「モリカケは置いといてまずはシリアだ」の意味

今朝はこのようなツイートを見かけた。これについて考えたい。

このツイートには明らかな問題点がある。文書管理の問題が政権の不祥事に「矮小化」されているからである。モリカケ問題の基礎には曖昧な情報伝達と意思決定のプロセスがあり、それは日本人の文化コードに由来する。だからそれを修正しないで政権だけを変えても問題は解決しないだろう。

そもそもなぜ彼らは安倍政権が嫌いなのか。それは日本人が意思決定権を担保したがるからである。安倍政権の打倒を掲げる人たちは自分たちのアドバイズが無視され劣等なネトウヨの意見ばかりが取り入れられることに怒っている。逆にネトウヨの人たちは自分たちの意見が取り入れられていると思っている。

今回は自衛隊の日報問題について見ている。昨日経緯を見たかぎりではこの問題の根は深く、少なくとも小泉政権くらいからの状況を見なければならないということを学んだ。そして、経緯の中には民主党政権も含まれている。つまり、安倍政権を倒したとしてもこの問題は解決しないだろうし民主党系に政権が移っても状況は変わらないだろう。

森友の問題に比べて防衛省の問題がわかりやすいのはこれが明らかに憲法違反だからだ。

イラクや南スーダンで現地の自衛隊員が戦闘状態を認識していたことは明らかになった。もしこれを防衛省が隠していたとなると文民統制に必要な情報を内閣を通じて議会に伝えていなかったことになる。しかし仮に伝えていたとなると文民が知っていたにもかかわらず法律的な措置を講じなかったということになる。これはどちらも憲法違反である。

PKO五原則というものがあるそうで、コトバンクは次のように定義する。

自衛隊PKO国連平和維持活動)に参加する際の条件。(1)紛争当事者間で停戦合意が成立していること、(2)当該地域の属する国を含む紛争当事者がPKOおよび日本の参加に同意していること、(3)中立的立場を厳守すること、(4)上記の基本方針のいずれかが満たされない場合には部隊を撤収できること、(5)武器の使用は要員の生命等の防護のために必要な最小限のものに限られること、の5項目で、それぞれPKO協力法に盛り込まれている。PKO参加五原則

自衛隊が武器を使用できるのは護衛のための限られる。だから戦闘状態であるということがあきらかになった場合、あるいは当事者がそう訴えた場合には必要な措置を講じる必要がある。この原則は憲法の制約のもとに作られているはずなので、PKO5原則違反は憲法違反担ってしまうのだ。

政治家は明らかに「報告さえなければ必要な措置を講じなくても良い」と受け取った。だから聞かなかったことにしたという可能性が高い。ここまでは不作為だ、やるべきことをやっていなかったという問題である。

安倍政権はアメリカの軍事行動にいち早く追随し中国と対抗したように見えるのだが、この時点では政権の真意はわからない。いずれにせよアメリカとの軍事同盟関係により深くコミットするためには集団的自衛権の行使を容認しなければならない。しかし日本人は前例がないことを嫌がるのでまずは実績を作ろうとしたのだろう。

少なくとも安倍政権はどういう理由かはわからないが状態をエスカレートさせようとしていた。だから意図的に隠蔽していた可能性が高い。具体的に指示していたということはあまり重要ではない。意図的に聞かなかったとか意図をほのめかしていたとしたらやはりそれはもはや不作為ではないのである。

しかし、政治が明確な意思を持って政策を変えること事態は悪いことではない。国民にリスクを説明し、自衛隊のコミットメントも獲得すべきだろう。小泉政権もPKOが外に出れば危険な目に会うことは予測していただろうし、野田政権も南スーダンに調査団を送るとそれが戦闘部隊の派遣につながるということを知っていたのだろう。ここにも日本人の村落性がある。村人から頼まれると「いいかお」をしたくなってしまうのである。それは「お付き合いにかかせない」からだ。こうしたこころねだけはなぜか日本語で説明できてしまう。だが、そこから生じる「リスク」をどの政権も国民や自衛隊に説明してこなかった。

自衛隊の海外派遣は「お付き合い」として仕方なく始まった。ある時にはアメリカから「ショーザフラッグ」と圧力をかけられ、別の時には国連事務総長が官邸までやってきて直々に総理に頼み込んだりした。繰り返しになるが安倍政権だけではなく自民党・民主党政権も関わっている。

民主党系の野党が安倍首相に切り込めないのはそのためだろう。彼らも国際社会が日本の軍事的貢献を期待していることを知っており、自分たちが政権を取ってもこの無理筋な要求と「センソーハンタイ」を叫ぶ支持者たちを折り合わせなければならないことがわかっているはずだ。

