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瑞穂の國記念小學院とファストファッション

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今日は日本人とファッションについて観察している。個人的に興味があり別ブログを立ち上げたからだ。だが、ここのブログの読者はもっと「大きな物\語」が好みだと思うので、なぜネトウヨが増えたのかというところに着地させたい。
こじ付けだと思われるのだろうが、意外と共通点も多い。これは偶然ではなく、日本人の文化受容についてみているからだ。最近のファッションはユニクロ化している。楽でお求め安い服だ。現在「ネトウヨ」と呼ばれる思考形態はファストファッションに似ているといえる。
現在のアパレル業界の悩みは「服が売れない」ことなのだが、着る側にも正解が見えないという悩みがある。つまりちょっと努力したら抜きん出る何かがないと、何をしていいか分からなくなるのだ。
バブル期直前までのファッションには正解があった。馬場啓一という人が1980年に書いた「アイビーグラフィティ―シティ・ボーイのライフ・カタログ」に面白い記述がある。
馬場はアイビーファッションは「~道」好きの日本人に受け入れられたからだと説明する。アメリカ人のエリート階層のドレスコードを模倣したのがアイビーファッションなのだが、このドレスコードをどれだけ忠実に守れるかというのがアイビー道の肝なのである。
「~道」には正解があり容易にたどり着けないというところに本質がある。だからこそ道を究めた人は尊敬される。不思議なことに実際には本物を見たことがある人はほとんどいない。正解があるのに誰も見たことがないという意味では宗教に近い。つまり「~道」は神への道なのだといえるだろう。重要なのは神は外側にいるということだ。
アイビーファッションはアメリカ人のコスプレなのでファッションモデルも国人(しかもバブル期以前に外人といえば白人のことだった)だった。外国人とは違った美しさがある日本人の体型はまるっきり無視されているのだが、それでも構わなかった。日本人は鏡を見ないで、どちらかというとアイテムとその薀蓄に関心があった。
バブルが崩壊して20年以上たって、日本人は「鏡を見る」ことを学んだ。今の男性ファッション誌には日本人のモデルが採用されている。中にはアイドル雑誌のような売り方をしているものもあるのだが、より普通体型に近いモデルが採用されることも多くなった。受け取る側も「自分には何が似合うのだろう」と考えるようになり、SNSでファッション投稿している。
この結果、日本人はファッションを合理的に考えられるようになった。と、同時に大方の日本人はファッションに投資をしなくなった。極めるべきゴールがなくなり「無理をする必要がなくなった」からである。その結果出てきたのがユニクロだ。ユニクロは最小の投資で最大のリターンを得ることができる。
ネトウヨ的思想は、思考の合理化だといえる。民主主義はアメリカやヨーロッパの優れた理想なのだが、それは日本人の肌には合っていない。それを極めるのが「民主道」である。だが、情報が氾濫すると「もう無理しなくていい」ということになる。大方の人は政治を常識のレベルで語るようになった。「わがまま言わないでみんな仲良く」というレベルだ。
いろいろと考え合わせて自分なりの結論を得るというのは知的には負荷がかかる作業だし、そのために調べ物をするのも面倒だ。結局行き着く先は「俺は何もしないが、お前は変われ。そしたらすべての揉め事はなくなる」という思想だ。これが究極のラクチンファッションなのだ。
最初にアイビーファッションを持ち込んだヴァンヂャケットは倒産してそのあとにブルックスブラザースが入った。しかしその後に起こったのはユニクロブームだった。同じようにTwitterを通じて情報が直接流れ込むようになると、思想もファストファッション化してしまった。今のネトウヨの源流は2ちゃんねるとSAPIOあたりだと思うのだが、もともとはサラリーマンの娯楽のような「大衆版」の情報源だった。
ユニクロは洗練されているのだがこれをいくら研究してももとのデザインを再生することはできない。
これをもう少し考えてゆくと面白いことが分かる。日本は西洋化する過程で自らの宗教体系がないということに気がついた。宗教が形として成立するためには折り合わない他者と一緒にいる必要があるのだが、日本人にはそれがなかったのだ。このため日本人は宗教の教義を洗練させてこなかった。つまり宗教がないのではなく、自分の精神的よりどころを他者に説明できないのだ。
そこで急ごしらえで作ったのが国家神道だ。結果、着物に西洋流のボタンやベルトを付けたようなものになった。もともと多神教的な世界観に無理やり一神教的な体裁を与えて、科学的な味付けをしたのである。例えば神話から日付を割り出して西洋暦に併せて紀元節を作ったりした。日付があいまいだと科学的でなく「恥ずかしい」と考えたのだろう。
最近「土地を不正取得したのではないか」という疑念を持たれている「瑞穂の國記念小學院」にはそれがよく現れている。そもそも神社は地域に信仰がありそれに形を与えられたものである。しかしこの小学校は学校を作ってからそこに神社を造営した。順序が逆なのである。そこに天照大神を祀っているのは天皇家の主祭神だからなのだろう。パテントがないのでフリーで使えてしまうのだ。
教育についての理念もまったく書かれていない。透けて見えるのは「国家神道的な体系を再構築すれば今の複雑な問題はたちどころに解決するだろう」という単純な目論見だ。一番面白かったのが「喧嘩はいけないけど、やるなら手加減しろ」というフレーズだ。居酒屋レベルだがこれが「ボクが一生懸命考えた教育」なのである。哲学の不足をジョーシキレベルで補っている。
よく考えてみると当たり前のことなのだ。もともとの思想体系を西洋流に置き換えたものをいくら探してみても、もともとの思想をリバースエンジニアリングすることなどできない。あとは「ボクの知ってること」で置き換えるしかない。
「日本人は正解があると熱心に勉強する」ということから考察をスタートした。そのあとに「自分にぴったりのオリジナルが構築できるようになるかもしれない」という望みがあった。つまり、外にあった目的意識(行動のドライブ)が内在化されるだろうという望みである。
瑞穂の國記念小學院を見ていると、必ずしもそうならないことが分かる。ネトウヨ志向の一番の危険性はつじつまが合わなくなったときに本人が悩まずに「理解できないお前が悪い」となってしまっているところなのだろうがこれはネトウヨの割と中核的な思想だ。
そこで一生懸命考えた結果が、子供に教え込むことと「法律にしてみんなに守らせる」ことなのだろう。先生も法律もエライからだ。しかしあるとき「法律は憲法に縛られる」ということを知ってしまった。そこで「ボクが考えた憲法」をみんなに守らせることが目的になってしまったのではないだろうか。だが「みんなのためにはわがままを言うのはやめよう」とか「家族で仲良くしましょう」という「思想」なのだ。
今回の文章はもともとファッションとの比較で始まった。洋服の場合好きなものを着ていればいいのだが「俺のファッションはカッコいいから法律にしてみんなに着させよう」と思った時点で、それは狂った思想とみなされるだろう。