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天皇陛下に「あげる」はなぜ不敬なのか

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Twitterというのはネタの宝庫だなあと思う。今回見つけたのは「天皇陛下を楽にしてあげたい」というツイートだ。いわゆる保守のブロガーを自任する人が、たぶん何の悪気もなく呟いたものだ。
だが、これをある年代から上の人が見るとどきりとする。と、同時に「なぜどきりとするか」ということを説明しなければ分からないということに気がついた。
もともと「〜あげる」というのは、目上から目下に対して使う言葉だ。イヌに餌をやるというように使うのだが、これを丁寧に言った言葉だ。これが時代を経るに従って「親しみを込めた敬語表現」としても使われるようになった。例えば「おばあちゃんを楽にしてあげたい」というように、身内にも使えるようになったのだ。オリンピックの水泳の選手が「平井コーチにメダルをかけてあげたい」などと言っているのを聞いた。
身内に使う分には許容表現だが、敬語にうるさい人にとっては「間違った」使い方だ。ビジネス敬語について説明したこのページには、あげるの敬語は差し上げるだが、それでもムッとする人はいると書いてある。正しい日本語としては、相手が「欲しいかどうか判断をゆだねるべきだ」というわけだ。
だから、天皇や皇太子に向けて使われると完全に許容外になる。それはなぜだろうか。
これを説明するためには、古い人たちのメンタリティを知る必要がある。太陽はまぶしすぎて直接見られない。同じように一般庶民は偉い人と直接会話ができないし見ることもできないというメンタリティがあった。例えば、陛下・殿下という言葉は階段とか建物の下という意味がある。直接人について言及することができないので。建物を呼んだのだ。例えて言えば「千代田の方」とか「赤坂の方」などと呼んでいるのと同じことだ。
現在の陛下を「天皇」など言うことはあり得ない。天皇は地位の名前であって人の名前ではない。現在の天皇を呼ぶときには「当代」というような意味合いで、今上陛下と言うのが一般的だ。
直接見ることも、話をすることもできないのだから、当然、働きかかけたりすることはできない。真性の保守の立場に立つのであれば恐れ多くて天皇の地位について云々することなどできないはずなのだ。だから、当然一般庶民が働きかけて「楽にしてあげる」ことなどできないはずなのだ。
このように「自分の意思決定が目上の人に影響を与えることができない」というのは敬語の基本になっている。だから本来の日本の敬語には偉い人に働きかける言葉がない。しかし、敬語は徐々に美化語化している。待遇と地位をあらわす表現ではなくなり、言葉を美しく飾るために使われるようになっている。
例えば「差し上げる」は第三者が目下に対して使う間接的な話法だ。「差し上げなさい」とか「献上なさい」と目上から目下に命令する。目下が目上に意思を表明することなどあってはならない。だから、遠慮がちに「いかがですか」とか「よろしければ」などと言うのだ。
多分、20代30代の人が「保守」を名乗ったとしても、それはファッションでしかないのだとは思う。なんとなく体制側に立っていて「カッコイイ俺」くらいの感じなのだろう。でなければ、天皇の地位については恐れ多くて言及なんかできないはずだ。「真の保守」になりたいとしても「恐れて畏まる」ことがどういうことなのかよく分からないのだろう。
いわゆる「保守の政治家」の中にも天皇制についてとやかく言う人がいるが、多分天皇制というものを軽く見ているか、権威を傘に着ているだけに見える。自民党が野党時代の保守系雑誌(WILLなど)には、天皇家のヨメである雅子妃に対してどうどうと注文をつける人たちが大勢いた。多分、皇室への尊敬などないのだろうと思った。が、そういう人たちでも保守を名乗れるくらい寛容な国なのだ。身分制の社会ではそのようなことはあり得ないからだ。
日本人の中から「恐れて畏まる」という気分が実感としてなくなりつつあるということだろう。さらに年代が若くなるともう天皇という地位が何を示しているのかすら曖昧になりつつあるようで「平成が終わったら悲しい」くらいの感想しか持てなくなっているようだ。
こんななかで保守というのは、多分ソ連が崩壊したロシアで共産主義を懐かしむようなものになりつつあるのだろうと思われる。今の若い人がというより、戦後長い時間をかけて徐々に風化してきているようだ。10年後にはもっと形骸化が進むのではないだろうか。