iKonって誰?

一億円の「裏金」で揺れたレコード大賞を興味本位で途中まで見た。新人賞の下りで知らない人たちが4組出てきて、結局日本語があまりうまくないiKonという韓国のグループが学芸会のようなラップ(いちおう日本語らしい)で最優秀新人賞をとった。検索してみるとエイベックスが韓国のプロダクションと組んで作ったレーベルの新人らしいことがわかった。韓流ブームはすでに去っており今更感が強いなあと思った。エイベックスは浜崎あゆみとExileが牽引してきたが、今は目立った稼ぎ頭がいなくなりつつある。そこで、新人に箔をつけようとして話題作りを狙ったのだろう。
さて、これだけだとブログにならないのでかなり無理矢理ではあるがいろいろ考えてみたい。今回のレコート大賞の特色は誰でも知っている曲が「企画」扱いされていたという点だ。PPAPとパーフェクトヒューマンである。
そもそもレコード大賞は優れた音楽や人気のある音楽を讃える賞ではない。レコード会社のプロモーションが上手くいった曲を讃えるという内輪の催事である。ところがPPAPのプロモーションにはレコード会社は関与していない。去年のクマムシの「暖かいんだから」にも片鱗が見られた。こちらはもともとはCMだが、流行はネット発であり、レコード会社の関与は後追いになっている。
レコード大賞というのは本来はアーティストが苦労して作り上げた芸術性の高いアルバムに対して贈られる賞だ。まずはティザー(焦らし)から始まり徐々に情報を解禁し、最終的にヒットに結びつけるのである。だから「ネットでたまたま当たった」ものは「単なる企画」に過ぎないということになる。
だが、実際には世間はレコードに大した関心は持っていない。幼稚園児から大学生くらいまで真似をするのは、パーフェクトヒューマンとか、恋ダンスとか、PPAPなどの企画ものだ。企画の特徴は「短くて覚えやすく、真似がしやすい」という点にある。
同じようなことはゲームでも起きていた。隙間でできる「ライトゲーム」が流行の兆しをみせていたアメリカと違い、日本のターゲットはゲームオタクであり「こなしがい」があるゲームが良いのだとされていた。これは観測していた人たちがゲーム雑誌関連の人たちだったからだ。業界のお友達が作った流行が核になっていたわけだ。
しかし、実際に起こったのはゲームオタク層の凋落だった。彼らは特殊で暗い人たちだと考えられるようになり、ライトゲームが市場を席巻することになる。「アルバム」にあたるコンシューマーゲームは開発費が高騰した(高速のCPUで高い解像度のモデルを回すためである)結果、スタジオが閉鎖された。代わりに出てきたのは一回あたりの開発費が低いが、だらだらと開発が続くケータイ型のゲーム開発方式だったのである。
いずれにせよ、レコード会社と世間は乖離している。ゲームレベールがなくなることはなかったが、規模はかなり縮小した。同じようにレコード会社が今の規模に止まることはなく、YouTubeのプロモート会社やプロダクションのようなところが台頭してくる可能性があるのではないかと思われる。
テレビは流行の発信地から、ネットでできた流行をキャッチして広げるという役割に変わりつつあるのではないかと考えられる。同じことは政治の世界でも起きている。現在は政府の言い分を伝えるのがNHKの役割だということになっている。NHKはそのために全国にくまなくネットワークを張る。これを支えるための資金をどう捻出するのかということが問題になっており、テレビだけでなくパソコンやスマホにも課金しようというような話が真剣に語られている。
これをレコード会社に当てはめると、AKB48の人気を保つために、国民にアルバムの購入を義務付けるというような話だ。だが、国民はAKB48を好きになる義務はないわけだ。つまり、国民を洗脳して一つの曲を聞かせ続けるということは少なくとも自由経済社会では不可能なのだ。
いったんドミナントな地位についた会社はなかなかその地位を降りられない。資金力が豊富にあるのでいろいろな策を講じてしまうからだ。そこで1億円払って音楽に箔をつけるというようなことが行われるわけだが、結果「それよく知らないんだけど」ということになってしまう。
レコード大賞の凋落は間接的にレコード会社が影響力を失いつつあることを暗示している。と、同時にNHKの情報発信者としての地位が凋落しつあることが、受信料の話を聞いているとよく分かる。「騒いでいる人たち」が問題なのではなく、騒がなくなった人たちが問題なのだ。

現状だけをみて悲観しないほうが良い

9月からダイエットを始めて4kgほど痩せた。だいたい1ヶ月で1kgというスローペースだ。ダイエットに成功したよということが言いたいわけではなく、現状をみて「どうせ無理だ」などと思わないほうがいいと思うということを書きたい。
ダイエットのきっかけは写真だった。久々に写真を撮影してみて「ああ、これはひどいなあ」と思ったからなのだ。10kg以上太ってしまい、鏡も見なかったし、毎日同じズボンをはいていた。なんで写真を撮影しようと思ったのかはよく思い出せないのだが「現状を確認」するのは大切なようだ。
とはいえ「やせられる」とは思っていなかったので、最初は太っても大丈夫な服装を探そうとしていた。ということで、一番太った時点で古着屋に行き280円で2枚のズボンを買った。だが、これは良くなかった。UniqloとH&Mなのだがペラペラのズボンは体型を悪く見せるのだ。余計悲しい思いをすることになった。
ということで、ズボンをいくつか買って、同時に毎日続けられることをやることにした。

