飛び飛びではあるが文部科学省の天下り問題についての国会審議を見ていた。最初は「なんでこんなくだらないことを1日かけてやるんだろう」くらいに思っていたのだが、実際にはかなり深刻な問題のようだ。だが、国会審議の画面を見ているとその深刻さが見えてこない。
自民党と公明党は歌舞伎かプロレスのようだった。怒っているように見せているのだが、単に国民の怒りを鎮火しようとしているだけだということが見え見えだからだ。組織的関与を認めたなどと言っているが「ばれちゃったことは仕方がないよね」くらいの意識しかなさそうだし、「今から調査します」というあらかじめ逃げ道を準備してある答弁ばかりが目立つ。退職金の返還を迫られても「もう給与が言及処分されているから」と言えるのだ。また、受け入れ先がなくなるのを恐れてか「関与した団体は公表できない」という。「才能がある人は活用してもらわないといけない」と言っているのだが、嶋貫さんの「才能」というのは文部科学省とのパイプだった。月に2回しか出勤していなかったそうだ。
自民党公明党が官僚に優しいのは過去の民主党政権の経験があるからだろう。つまり官僚にサボタージュされてしまうと政権運営がやりにくくなる。つまりその優しさは自分たちのためなのである。
民進党の追及はそれよりはいくぶんはマシだった。江田憲司議員は官僚機構の仕組みを知っており、天下り禁止の制度を作るのにも参加したのだろうか。役人の良心に訴えるような質問をしていた。この質問を聞く限りでは「文部科学省OB」はボランティアのようなつもりで天下りを調整しているように聞こえる。実際に「人道的配慮」などと言っていた。
文部科学省は卒業生に対しても全体調整と根回しをして「不公平がない」ようにポストを調整していたようだ。また、ワープロができないからという理由で文部科学省の職員を動員していたようだ。文章が汚いと嫌だなあと思ったのかもしれない。
これを見て「日本人は大きな目的は忘れがちだが、細かいところには細心の注意を払う」というような文章を書こうと思っていた。天下りを禁止しているのは国の政策が経済を歪めないようにという大目的があるからなのだが、それは忘れ去られている。一方で「みんなで仲良くポストを分け合わなければならない」とか「書類はきれいじゃなくっちゃ」などという作業は念入りにこなす。東大という受験競争を勝つような人は大きなビジョンには興味がなく、ひたすら細かいことにこだわってしまうのである。東大を頂点とする日本の教育は失敗しているのだ。
ところが状況はどんどん暗転してゆく。「ボランティア精神」でと言ったのは、官僚を民間のような惨めな職探しはさせられないという意味なのだが、これは下々の人たちはみじめな仕事探しをしているという官僚の根深い差別意識の表れである。と、同時に官僚村から外れてしまうと将来が不安で不安で仕方がないのだ。これは国民が共通して持っている不安だ。
そこから「人道的活動」の意味が見えてくる。官僚のようなエリートが民衆のように泥をすするわけにはいかない。それは人道的見地からあってはならないことなのである。仲間同士は救い合わなければならないと考えている。だが「ここにいない」人たちはどうなるのだろう。
与党は早く予算審議をしたいのだろうが、文部科学省関連の予算が「植民地確保」のために歪められていることは明らかだ。つまり今年も歪められた予算を審議しようとしていることになる。共産党の質問で「予算がタイトになってきており補助金を獲得するために自発的に天下りを受け入れたい学校も多いのではないか」というまったく別の視点が出てきた。これまで「先方がいうから親切で斡旋してあげたのだ」という答弁は実は予算采配をめぐる恫喝という側面があった。
その裏には補助金がカットされて行き場を失った研究者などがいる。また、勉強したくてもお金がなくて諦めたという人もいるのだろう。こういう人たちを画面に入れた上で国会中継をしていれば、全く違った印象が得られたはずだ。
官僚も将来不安があって「人道的精神から」OBの再就職を斡旋していたわけだが、実は大学側はもっと大きな不安を抱えている。さらにそれは勉強したかった(もしかしたら国の役に立ったかもしれない)人たちの目を摘んでいる。文部科学省の「人道的配慮」は仲間内だけの配慮であり、国民がどうなってもそれは大した問題ではないと考えている。つまり国家は国民を植民地のように扱っているのだ。
そんな中維新は「選挙のことなんか眼中にない」といいながら、自分たちが100本法案を出したことを宣伝し、府知事と橋下徹元市長の賞賛をして貴重な質問時間を浪費していた。多分苦境にある大学なんかどうでもいいと思っているのだろうし、教育無償化も単なる取引の材料なのだろう。