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安倍首相という病気

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安倍首相がオバマ大統領の招きでハワイを訪れて真珠湾で祈りを捧げるという。平和のための営みであって、これはこれで否定されるべきものではない。だが、これを素直に喜ぶ気にはなれない。なぜか。
安倍首相という人はコンプレックスを抱えている。コンプレックスとは何か。それは相反する感情が複雑に結びつきつつ同居しているということである。彼が「力強いリーダーシップ」という時、そこにあるのは「誰かについて行きたい」という依存心だ。そもそもリーダーシップというのは滲み出るものであって、自分が希求するものではないのだが、リーダーシップを知らない安倍首相にはそんなことは理解できないのだろう。
さらに「戦後レジームからの脱却」は「戦前への回帰」を示しているし、「一億層活躍」は「搾取」の言い換えである。活躍は自発的な行為だが「活躍を無理強いする」というありえないことを主張しておりその矛盾に気がつかない。
これをよく表現したのが「積極的平和主義」である。地域利権の獲得と地域覇権を表した言葉なので、それを裏打ちするのは暴力なのだが、それを「反対の言葉」である平和に包んで言い換えているのだ。
オバマ大統領はリーダーの善意に訴えかけることで平和を実現しようとした。それはリーダーだけが積極的に状況を変えることができるからである。しかし依存心が強い安倍首相はそれを恭順の印として利用しようとしている。最後まで折り合わなかったのである。
テレビではしきりに献花の様子などを映している。これは天皇の平和を希求する行為の劣化コピーだ。常に誰かを模倣することしかできないのである。対ロシア外交も父親の劣化コピーだった。形への過剰な関心は、感情を理解していないことを示しており、共感力のなさを示す。
安倍首相のリーダーシップのなさが非常に危険なのはコンプレックスに覆われた人は自分の感情に向かい合えておらず、従って最後まで責任を取らないからだ。自分の依存心を満たすために状況を変えはするのだが、最後まで責任を取るつもりはない。それは「最終的には誰かがなんとかしてくれる」と考えているからである。
このため安倍首相がやったことには何一つ出口がない。つまり彼の人生は全てが中途半端であり「道半ば」なのだ。誰かが常に尻拭いをしてくれるから気にかける必要がないのだ。従って、周りにいる人に嫌われてまで状況を変えようとする気概はない。彼は自分が周囲に依存していることを知っており、周りにはそれなりの対価を支払わなければならないことを理解している。そこで周りには安倍首相に依存したい人たちが集まってくる。
さて、このように人格に欠陥がある安倍首相はなぜ首相になれたのか。それは偶然だったのか。そうとは思えない。最近「尻拭い案件」がいくつも出ている。生活のために状況を変えはしたが最終的に責任が取れなくなると丸投げしてしまうのだ。
例えば国が「最後は面倒をみます」と国際した東京オリンピックは「やはり金は出せない」ということになり「関連する県で面倒をみてくれないだろうか」という話になりつつある。森元首相はリーダーシップを発揮し「俺は知らなかった」と言っている。
国は原発政策を推進したが東京電力が事故を起こすと「他の電力会社も事故処理費用を負担すべきだ」と言い出した。これは間接的に「安全に対する費用は出さなくてもいいですよ」と言っているのと同じことになる。自発的に設備投資をしても誰も面倒は見てくれないが、事故を起こすと誰かが面倒をみてくれるということだからだ。
面倒なことに政治家は、依存心を持っているからといって「では国民を大切にしよう」という気持ちにはつながらない。コンプレックス型の依存心の恐ろしいところはそれが支配欲と結びついているという点だ。依存することによって支配するという相反する気持ちが持てるのだ。決して責任を取らない人たちの中には「日本人には天賦人権は向かない」という人が多い。これはかつての寄宿階級だった武士が支配層として振舞っていたのに似ている。彼らは依存しているからこそ「自分たちだけが支配者になれる」と考えることができるのだ。