  1. 「内臓脂肪を落とす」というお酢を飲む。最近では酢が入った飲料が売られている。
  2. 脂肪を燃焼するというお茶を飲む。苦目に煮出したお茶を一リットルほど飲んだ。お茶にはカテキンが含まれており、運動時の脂肪燃焼効率が少し上がると考えられているらしいのだが、当初は水分を取れば脂肪の排出が進むだろうとだけ信じていた。
  3. 毎日一時間以上歩く。歩くときに姿勢を改善すると運動効率が上がる(らしい)。
  4. 寝る前に数セット軽い運動をする。自重でできる腹筋、スクワット、腕立て伏せのみ。筋力アップというより姿勢改善の効果が大きいものと思われる。
  5. おやつをできるだけ控えてバナナに変えた。バナナにはカリウムがあり水分の排出が促進されるという。

一応体重計にも乗ったのだが、体重の減りはそれほどでもなかった。毎日が「誤差の範囲」である。体脂肪率に至っては今に至るまで変わっていない。変化は体感的なもので、ベルトの穴が1つだけ動き、胸周りがパツパツだったジャケットが入るようになり、ギリギリに設定していたジーパンにはシャツが入るようになった。
この途中から衣服を大量に処分したことを後悔するようになった。その反動でかなり洋服を買ったのだが、これもサイズが大きくなれば着られなくなってしまう。かなり無駄なことをしたことになる。現場を見てこれが未来永劫続くのだとは思わないほうがいい。と、同時に鏡に映っている自分をみて腹を立てるのもやめたほうがいい。それは時間の無駄になる。
体型は自己イメージを規定している。過去にとらわれて現象を見ないと改善もできない。現実と自己イメージを切り離すこともできるのだが、現状を変えることはできない。かといって一足飛びに改善を目指すとかなりがっかりすることになるだろう。
変化は起こりえるが、それは目に見えないかもしれない。かといって、それは何も変わらないということではないのだ。
と同時に、毎日お茶を飲んり歩いたりするのを「努力」というのも違うのかなあと思った。それは単に生活習慣を変えたわけで、目標に向かって努力をしているというわけではない。現場を見て生活習慣を変われば、当たり前のことだが、状況は変わるのである。
 

千葉市役所の嘘

千葉市役所が市長への手紙で現場が嘘を重ねたという経緯を書いたのだが、結局業者の首を切って新しい業者を入れることで状況が改善した。現在のトイレはきれいに掃除されており、トイレットペーパーが切れることもなくなった。なんでも言ってみるものだとも思う一方で、結局業者さん次第なのだなという複雑な気持ちにもなる。


最近、オリンピックや築地の問題を通じて「なんで役人はあんなに簡単にバレる嘘をつくのか」と考えることが多くなった。マスコミはオリンピックや築地市場で「視聴率が取れる」ことがわかってしまったために厳しく監視しているのだが、実は同じような話はいくらでも転がっている。単に注目されないだけなのだ。

今回の問題は、おそらく炎上しないであろう「近所の公園のトイレ問題」である。現場は千葉市若葉区と稲毛区の間にある六方調整池に附設されている公園なのだが、水路の一部なので下水道維持課が運営管理している。千葉市は台地を流れる川を都市排水を流す通路に使っているようで、その一端が公園化されているのだろう。
そこのトイレにはいつも紙がない。そこで担当部局に電話をしたのだがいっこうに補充される気配がない。メールで通報する「市長への手紙」というシステムがあり、そこにも連絡してみたが音沙汰がなかった。

そこで「どうして対応してくれないのか」ともう一度電話をしてみた。すると驚くべき回答があった。「管理業者に問い合わせた結果、きちっと処理されていることがわかった」というのである。担当者は写真付きのレポートももらっており「何もしていないということはありえない」と職員は胸を張るのである。
だが、それは虚しい嘘に過ぎない。実際には数ヶ月に渡ってゴミが放置してある。僻地にある公園なのでめったに人が来ない。だから、お金を出して掃除をしたくない気持ちはわかる。
さらに、蹴飛ばした(蹴飛ばしたのは僕)ティッシュの箱もそのまま置かれている。紙がないからティッシュを持ち込んだ人がいるのだろう。この箱も数ヶ月置いてある。つまり、本当に誰もケアしていないのである。もしかしたら誰も使ってさえいないのかもしれない。
さらにホルダーには木の枝(多分桜なんだろう)がかかっていた。これも数ヶ月間そのままになっている。誰かがなんとかしようとした努力のあとは見られる。担当者は「トイレの紙も変えてますよ」と言っていたので、担当者が嘘をついているか、業者が嘘のレポートを出していることになる。が、誰が嘘をついているのかはわからない。

