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子供を産まないことで政府に抵抗する日本人

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少子化が止まらないみたいで、ついに100万人を切ってしまった。安倍政権は様々な少子化対策を行っているが、なにも成果が出ていないことが明らかになった。日本人は安倍政権に対して反対意見を唱えたりはしないし、デモに出て子育て環境の充実を訴えたりはしない。その代わりに「子供を産まない」ことで政府に対して抵抗している。もちろん母親だけの問題だけではなく、父親も大きく関わっている。
少子化対策には幾つかのアプローチがあるが、最終的には結婚の解体や家族の解体が答えになりそうだ。
最初に考えられるのは、母親のキャリアの柔軟化である。子供を数人産もうとすると、女性はキャリアの最初と途中に子育てで数年職場を離れる必要がある。現在は正規社員の非正規化が進んでいるので育児休暇が「首切り」の絶好の機会になっている。女性を非正規転用することで、正規職員並みのスキルを持った労働力を安く使えるのだ。
このため女性は職場に止まりギリギリまで子供を作らない男性もこのあたりの事情は一緒で「家庭をとるか、職場をとるか」の選択を迫られかねない。つまり「子供を育てることは損」ということになる。そのような選択をした人が生き残り経営トップになるという適応が行われるので、自然と子育てに向かない会社が作られる。
企業は格差を作り出すことによっても少子化社会を作り出している。大学を卒業しないとまともに家庭が維持できるような仕事が得られないので教育費がかさむ。競争が過剰になると大学の学費も上がる。そこに行き着くまでにもお金がかかる。もし職人レベルでも生活が維持できて家庭が持てて老後が安定するならば、大学への進学は減り学費も低下するだろう。
そもそも日本の大学は技術養成の役には立っていない。企業は新卒者に「自前の教育」をするのが前提になっている。文学部を出た人がSEになれるのはそのためだ。大学が選考されるのは経営者とその候補者が大学を出ているからだ。経営に興味がない技術職は本来ならば専門学校を出ただけで就職できるはずなのだし、そもそも学校に行かず企業が教育をつけてもよいはずなのだ。
大学の最後の2年は就職活動の期間になっていてまともに勉強することもない。論文は記念のようなものであり、その後の人生で役に立つことはあまりいない。つまり、日本の大学は社会にとって余剰支出になっている。だがその余剰支出ができない人は搾取される側に回ってしまうのである。
ここまで2つの問題の核には「縮小する経済」がある。搾取される側を作り出そうとしているのだが、搾取されるくらいならそもそも搾取される人を作らないということになっているわけだ。一人なら搾取する側に回れるかもしれないが、同じ資産で二人育てると二人とも搾取されかねないわけである。
企業の問題を解決すれば少子化は止まるはずなのだが、それには長い時間がかかりそうだ。ここで直面するのが「結婚」という不思議な制度だ。
現在の結婚制度は正社員制度の崩壊とともに破綻した。現在の結婚は正社員個人の資格で企業と契約して二倍の給料をもらったうえで、それを対価にして家政婦を雇い子供を育ててもらうという制度である。これが維持できなくなり結婚して子供が作れる人が減った。
また、すべてが経済化する中で「家事は労働」と捉えられるようになった。地域のつながりがなくなり「家にいる主婦は社会から切り離されている」とさえみなされている。本来は地域には子育てや見守りといった経済的に計数できない役割があり、主婦は忙しかったはずである。これも経済化し「ボランティアか搾取」ということになった。正社員制度と地域が崩壊した結果、結婚は意味をなくしているようだ。
当人同士がそれぞれの状況に合わせてパートナーを選び(パートナーは単数とは限らない)子供を作るという「契約婚」は現在では「不倫」と呼ばれる。コパートナーシップ制度がないので、子供(すべてが婚外子になる)を核にした財産経営はできない。例えば、経済的に余裕のある男性が2人の女性との間に子供を設ければ少子化は解消するが、財産を2つに分けて母親と共同で運営することも、経済的に余裕のある女性が「遺伝的な父親になってくれる男性だけが欲しい」ということもできない。実家が裕福な女性は結婚しなくても子孫さえ持てれば別に良いわけで結婚にこだわる必要はないはずなのだ。
自民党の憲法草案は「家」を中心にした制度にすることで「日本人らしい」家のあり方を模索している。個人を否定しているのだが、これだけでは不十分だ。本来の家は事業体なので、これまでのような個人と企業の契約に基づいていた正社員制度を維持するか、それとも家を事業体にした制度に回帰するのかという議論が必要になる。すると自然と「事業体を持たない家」(もともとは小作階層だが、現在の企業人はすべてここに収まる)をどう捉えるかという大問題に行き着く。現在の憲法議論は戦争に負ける前の特殊な事情への回帰という側面があるので、それがどういう意味を持っていたのか、果たしてそこに戻るのがよいのかという根本的な議論がない。
年金制度では事業体としての家は冷遇されている。これは年金制度が兵士保証を起源としているからだと考えられる。国家が個人としての兵隊を処遇するための制度が、個人主義化した憲法下で発達したという経緯がある。戦前の日本にこうした発想がなかったのは企業が丁稚奉公人の一生を面倒見ており、最終的に実家に帰って暮らすか、のれん分けさせるかという配慮をしていたからだ。つまり、憲法をいじるとこのあたりの制度をすべて再構築する必要がある、ということになる。
少子化対策というのは実は保育園を作ることではない。しかし、これを真面目に考え始めるとかなりの時間とは話し合いが必要になる。現在の国会議員ではこうした議論には耐えられないのではないだろうか。