この意味では民主党系の人たちは難しい立場に追い込まれている。熱心な支持者がいるから安保法制には反対したい。彼らは「戦争はいけないコトだ」と思っておりそれ以上の理解をしようとはしない。政権を得るためには彼らを手放せないが、いざ政権を取ってしまうと今度は国際社会への貢献を求められる。だから「文書隠蔽は民主主義の根幹を揺るがす」としか言えないのである。

まとめると安倍政権は無謀な野心を持ち無理に無理を重ねたという点が非難されるべきだろうし、もうこれ以上政権を運営する資格はないだろう。しかしそれはそもそも運転資格を持っていなかったドライバーを運転席から引きずり出すということをを意味するだけで、その次の運転手が何をするべきかについては規定していない。

ではそもそも政府はなぜ情報の隠蔽をしようとしたのか。それは強硬で聞く耳を持たない人たちがいるからである。では彼らはなぜ聞く耳を持たないのか。

共産党の運動は反核運動を起点にしている。そもそも戦争を起こした米国が許容できないというものなので、反核・反戦・反米・反原発が全てセットになっている。だから彼らの主張には「戦争の具体的なイメージ」がない。それは当然で彼らがこだわっているのは過去のトラウマだからである。

この「平和は尊い」という主張そのものは否定されるべきではないが、まがりなりに戦後世界は戦争の惨禍を再び経験しないようにという努力をしてきたが、彼らは「完全でなく自分たちの思い通りにならないから気に入らない」と言っている。そして、単純に「戦争みたいな面倒なコトは嫌だ」という人たちを巻き込んでいる。

加えて、共産主義は国際的に失敗したことがわかっているので共産党はこの反戦反核という誰も反対しない主張以外に頼れるものがない。もともと具体的な懸念の上に立っていない主張であり、なおかつ他に言うべきこともない。だから彼らは頑ななのである。

こうした政治の混乱と国民の「面倒なことは考えたくないし知りたくない」という態度は危険な戦場から状況を必死に訴えようとした自衛隊員の状況を自衛隊自らが「隠蔽する」という事態を招いた。政権が気に入らないと叫ぶ前に、まず国民がこれを反省すべきなのではないだろうか。

シリア情勢が重要なのはなぜだろうか。いくつかの理由がある。まず世界が今までのような固定的な冷戦状態にないということがわかる。幾つかの地域で異なった事象が進行しており、地域ごとに関わってくる人たちが違っている。また、アメリカがシリアで軍事的リソースを取られれば東アジアでは妥協する必要が出てくる。つまり、核となる国がなく世界外いくつかの地域に分割されている上にそれがお互いに何らかの影響を持っているということになる。つまりお互いの状況は刻々と動いており、昨日は協調関係にあると思われた国が次の日には敵同士になっているという可能性がある。最後に、こうした対立は経済を巻き込んだ「貿易戦争になる」可能性を秘めている。軍事大国と経済大国が重なっているからである。

日本人は意思決定をしないで様子を見ながら時間をかけて状況を探って行くという方法を取るのだが、そのやり方はもはや通用しないだろうということをシリア情勢は教えてくれている。お互いに状況が関連しており予測がつかない。数学的には「カオス」と呼ばれる現象だ。

にもかかわらず冒頭で見たツイートのように「私が無視されたからまず目の前の敵を消せ」と叫ぶ人たちが安倍政権打倒を訴えており「まずは森友だ」と言っている。こうした人たちの目にはシリアの情勢はどう見えているのだろうか。

もちろん疑惑を暴こうとした彼らの行動が無駄だったとは思わない。あらかた状況は見えてきたので、あとはやるべき人たちが粛々と問題を解決すべきではないだろうか。それでも問題が隠蔽され中途半端に終わるのであれば仕組みを改める必要がある。

モリカケ問題が些細なこととは思わないのだが、事態は明らかに悪い方向に進んでいる。我々は湾岸戦争以来やってこなかった過去の清算をしつつ新しい時代に備えるという難しい局面にさしかかっている。もしここで日本がなにもしなければあるいは共産党の人たちが恐れていた「全面戦争」に突入する可能性もある。そのために日本人がまずやることは、安倍政権を打倒することではなく自分たちの文化特性を理解することである。