業者が一方的に嘘をついている可能性もあるのだが、市役所の職員が見て見ぬ振りをしている可能性も否定できない。業者は仕事をしなくても済むし、市役所もいちいち現場をチェックしに行かなくても済む。それはみんなにとって「優しい嘘」なのだ。
築地・豊洲の移転問題など騒がれる事件の裏には嘘がある。これを外から見ていると単に嘘にしか見えないのだが、実際には仲間内の「優しい嘘」である可能性が高い。見て見ぬ振りをすることで誰もが傷つかずにすむ。
そもそも誰もこないような町はずれに公園が整備されたのはなぜなのだろう。それは前市長の時代に原因がある。鶴岡市長は最終的に道路工事の収賄で逮捕されてしまうのだが、工事業者と市の関係者が握り合って「おいしい思いをする」ことが常態化していた。もともと東京からの住宅難民を受け入れるために農地や漁村が高く売れたというあたりからこの「優しい関係」は続いていたようだ。高度経済成長期が終わり土地バブルが終焉すると、仕事を求めた業者たちは「公園や道路の開発」などの仕事を欲しがるようになった。そこで川の周りの「環境を整備する」という名目でお金を使ったではないだろうか。
この「優しい関係」は千葉市が政令指定都市になってからも続き「さいたま市には負けられない」という名目で大きな建物の建築ラッシュにつながる。いくつもの別口のお財布が作られて赤字が隠蔽されるという事態になった。これについては現市長の有名なブログ記事がある。
千葉市民が「これはいけない」と気がつくのには市長の逮捕というイベントが必要だった。それでも自民党市議団は「借金にはいい借金と悪い借金がある」と言い続け、ついに自浄作用が発揮されることはなかったのである。
だが、嘘によって守られるのは市長と業者だけである。市職員はお守りだけを押し付けられるのだから面白くない。しかし、市職員はメンテナンス業者に仕事をあげる立場にある。市長と業者は施設を作れば儲かるのだし、市職員は業者との間に別の優しい関係を作る。
トイレの紙というのは別にどうでもよいことなのだが、裏にはオープンになっている危険箇所が放置されるという問題がある。市民は市政に関心がなく、公共工事に期待するような人たちばかりが群がってくる。当然出来た建物や施設のメンテナンスなどは「どうでもいいこと」だということになり業者に丸投げされる。
さて、この記事は「市長への手紙」に貼り付けてもう一度千葉市役所に問い合わせようと思うのだが、なんとなく嫌な予感はする。彼らが仕事をサボりたければ、トイレを封鎖してしまえばいいからだ。結局、市民が圧力をかけて「炎上」に持ち込まないと、どんどんと楽な方に流れていってしまうのである。


ここまでを2016年12月に書いた。結局、市役所は「きちんと対処してゆきます」と書いてきたのだが、状況は改善されなかった。そこで担当部局に電話をしたところ「そんなところまで手が回らない」と言ってきた。市長への手紙は市長が目を通すのでそこでは「ちゃんとやる」と書いて実際には何もしなかったのだ。
だが、状況が変わった。業者が契約満了に伴って首を切られたようだ。業者が変わってからトイレはきちんと掃除されるようになった。結局市役所は謝罪もせず態度も変えなかった。結局業者を変えて何事もなかったように済ませたのである。多分、市長は「市職員はちゃんとやってくれている」と思っているのではないだろうか。

そのピザを諦めたら日本人は幸せになれる

小林某という漫画家が中国人が新千歳空港で騒いだ件について論評している。航空機がキャンセルになったのだが「なんとかして飛行機を飛ばせ」と騒いだのである。小林氏は「中国人は民度が低い」という。普段なら「そうだよな」と思うのだが、これを読んで「そもそも民度は高くない方がいいのかもしれない」と思った。それはドミノピザの件を思い出したからだ。
中国人が大騒ぎしたのは、彼らがシステムというものを信頼していないからだ。イレギュラーなことが起こると騒いで解決しようとするわけである。だが、日本人はイレギュラーなことがあっても騒がない。それは「自分たちでなんとかしよう」とはもはや考えていないからである。一歩進んで「自分たちでなんとかできるはずはない」と考えている人もいるかもしれない。日本人は個人の力を信じておらず、システムを過剰に信頼する。しかし、実際にはそれが正しいかどうかを理解できていないことが多い。
ピザ屋の件に戻る。彼らが寒空の下でピザを1時間以上待ちながら注文をキャンセルしなかったのはなぜなのだろうか。それは彼らが予定や見込みというものを絶対視しているからだ。ゆえに一度決めたものを諦め用とは考えず、ひたすら「早くピザが焼きあがる」ことを望んだ。
一方、店側も一度売上の立ったピザを諦めるということはしなかった。並んでいる人に「もうピザは作れそうにない」と告白して次回の割引券などを配るという選択肢があったのだが、そうはしなかったのだ。
一見「理性的」に見える顧客とピザ屋だが、両者の現状維持バイアスは明らかに狂気のレベルに達している。なぜならば一部の店舗では予約管理システムが停止しており、誰がどのようなピザを注文したのかはわからなかったからだ。つまり、通常のオペレーションではピザを焼くことも逆にピザをキャンセルすることもできなかった。そこは「現場の判断」でなんとかするしかなかった。だが、彼らは何もせずピザを焼き続け、客は待ち続けた。
「現場の判断」はのちに「責任」を生む。客も店も判断することを避けたのだろう。未知のできごとについて自らが進んで判断することを「リーダーシップ」という。日本人にはリーダーシップが欠如している。
実は「列に並ぶこと」は日本社会に蔓延する病のようなものだ。例えば正規雇用を得るために大学に進学するのも列に並ぶことだ。誰も4年後に正社員になれるかはわからないし、正規社員にも副業が許される時代である。だが、それでも借金してまでも大学に進学し、それができそうになければ第二子の出産を諦めという行為が広がっている。それは列に並ぶ以外の選択肢が見当たらないからだ。
さらにこの列は、結婚して子供ができたら退職するという別の道に繋がっている。女性が退職したくないと望んでも、列は途切れている。その列からはみ出すことはできないので、女性ができないのは列から離脱するのを先延ばしすることだけである。子供を産んでも列に残り続けた人は過酷な運命をたどる。システムをごまかした人というレッテルを貼られるからだ。道は先細っているのでライバルは1人でも少ない方が良い。
この列はドミノピザに似ている。みなシステムが壊れかけており「みんなの分のピザはないかもしれない」ということに薄々気がついている。しかし、今まで待っていた時間が「サンクコスト」になり、ピザをキャンセルしようという気にはなれないし、列を離脱したからといって別の食べ物にありつけるかどうかはわからない。だから、幸運に期待し、別の人たちが列をはみ出したら、背中を押して列を短くすることしかできないのだ。
たいていの苦しみは列の途中から「もっと早くピザを焼けよ」とヤジることくらいしかできないという現実から生まれているようにも思えてくる。
ピザがほとんどなくなっても、日本人は列に並び続けるのかもしれない。もう出来る努力は「列からはみ出さない」ことだけになっているからだ。列から出てしまえば絶対にピザは食べられないが、列に並んでいれば2人に1人はピザが食べられるという世界だ。この列に並ぶ努力は、例えば会社に遅くまで残って過労死寸前まで残業することになったりするのだろう。

