携帯電話料金はやがて下がり始めるだろう

首相の指示に従ったら携帯電話料金が値上がりしたという記事を見た。まず注目したのは日本人が集団圧力をかけて価格に働きかけようとしているという点だ。これは「アーティストのチケットが望む値段で手に入らないから政府で規制しろ」という動きが出た時に観察した。こうした社会主義的なソリューションは需要と供給を歪め最終的に市場を破壊するのだが、短期的にはコントロール可能なように見えるために選好されるのだろう。
結論から言うと携帯電話料金は劇的に下がるだろうと思う。価格というのは需要と供給で決まるからだ。
携帯電話料金が高いのは人々がメジャーキャリア3社のスマホを欲しがるからだ。これはジャニーズファンがSMAPと嵐のコンサートにばかり行きたがるのに似ている。
スマホはこれまで新規顧客導入のための政策価格での提供が行われていた。これが牽制状態となっていて誰も撤退できなかったというのが現状だったのだろう。首相が調停することでこの牽制状態がなくなり、本来の価格に戻ったのだ。
つまりこのことについて政府を恨むのはお門違いだ。みんな高い価格でもDocomo、au、ソフトバンクのスマホが欲しいのだ。キャリアはもはや政策価格で市場に売り込む必要はなくなったのに抜けられなかっただけだったのだ。
さて、ここで問題になるのは「なぜみんな高いキャリアを選びたがるのか」という点だ。これはスマホが顕示的な消費だからだろう。同じようなことはバブル時代の服にも見られた。こぞってブランドものの服を着ていたが、それは安い服を自由に組み合わせてそれなりに見せるという知恵がなかったからなのだ。今ではユニクロを着ている層までもがArmaniを着ていた異様な時代だった。
この消費傾向が改まるためには一世代もかかった。ブランドもの愛好者の下の世代はユニクロを受け入れたが、これは「ユニクロしか買えない」わけではない。ユニクロでもそこそこに見せるためのリテラシーを獲得したのだ。
現在のキャリアはブランドのようなものだ。すでに市場には格安スマホサービスがあるので、徐々にそちらに移行するものと思われる。いったん格安スマホへの移行が顕在化すると、その動きは不可逆的に進むだろう。日本のブランドが軒並み衰退していったことからも、それは容易に予想できる。

