オスプレイ墜落事故の波紋が広がっている。四軍調整官が机を叩いて「パイロットは悪くない」と主張したせいで、新聞社が調整官の高圧的な写真を掲載したせいで、米軍はイメージアップ作戦に転じたようだ。米軍は地域と話し合う用意があるなどというプロパガンダとともに調整官が子供と一緒にいる写真を流してイメージアップ作戦を展開した。
ここから、アメリカ人が現地の炎上を恐れている(つまり、民衆の怒りをシリアスに捉えている)ことがわかる。と、同時にアメリカ人が現地のコンテクスを全く理解ができないということでもある。アメリカは昔から植民地(ここでは沖縄のこと)の直接経営が苦手だ。多国籍の人たちが白人文化をもとに作られたアメリカ文化のもとにまとまるという理念のもとで運営されているために、アメリカ文化を持たない多様性にうまく対応ができないのだ。
これは日本人が突然ロシアの統治を任されたところを想像してみると良いだろう。ロシア人は信用できない人との交渉でことさらに自分を大きく見せようとする傾向があるそうなのだが、日本人は「ロシア人が過大な要求をするのではないか」と警戒するだろう。だからといって厳しめに接すると、現地のロシア人たちは怒り出すはずだ。彼らは過大な要求を通じてプレゼンスを確認したがっているからである。アメリカ人が日本に感じているのはこのような状況なのだが、中東でも同じような文化的な軋轢に直面している。
沖縄は基地運用に関わりたがっている。日本の文化圏では意思決定に参加することの方が、決まった事項そのものよりも重要だからだ。沖縄にとっての苦痛は「事前の根回しなしに」オスプレイの導入が決まり、事故調査に加わって影響度合いを確かめられないことなのだ。アメリカ人は契約をベースにして分担を決めるが(アカウンタビリティ、レスポンシビリティ、ジョブディスクリプションなどの用語が豊富にある)日本人は意思決定を誰かに任せたりせず全てを監視したがる。
ということで、アメリカ人に抗議をするときには、彼らの論法で抗議をする必要がある。と、同時に彼らの言語を使うことが重要だ。現在ではTwitterが革命につながることがあるくらいパワフルなツールとして認知されているので、英語で彼らに直接抗議をすることには多分想像以上の影響力がある。だから一般市民が「炎上」することが重要である。いわば「サイバーデモ」のようなものなのだ。
しかし、日本人は決して英語ではつぶやかない。最初は英語が苦手だからなのだろうと思っていたのだが、学者や著述家たちは日本語で「いかに米軍が横暴で、オスプレイ導入と運航再開は間違っているか」を話し合っている。多分、彼らは直接意思を伝える方法があることも知っているし、そのための能力は備えているだろう。
にもかかわらず彼らが決して英語でつぶやかないのはなぜなのだろうか。それは彼らが決して責任を取りたくないからなのだろう。もしオスプレイの件が炎上すれば、米軍は日本から出て行きかねない。そこで、間接的なやり方を好むのだということになる。それは日本政府に文句を言うことである。日本政府に文句を言っている限り、彼らは日本政府に協力する必要はなくなる。
沖縄のような切実さはない。彼らにとっては「日本政府に距離を置くこと」が重要なのであって、オスプレイなど実はどうでも良いのだ。同じコンテクスト依存文化なのに、沖縄が意思決定に関われないことに苛立っており、本土の日本人が意思決定に関わらないことに安心しているのはそのためなのかもしれない。
同じような構造はサラリーマンの居酒屋談義にも見られる。彼らは居酒屋で経営論を交わすが、決して経営会議で同じことは言わない。それはサラリーマンが責任を取らされることを恐れているからである。「じゃあ、あなたがそのプロジェクトをやって」と言われるのが嫌なのだ。経営に文句をいうことで自分のリソースが過度に利用されることを防いでいるのである。
その意味では安倍政権は極めて危険だ。安倍首相は幻想の世界を生きている。抗議は「一部の特殊な人がやっていること」であり、一部の特殊な人たちが推進する憲法改正は国民の声だ。これはイライラするように見えるが、全く責任を取りたくない人たちにとっては有利に働く。どんなにデモをやってもそれが結果に影響を与えることはないので、無責任なことがいくらでも言えるからである。
これを「安倍なれ」といっても良いと思う。安倍なれはとても危険である。左翼は安倍なれしている。