安倍首相という病気

安倍首相がオバマ大統領の招きでハワイを訪れて真珠湾で祈りを捧げるという。平和のための営みであって、これはこれで否定されるべきものではない。だが、これを素直に喜ぶ気にはなれない。なぜか。
安倍首相という人はコンプレックスを抱えている。コンプレックスとは何か。それは相反する感情が複雑に結びつきつつ同居しているということである。彼が「力強いリーダーシップ」という時、そこにあるのは「誰かについて行きたい」という依存心だ。そもそもリーダーシップというのは滲み出るものであって、自分が希求するものではないのだが、リーダーシップを知らない安倍首相にはそんなことは理解できないのだろう。
さらに「戦後レジームからの脱却」は「戦前への回帰」を示しているし、「一億層活躍」は「搾取」の言い換えである。活躍は自発的な行為だが「活躍を無理強いする」というありえないことを主張しておりその矛盾に気がつかない。
これをよく表現したのが「積極的平和主義」である。地域利権の獲得と地域覇権を表した言葉なので、それを裏打ちするのは暴力なのだが、それを「反対の言葉」である平和に包んで言い換えているのだ。
オバマ大統領はリーダーの善意に訴えかけることで平和を実現しようとした。それはリーダーだけが積極的に状況を変えることができるからである。しかし依存心が強い安倍首相はそれを恭順の印として利用しようとしている。最後まで折り合わなかったのである。
テレビではしきりに献花の様子などを映している。これは天皇の平和を希求する行為の劣化コピーだ。常に誰かを模倣することしかできないのである。対ロシア外交も父親の劣化コピーだった。形への過剰な関心は、感情を理解していないことを示しており、共感力のなさを示す。
安倍首相のリーダーシップのなさが非常に危険なのはコンプレックスに覆われた人は自分の感情に向かい合えておらず、従って最後まで責任を取らないからだ。自分の依存心を満たすために状況を変えはするのだが、最後まで責任を取るつもりはない。それは「最終的には誰かがなんとかしてくれる」と考えているからである。
このため安倍首相がやったことには何一つ出口がない。つまり彼の人生は全てが中途半端であり「道半ば」なのだ。誰かが常に尻拭いをしてくれるから気にかける必要がないのだ。従って、周りにいる人に嫌われてまで状況を変えようとする気概はない。彼は自分が周囲に依存していることを知っており、周りにはそれなりの対価を支払わなければならないことを理解している。そこで周りには安倍首相に依存したい人たちが集まってくる。
さて、このように人格に欠陥がある安倍首相はなぜ首相になれたのか。それは偶然だったのか。そうとは思えない。最近「尻拭い案件」がいくつも出ている。生活のために状況を変えはしたが最終的に責任が取れなくなると丸投げしてしまうのだ。
例えば国が「最後は面倒をみます」と国際した東京オリンピックは「やはり金は出せない」ということになり「関連する県で面倒をみてくれないだろうか」という話になりつつある。森元首相はリーダーシップを発揮し「俺は知らなかった」と言っている。
国は原発政策を推進したが東京電力が事故を起こすと「他の電力会社も事故処理費用を負担すべきだ」と言い出した。これは間接的に「安全に対する費用は出さなくてもいいですよ」と言っているのと同じことになる。自発的に設備投資をしても誰も面倒は見てくれないが、事故を起こすと誰かが面倒をみてくれるということだからだ。
面倒なことに政治家は、依存心を持っているからといって「では国民を大切にしよう」という気持ちにはつながらない。コンプレックス型の依存心の恐ろしいところはそれが支配欲と結びついているという点だ。依存することによって支配するという相反する気持ちが持てるのだ。決して責任を取らない人たちの中には「日本人には天賦人権は向かない」という人が多い。これはかつての寄宿階級だった武士が支配層として振舞っていたのに似ている。彼らは依存しているからこそ「自分たちだけが支配者になれる」と考えることができるのだ。

ドミノピザに見る日本の生産性が上がらないわけ

昨日はドミノピザの騒動について観察した。クリスマスの珍事であり特に問題ではないように思える。だが詳しく見て行くと日本の生産性が上がらない理由が凝縮されているように思えた。下記詳しく分析したい。

無責任な本部

ドミノピザはアメリカの会社でありオペレーションもアメリカ式だと考えられる。つまり最初の要因は日本固有のものではなさそうだ。本社は支店を休ませずに働かせるという傾向があり、来た注文は全て受けてしまう。しかしながら無理な注文は支店の責任でキャンセル処理をさせる。当然損がでるわけだがそれを支店の過失として処理するのではないかと考えられる。ジャーナリストであればこの辺りが調査の要点になるだろう。
同じような構造はコンビニに見られる。売損じの機会を少なくするために24時間営業しているが、人の手当ては「店の責任」だと考えられ、売り上げが落ちれば店主が責任を取る(たいていは契約解除になるそうだ)ことになっている。本部はこうして高い収益を確保するわけである。