「保守」のこころね

今日は面白いTweeetの紹介から。


帰化とは「心を入れ替えること」だと主張している。これは日本人の心情をよくあらわしている。では心を入れ替えるとはどういうことだろうか。具体的には集団に尽くすことを意味しているものと思われる。会社でいう「雑巾掛け」だ。つまり意思決定の下位にのランクに入り「俺たちに尽くせ」と言っているのである。カラオケで「俺の歌を聞け」と言っているようなものだ。
こうした心情は村落共同体に暮らす人ならだれでも持っている。日本人は新しく入ってくる村人が自分たちの既得権益を脅かすことを恐れる。世話をかけず自力で生活し、なおかつ自分たちを助けてくれたり、何かおすそ分けしてくれることを期待する。何かくれるからといって威張ってはならない。そのため、村人は飛び抜けて優秀でもないが世話をかけすぎることもない中庸な人たちを求めるのである。
一方で「日本人でも日本人らしくない人」がいると言っているのだが、これは「俺に尽くさない人が多い」ということを意味しているのではないかと思える。「誰も俺の言うことを聞かない」という不満の表明である。俺は長い間雑巾掛け(自己主張せず他人に尽くす)をしてきたのだから、そろそろ後輩ができてもよいころだと考えるわけである。いつまでも部活の一年生状態は嫌なのだ。
最後の文章はゲストステータスを示す。これも日本の移民政策上のキーになっている。短期滞在のステータスでいるかぎりは「ゲストとして扱って」美しい日本というものを見せてやろうという表現だ。日本人は客人を大切にするという自己認識があり、それを発露したがっている。しかし、長期的に滞在すれば、いつかは自分たちのコンペティターになるかもしれないし、世話をしてやらなければならないかもしれない。それは困るわけだ。保守の人たちは外国籍の生活保護を極端に嫌がる。
ということで、この文章は日本の保守と呼ばれる人たちのこころねをよく表しているように思う。言い分はわからなくもない。だがこの心情が日本の国際競争力を削いでいる。村落は加入の要件が厳しすぎて窮屈な上にメリットがない。だから若者は都市に出て行く。
都市近郊にはこうしたしがらみを嫌った「かつての青年」たちが住んでいる。彼らは高齢化してもご近所付き合いを嫌う。かつての窮屈さを体験しているからかもしれない。おすそ分けですら「もらったらすぐに返礼しなければならない」と考えて「面倒だからやめてくれ」ということも珍しくない。しかし、その帰結は都市での孤立だ。
実は日本の保守層が感じている。俺は雑巾掛けをしてきたのに誰も俺のために雑巾掛けをしなくなったという不満は、人々が長い間の貸し借りから逃げ出しているということの裏返しなのだろう。会社の場合「俺が10年尽くしても会社は存続していないかもしれない」という懸念がある。非正規だからそもそも会社には期待しないという人もいるかもしれない。この雑巾掛け理論を社会保障に組み入れたのが年金制度だが「どうせもらえないかもしれない」という不安がある。まずは雑巾掛けをして後から受け取るというスキームはいろいろなところで崩れているのだ。
このような問題が国際レベルでも起きている。優秀な人たちは、どこで働くかを選べる。だから、わざわざ窮屈な国を選んだりはしない。たいていは英語が通じて、余暇があり、面白く生活できる国に移住するだろう。一方で、選択の余地がない人たちは日本に来るかもしれない。しかし、現在の日本の移民政策では数年で祖国に追い返されてしまう。すると限られた年限で(仮にそれが違法であっても)稼げるだけ稼ぐ。しかし、それもできないとなると噂はすぐに広まり移住先の選択肢からは排除されてしまう。海外の労働者は保守層に尽くすために生きているわけではなく、自分たちの豊かな生活を求めているからだ。
このように考えてみると、保守というのはあまり難しい概念ではないように思える。長期的な構造が定まればいつかは自分が敬ってもらえるという見込みを持った人たちが保守なのだろう。「他人を敬って尽くしたい」という人は誰もおらず、敬って欲しがっている人たちだけが残ったのが現在の保守なのかもしれない。
このように書いてくると「勝手に他人を分析するな」とか「俺が敬ってほしいから言っているのではない」などという感情的な反論が予想される。「俺を尊敬しろ」とは言えないので「世界に類を見ない日本の歴史のために、日本人は我が身を投げ出すべきだ」というインダイレクトな主張をする。そればかりか基本的人権を憲法で制限しろなどという人さえいる。それも政治的な主張としてはあり得るかもしれない。
しかし、そのように苛立ってみても基底にある不安は解消しないし、憲法を改正しても誰も「あなた」を敬うことにはならない。長期的な構造が崩れたのは終身雇用という体制が崩壊し「雑巾掛け」の意義が薄れているからだ。ここを脱却しない限り、不安は解消されないだろう。
と、ここまで書いて終わっていたのだが、ニューズウィークにAlt-Rightと呼ばれる人たちについての記事が載っていた。排他的な意見を持った人たちらしいのだが、かつてはリベラルだと思われていたシリコンバレー系の人にも思想として広がっているのだそうだ。2007年ごろには「優秀な移民はアメリカの国力を増す」という人たちが多数派であり、Alt-Rightな思想は異端に過ぎなかった。しかし、様相は変わってきているようである。
民主主義の本場アメリカでも民主主義疲れする人が増えているわけで、洋の東西を問わず、中流層に漠然とした不安が広がっているのかもしれない。日本でヘイトスピーチに加担する人たちも、世間では穏健で仕事ができる人なのかもしれない。

