では有効に機能するのだろう。しかし、都市化が進んですべてのことに監視ができなくなると、嘘やごまかしが横行する。日本人はそれを自分たちで修正することはできない。それが社会的なコストになり生産性を下げるのだ。

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ヤマト運輸の人が楽になるかもしれない工夫

ヤマト運輸が「もうこれ以上荷物が運べません」と悲鳴を上げているらしい。Amazonなどの通販が発達したので業務が逼迫しているという事情があるのだろうが、再配達が減れば運転手の負担も軽減できるのではないかと思った。
事前に「いつ荷物が着くか」が分かれば再配達の手間は減らせる。
ヤマト運輸には荷物のトラッキングサービスがある。これを利用すればかなり細かく荷物の現在地が分かる。福岡から千葉まで荷物を送る場合、千葉に着いた時点で「大体何時ごろに到着するか」はわかるので、そのときに千葉の最寄営業所に「今日は午後でかける」などと言って置けば再配達の手間は減らせる。
精度は劣るが郵便局も同じようなトラッキングサービスをやっている。雑誌を注文したときに「今日は午前中はいるが、午後雨が降るのでどうしましょう」と相談したところ、午前中に手渡ししますと言ってくれた。ただし郵便局の場合、局の手元に届いてからではないと検索ができないようだったので、タイミングを図る必要はあるものと思われる。それでもこういうサービスをやってくれるのは、二度手間のほうが大変だからではないだろうか。
もちろん、電話で確認というような面倒な手段をとらなくても、オンラインで調整ができるサービスがある。ヤマト運輸はクロネコメンバーズというサービスを展開しており、ウェブ上から配送時間の変更もできるようだ。クロネコメンバーズは意外と使えるサービスで、送り状の発行やポイントシステムもあり使い勝手が良い。手書きが苦手な人は一回試してみてもよいのではないだろうか。
今のところ、受け取り手にはインセンティブがないので、配送日時を指定したらポイントを付加するなどのインセンティブをつけても良いかもしれない。再配達の手間が省ければ人件費が減らせるので、ポイントの原資にはなるのではないだろうか。
再配達を減らすためにはポストを作るなどの工夫もできるのだろうが、お金がかかることなので、なかなか一筋縄では行かないだろう。誰でもマメに到着日時をチェックするくらいのことはできるわけで、ちょっとした協力があれば少しは労働環境の改善につながるかもしれない。
通販のように自分で注文したものは番号が予め分かるわけだが、それ以外の品物がいつくるかは分からないわけで、品物を送る場合には予めトラッキングナンバーを相手に伝えてあげるのも手かもしれない。今そういうことをすると???みたいに思われるはずだが「荷物送りましたよ」コールをはやらせてもいいんじゃないだろうか。
巷では再配達にペナルティをとればいいんじゃないかという声もあるが、そうなると「じゃあ受け取らない」ということになりかねないわけで、それであればトラッキングに協力してくれた人にインセンティブを渡したほうがみんなハッピーになれる気がする。

日本人は何のために行動するのかを考えるのが苦手

日本人は何のために行動するのかを考えるのが苦手だ。これは学校教育に問題がある。
そういわれるとどう思うだろうか。日本人などと大きく括った上で決め付けていると考える人が多いのではないかと思う。「また学校のせいにして」という声も聞こえてくる。
さて、最近日経系のウェブサイトで「大学が入試問題を予備校に委託している」という記事を読んだ。ポイントは下記のとおり。

  • 定員を埋めるために入試が複雑化した。
  • しかし、大学教員の数は減っており忙しくなっている。
  • そこで入試問題を作る時間がない。

「これは嘆かわしい」と思ったのだが、今朝記事を再検索して唖然とした。同じような記事がすでに2007年に朝日新聞から出ている。2013年と2014年にも同じような記事がある。
背景には前回見た携帯電話会社の窓口が忙しくなるのと同じ構図がある。パイが縮小しており、生き残りのための奪い合いが起きている。このため制度が複雑化している。都度つどアドホックな「改革」を繰り返した結果身動きが取れなくなってしまったのだろう。かといえ、誰もリーダーシップを発揮しないのでオペレーションが単純化できない。そこでお金を払って誰かにやってもらおうということになるのだ。
自分が教えたい学生の選抜を他社に委託するという滅茶苦茶なことになっている。他社に委託するということは「誰でもいい」といっているのと一緒だ。つまり大学の先生は本当は学生に教える時間を無駄だと考えているのだろう。自分の研究に専念したいという気持ちがあるのかもしれない。
さて、この話、なんだか変だと思わないだろうか。そもそもオリジナルで入試問題を作るのは「ほかの大学とカブらないため」だと思うのだが「なぜカブってはいけない」のだろうか。
当然「パターンを攻略されない」ためだという答えが返ってくると思うのだが、そもそも攻略されるのは、どこも同じような問題を出すからである。学力そのものは共通テストで計測できるはずで、大学が学力を計りなおすのはどうしてなのだろうか。
アメリカの大学では「なぜその学科に入りたいか」という論文を書かせたり、リクルートのためにインタビューをすることがある。熱意が分かると同時に少し話せば基礎的な理解があるかどうかがわかるからだ。エッセイなので他とカブることはない。
つまり、大学は「どんな目的のために何を計測するのか」ということを全く理解しないままで、過去の延長線上で問題を作り続け、忙しくなったてできなくなったからという理由で予備校に泣きついているということになる。
「エッセイなんか読んでられない」という声は予想される。効率的に頭のいい学生を採用すればいいだろうという結果が現在の学力テストなのだが、それが効率的でなくなっているという笑えないことが起きている。しかも、つい最近の出来事ではなく、徐々に大学を侵食しているらしいのだ。
さて、ここで「そもそも目的にあわせた正しい行動さえ選択できない」大学が専門的な知識を学生に教えられるのかという疑問がわく。大学生の半数が大学を卒業する時点でかなりの借金を抱える現状を考えると、共通試験で成績順に番号を振って、勉強はしないで2年程度就職活動させるというのが「一番効率的」なのではないだろうか。あとの2年は企業が教えればよい。すると、専門教育はいらないので大学教員をすべてリストラできる。受験勉強そのものが目的になるので、あとは予備校だけあればいいということになるだろう。