真面目すぎる現場

一方で支部は真面目すぎる。彼らは並んで捌ききれなくなった客に「キャンセルしてくれればお客様に請求が行かない」ということを伝えなかった。また、注文がわからないから高いピザを我慢して持って行ってくれとも言わなかった。もしピザの種類が少なければ効率的に裁くことができただろう。
これは支店に権限がないことから起こる問題である。日本人は「言われたことを黙ってやる」ことが美徳だと考えている。これが生産性の向上を妨げている。「現場の工夫」はペナルティの対象になりかねない。
これも実は日本の伝統ではなかった。トヨタは現場の工夫を職場全体で共有する改善方式で有名だった。つまり製造業の成功の仕組みがサービス業には受け入れられなかったことになる。
もしアメリカであれば「できないことはできない」として生産性が著しく下がるだろう。ところが日本人はまじめなので「現場で何とかしよう」とする。そこで同僚をカバーして慣れないことをやるというオーバーヘッドが生じる。これが蓄積するとシステムダウンが起こるが、たいていは現場を疲弊させるだけで済んでしまう。
こうした疲弊を見つけるのは難しくない。自分が受けた仕事はなんとしてでもこなそうとするので、家に持ち帰って仕事をしたり、タイムカードを押してからこっそり居残り残業をするということが起こるわけである。余暇や回復時間を削っているのだから生産性が上がらなくても当然だ。だが、近視眼的に目の前の仕事をこなすことだけに集中するので、全体的なことが考えられなくなってしまうのだ。

高いサービスレベルを要求する客

最後の問題は高いサービスレベルを要求する客だ。ドミノピザの客は「この時間にピザが受け取れる」という時間から1時間以上待っても「もういいや」とは言わなかった。ピザができるまで待ち続けたのである。当然「キャンセル料を恐れた」ということは考えられるわけだが、それ以上に「頼んだから食べられて当然だ」という気持ちもあったのだろう。普通の感覚では客の離反が起こるはずなのだが、それは起こらない。だから当然本部はなにもしないので、現場に恒常的な負荷がかかることになる。
また現場も「安い金でまともなピザが食べられるはずはないだろう」などとは言わない。アメリカのファストフードではまともな待遇は受けられないが、誰も気にしない。よい処遇を受けるための選択肢としてレストランがあるからだ。だが、日本人は真面目なので笑顔で接客しようとする。

タダ乗りされる社会インフラ

ここでまで見られた構図はしわ寄せが「いい人」のところに行ってしまうということだ。つまり一番損をするのは真面目に働いている現場の職員たちだということになる。ドミノピザでは店員が泣きながらピザを焼いていたそうだ。だがこれらは企業内の問題である。
だが、問題はそれだけではない。ドミノピザの場合は周辺の道路に路上駐車が蔓延したそうだ。客は安いピザを求めているわけだからお金を払って駐車をするはずはない。もともとデリバリーが基本になっているが「ちょっとした路上駐車」を黙認することでピザを半額にして人件費を削ろうとした。つまり、路上スペースが企業にタダ乗りされたのだ。
社会インフラのタダ乗りはいろいろなところで起きている。例えば、企業が福利厚生として提供すべき子育てなども社会にタダ乗りされている。いわゆる共有地荒らしが横行しているのである。共有地荒らしが問題にならないのは、共有地を管理するという感覚を持った日本人が減ったからだろう。政治が消費型になり受益者としての感覚しか持たなくなってしまったことになる。もともと日本人は共有地を厳しく管理しており、これも実は伝統の消失なのだ。
日本人は生活保護バッシングなどには熱心だがこれは「俺が貰えるべきだった金をあいつが受け取るのは許せない」という歪んだ感情に基づいている。共有地の維持はコミュニティの持続可能性に基づいた感覚だから、社会的議論が歪むのも致し方ないところではある。
問題は政治家ですら共有地に興味を持たなくなっているという点にあるかもしれない。統治するという感覚を失ってしまったからなのだろう。

ドミノピザ炎上

メリークリスマス! ドミノピザが炎上したらしい。とはいえピザが燃えたわけではない。
ドミノピザは1枚買ってお持ち帰りするともう一枚が無料になるというキャンペーンをやっている。ずいぶん前からコマーシャルをやっていたので、うまく機能していたと思うのだが、これがクリスマスに重なった。普段からピザを食べる習慣のあるアメリカ人と違って、日本人にとってピザというのはお祭りの食べ物なので「クリスマスを特別なものにしよう」という人々が殺到したらしいのだ。システムがパンクして「どれだけ予約が入っているかわからない」という状況になった店舗が出たという。

本部の無責任体制が問題を大きくした

ドミノピザのカスタマーセンターに問い合わせたところ、今の時点では「どれくらいの店がこのような状況になったのかを公表するつもりも、何らかの謝罪をするつもりもない」ということだ。
ネット上では「キャンセルしてかえって来ればよいではないか」という声や「別の店にすればよい」という意見もある。ドミノピザは受け取らなかったピザについて料金は取らない(クレジットカードでも)と言っているのだが、これが周知されていたかはわからない。さらに、キャンセルはお店に連絡することになっている。だが、品物を作れないほど追い込まれており、システムがパンクし状況がわからなくなった店がキャンセル電話を受け入れられるはずもない。
本部は一切責任を取らずに店に責任を取らせるという仕組みになっており(キャンセルをお店に仕切らせるというのはそういうことだ)これが問題を大きくしたのだと言える。
しかし、よく考えてみれば注文を受けたのは店ではなく、本部が提供したシステムだ。店側から注文を断れる仕組みがないとすれば、責任の大部分は本部にあると言える。問題は警察が出動して周囲の駐車違反を取締まるというところまで大きくなっており、企業の社会的責任が問われるだろう。