日本は中国に勝てないのではないか……

先日パソコンを一台吹き飛ばした。OSをインストールしようとしたのだがうまくゆかず、シャットダウンもできなかったので電源を引き抜いたら、二度と立ち上がらなくなってしまった。「こんなことで壊れるのか」と思い、パソコンを分解した。よほど腹が立っていたのだろうと思う。モノに八つ当たりしたわけだ。気がついたら粗大ゴミになっていたわけだが、液晶は捨てるのにお金がかかる。急に惜しくなり「この液晶、何かに使えないだろうか」などと考えた。
いろいろ聞き回ったのだが「そんなことは出来ない」という声ばかりだった。パソコンショップの店員は「秋葉原でパーツを漁って自分で組立てろ」という。液晶パネルなどというものは各社がバラバラに作っているのだから統一規格などないというのである。液晶を再利用したいなどというバカなことを考える人はいないということのようだ。
ところが、調べてみると実際にこのようなことをしている人たちは大勢いる。しかし、情報はほとんど英語である。いくつか日本人の書いた文章があり、そこから熊本にあるパーツショップの名前を見つけた。なぜかページは英語だ。作っている人は日本人だと思う。日本語と英語で問い合わせたら英語で帰って来た。多分、日本人だなとは思ったのだが、アジア向けに商売をしているのかもしれない。返事には具体的な規格名が書いてある。LVDSという規格(一昔前の規格で主にディスプレイとFirewireで使われている)で、それに見合った「コントロールボード」を探せば良いというのだ。コントロールボードの価格は30ドルから50ドルであり、中国でボードが作られているということだった。「eBayなんかで取り寄せたら」という。
大抵の場合「そんなのは無理」というのは知らない人の台詞で、知っている人から見れば「別になんでもない」問題だということが多い。この液晶問題もその一例だと言える。液晶TVでは基礎的な技術なので、家電メーカーの技術者は知っている人が多いのではないかと思われる。
日本人のパソコンユーザーはエンドユーザー化が進んでいるのだろうと思う。自作PCを作る人はいるのだが高性能のグラフィックボードを積んでゲーム機を作るなどという用途が多いのでないだろうか。こうしたパーツは半ば製品化され高い値段で取引されている。一方で、海外には基本的な技術を理解した上でDIYができる人がいるようだ。なぜそうなのかは分からないが。中古パソコンや修理のニーズが強いのかもしれない。
なぜ中国でボードが作られているのかも分からないが、製造業の中心地は中国に移りつつあるのではないかと感じた。日本の製造業というと金属加工などの触れるものが多い印象だ。手の感覚が活かされるので「職人技」で勝負できる世界だ。一方で中国は基本的な部品を効率よく組み合わせてソリューションを提供するのに長けているのかもしれない。エレクトロニクスの中心地は秋葉原ではなく深圳なのだ。
そう考えると、エレクトロニクスの分野では日本は中国に太刀打ちできないだろう。ニーズがあってもそれを実現する力がないからである。よく「若者の理系離れ」ということを聞くが、ものすごく優秀な人たちだけがもてはやされる一方で、技術者の評価は高くない。実際のは普通の技術者の集積が国力を作る訳だが、日本にはそうした中長期的な視点はないのかもしれない。これは政府がちょっと教育制度を弄っただけでは解決できそうにない問題だ。
ワークライフバランスが取れていれば、余暇で自分の好きな製品を作り、それを市場化するということができそうだが、日本の技術者にそのような時間があるかというのもいささか疑問である。働き方改革には「成長戦略につながる可能性がある」という視点がないのだなと改めて思った。

オークションと需要と供給問題

以前、このブログでオークションについて書いた。これと同じことを高橋洋一先生が書いて案の定炎上気味になっている。反発は感情的なものが多いのだが、理路整然と「欲しい人が手に入れられないのが問題」と書いている人がいた。いい線行っていると思う。
なぜチケット価格は高騰するのだろうか。簡単にいえば希少価値が高いから値段が高止まりするのだ。それは供給もと(例えばジャニーズ事務所)が供給をしぼっているからだ。通常の市場なら需要が多ければ供給を増やす。すると価格が下がって最終的には価格が安定するはずである。
具体的にいえば高校生のファンでも嵐のコンサートがみられるようにしたければ、嵐が毎月コンサートをすればいい。「テレビ出演で忙しいからそんなの無理だ」という人がいるかもしれないのだが、それは事務所が儲かるところに商品を出したいからである。
ここまで考えてくると「事務所は価格をつり上げているのに、その利益がダフ屋の所に行ってしまう」という問題であるということがわかる。オークションにすれば少なくともこの問題は解決されるが、コアのファンに届けるためにはコンサートの回数を多くして、バラエティ番組への出演を控えるべきだということになる。高橋先生はファンにはあまり興味がないので「オークション」と言っているにすぎない。
ファンは毎日テレビで嵐をみたいし、同時にリーズナブルな価格でコンサートにも行きたいと考えるのかもしれないのだが、それは無理だ。なぜならば「であれば嵐を独占したい」と思う人が出てくるからである。そういう人を抹殺することは(自由主義・民主主義経済下では)誰にもできない。これは正義の問題ではない。「高いところから低いところにリンゴが落ちますね」と言っているのだから、リンゴは高いところにあるべきだと言っても、リンゴは浮遊しない。
確かに、嵐が毎月コンサートをするのは無理だと思う人もいるかもしれない。この問題はどう解決すべきなのだろうか。例えば、AKBグループやExileは一軍で人気が出たメンバーを別グループに送り込んでいる。すると、後進が育ち、人気グループだけがいつまでも多くのファンを独占するということがなくなる。最近では価値の上がりすぎたSMAPが解体するという悲劇があったが、木村拓哉が別のグループと組んだりしていればこうした問題は起こらなかったはずだし、ジャニーさん代々木事件でわかるように、ジャニーズ事務所も新しいアイドルの講演を増やしている。新しいタレントを顧みないファンが悪いとも言えるが、それも工夫次第なのではなかろうか。
モモクロやAKBが適正価格でチケットを供給できるのは、顔認証システムなどの導入のおかげもあるのだろうが、イベントが常時行われていて、需要と供給が比較的安定している点にも秘密があるのではないだろうか。先の述べたように、特定のメンバーに需要が固まらないような工夫もみられる。前田敦子がいつまでもセンターだったらと考えてみればわかるだろう。多分すべての需要に応えようとしたら前田さんと大島さんは死んでいただろう。
ジャニーズやアミューズなどは「講演回数をしぼって価値を高めること」に重きを置いている。確かに毎回演出に趣向を凝らすことですばらしい舞台を提供できるのだが、価値が上がりすぎてしまい、一般の人に手に入らないという事態が起こっているのではないかと考えられる。

