議論の体裁をなしていなかった党首討論
党首討論会というのをやっているのを見て、日本人には議論が向かないのだなあと思った。そもそも討論には形式があるのだが、全く守られていない。それでも誰も腹を立てたりしないのは、日本人が表向きの議論というものを全く信頼していないからなのだろう。
そもそも議論を信頼しない日本人
多くの人がうすうす感じているように、日本人の議論は分配で決まる。分配は利益と不利益に分けられるのだが、それは水面下の交渉であらかじめ決まっている。だから議決は形式的なものになる。形式が全く無意味ということはなく、権威付けという重要な機能がある。権威付けのもっとも顕著な例が天皇制だ。アメリカ人がどのような意味合いで国家統合の象徴という言葉を使ったのかはわからない(原文ではthe symbol of the State and of the unity of the peopleというそうだ)が、日本人はこれを正しく理解したと思う。
日本で議会制民主主義が根付かないのはこのためだ。政府の方針が決まると新聞が「〜法案成立へ」と書く。「まだ決まってしないじゃん」と憤る人は誰もいない。それは水面下の議論で全て決まっているからである。議論でつめきれていない点を検証しようという風潮もないのだが、特にそれが問題にはならない。なぜならば、国会で決めるのは諸外国がやっていることばかりだからである。成功事例しか持ち込まないので、間違いようがないわけだ。
水面下での利害調整は「根回し」と呼ばれる。これは日本の組織が下部組織と上部組織が台頭だから起こることだ。日本人は強いリーダーシップを嫌う。日本人が考える組織は利害関係者の共同体のようなものだ。大きな会社は看板を担い、実際の業務は各フランチャイジーが担うというよくある構図もこの形式に従っている。
今日の別のエントリーでDeNAについて観察したが、DeNAの運営がガタガタになったのは、下部組織を「契約ライター」として切り離してしまったからだ。つまり根回しを通じた上部構造と下部構造のコミュニケーションの分断が起こると、いとも簡単に組織のモラル体系が崩壊してしまうのである。上部構造は収益を上げるという目的に特化し、下部組織はたくさん記事を書くことに特化する。企業の持続性を問題にしていたのは、会長と社長の二人だけだったわけである。
利益が分配できなくなるといとも簡単に崩壊する
利益の分配はサイエンスではなくアートである。つまり理屈ではない。これが成り立たなくなりつつあるのは利害関係者の全てに利益が分配できないからだろう。これが簒奪の動機になっている。東京都では利益分配に混ぜてもらえなかった小池都知事側が対立構造を演出するような図式ができつつある。国政では自民党とあまり違いがない民進党が「アウトサイダー化」したことで対立構造が生まれた。民進党のキャラクターを一言で表せば「自民党に入れてもらえなかった」人たちだ。だが、これはロジカルな対立ではなく、利害関係に関する対立なので、表向きの議論が成立しなえない。TPPなど立場によって賛否が変わるのはそのためだ。TPPの議論を一生懸命にしていたが、あれは全て無効である。なぜなら状況が変わることで生じる利権にアクセスできるかできないかが問題だからである。
マインドセットを変えない限り国会議論は時間の無駄
この主題と関係性の倒錯があることで日本人は政治的リソースをかなり無駄遣いしている。そもそも議論は儀式なのでこれにエネルギーを注ぐべきではない。もし、解決策探査型に変える必要があるとしたら、討論を徹底させるべきだろう。
普通の民主主義国では、政党選択も国会議論にも選択肢提示という意味合いがある。選択肢(主題)が2つあり、どちらが良いかを選ぶのが議論である。3つあっても良いのだが2つに収斂するのが二大政党制なのだろう。
ところが日本人はこれを利害関係という関係性で捉える。利益ソースは国家予算なのでそもそも議論が起こりえない。主題はその利益ソースをどう分配するかということの道具立に過ぎない。オリンピックがやりたいわけではない。オリンピックを言い訳にして道路や建物が作りたいのである。政治家は建物を作りたいわけでもない。その調整がしたいのだ。
だから、国会議論はそもそも決定を権威づけるという意味合いしかない。それを壊す人が出てきた瞬間に儀式としての意味合いは消えてしまうわけで、全ての国会議論はそもそも意味がないということになってしまうわけである。国民の声を反映する機関など最初からなかったのだ。
党首討論でそのことを一番体現していたのは片山虎之助共同代表だった。自分の持ち時間の全てを議論という名前の演説に使った。総理からの答えには期待していなかっただろうし、そもそも聞くつもりもなかったのだろう。時間が来ても一方的に自説を述べ、司会者に制止されるまでそれは続いた。「そもそも議論など無意味だ」ということを、この人はよく知っていたものと思われる。
維新の党はその意味では大変プラクティカルな政党である。自民・維新は議論が無意味だということがわかっているので「良くここまで来たなあ」という感想を聞いたり、般若心経を朗読したそうだ。「はよゼニの話をしましょうや」という意気込みが感じられる。
だから、蓮舫代表も同じようなことをすればよかったのだ。