稲田大臣の嘘はいつまで続くんだろう

国会で稲田防衛大臣が森友学園とは関係がないと嘘をついていた。弁護士事務所が夫との共同名義になっているのだが「名前が載っているだけ」だというのだ。ネットでは籠池元理事長のビデオインタビューとともに面白おかしく稲田大臣との関係が取りざたされているので「この大臣は嘘つきだなあ」という印象が強まるわけだが、ご本人は「関係がない」という当初のお話を貫き通したいのだろう。よく考えてみると森友学園の弁護人になっていること自体は犯罪ではないわけで、逆説的に「隠し通さなければならない事情がある」と白状していることになる。
まず最初に「いったん嘘をつくとひっこみがつかなくなるんだな」と思った。去年の夏散々安保法制は憲法違反ではないという嘘をついてきた。あの時はそのうち嘘がバレて大変なことになるのではと思ったわけだが、嘘を嘘でなくすプロのような人たちに囲まれているので、それは嘘でないということになっている。南スーダンの状況は泥沼だが「一定の成果が出たのでミッションコンプリートだ」と言っている。現在版の転戦宣言だ。そこで嘘をつくのをやめればよかったのだが、いったん嘘依存になってしまうとそこから抜けられなくなってしまうようだ。
ところが今回はちょっと違っている。永田町と霞ヶ関のような村では口裏さえあわせておけば「嘘を嘘でなくす」ことができたのだが、籠池さんみたいな「おもろいおっさん」が出てきてしまった。彼は多分「大義があって偉い人のお墨付きがあれば何でも通ってしまう」と思っているのだろうが、嘘職人にはそれなりの「エンジニアリング技法」みたいなものがある。いわば国会議員と官僚は嘘職人なのだ。
籠池さんみたいな「おもろいおっさん」には嘘職人に対するリスペクトみたいなものがない。だからこういうおっさんが跋扈すると困ることになる。彼らの芸術的なストーリーが崩れてしまう。いったん崩れたら最後、連座した人たちは嘘アーティストではなく単なる詐欺師になってしまうだろう。そこで「記録がなくなった」とか「忘れた」とか「認知していなかった」などというしかなくなってしまう。
ではなぜ彼らは嘘をつかなければならないのか。まず思いついた理由は民進党がだらしないからというものだ。政権交代の可能性があれば政権も少しは「ぴりっと」するのだろうが、その可能性はほとんどない。だから政権は嘘をつき放題になってしまう。
じゃあなぜ民進党がだらしないからというとそれは政権を取れるくらいの大きな約束ができないからだろう。民進党は赤字国債を発行するか、消費税増税するという提案しかできない。しかし連合という「今のままでいいや」という既得権益層と「原発と戦争はいやだけどどういう社会にしたいかという具体的なビジョンはないし継続してどこかの政党を支持するつもりもない」という人しか相手にしてくれない。
現在日本が取れる道はいくつかあるが、どれもぱっとしない。一つ目の道は衰退とそれに伴う負担を平等に受け入れて行くという道でもう一つの道はこのままではダメだということを受け入れて自ら変わってゆくという道である。
民進党の支持者(というより安倍政権が嫌いな人たち)は、目の前にある現実を受け入れられないが、それを変えるための意欲をほとんど持っていない。それは自らの変革を意味するのだが、そんなことはとてもできそうにない。上野千鶴子さんが炎上したことからもわかる通り、衰退を受け入れることもできない。
そこで安倍首相が編み出した画期的な方法が「衰退を見なかったことにする」というものだ。つまり安倍首相の存在がそもそも嘘にに支えられているのだ。安倍首相がその地位にしがみつくためには、支持者に嘘をつき続けるしかない。誰かからむしり取って支持者たちに利益を分配するしか道はない。これは国家的収奪行為なので、いったん手を染めたらやり抜くしかない。
だが、支持者たちはこの嘘の魔術師の苦労を知らない。そこで、だんだん収集がつかなくなってゆくのだろう。