豊洲移転問題 – 山本一郎氏に反論する

山本さんが新しいコラムを執筆された様子です。詳しくはこちら。要約すると「専門家委員も政治家も報告書を読んでなかったのに今更騒ぐの?」という話。それはその通りですね。

で、以下は「魚市場は単なる流通拠点だからさっさと移転すれば」という話に関する考察です。


築地市場の豊洲移転問題に新しい進展があった。山本一郎氏が「潰れかけている店が騒いでいるだけなのだからさっさと豊洲に移転すべきだ」と言っている。
確かに山本氏の言い分は正しいと思う。築地の問題は実は大規模流通業者と中小仲卸の対立になっている。中小業者は移転で発生する設備の更新に対応できない。家賃も実質的な値上げになる。加えて築地のコマ数は限られているので、新規参入も難しいし、加入権が高値で売買されたりする。だから中小は移転に反対(ないしは積極的に推進したくない)立場なのだ。
では、すぐさま豊洲に移転しても構わないかと言われればそれもまた違うように思える。東京の職人気質の食文化は中小業者が支えている。この生態系は十分に調査されておらず、中小業者がどのような役割を持っているかがよくわからない。大量消費を前提にしていないので、数年後には東京から美味しい寿司屋が消えていたということもありえる。
もし東京が数年後の「おもてなし」を重要視するなら、築地の移転を取りやめて、どうしたら東京の食文化を守ることができるかを調査すべきだ。大規模業者は移転すればよいと思うが、中小の一部は築地に残るべきかもしれない。実は同じ魚市場でも機能が異なっている。
つまり、反論は「東京は世界有数の食のみやこであり、築地は観光資源だ」という点に論拠がある。すでに産業論ではなく、観光や伝統工芸をどう保護するかという問題だということだ。だから、その前提に対する反論はあるだろう。
まず、寿司屋は大量消費を前提するように変わりつつあるかもしれない。小さい子供にとって寿司屋といえば回転寿司を意味する。大量に魚を買い付けて全国で均一的に提供するというシステムだ。もし、これを是とするなら築地は必要がないし、細かな客のニーズに応える中小の仲卸も必要はない。設備投資にお金をかけられないなら淘汰されてもやむをえないだろう。
次に地方にも独特の魚文化がある。しかし、高級魚は都市の方が高く売れるので、東京に流れてしまう。例えば房総半島で獲れた魚の多くは地元を素通りして築地に流れている。仮に築地に伝統的な仲卸がいなくなれば、寿司ツーリズムのようなものが生まれるかもしれない。やはり地元で食べた方が美味しいからだ。福岡や仙台のような拠点では築地のような問題は起こっていないのだから、おいしい寿司はやはり福岡でというのも手だろう。福岡の人は佐賀の呼子までイカを食べにゆくこともあるし、塩釜にはおいしい寿司屋がたくさんある。地方ではこれが本来の姿だ。
一方、実は地方の魚流通や消費が未整備で東京に依存している可能性もある。だから、地方で高級魚を獲っていた漁師や伊勢志摩の海女さんがが壊滅するということもありえなくはない。実際どうなのかは誰にもわからない。
最近「日本は素晴らしい」というテレビ番組が横行している。確かに魚食文化は日本の優れた伝統なのだが、いつまでも続く保証はない。足元では「魚離れ」が進んでおり寿司さえ全国チェーンに押されている。そんななかで伝統を守るという視点を持つ人が少ないのは誠に残念だ。
実は築地の問題は保守の論客が論ずべき問題なのかもしれない。その意味ではガス会社から土地を買ってあとは役人と民間に丸投げするような知事は保守とはいえない。自称保守という人たちは軍隊を持ったり、天皇についてあれこれ言及したり、他人の人権を制限するのは好きだが、足元の暮らしを守ろうという気概は感じられない。そんなものはほっておいても存続すると思っているのかもしれないが、そういうものの中にこそ伝統というものは存在するのではないだろうか。

