最近、政府や都の隠蔽が話題になっている。豊洲、南スーダン、豊中の小学校、文部科学省の天下りなどなど枚挙に暇がない。しかも当事者たちはあまり罪悪感を感じているように見えないので、Twitterの人たちは「嘘つきだ」「隠蔽だ」といって怒っている。しかし当事者たちはこれを嘘だとは思っていないのではないかと思う。それは日本人は嘘をついても平気だからだ。
近所の公園にト「レットペーパーがないので市に苦情を入れた。すると「公園は委託先が管理しているのでそんなことはありえない」という返事が来た。写真つきのレポートを提出してもらっているのだそうだ。これはクレームに対する一時的な反応としては理解できる。つまり「文句を言われたのでそんなことはないうとリアクションしてしまった」のだ。
ところがそれは嘘なのだ。もう何ヶ月も紙が入っておらず、フォルダーには芯さえなく、代わりに桜の枝がつけてある。掃除もされていないのでごみが産卵していた。
ということで写真をつけて公式のクレーム窓口に送った。それだけでは不十分だと思ったのでブログにアップしてURLを添付しておいた。するとそのまま音沙汰がなく2ヶ月くらい経ってから市長名で返事が来た。時間がかかったのは部門間で調整するからだろう。一部をそのまま引用する。太字はこちらで引いた。
六方調整池内のトイレの清掃について
まず、ご指摘のあったトイレの紙の補充等につきましては対応いたしました。トイレの清掃等につきましては、業務委託により、月4回程度実施し、作業後に受託業者から写真を添付した報告書を提出させ、確認を行っておりましたが、清掃後のトイレ内全体の状態を十分に確認することができておりませんでした。
今後の維持管理について
今後は、受注業者に対し、清掃作業毎のごみの撤去及び消耗品の補充について徹底するとともに、トイレ内全体が確認できる作業報告を行うよう指示し、清掃作業等が適切に行われるようにしてまいります。
また、千葉市職員によるパトロールを行い、トイレ等の施設を含めた調整池全体の適正な維持管理ができるよう努めてまいります。
やってなかったことを認めたのだが「調査もしないで虚偽の回答をした」ことについてのお詫びはない。回答が遅くなってゴメンねとは書かれていた。しかし、点検もそのあと行われなくなった。5月には再びトイレが汚れていたので担当者に電話したところ「やっぱりできませんでした」という回答を得た。その場その場で嘘をついていてあとで追求するとごまかすということが常態化しているようだ。
日本人は相対的な善悪を生きているので、絶対的な事実にあまり重きを置かないことが分かる。何を認識していたかということが真実なのだ。つまり「知らなかった」なら現場を見ていなくても嘘をついたことにはならないのだ。南スーダンの稲田大臣の答弁を聞いていると「ああ、あるよなあ」と思える。
彼らにとっては公園の管理がどうできているかというのはどうでもいいことで、誰が何を知っていて、それがどの範囲でどう知られているかということが重要なのである。個人が「市はけしからん」と思ってもそれは彼らには痛くも痒くもないのだが、それが広まるのはよろしくない。写真があれば「見ていなかった」とはいえなくなってしまうのだ。
豊洲の問題でも「誰が何を知っていたか」ということが問題になっているのだが、十年も経ってしまうとそんなことは分からなくなってしまう。それでもそのことが問題になるのは日本人にとって「現場がどうだったか」はむしろどうでもよいことだからだ。つまり、都民にばれなければ地価にベンゼンが充満していてもどうでもよいと考える人が大半なのである。
このこと自体は考え方の特性なのでとやかく言うつもりはない(とやかく言っても直らないので仕方がない)のだが、これには困った点がある。今回市は市長名で公園の巡回をすることを決めてしまった。つまりクレームがくるとそれに対するアドホックの対応を行う。巡回だけが決まりごととして生き残るので、市には「何で始まったか良く分からない作業」がたくさんたまってゆくはずである。これが複雑さを生み生産性を下げてゆくことになるだろう。これは市民の税金の無駄遣いである。
さらに「決まっているからやるのだ」ということになると「決まっていないことはやらない」ということになるだろう。こうして別のクレームが生まれる要因になる。
これを修正するためには業者が「業者としての責任感を持って公園をきれいにし」「市職員が自発的にそれを指導する」とすればよいのだが、責任感と良心に従ってベストを尽くすという発想は日本人にはない。「熱血ウザイ」といわれるのが関の山だ。
さてここまで「日本人は」という主語で括ってきた。こんなエピソードがある。カナダ人の英語の先生(たまたまシスターなのだが)がとても怒っていた。この先生は同じR(かL)が入った単語を二箇所で回答させるテストを作ったらしいのだが、一方をLにして一方をRにする生徒が目立ったらしいのだ。
カナダ人の先生にしてみれば正解は一つしかないわけでテストの点数のためにそれを曲げるというのが許せなかったのだが、最初は何で怒っているのか分からなかった。テストのテクニックとしてはアリのように思えるからだ。
キリスト教圏では「内部の良心に従って判断を下す」という態度は珍しいものではない。神という規範が外にあるわけではないし生きてしゃべったりはしないからだ。教会でも「神様がこういっているから駄目なのだ」みたいな言い方はしない。「あなたの良心に尋ねなさい」みたいな言い方になる。
これに従って考えると「業者はごまかしを行っていたので業者としては不適格だ」ということになるのだが、日本人はそういう風には考えない。「まあ、見てないところではズルもするよね」と思う。それは生きてゆくための方便だ。そこで不都合が起きると「監視によって外から押さえつける」ことになる。決まりごとや監視システムが過剰になるのはこのためなのだろう。
嘆かわしいことに日本の政府はTwitterの監視と炎上なしには機能しなくなっている。つまりTwitterはボランティアで政府の倫理部門として働かされているのだ。
日本人のような倫理観は村単位では有効に機能するのだろう。しかし、都市化が進んですべてのことに監視ができなくなると、嘘やごまかしが横行する。日本人はそれを自分たちで修正することはできない。それが社会的なコストになり生産性を下げるのだ。
Comments
“日本人はなぜ平気で嘘をつくのか” への5件のフィードバック
いじめや長時間労働などの問題もこの延長線上なのかもしれませんね。
これ、本当に素晴らしく的を射ていて、私と考え方が完全にシンクロしている。
本当は「いやそんなことはない」と否定してもらいたいところなのですが、やっぱりそうなのかなあということが増えましたよね。ちょっと残念ですが。
自律的か他律的かっていう部分が、日本人と、欧米人との間で決定的に異なっている部分だと常々感じていました。だから、電車の中とかひどいですよね。
もちろん日本人でも自律的な人はいますし、欧米人でも相対的な人はいると思いますが
確かに個人差はあるので一概には言えないんでしょうね。コメントありがとうございました。