南スーダン情勢からみる共謀罪の問題点

共謀罪(政府はテロ等準備罪と言っている)が平成の治安維持法だと反発を受けている。賛成なのか反対なのか旗色を鮮明にしたい気持ちはあるのだが、それを抑えつつちょっと考えてみたい。最終的に残るのは「そもそも国とは何だっけ」といういささか扱いに困る問題だ。
さて、南スーダン軍が崩壊しかっているという。南スーダンはもともと複数の非アラブ系の人たちからなる部族連合に国の体裁を与えたものだ。今政府軍を構成しているのはもともとは反乱軍で、北部政府から見るとテロリストに当たる。
彼らは独立後「正規軍」ということになったわけだが、数で劣るヌエル系がディンカ系の人たちとは別の組織を作り、案の定衝突した。武力対立は瞬く間に全土に広がり、ディンカの人たち(つまり政府軍の多数派)がほか民族を蹂躙し始めたという。
Twitterで布施さんが伝えるところによると政府軍のトップが「民兵組織が正規軍の指令系統を乗っ取った」といって辞任したということなのだが、もともとは民兵組織だったわけで、近代的な国軍になりきれなかっただけということも言える。
日本政府が南スーダンに派兵できるのは政府軍があり治安が維持されていると言う前提があるからだろう。この前提が崩れると紛争状態と言うことになり憲法の制約が出てくる。事実上「国」は崩壊しているのだが、ある日「破綻宣言」が出されるわけではない。境界線がないのでいつまでも撤退できない。国連もいったん政府ですよと認めたのに「今日から君たちテロリストね」ということもできない。
さらに日本が逃げ出してしまいそこに中国が付け入ると「南スーダンの利権を取られてしまうのではないか」という意識もあるのではないかと思う。いわばチキンゲームのように国際紛争に巻き込まれてゆく可能性が南スーダンで示されたわけである。
この裏には西洋諸国が必ずしも国際的な治安維持に大きな役割を果たさなくなったという事情もある。各国がアメリカの言うことを聞かなくなったし、アメリカも興味を示さなくなった。これを「Gゼロ」と言ったりする。
さて、国の秩序が崩れると、政府と反政府と言う関係も溶解してしまう。南スーダンで暴れている人たちが精勤軍なのかテロ集団なのかというのは実はとてもあいまいだ。
国を「政府」と「反政府」に分解してしまうと、すべての政治的な意見を持っている人が「今の政府ではだめだ」と思ったとき、その人たちはテロ集団としての最初の資格を帯びるということになってしまう。例えば「安倍首相なんて国益に沿わないからぶちのめすべきなんだ」と書いたとしたら、それはテロリストへの最初の一歩だといえる。ただしそれを認定するのは国家権力で、国家権力を承認しているのは名誉クラブだ。そもそもが恣意的なものなので、テロリストの認定も恣意的になる。
皮肉なことに国家権力が追い込まれれば追い込まれるほど、政敵をテロ集団だと認定したいと感じるようになるだろう。北朝鮮などがよい例で些細なことでも「政治犯」扱いされてしまう。北朝鮮は今朝も「日米首脳会談のお祝いだ」と言わんばかりにミサイルを撃ってきた。発想としてはもうテロリストそのものなのだが、国連に認定された国家なのでむげに扱うわけには行かない。
ここまで考えてくると「一般人」「テロ集団」「政府」は地続きになっていて境目がないことが分かる。故に「あらかじめテロを特定する」のは不可能なのだと言うことも分かるだろう。だが、これは常識的ではない。テロリストは共産主義者のような左派だったり、イスラム教徒だったりという理解があるからだ。
この議論の中で見た一番恐ろしいツイートは「政府はもう誰がテロリストか分かってるんですよ」というものだった。あらかじめ潜在的な政敵が分かっているのだが今の法体系では逮捕できないからさっさと法律を変えてしまえということになる。
共謀罪が支持される背景には「誰が国を転覆するのか分からない」という潜在的な不安があるのだと思う。しかし「テロ等対策」をしたからといってこうした潜在的な脅威があぶりだされると言うわけではない。不安が増せば増すほど疑心暗鬼に陥りすべての他者がテロリストに見えてくるかもしれない。
ミクロのレベルで見るといろいろな情報があり、それに対処してゆかなければならないわけだが、その背景には、国家という体系の一部が崩れつつあって、それがわれわれを不安にしているということは理解して損はないだろう。少なくとも先進国のテロリストは国から異物化されておりオリジナルな出自から切り離された人たちのことだからだ。
その意味では憲法第九条というのは時代に合わなくなってきているのかもしれない。日本国憲法は「国」を超えような武力集団が出ることを想定していないからだ。南スーダンのように国家が不成立に終わっても形式的に独立しているとみなせば「国際紛争ではない」と言い張ることができる。実は冷戦構造やアメリカ軍のプレゼンス(つまりG1ということ)を前提に日本は軍隊を持つべきかそうでないのかという議論をすべきではないのかもしれない。
不安を払拭するためには、普通の政治思想やテロから国家という緩やかな連続体を念頭において、それとどう関わってゆくのか(あるいは閉じこもるのか)という議論をしなければならないのかもしれない。もっとも今の状態でそんな議論ができる環境があるとは思えないのだが。
みなさんはどうお考えだろうか。