働き方改革が失敗するわけ

今日の日曜討論は安倍政権の働き方改革の宣伝をしていた。政府は「ちゃんとやっていますよ」というアピールだったのだろう。「これは失敗するな」と思ったのだが、聞き流しているときには理論的に説明できそうになかった。数時間経ってなんとなく説明できそうな気がしたので、試してみる。
現在の働き方改革の基礎にあるのは「政府による長時間労働の制限」に対する期待らしい。直感的には政府による制限はタリフに似ているように思える。タリフは国内産業を保護するが、その費用を払うのは消費者だということになっている。例えば日本人は高い米を食べているのだが、それは関税が高いせいである。同じように働き方改革という名前の保護政策は労働者に負担を強いることになるだろう。だが、枠組みは分かってもそれを理論的には説明できそうにない。
それではなぜ「政府によって長時間労働を制限」しなければならないのだろうか。どうやらA社が24時間労働をやめると、B社がそのオポチュニティを奪ってしまうという構造ができてしまっているからのようだ。これはコンビニだけではなく、様々な産業で起っているらしい。休んでいてもメールで指示が飛んでくるということもあるそうだ。ここからこぼれ落ちた人たちは非正規というステータスに落ち込んで行く。非正規は強い労働意欲を持てないので、全体的な活気がなくなり成長力が阻害されるということである。
例えて言えば、常に顧客を盗まれる危険性があるので、常時監視していなければならないのだ。顧客も短絡的になっていて「今手に入れられなければ別のところに行く」という癖がついてしまっている。だが、この監視のせいで子供も作れないし人間らしい生活が送れないという実にばかばかしいことになっているらしい。これを当事者間でやめることができないので、政府に監視してほしいと言っていることになる。お互いに縛り合っているうちにどうしようもなくなってしまったのだ。
政府は「監視しましょうか」と約束しようとしているのだが、パネラーの1人が「罰則が必要」と言っていた。
さて、ここからが問題だ。考えるべき要素は2つある。1つは監視がうまく行くかということだ。監視には費用がかかるのだが、労働基準監督署が強制力を持つような法整備はテクニカルには可能だが、労働警察を作って企業を24時間監視するには莫大な費用がかかる。誰がその費用を負担するのかといえば、実は労働者(=納税者)だ。
このような監視網が作られると脱法することのインセンティブが生まれる。法律の目をかいくぐったり労働警察の目をすり抜けたりすることにインセンティブが生まれることになる。罰則覚悟でもシェアを伸ばしさえすれば市場が独占できるわけだ。経済的利益があるところには必ず人は集まる。物が高いところから低いところに落ちて行くのを政府は制御できないのだ。
このように考えてくると、非常に単純な一つの疑問が浮かんでくる。「なぜ、監視し合わなければならないのか」という点だ。日本の産業の多くがサチュレーションを起こしていて、新規事業がないからではないだろうか。例えば、運輸業・保険業・携帯電話産業・電機・飲料・流通(デパート、スーパー)など成長が止まってパイの奪い合いになっている産業ばかりだ。こうした産業が顧客を奪われないようにするためには、24時間365日客を監視していなければならないのである。
つまり、この問題も日本に成長産業がなくなったことが原因になっているということになる。古い経営からリソースを解放しないかぎり、日本の労働条件は良くならないだろう。パネラーたちの要望が加藤大臣に聞き入れられても、脱法的な収奪行為が増えるだけなのだろう。

