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なぜ甲子園には戦争のにおいがするのか

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現在の西日本新聞は戦争を美化した戦前の朝日新聞と同じ

さて、先日は甲子園の応援を優先してコンクールの地方大会への出場を諦めた高校生について考えた。西日本新聞はこれは生徒の「自主的な判断」であり「美談」として伝えた。自己犠牲の精神が美しいと考えたからだ。ところがバズフィードの追加取材によると、校長先生は吹奏楽部員を罵倒し、高校生たちは涙ながらに諦めたことが分かっている。自主的な判断の裏には強い同調圧力が働いていたのだ。
これは基本に特攻隊の若者が自分の人生をかけて散っていたのを礼賛するのと同じ構造を持っている。日本人は自己犠牲を喜ぶ心性を持っている。目的の合理性は特に問われない。場合によっては不合理であるほどよいとさえされる。

若者の自己犠牲を消費する大人

高校野球には「自己犠牲」のにおいがする。暑いさなかに高校生が日中野球をすることに無情の喜びを感じている。目的は「母校の名誉」である。同じような図式は至る所に見られる。例えば、箱根駅伝は正月に苦しんでいる他人を眺めるという行事だ。その禁欲的な姿に夢中になる人が多いのだが、たいていはおとそを飲みながらその様子を眺めている。

突出した個性や勝者を嫌う

スポーツは「団体の名誉のために、自己を犠牲にする」ものでなくてはならない。そのため、勝利のガッツポーズは嫌われる傾向にある。例えば横綱がガッツポーズを取ることは許されないが、モンゴル人には理不尽な行為にしか見えない。モンゴル人横綱ががんばるのは自分のためだからだ。オリンピックでは水谷選手がガッツポーズをとがめられた。
オリンピックで勝っても「私ががんばったからだ」という人は多くない。たいていは「皆さんのおかげで取れた」と謙遜する。「みなさんのメダルだ」ということを協調する。たいていの日本人はこれを奇異なことだとは思わない。
同じように甲子園では丸刈りが強制されることが多い。これは個性を犠牲して団体に埋没することを意味する。髪型を気にすることは個性を出すことだと見なされ忌避される傾向にある。かつて地方の中学校には丸刈りが校則になっていた地域があるが、若者の個性は「集団を脅かすものだ」と考えられたのだ。

自己を獲得しそこねた

日本人は西洋の近代社会に触れる中で「自己」という概念の獲得ができなかった。基本的には個人の競争を前提としているのだが、それだどういう心情に基づく物なのかよく分からなかったのだろう。だから、多くの日本人は「自分は優れていない」し「他者とは違った存在になれない」という意識を持っている。
そこで突出した周囲に集団圧力を与えることで、自己を慰撫してきた。その教育は早くから始まり、就職活動のときには「個性を消して団体に殉じる」ことを強制される。全ての学生がスーツを着て就職活動に臨むのは欧米にはない慣習だが、やはり「日本教」の信仰告白としては必要なものなのだ。「自分らしく」はあくまでも余暇の分野でしか許されない。
個性と美しさを競う吹奏楽はには集団の期待を乗せることはできない。それは、個性の発露だからである。野球が喜ばれるのは没個性的だからだろう。没個性的な活動から抜けようとする人たちには集団の同調圧力がかかる。「自分は大したことはない」と考えている大人が自意識を集団に仮託する上で圧力を働かせているのだ。

自己愛なしには生きて行けない

しかし、自己愛なしに生きて行くことは難しい。つまり、他人の評価は気になるのだ。そこで必要になるのは、他人の努力と成果である。
甲子園に戦場のにおいがするのは「一人ではたいしたことをなし得ない」と考えた人が、他人の力を利用して一体感と陶酔感を得たいと考えるからだ。甲子園の音楽が一本調子なのは、それが陶酔感を得るための環境だからだろう。
しかし、それは他人に対して自己犠牲を強制しているということなのだ。これが日本教の根幹なのだが、そのためには美談が必要である。それは、イスラム過激派が他人に自己犠牲を強要するにあたって「天国」を持ち出すのと同じ理屈である。神の名を語って他人に犠牲を強要するなどあってはならないことだが、過激主義ではそれがまかり通る。日本人はそれを「伝統」という言葉で言い換えている。

教義のない日本教を言葉で表したのが国体原理主義だ

よく日本人一人ひとりには価値はない。価値は国体(連綿と続く歴史)にあるという人がいるが、同じような心情なのだろう。靖国神社が尊ばれるのは、かつて軍部が若い日本人を犠牲にしたという搾取の物語を「伝統に殉じた」と言い換えることができるからである。それは端的に言えば「これからも他人の血をむさぼってやるぞ」という決意表明なのだが、多くの人にはそのような意識はないのだと思う。
その物語を美しく維持するためには「人権」とか「個性」という言葉は邪魔なのだろう。軍隊には個性は必要ないし、個人の意思決定は問題を生じさせる。

日本教で得られるもの

さて、日本人がそうした心性に陶酔したいのであれば、それはそれで良いのではないかと思える。メリットは「自分は何者でもない」と考えている人たちに「夢と希望」を与えられるという点である。自己陶酔にはそれなりの心理的報酬がある。甲子園に行くには多額の資金が必要だが、こうした資金はOBたちの寄付で賄われる。心理的なベネフィットの力の強さを感じさせる。個性を発露する競技やコンテストではありえないことだ。

日本教で失われるもの

日本教では搾取される人たちの失敗は考慮されない。がんばるのは他人だからだ。マネジメントの失敗が現場に押し付けられるというのが、日本教の最大の欠点だろう。第二次世界大戦では、現場が餓死する中、本部は最後まで失敗の押し付け合いを続けていた。最終的に市街地に核爆弾を落とされるまで、本部は派閥争いに夢中だった。
例を挙げると日本人は横綱になれなくなった。やはり「集団の為に個人を犠牲にする」という人は「自分のためにがんばる」という人には勝てないのだ。それはモチベーションの違いによるのだろう。野球では「自分のためにがんばりたい」という人たちは、日本に留まれなくなった。そういう人たちは大リーグに行く。そこでは「チームのために犠牲になった」という人はいない。自分のタレントを使って自己を実現した上で、他者にも還元するという考え方がある。「集団に埋没する」のは心地よいことなのだが、競争力は確実に失われる。
もう一つのデメリットは「自分が自己陶酔するために他者を犠牲にしたい」と考えている人は「自分ががんばって集団を引っ張って行きたい」と考えないという点にある。日本では「自己責任論」がはびこっているのだが、これは「他者の成功は横取りするけれども、不具合は自分で引き取ってくれ」という宣言に他ならない。