注文を差配するのはシステムだがパニックボタンがない

実際に予約システムを触ってみた。システムは受取時間を自動的に裁くことにになっているので、やろうと思えばお断り(時間の提案)もできたはずだ。これがうまく機能しないのは例外処理が増えるに従ってテトリスのようにたまってゆくからだろう。こうしたオーバーヘッドは通常のオペレーションでは無視できるのだが、蓄積されると標準的なオペレーションでは捌けなくなる。それが積もって誰か他の人がバックアップに回るようになると無駄な時間が増えて、ついにはダウンしてしまうのだ。
つまりシステムダウンは線形的な予測ではなく、非線形的に起こる。ところがシステムはこれを線形的にしか予想しないので、ずれが生じたものと思われる。こうした非常時対応を機械で行うためには高度なAIが必要になるが、それよりもパニックボタンをつけた方が早い。
これがないというのはシステ設計の過ちと言える。

お客さんは馬鹿正直に待ち続けた

日本人が「お得」に弱くなっている様子は。決してピザが買えないほどお金がないわけではなく、なにか得なことがないと動かなくなっているのだろう。合理的に考えると、割高なピザを買っているだけ(1枚2500円のピザを買っているわけではなく配達員の給料を払っているだけ)なのだが、自分で動いてピザが安くなると考えただけでピザ屋さんに殺到してしまうのだ。
だが、日本人は一度「ピザの頭になったら何時間でも待ち続けた」ようだ。先に確かめたように品物を受け取らなければお金を払う必要はなかったのだが、電話番号やメールアドレスを取られているし、クレジットカード番号も収めたから支払を強要されるのではという頭があったのかもしれない。「並んでいたかが買えなかったから今日はピザはなし」で済む話なのだが、「ピザのお腹」になっていてほかのことが考えられなくなっていたのかもしれない。周りが騒がしくなり冷静な思考が奪われたとしたら、もはや集団思考状態だ。

企業は炎上しないと反省しない

今回の炎上案件はまとめ記事が作られたことで広がっているわけだが、もしかしたらほんの一部の地域で起こっただけなのかもしれない。しかしテレビ局が取り上げず、従ってドミノピザも謝罪会見などを開かないので、あたかも全てのドミノピザでオペレーションが滞ったかのような印象になっている。結局「炎上」によってしか企業は動かない。これが日本で炎上事件が頻発する原因になっているのだろう。
ドミノピザはソーシャルメディアに乗ることで宣伝を加速させようという戦略をとっているようだ。過去にはイケメン投票が炎上しキャンペーンを取り下げたことがあるそうだ。最近ではトナカイにデリバリーをさせテレビのパブリシティ効果を狙ったこともある。だが、クリスマスのドミノピザ炎上はそれ以上に広がってしまう。宣伝としては効果的だが、ブランドイメージにとっては明らかに逆効果だった。

安倍政権と認知的不協和

面白いことが起きている。南スーダンに武器を入れないようにしようというアメリカが出した決議を関係国が拒否した。日本は中国やロシアとともに棄権に回り欧米と対立する。アメリカはこれを非難する声明を出した。
なぜこれが面白いのか。
これまで多くの人が日本はアメリカに追従していると思ってきた。憲法問題は例外だったがこれを一貫して説明できる法則はなく「良いアメリカ」と「悪いアメリカ」を分離して理解してきた。GHQは共産主義者に支配されていた悪いアメリカなので憲法には従わなくて良いという理屈だ。ネトウヨは共産主義者に支配されていたGHQは日教組に受け継がれ中国と結託して日本を売り渡そうとしていると考えている。
だが国連でアメリカと日本が対立するということが頻発するようになるとネトウヨの世界観は崩壊するだろう。彼らは保守を偽装しているが実際には体制におもねることで安心感を得たいだけの人たちなので「アメリカに嫌われるかもしれない」という可能性は彼らを逡巡させるだろう。
一般の人たちはもっと違った見方をしているかもしれない。「アメリカはいろいろうるさいことも言ってくるが、とにかくついて行けば大丈夫」という感覚だ。経済というのは株価によって表されると考えているので、株価さえ維持できれば文句は言わないだろう。だが経済政策がおりあわなくなれば動揺するのではないだろうか。
もちろんこれは仮説にしか過ぎないが「犬のように親米的な安倍政権」というのは安倍政権が支持され続ける原因になっているのではないかと思う。これに株価を合成したのが「安倍首相の成果」なのだ。
安倍政権がロシアと接近することでこの図式が崩れかかっている。「当然アメリカとは話がついているのだろう」という観測を流す人達がいたが、彼らが持っている潜在的な不安がよく表れている。もっとも安倍政権がロシアを手玉にとれるほどの狡猾さを持っているなら、あまり心配はないのだが、もともとがお坊ちゃん育ちで、家から与えられたものを周りの人たちに配ることによってしか権力を維持できないという首相にそのような芸当ができるはずはない。
安倍政権がどうして武器禁輸に賛成しなかったのかはわからない。いつかの仮説が考えられる。中国がアフリカに進展している。資金協力を申し入れてプロジェクトを獲得したあと、中国人を大量に送り込んでインフラ利権と仕事を確保するのだ。日本は形式上は自由主義経済なのでこうした国家ぐるみのことはやりにくいのだが、南スーダンは状況が違った。インフラ整備を軍隊が行っているからである。このため安倍政権は、利権の確保を狙って南スーダン政府に食い込もうとした可能性がある。
もしオバマ大統領が「日本はこの件に賛成するように」と釘をさしていれば話は違ったかもしれない。「ボスにさえ気に入られていればいいのだ」と考えているとすれば、安倍政権の外交方針は今後大きく展開するだろう。だが外側から見るといろいろと一貫しないところが出てくるわけで、気が狂ったように見えるだろう。
一連の観測が正しければ日本がアメリカに協力したのは単に中国を牽制する目的があったからだということになる。これを展開して行くとアメリカと協力したのは単にアメリカの威光に利用価値があったからだという結論に行きつつ。オバマ政権には理想主義的な傾向がありこれが中国を牽制するのに利用可能だった。トランプ政権はアメリカ第一主義なので、安倍政権は威光が利用できない。すると日本政府はアメリカに追従しなくなるだろう。
国際関係を研究する人の中には、トランプ政権が生まれることで安倍政権は自由に動けるようになると言っている人がいる。だが、日本の有権者がこれに不安を覚えれば内閣の支持率は低下するだろう。
また中核の支持者層であるネトウヨの人たちは強い日本という幻想にすがって生きている。背景にあるのは世界で一番強い国の一番の友達である俺たちはすごいという幻想なので、アメリカからの離脱によって著しい認知的不協和が生まれるのではないだろうか。
ただし、これが直ちに安倍政権の支持率の低下に結びつかない可能性はある。トランプ大統領はよくわからずに中国を刺激している。うまく利用できれば今後も中国に対抗することは可能だが、対立に抑制的だったオバマ政権とは違って抑止的なメカニズムがなくなる。中国が経済圏から切り離されると日本は経済成長することになり、引き続き安倍政権は支持され続けることになる。実はこれが最悪の可能性だと言える。ブロック経済化が進んでいるということになる。これは第二次世界大戦の日本と同じ状況に中国が追い込まれるということなのだ。