左翼運動家が研究すべき国 – ベネズエラ

新宿で奇妙なデモが行われたらしい。「自分たちが貧困だから政府がなんとかしろ」というデモならまだ分かるのだが、貧困などテレビの捏造に過ぎないと主張した片山さつき議員を糾弾するデモなのだという。日本では貧困であることはスティグマになっている。直接主張することははばかられるので、こうした間接的な方法で他者を叩く行為が横行しており左翼運動を堕落させている。他者に対する慈善行動だと考える限り自分の問題について考えずにすむからだ。
さて、左翼運動家たちは、政府が目配りをして巨大な企業から徴収した税金を貧困層に回せば社会的問題はたちどころに解決すると主張する。
しかし、結論からいうとこれは間違っている。理論的に間違いを検証することは難しいのだが、具体的に失敗した国がある。それがベネズエラだ。ベネズエラでは時々国境が解放され国民が外国に買い物に出かける。国内の流通は壊滅しており、治安の悪い中で徹夜で並んで買い物することが珍しくないそうである。経緯についてはいろいろなまとめ記事が出ている。
ベネズエラには豊富な石油資源が眠っている。かつては冨が一極集中する(これを「新自由主義」と言う人が多い)国だったのだが、揺り戻しが起こった。石油を売った金を貧困層に戻す社会主義化が起ったのだ。結局、非効率な社会主義企業が民間企業を駆逐して経済が非効率化した。さらに石油価格が下落し、ハイパーインフレが起る。精油精製を海外に依存していた政府は石油生産すらままならなくなり、経済が大混乱に陥っている。大きな政府の破綻という意味では、国家公務員が多かったギリシャに似ているかもしれない。
経済が混乱してもベネズエラ政府は経済の自由経済化を進めなかった。政府の権限をより強化して事態を収集しようとしている。これがさらに経済を混乱させている。
日本人はこれがどういうことなのかをうっすらと経験している。菅直人は左翼色の強い首相だったが、原子力発電所が暴走したときに「俺に情報を集めろ」と言って、さまざまな組織を乱立させた。ベネズエラの場合暴走しているのは原子炉ではなく経済なのだが、系が複雑すぎて人の手では制御できないのだろうが、左翼系の人は、人知があれば系が制御できると考えてしまうのだろう。
日本には石油がでないので、ベネズエラのようなことは起らないはずだ。しかしながら、国は国民の貯蓄を国債という形で自由に使えるようになっている。実質的には石油のように「貯蓄が枯れるまで」使える。条件は整っている。
左翼運動が間違っている理由は2つありそうだ。

  • 経済は系として複雑で誰かが恣意的にコントロールすることができない。
  • 現在の左翼運動は「かわいそうな人の貧困を救って上げる」というものなのだが、こういう人は中間搾取者か寄宿者になってしまう。

ではやはり安倍政権が正しいともいえない。ベネズエラが混乱したもともとの原因は新自由主義の増長だ。新自由主義というのはいわば「搾取の自由」を認めた経済であると言える。この搾取される側が多数となり反動的な左翼運動が起ったことが現在のベネズエラの混乱につながっている。
こうした「貧困対策を訴える」ようなデモが見られるようになったのはつい最近のことだ。多くの人たちが自由主義経済からこぼれ落ちつつあるか、その不安を抱えているのだろう。中には家族の介護や子育てなどによって離脱せざるを得ない人がいるのだが、こうした人たちに対する対策はほとんどなされていないし、当事者たちは見捨てられていると考えている。
憲法や安全保障などで燃料を投下しつつ、安倍政権は中期的に見れば安倍政権は反動的な左派政権につながる芽を作り続けている。

教育コミュニティと社会的報酬

最近、中古のMacintoshを手に入れた。最新OSが乗る物を1つは置いておきたかったのだ。セットアップすると分からないことが多く、いろいろなディスカッションボードで質問をすることになる。そこで「コミュニティと社会的報酬」についていろいろ考えた。
Appleのディスカッションボードはかなり紳士的だ。実名・匿名が入り交じっているのだが、回答者の知識は豊富で実践的な提案もある。最近はiPhoneユーザーが増えて「シロウトっぽい」質問も多いのだが、それにもできるだけ丁寧に答えている。
Appleのディスカッションボードが荒れないのは、ランク分けによる社会的報酬が与えられているからである。回答がよいと「役に立った」とか「問題が解決した」という評価が与えられ、バッジが上昇する。また、ランクが上がるとリアルのイベントに招待される仕組みもあるようだ。このリアルとつながっているというのはとても重要らしい。
一方で荒れているコミュニティもある。Yahoo!知恵袋で「デジカメ一眼レフのおすすめ機種を教えて」などと言えば「素人は何を買っても同じ」とか「自分が撮るべき写真がわかってから質問しろ」などという辛辣な回答が並ぶ。いわゆる「自己責任論」も横行している。上から目線でデタラメな回答(本人は正しいつもりなのだと思うが)を羅列する人も多いし、自分が知らないことを隠蔽するために自己責任論をひりかざす人もいる。「あなたがトラブルに巻き込まれたのは、あなたの不注意のせいだ」と言い、質問には直接答えないのだ。
荒れるコミュニティにはいくつかの要素が絡まっていそうだ。第一に「知識を持っている人は偉い」という序列意識がありそうだが、それだけは全てを説明できない。もし「くだらない質問だ」と思うなら答えなければいいだけなのに、なぜわざわざ長い時間をかけて他人を罵倒するのだろうかという点には疑問が残るのだ。
素人の質問に不快な思いをしているのだろうと思われるのだが、ではなぜ「不快な気持ち」にさせられるのだろうか。
多分、書いている本人が何らかの不満を抱えているのではないかと思われる。自分はこんなに知識があるのに、なぜ他人は理解してくれないのかという気持ちだ。それを他人にぶつけているのだろう。結局のところ「社会的報酬が得られない(平たい言葉でいうと評価されていない)」という不満を他人にぶつけているのではないかと考えられる。
こうした情景はYahoo!知恵袋だけでなく、様々なコミュニィで見られる。放置されていて社会的報酬が与えられないと、不確実な知識が増え、自己責任論が横行し、言葉遣いが荒くなる。ディスカッションボードはまだ「ソリューションオリエンテッド」だが2ちゃんねるはさらに荒れていてほとんど妄想に近いような解決策が話し合われている。
リアルでもこうしたことは珍しくない。現場が顧みられず、知識が評価されない企業でも似たようなことを目にする。たいていは教育に問題が起こっており、知識伝達が機能しない。一方で知識に対して社会的報酬があると知的満足が充足し、事故解決能力の高い組織が作られる。
本来ならボランティアワークで奉仕の精神が求められるはずの教育なのだが、実際には人は社会的報酬なしでは紳士的に行動できない。そこで費用を出してでも社会的評価をする必要があるのだ。