日本は平和国家でも尊敬される国でもない

文脈について考えている。昨日今日と「稲田大臣を辞任に追い込め」と言う声が蔓延しているが、ちょい待てよと言いたい。議論が国内の文脈だけで形成されているように思えるからだ。
稲田大臣が辞任させられそうになっているのは虚偽(政府はいつものように虚偽ではないと言い張っているが)の答弁をしていたからだ。戦闘行為があり、自衛隊が「戦闘行為があった」と報告しているのにそれを曲げて衝突だと言った上で、「だって戦闘行為だったというと憲法第九条に触れるでしょ」と言っているのである。
個人的にはネトウヨ系議員が嫌いなので「滅びろ」などと思うわけだが、実は虚言壁のある大臣の辞任などどうでもいいことなのである。
南スーダンでは政府系と反政府系が内戦を起こしている。民族的な対立が背景なのだが、どちらも似通った牧畜系民族らしい。もともと他人の土地に入って家畜を奪ったりすることが「名誉だ」とされているというような荒っぽい気風もあったという。だが、北にいるアラブ人が国を支配していたので、対立は表面化しなかった。
欧米諸国は南スーダンを独立させることで現地の石油資源を利権化しようと思ったのだろうが、現地政府を制御できなくなった。欧米からの武器が利権化し、それを使って他民族を脅かし始めた。二番目に大きい民族が反政府化して争っている。意活動がエスカレートし、政府軍が市民を虐殺したり略奪すると言うような行為が始まった。政府軍がテロ化しているともいえる。
虐殺されることを恐れた人たちはウガンダやエチオピアに逃れることになった。親を亡くして一人で歩いてきた子供も多く、孤児も問題になっているという。南スーダンは人口1000万人ほどの国なのだが難民の数は100万人を越えた。アメリカはさすがにこれはまずいと思ったのか国連に訴えて武器の流入を禁止しようとした。それに反対したのが利権にこだわっていると思われる国々で、日本を含む8カ国が決議を棄権して廃案に追い込んだ。
日本が安保法制の議論で揺れている同じ時期に、南スーダンは難民であふれていた。それを推進している現地政府に協力してインフラなどを作っているのが安倍首相だ。「衝突があるからといっておめおめと撤退した国はない」などと答弁していた。
憲法第九条擁護に回るにせよ、国力の回復を追及するせよ、日本はこの虐殺に間接的にコミットしているという事実を認めなければならない。日本は平和国家ではない。憲法第九条をいただく国でございますと言ってみたところで、民族浄化に関心がなく現地利権の確保を許容している内向きな国なのである。今でも「憲法第九条を守れ」などというお勉強会が各地で開かれていると思うのだが、それは単に自分たちが血を見なければいいというご都合主義でしかないし、ユニセフにちょっとばかりの寄付をしても(それ自体はよいことだが)免罪されると言うものでもない。マスコミがやらないから知らなかったと言うかもしれないが朝日新聞が継続的にレポートをしているので調べる気になればいくらでも調べられる。
ではそれは右派の勝利なのか。「日本は世界で尊敬されるために平和維持活動に従事している」などとはとてもいえない。少なくとも南スーダンで起きていることは世界の平和とは何の関係もない。ただ、自国の利益を守りたいという野心にしか過ぎない。もちろん国益は重要だが、だからといって100万人単位の難民は正当化できない。現地人の犠牲はやむをえないと言う議論は成り立たないのだ。さらに駄目押しは尊敬する軍隊自衛隊に土木工事をやらせていることだ。自衛隊は何でも屋ではないのだ。
制度上はさらに面倒な可能性が浮かび上がった。これを問う地上の危機だと思っている人がどれくらいいるかは分からないのだが、現地で自衛隊が暴走しても内閣はそれを止められないだろう。「そもそも報告書すらまともに読んでもらえない」ということを認知したはずだ。危機を感じながら本体から支援が得られない優秀な組織がどのように暴走するかというのは組織論としてはよく研究されている課題だ。
自分は安倍首相を信任していないから関係ないという人がいるかもしれないのだが関係ない。安倍首相は民主的に選ばれた首相だ。民進党も市民団体も国内での政治闘争にしか興味がないので、稲田防衛大臣の首を取ることにしか興味がない。、「南スーダンの難民をどうしたら止められるのか」という議論はしていない。難民を受け入れるとか国際的に支援すると言うのは嫌というのはまだわかるが、加害者になっているのである。
稲田大臣が答弁するときにはその後ろに現地の兵士にレイプされる女性と親を政府軍に殺されて何日間もあてどなく歩く子供の写真を掲げるべきだろう。その中で辞任させずいつまでも言葉遊びを続けさせるべきだ。
その上で、日本がいまだに法治国家なのか、憲法第九条が守られているのかなどということを議論すればいいと思う。私たちは一人ひとりが何に手を染めているのかを直視するべきだ。