チャンク化するコンテンツ

最近YouTubeばかり見ている。コンドールマンが毎週更新されており、それを見ていたら今度はミラーマンの第一回をオススメされた。それを見終わると、ジャンボーグAとかデビルマンとかいろいろな番組のお知らせが流れてくる。公式もあれば、海外の人が勝手に出しているものもある。これを見ているとかなりの時間が経過していることもある。
それを見ているうちに素人(最近はYouTuberと呼ぶのだが)の作ったハウツー物を見るようになった。例えば洋服の着方を指南するコンテンツがある。英語は平易なものが多いので、日本のチャンネルと英語のチャンネルを見たりする。だいたい1本が5分程度で見終わる。雑誌などではわからない「レイヤードの意味」などもわかる。雑誌は「脚の長さを隠すため」のようなあけすけなことは言わないが、YouTubeは普通体型の人がモデル兼編集者なのでリアルな声がわかるのである。
短いコンテンツばかりをみているうちにテレビが見られなくなった。TVerというアプリでドラマだけは途中から2本見た。『相棒』はTVerに出ていないのでリアルタイムで見るしかないのだが、最近「もういいかなあ」と思い始めている。脚本がつまらなくなった気がするし、過去作品も大麻騒動で見ることができなくなりそうだ。このまま埋もれてしまうのだろう。いったん熱が冷めると「あれ、なんでそんなに夢中なんだったっけ」という気分になる。
ビデオもそうなのだろうが、TVerも途中で止められるので時間があるときにみればいい。それでも一時間は長いなあと思うのだ。そもそも、人間の集中力は5分程度しかもたないのではないだろうか。ドラマだとヤマ場を幾つか作る必要があるのだが、YouTubeにはそれが必要ない。
テレビは時計代わりになっている。内容はほとんど見ていないということになる。
一方で、チャンク化していないために困っているものもある。古本屋でファッション雑誌を5冊買って来た。一覧するのだが全く頭に入ってこない。役に立つのは新しい服を買った時だ。そこでやっと似たような色味や形を探すのだ。しかし、雑誌というのは「モスグリーンの洋服」で検索をかけても記事を並べることはできない。そこでスキャンしてネットにアップしている。
「おい、著作権はどうした」という声が聞こえてきそうだ。最初はそのままにしていたが、最終的にはパスワードでプロテクションをかけた。画像のアドレスさえわかればダウンロードはできてしまうのだが、ロボットは入ってこられないし、一応「不特定多数は見ることができませんよ」という状態にはなっている。
考えどころなのはPinterestだ。モスグリーンで検索すると似たようなものが出てくるのでボードにまとめておけばあとで見返すことができる。ここには多分違法にアップした(引用という体裁にはなっていると思う)ものも含まれるわけだが、アップされない雑誌記事は単に古本屋に死蔵されるだけのものになってしまう。つまり、自主的な二次利用の仕方を考えないと盗まれてしまう恐れがあるのである。
雑誌の編集者たちには「記事コーディネート単体ではなくその一連の流れが大切」だと思うのだろうが、受け手にはどうでもよいことだ。仮に親切に編集者の意図に沿って理解しようとしても、あまりにも数が多すぎるので覚えきれない。繰り返し見ているうちにやっと印象に残るもののようである。これも記憶力や集中力と関係している。
もう一つの問題は「雑誌のコンテンツ」と「自分が作ったもの」の境がないという点だ。ファッション雑誌は購買という行為と関係している、つまり、雑誌のコンテンツを参考に自分のコーディネートが決まり、それを見直してゆくというプロセスになる。だから理想的には、これらが一つのページにまとめられることになる。例えば、WEARでは消費者と店舗スタッフのコーディネートが同じフォーマットで同じページに掲載されている。
こうしたことは映像の世界でも起こっている。ユーザーはプロが作ったTVerとプロの訓練を受けていない人が作ったYouTubeを同じ画面で見ている。そこにないコンテンツはそのまま忘れられてしまうのだ。
 

