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日本型マネジメントの崩壊

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先日来、ごっちゃにいろいろなことを調べていた。かなり共通している点がある。目の当たりにしたのは、日本の組織が不効率化しているということだった。不効率化しているだけではなく、行き詰まっているように見える。

PCデポは現場で工夫したが、それは高齢者詐欺まがいだった

例えばセブンイレブンには、現場のオペレーションとミドルマネジメントの間に乖離がある。ミドルマネジメントは現場を根本的に修復する権限は与えられていないが「責任」を取らされる。また、PCデポにも、現場の教育ができないという問題がある。アルバイトの知識に頼らざるを得ないのである。そこで「目の前の高齢者を騙して収益を上げてやろう」と思う。現場なりに「工夫した」のだろう。経営資源がないなりに行き着いた「工夫」が詐欺まがいの商売だったのだ。

背後にある過剰最適化

なぜこのような問題が起るのか。それは人件費を極限まで削ることが必要だったからだ。コストは通常運転に最適化されており、オーバーヘッドである冗長性(問題が起きたときのクッションになる)と教育を削っている。問題が起ることが前提になっていないのだから、問題はなかったことにされる。つまり、過剰最適化の問題が起っているものと考えられる。

過剰最適化の裏で起るコミュニケーション障害

過剰最適化は情報のループを遮断する。日本人は特殊な社会構造を持っている。建前上はかなり厳しい上下関係が置かれるのだが、非公式なルートを通じて情報交換を行っている。愚痴だったり飲みにいったときのコミュニケーションだったりする。このニュアンスを含めて情報交換するから情報のループができるのだ。
しかし、これが公式なルートに置き換わるとニュアンスが飛ぶ。欧米社会では確率の補足とリスクヘッジのようなことが行われるのだが、日本人は公式な情報交換の場では「絶対に確実」なものにか表に出してはいけないことになっている。するとますます情報交換は萎縮する。現場はマネジメントに対して「自己責任で決定してくれ」というようになり、判断が遅れる。最近では「飲みにいってコミュニケーションを取るのは仕事のうちだから、給料を寄越せ」という人もいる。労働者なりに自己防衛を図っているのだろう。愚痴は言わない。問題が起きても責任を取るのは上司だ。となると、問題が悪化するまで見て見ぬ振りをしていたほうが得策なのだ。
通常のオペレーションはコンクリートに無数のひびが入っているような状態だ。しかし、ひびは表面的には見えない。ところが何らかの形でそこにショックが入ると、ひびはクラックに変わる。すると圧力がクラックに集中して、耐えきれなくなった全体が崩壊してしまうのだ。企業の場合これを「炎上」と呼んでいるのだろう。

責任って何なのだろう

さて、ディスコミュニケーションがクラックを生じ得るということはなんとなく分かったのだが、人々はではなぜ正直なコミュニケーションができなくなってしまったのだろうか。最初の過剰最適化の問題に立ちかえってみよう。
オペレーションには定常運転と異常運転の二種類がある。このうち異常運転のコストを削ることによって、オペレーションのコストを下げようというのが過剰最適化だった。すると、異常運転時のコストを誰が負担するのだという問題が出てくる。この異常運転時のコストのことを「責任」と呼んでいるのだと思う。
「責任」の押し付け合いは、不利益の押し付け合いなのだ。これを応分に配分することができなければ、問題は解決しないということになる。

自己責任論が奪う学習機会

異常運転はミスやヒューマンエラーを含む。本来はこれらを観察することで、ミスやヒューマンエラーをなくしてしまうことが、組織の学習であり、オペレーションの最適化だったはずだ。しかし、実際に起きているのは「ミスは起らないはずだ」という前提のもとに、コストを削減してしまうというやり方だった。そこで、ミスが不利益だということになってしまった。絶対に誰も間違えないという異常な世界だ。
ここまで考えてくると、これが組織から学習の機会を奪っていることが分かる。学習の機会が奪われているわけだから、進歩もしようがない。例えば、PCデポの場合には「面倒な高齢者」を観察することによって、高齢者向けのPCというものが作り得るのだが、この機会が奪われて「分からないなら騙してしまえ」ということになる。予算を割り当てられたアルバイトに経営資源はないので、工夫は相手を騙すことになってしまう。コンビニの場合は、不具合を隠蔽して、隠蔽ができないとミスをした従業員を切って終わりになるのだろう。
学習機会がないから、成長もしないわけだ。

絶対間違えない世界の復讐

ここでは皮肉なことが起きている。ノーマルな社会では間違いを学習の機会と捉える。それはコストではなくベネフィットなのだ。しかし、トラブルはコストであるという認識が広まって一世代経った。すでのこの異常な世界で育った人が社会に出始めている。社会人も20年以上は「間違えたら即死刑」というような社会を経験した。
ネットの炎上や人民裁判というのは、こうした「企業の間違い」をランダムに吊るし上げて、市場から抹殺しようとする行為である。間違いを絶対に認めないという姿勢は当たり前のものになっていて、それが唯一残された問題解決手段になっているのだ。


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