好きなことをしよう

ということで、Twitterに渦巻く不満の1/10でも生産的な活動に充てれば日本はもっとよくなるだろうシリーズの最終回。今回は好きなことをしようというものだが、サブタイトルは「狭き門より入れ」だ。
これまでの考察をまとめる。経済が成長しない理由はいくつかあるのだが、経済が複雑になりすぎていることが要因の一つになっている。このため単純で簡単なソリューションが求められているのだが、それは今までの経済の延長線上にあるものではないだろう。
組織が大きくなるとオペレーションが複雑になるだけでなく、労働者がコントロールできる領域が減る。労働者は自分の興味のあることにしか一生懸命になれない。成長とは余剰の蓄積なので、自分のやりたいことを通してしか経済成長はできないということになる。やる気を外から操作することはできないし、できたとしても持ち出しになる。人が自治できるのは自分が影響を及ぼせる範囲だけなので、影響を及ぼせない範囲では努力を控えるか、あるいは奪い合いが始まることになるだろう。
つまり自分がコントロールできる範囲で「やりたいことを追求したほうが」みんなが幸せになれる可能性が高いということになる。いろいろ遠回りしたのだが、市場経済のもっとも基本的な価値観を再学習しただけなのかもしれない。自分が得意なことをやって、相手の得意なものと交換するというのが市場主義経済であり、これを国レベルまで拡張したのが自由貿易構想だ。
ところが、これがなかなか難しいのではないかと思う。
第一に日本人は自分の意見を持たない。自分の考えに固執せずに回りにあわせるほうがよいことが多い。例えば「あなたはどんな政治的な意見を持っていますか」といわれても「みんなが受け入れられるようなふわっとしたこと」しかいえない。そのため、そもそもやりたいことがないかあったとしても言語化できない人が多いはずだ。この現象は子供のころにはすでに始まっているらしい。日本人はSNSで創造的な発信が世界一低いという国際的な調査すらある。
次にやりたいことを実現するために必要なスキルがない人が多い。文章を書いたり、絵を描いたり、プログラミングをしたりなどするためにはある程度の技術の蓄積が必要だが、「嫌なことをこなせてこそ仕事でそれ以外は単なるお遊びに過ぎない」ということを言う人がおり、そういう人たちが暗黙のルール(文脈依存でしか使えないことも多い)を押し付けてくる。すると、やっていることがなんとなくつまらなくなってしまうのである。
これを超えても、誰か他人のために何かがしたくなる傾向がある。いわゆる「大義のために」何かがやりたくなるわけだ。この大義がなかなか厄介だ。自分の願望を混ぜ込んだ大義はたやすく暴走する。それぞれの道には伝統からくる自律性があるはずなのだが、伝統から切り離された大義はその自律性を欠いていることが多い。これを原理主義という。
まとめると、意識化・技術・自発性という3つもの関門をくぐる必要がある。その関門を越えてやっと、私はやりたいことがあるからあなたのやりたいことも協力してあげるというミューチュアル(お互い様)の関係ができるのだろう。
ということで、今一度「自分のやりたいことって何だろうか」ということを考えてみるのがよいのではないだろうか。議論がはじまるのはずっとその先だと思う。