子供を産まないことで政府に抵抗する日本人

少子化が止まらないみたいで、ついに100万人を切ってしまった。安倍政権は様々な少子化対策を行っているが、なにも成果が出ていないことが明らかになった。日本人は安倍政権に対して反対意見を唱えたりはしないし、デモに出て子育て環境の充実を訴えたりはしない。その代わりに「子供を産まない」ことで政府に対して抵抗している。もちろん母親だけの問題だけではなく、父親も大きく関わっている。
少子化対策には幾つかのアプローチがあるが、最終的には結婚の解体や家族の解体が答えになりそうだ。
最初に考えられるのは、母親のキャリアの柔軟化である。子供を数人産もうとすると、女性はキャリアの最初と途中に子育てで数年職場を離れる必要がある。現在は正規社員の非正規化が進んでいるので育児休暇が「首切り」の絶好の機会になっている。女性を非正規転用することで、正規職員並みのスキルを持った労働力を安く使えるのだ。
このため女性は職場に止まりギリギリまで子供を作らない男性もこのあたりの事情は一緒で「家庭をとるか、職場をとるか」の選択を迫られかねない。つまり「子供を育てることは損」ということになる。そのような選択をした人が生き残り経営トップになるという適応が行われるので、自然と子育てに向かない会社が作られる。
企業は格差を作り出すことによっても少子化社会を作り出している。大学を卒業しないとまともに家庭が維持できるような仕事が得られないので教育費がかさむ。競争が過剰になると大学の学費も上がる。そこに行き着くまでにもお金がかかる。もし職人レベルでも生活が維持できて家庭が持てて老後が安定するならば、大学への進学は減り学費も低下するだろう。
そもそも日本の大学は技術養成の役には立っていない。企業は新卒者に「自前の教育」をするのが前提になっている。文学部を出た人がSEになれるのはそのためだ。大学が選考されるのは経営者とその候補者が大学を出ているからだ。経営に興味がない技術職は本来ならば専門学校を出ただけで就職できるはずなのだし、そもそも学校に行かず企業が教育をつけてもよいはずなのだ。
大学の最後の2年は就職活動の期間になっていてまともに勉強することもない。論文は記念のようなものであり、その後の人生で役に立つことはあまりいない。つまり、日本の大学は社会にとって余剰支出になっている。だがその余剰支出ができない人は搾取される側に回ってしまうのである。
ここまで2つの問題の核には「縮小する経済」がある。搾取される側を作り出そうとしているのだが、搾取されるくらいならそもそも搾取される人を作らないということになっているわけだ。一人なら搾取する側に回れるかもしれないが、同じ資産で二人育てると二人とも搾取されかねないわけである。
企業の問題を解決すれば少子化は止まるはずなのだが、それには長い時間がかかりそうだ。ここで直面するのが「結婚」という不思議な制度だ。
現在の結婚制度は正社員制度の崩壊とともに破綻した。現在の結婚は正社員個人の資格で企業と契約して二倍の給料をもらったうえで、それを対価にして家政婦を雇い子供を育ててもらうという制度である。これが維持できなくなり結婚して子供が作れる人が減った。
また、すべてが経済化する中で「家事は労働」と捉えられるようになった。地域のつながりがなくなり「家にいる主婦は社会から切り離されている」とさえみなされている。本来は地域には子育てや見守りといった経済的に計数できない役割があり、主婦は忙しかったはずである。これも経済化し「ボランティアか搾取」ということになった。正社員制度と地域が崩壊した結果、結婚は意味をなくしているようだ。
当人同士がそれぞれの状況に合わせてパートナーを選び(パートナーは単数とは限らない)子供を作るという「契約婚」は現在では「不倫」と呼ばれる。コパートナーシップ制度がないので、子供(すべてが婚外子になる)を核にした財産経営はできない。例えば、経済的に余裕のある男性が2人の女性との間に子供を設ければ少子化は解消するが、財産を2つに分けて母親と共同で運営することも、経済的に余裕のある女性が「遺伝的な父親になってくれる男性だけが欲しい」ということもできない。実家が裕福な女性は結婚しなくても子孫さえ持てれば別に良いわけで結婚にこだわる必要はないはずなのだ。
自民党の憲法草案は「家」を中心にした制度にすることで「日本人らしい」家のあり方を模索している。個人を否定しているのだが、これだけでは不十分だ。本来の家は事業体なので、これまでのような個人と企業の契約に基づいていた正社員制度を維持するか、それとも家を事業体にした制度に回帰するのかという議論が必要になる。すると自然と「事業体を持たない家」(もともとは小作階層だが、現在の企業人はすべてここに収まる)をどう捉えるかという大問題に行き着く。現在の憲法議論は戦争に負ける前の特殊な事情への回帰という側面があるので、それがどういう意味を持っていたのか、果たしてそこに戻るのがよいのかという根本的な議論がない。
年金制度では事業体としての家は冷遇されている。これは年金制度が兵士保証を起源としているからだと考えられる。国家が個人としての兵隊を処遇するための制度が、個人主義化した憲法下で発達したという経緯がある。戦前の日本にこうした発想がなかったのは企業が丁稚奉公人の一生を面倒見ており、最終的に実家に帰って暮らすか、のれん分けさせるかという配慮をしていたからだ。つまり、憲法をいじるとこのあたりの制度をすべて再構築する必要がある、ということになる。
少子化対策というのは実は保育園を作ることではない。しかし、これを真面目に考え始めるとかなりの時間とは話し合いが必要になる。現在の国会議員ではこうした議論には耐えられないのではないだろうか。