行政、自治体の人たちに。・・・「街路樹や公園の樹木は伐採しないでほしい」。伐採したら2度と戻らないんですから。どうしても伐採するときは、納得できる理由と代替え案を示すとともに、十分な周知期間をとって。そういうことが行政の務めでは?
— MITIMIZU (@qqta5ydd) 2016年12月13日
勝手に木を切るなというツイートを見かけた。確かに役所というのは放置しておくといろいろ楽な方に転がりかねないので、普段から監視しておくのは需要かもしれないのだが、これに関しては違った意見を持っている。
かといって「この人は間違っている!」と言いたいわけではない。問題は「誰が正しいか」ということは必ずしも判然としないという点なのだ。たとえ、どんなに明白そうに見える問題であっても、だ。
以前、近所の立派な八重桜の木が切られており、区役所の地域振興課というところに問い合わせたことがある。地域振興課はお客様相談室のような扱いになっている。雑務と苦情処理係のようなところだ。ところがそこで聞いたのは意外な話だった。木が腐ったりすると倒木することがある。これが車に当たると弁償しなければならない。枝が落ちてきただけで通行人に文句を言われることがある。そこで不安に思った近所の人たちが役所に陳情に来ることがあるのだそうだ。市役所としてはいつも監視するわけにはいかないので「じゃあ、怪しい木は全て切っちゃいましょうか」ということになるそうだ。丁寧に対応するだけの予算がないのだ。
そこで市役所としては「自治会でまとめてから来て欲しい」と繰り返す。つまり、いろいろな人が自分たちの正義感からいろいろなことを言っても、それが地域を代表しているということにはならないのである。
「公演は自治会とは関係ないだろ」というツッコミがありそうだがこの話の要点は、人によっていうことが違っているということである。ある人は景観を守れといい、ある人は安全の観点から早く伐採しろという。しかし、市民はメンテナンス費用には関心がないので(市議会議員は地元の道路の安全性だとか選挙区の学校の耐震化については熱心だが、公園や道路整備になどのメンテナンスにはあまり関心がない)予算は増えないのだ。
市民は「消費者」意識が強く、行政運営にはあまり関心がない。そこで矛盾したメッセージが調整されないまま担当者のところに行ってしまう。つまり「行政に文句をいうなら、一方的にメッセージを送りつけたりせずにコミュニケションをとって」ということになる。
が、そう言われると腹をたてる人が多いのではないかと思う。自分は正義のつもりで言っているのだし、忙しいからそんなことをしている時間はないというだろう。
例えばアメリカ人は自分たちのコミュニティ運営に関心を持っている。だが、日本人は臣民型から消費者的民主主義に移行したので「自分が行政運営に携わっている」という意識を持ちにくい。しかし、ツイートしているだけでは状況は変わらないのだ。そもそも、代替案は予算措置を伴うので行政の担当者レベルでは決められない。予算を決めるのは本来は議員と知事(あるいは市長など)の仕事なのだ。よく考えてみると「自治」というのは住民が参加することを指す。
日本人は自治意識を持たなかったので、最近ではアイデンティティがいきなり国民になってしまうことも多い。そこで極端な愛国思想が生まれたりもする。住民参加が進んでいればここまで極端な状況は生まれなかったかもしれない。
ということで、問題解決を目指すなら、一度ぜひ誰かの話を聞いてみることをお勧めする。民主主義って意外と面倒なのだ。