森友学園とトランプ大統領に共通するもの

おもしろいツイートを見つけた。一連のツイートから見ると森友学園について言及している。


多分、誰かに反論しているのだと思うのだが、これ多分どちらとも間違っている。A→BではなくB→Aであろうと言っているのだが、AもBもCの結果なのだ。じゃあ、隠れたCって何ですかということになる。
さて、隠れた事象を見つけるのはなかなか難しそうだ。多分、実際にこういう硬直した教育観を持った人を身近に見たことがないと想像が難しいのではないかと思う。類推するしかないのだが、かといって決め付けてしまっても問題の本質が分からなくなりそうだ。
ヒトには共感作用があり、お互いに影響を与えることができる。ただし、この共感作用にはさまざまな能力が関係しており、それが先天的・後天的に損なわれると共感ができなくなるのではないかと思う。
教育は社会の寛容性を利用してよりよい社会に参加するメンバーを増やすと言う作業だ。つまり「良い」と思ったことに人は従うのだ。だが、これが分からない人もいる。共感というルートが使えないので無理に従わせると言うことになる。教育と虐待や強制の境目があいまいなのは、従わせるルートが共感か強制かという違いしかないからだ。
「相手を操作する」わけである。いろいろなルートがある。

  1. 規範に従わせる:先生がそういっている・法律がそうなっている
  2. こっちが得である:取引を持ちかける
  3. 私のことがかわいそうとは思わないのかと脅す
  4. 相手のほしいものをちらつかせて操作する
  5. 暴力を振るって脅かす

1が暴走しているのが日本会議である。そもそも国旗国歌の法律を作ろうとしていた運動体だと思うのだが、法律は憲法に縛られるということに気がついたらしい。だったら憲法を変えてしまえというように変質していったのだろう。子供のころから教え込めばいいだろうと考えている節もある。日本会議の特徴は「言うことを聞かせられなかったら、もっと偉い人に働きかけよう」と考えている点だ。つまり、行動によって影響力を行使できていないということで。多分これは行動が間違っている。
トランプ大統領は別の経路を使っている。取引を持ちかけているのだ。自伝の中で「取引自体が楽しいからやっている」と言っているそうだ。取引自体が自己目的化しているので、それに合わない事実はすべて「フェイクニュースだ」ということになっている。
ちなみに3番は共依存の持ち掛けである。相手のことを親身になって考えているようではあるが実は対象物としてしか見ていないという状態だ。入院した娘を放り出して別の人の世話を焼きに言ったのを見て「長年の呪縛が解けた」という話を読んだことがある。
さらに4番目がいわゆるサイコパスの中で最も成功する部類の人たちの類型だ。共感回路が壊れているので、却って相手の考えていることが良く分かるそうである。
最後は犯罪化しやすい。しつけの一環として虐待したという親がいるが、多分本当に区別が付いていないのだろう。
共感ルートが壊れた人たちはいろいろなヒントを落とすことがある。例えば「汚いものが受容できない」というのもその一つだ。なぜそうなるのかは分からないのだが、他人が「害をなすものだ」という認識があるようだ。相手はばい菌に満ちており、それを排除するために相手をコントロールしたいという欲求があるのだろう。
トランプ大統領は極度の潔癖症で知られるそうで、検索するといろいろなエピソードが出てくる。子供のころから攻撃的な性格だったようだ。森友の事例を聞いてこういう強迫的な性格の人は相手を汚いと考えて恐れるのだなあと思った。
この手の人たちには「相手の話が聞けない」という特徴もある。これは相手が言っている論理経路にしたがって自分の中で論理が形成できないことを意味している。ただし認知に問題があるのか「聞かなくていい」と思っているのかは分からない。本から知識を得ることはできるので「教育勅語」のような固定したテキストに自分のストーリーの乗せることを「分かった」と考えてしまう。コンテクストとか書いた人の気持ちなどは読み取れないからだ。
共感による影響力を行使できず相手も理解できないからこそ、固定したテキストを暗唱させるなどという無茶なことができる。例えば普通のキリスト教の学校では聖書を暗唱させてそれを事実だと教え込むというようなことはしない。聖書を事実として教え込む人たちをキリスト教原理主義などというが、アメリカでも白人の多い地域では増えているようである。
ここまで見てきたのは、日本でもアメリカでも共感を欠いた人が台頭してきているという現象だ。こうした人たちは毎日が闘争なので(闘争をやめてしまうと相手にコントロールされてばい菌を移される)競争に勝ちやすいという側面がある。
どうしてこういう人たちが台頭してきたのかは分からないのだが、少なくともアメリカがこういう人たちに侵食されてどうなるんだろうというのはこれから行われる社会実験でよくわかることになるだろう。と、同時に森友学園も早く小学校を作ればいいと思う。多分、硬直的な教育が子供にどういう影響を与えるかということが分かる社会実験になるだろう。
シナリオどおりに子供が育てばたいした問題にはならないだろうが、いったんいじめのように人間関係から起こるトラブルなどが発生すると対処できなくなるのではないかと予想できる。
最後に「相手の分析をして頭がおかしいというレッテルを貼っている」という批判があることが予想される。確かに安倍晋三はサイコパスだというつぶやきを見つけたことがあるがこれは安易だなと思った。反社会性人格障害という別名があるのでそれに引きずられたのだろう。安易なラベル貼りはやめたほうがよいと思うが、完璧に育った人などいないのだということも知っておいたほうがいいだろう。
つまり、私もあなたもなんらかの問題を抱えているはずなのである。ただそれを個性化させて昇華できるか、それとも周りを巻き込んで苦しみ続けるかということには大きな違いがあるはずだ。