個人が炎上したら……

先日来「一般人同士が議論することは難しい」ということについて考えている。これについて考えるようになったにはあるTwitterの@ツイートがきっかけだ。どうやら「言葉の使い方が間違っている」という指摘をされた人が逆上し、ことあるごとに指摘した人につっかかるようになったということらしい。その突っかかり方は尋常ではなく、2ちゃんねる(もしくはそれに似た掲示板)では職業が特定された上で「障碍者枠で採用された知的障害者」ということになっていた。攻撃されたTwitterアカウントは実名で、攻撃した人のアカウントは凍結されていた。
Twitterで他人と話すときには街で話すのと同じようにしたほうがよいとは思う。街で通りすがりの人に「あなた間違っている」というようなことは言わない。かといって通りすがりの人と会話を交わしていると仲良くなったりもするわけだから、そうやって関係をつめてゆくのがよさそうだ。
しかし、だからといって炎上が防げるわけではない。その2ちゃんねるはもともと反政府系の主張をする人をこき下ろす場だったのだが、それが拡大して対象になった有名人に絡んだ人たちを巻き込んでいったらしい。2ちゃんねるは一般に認知されるわけではない。吹きだまり化が進展し、発言がどんどん過激になり、最終的には妄想に似た決めつけになっている。こうした書き込みでは社会的報酬は得られないので、書き込みがどんどんと過激化するのだろう。多分社会的報酬が得られないことにも腹を立てているのではないか。
一般人が「住所や職業などを特定される」と生活の脅威を感じかねない。刑事事件として取り上げてもらうようにスクリーンショットを取って警察に訴えるという手があるらしいのだが、警察は特定の要件が整わないと取り合ってくれないそうだ。例えば「あいつは殺人犯だ」とか「あいつを殺してやる」などといった書き込みであれば警察は動くが「女とみれば見境なしだ」などといった程度では事件化できないのだという。親告罪なので告訴する意思が必要である。
警察が取り上げてくれないと民事事件にして弁護士に頼むという手があるようなのだ。これには数十万円の費用がかかる。いくつか弁護士事務所のページを見つけたので、お金を払ってでもやめさせたいという人が多いのかもしれない。それだけ中傷が多いということである。有名人や企業の場合、書き込みは商品価値に直結するので、お金を出してでもやめさせるということになる。ただしIPの開示請求に応じる必要はなく、技術的には「ログが削除された」と言われればそこでストップだ。
となると「悪口を言われる実害は何だろうか」と考えるのが一つの手かもしれない。2ちゃんねるは社会的な影響力のない中高年の集まりなので、実害は少ない物と思われる。言葉は過激かもしれないが、行動に出る人は少ないのだ。ただし、その書き込みをみて誰かが襲撃をかけてきたり、あるいは悪い風評で経済的な実害が出れば、それは犯罪行為ということになる。それまでは放置するべきなのかもしれない。逆に普段から「書き込みを監視すべきだ」という意見を持ちたくなるが、却って政府の監視が強まる結果になるだろう。
最近では大分県で野党系の事務所の敷地に無断で監視カメラを設置したとして警察官が書類送検された。大分は民進党や社民党が強い地域なので、警察が暴走したものと思われる。多分、ネットの監視ができるようになれば違法なアクセスは増えるのではないだろうか。
2ちゃんねる(あるいはそれに類する掲示板)に書き込んでいるのは、多分40歳代から50歳代の人たちだろう。中身の傾向を分析しようかなあと思った。一応データマイニングみたいなことはできるわけだが、読んでいてあまりにも気分が悪くなったので途中までしか読めなかった。普段の生活で理路整然と考える習慣がないまま大人になるとこんなにもグロテスクな思想を溜め込むのかという意味ではかなりの驚きがある。
少なくとも高校の過程で、自分の考えを短い文章で述べさせるという教育をしたほうがよいと思う。現在は体制側がこうした人たちを抱き込んでいるのだが、多分過激思想にも簡単にはまってしまうだろう。まさか「国語教育は国の安全保障に直結する」などという結論に至るとは思っていなかった。

