清水富美加さんがすべての仕事を投げ出して失踪した。テレビでは仕事を放棄するのはよろしくないという論調だが、ネットではプロダクション側が批判を集めている。プロダクションが搾取したのではないかというのだ。ネットが炎上を起こす裏には自分たちの問題の投影があるからのはずなのだが、それが何なのかよく分からない。ちょっと整理してゆきたい。
まず女優とは何なのかについて定義する。女優は人格が不可分の商品だといえるのだが使役者があいまいだ。それは演出家と女優本人である。前者はいわゆる踊り子であり、後者はアーティストと位置づけることができる。
どうやら清水さんは不満は自分の望まない踊りを踊らされていたということらしい。ただ、この世界の踊り子の一生は悲惨だ。逃げ出すのは死ぬときである。同じ事務所にいた能年さんさんの場合には「本人と不可分である」はずの本名を使えなくなったが、さすがに硫酸で顔を焼けみたいなことにはならなかったが、顔出しできなくなり声だけの仕事を選ばざるを得なかった。
この話はどことなく吉原に似ている。吉原は堀と城門に囲まれた逃げ場のない土地だったのだが、現代の日本は全体が吉原になっているようだ。確かに堀は必要ないが逃げるとしたら名前を捨てるなどして社会的に自殺するか宗教に逃げ込むしかないということになる。新興宗教に逃げ込んだとしても、そこは別の吉原で宗教の宣伝のために使われるだけなのではないかと考えられる。それが今回の話の救いのないところである。
この見方をすると、多くの労働者が自分の境遇に「吉原性」を感じていることになる。ただ、それを口に出してはいえないのだ。
芸能界を吉原に例えるとはいかにも時代錯誤のように聞こえるかもしれないのだが、アイドル契約を結んだ女性の27%はアダルトビデオへの出演など性暴力の危険にさらされると言う内閣府の調査が出たばかりだ。よく分からないのに契約を結ばされるのだが、それがどの程度順法なものか分からない。しかし「芸能界ってそういうものだよ」といわれる。
ユージという同じ事務所のタレントさんが、吉原にいればいいおべべを着ることができて白いまんまも食えるのに何が不満なのかというようなことを言っていた。吉原の芸者さんたちも同じように思っていたかもしれない。さらに「事務所の人たちはみんな良い人たちだった」という。確かに吉原にもいい置屋さんはあったろう。運命を受け入れてやってゆくべきなのかもしれない。
そもそも女優は踊り子である必要はなく、自分の考えを持ったアーティストとして扱われるべきという考え方もある。自分で自分を使役しており、キャリアと人格を切り離すことはできないからだ。自分のキャリアは自分の財産にしたいという欲求は誰にでもあるだろう。しかし「私は自分のキャリアを自分でコントロールしたい」と言うようなことはいえない。キャリアは組織のもので自分は単なる踊り子なのだ。
こういう状態を奴隷という。
さすがに職業人全員をアーティストにするなどというのは無理なのではないかという話になるかもしれない。だが、アーティストと踊り子の間にはもう一つの階層がある。それは組織の理論を理解して職業は職業としてこなすが、普通に党派性を持った一人の人間という存在である。今回はかなり特殊な(多分かなりやばい)宗教なのでこのあたりが見えにくいのだが、普段から芸能人が信仰や支持する政党について言及できないというのは半ば当たり前のことになっている。だが、これが10億円と言う損出につながっているのも確かだ。普段から信仰があることが表明できてればこんなことにはならなかったかもしれない。
例えば「従業員になったら個人の考えをブログやSNSで発信してはいけない」などと当然のように言われることがある。日本人は誰かが自分と違う党派性を持っているということを受け入れられないところがある。そこで、公共の場では信仰もなければ支持政党もないというようなふりをしてしまうのだ。
実は清水さんの問題はこうした息苦しさと地続きになっている。実は芸能界だけが吉原ではないのだろう。われわれは自分の内面を表現するということについて何重にも鍵がかかった部屋に住んでいるといえる。
そう考えてくると清水さんの問題と一般の労働者に共通するものが見えてくる。キャリアや信条などはまとめて人格を形成している。これをすべてなしにして単に機械として社会に奉仕しろという要請を感じている人も少なくないのかもしれない。