なぜ女系天皇は容認されてこなかったのか

さて、女性天皇を容認すべきだという二階さんの発言が議論を呼んでいる。ネットでは「Y染色体が……」というような議論が見られるのだが、女系天皇が容認されてこなかった理由はY染色体は関係がない。女系天皇が容認されてこなかったのは、日本人の独特の感性のせいだ。多分、議論している人たちは分かっていて言わないだけなのだと思う。
日本の歴史上天皇家の生まれではない人が天皇になろうとした事例があった。それが道鏡だ。有名な話なので、知っている人も多いのではないかと思う。Wikipediaには次のようにある。

大宰主神(だざいのかんづかさ)の中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が、豊前国(大分県)の宇佐神宮より道鏡を天皇の位につければ天下は泰平になるとの神託があったと伝えた。 しかし、和気清麻呂が勅使として参向しこの神託が虚偽であることを上申したため、道鏡が皇位に就くことはなかった(宇佐八幡宮神託事件)。

この記述を読むと、女性天皇のもとで権力争いがあったことが分かる。そこで、道鏡を中心に据えれば緊張関係が収まるという案が出されたのだろう。孝謙天皇の時代は皇族を殺して系統を根絶やしにするようなことが横行していたようだ。このため天武天皇の家系から男系男子がいなくなり、女性天皇を立てて系統を維持するしか道がなくなってしまったのだろう。この後、結局天智天皇系が家系を存続させることになる。
Wikipediaには書いていないのだが、道鏡は孝謙天皇と親密な関係にあった」とされている。その「密接な関係」がどんなものであったかは不明だ。もし道鏡が子供を持てば、その人が天皇ということになる。孝謙天皇がどんなつもりだったのかはよく分からないが、孝謙天皇との間の子供だとすると、女系天皇が誕生していた可能性がある。
しかし道鏡は天皇にはならなかった。周囲の嫉妬心があったものと思われる。臣下はすべてピア関係にあり、ピアの一人が突出することを許さない文化がある。持って回った言い方だが「日本人は嫉妬心が強い」のだ。道鏡が選ばれたのは仏門に入っていて争いに加わらないという意味合いがあったのかもしれないが、祭り上げられたせいで争いに巻き込まれ、最終的には都を追い出された。
天皇家が尊重されるのは「誰も天皇になれない」からである。かといって、尊敬しているわけではない。その証拠に天皇が強いリーダーシップをもって政権を取った事例は、ゼロではないがほとんどないと言ってよい。後醍醐天皇の建武の新政があるが、足利氏に離反されあえなく崩壊している。これは天皇がピアの主導権争いに参加した事例なのだが、これに参加すると同じように排除されてしまうのである。
女系天皇だけでなく、女性が天皇になっただけで、閑かな緊張関係にあったピア同士の争いが始まるのだから、唯一の解決策は女性天皇を織の中に閉じ込めて「虫がつかないように」監視するしかないのだが、これは重大な人権侵害になるだろう。かつては皇女が身ごもることを恐れて結婚させずに閉じ込めておくということが行われていたようだ。
現在でも同じようなことは起きている。天皇家に娘を嫁がせた小和田家は国内政治に参加しないことが求められる。また黒田清子さんの夫が表に出ることはない。下手にピア同士の争いに関わると大きな問題に発展するのだ。
日本人が天皇家を敬っているのは「自分が絶対に天皇になれない」からだ。同時にそれは「アイツも天皇にはなれない」からである。このように牽制しているので、男系であっても臣籍降下した人を天皇家に戻すという動きもない。
現在の有資格者は東宮家1名、秋篠宮家2名だけということになっている。そのうち「誰も天皇になれなくなった」ことになりかねない。