日本語は母音の少ない言語なのか

よく「日本語は母音が少ない」と言われる。果たしてそれは本当なのだろうか。結論から言うと世界の560程度の言語のうち、母音の数が5〜6程度のものは287あるそうだ。つまり日本語の母音の数は平均的ということが言える。日本人が母音の数が少ないと感じるのは、日本人の考える外国語が英語だからだろう。英語には複雑な母音体系がある。






さて、世界でもっとも母音の数が少ない言語はいくつの母音を持っているのだろうか。ロシア南部のコーカサス地方にはコーカサス諸語と呼ばれる言語群がある。3つの語族があり40程度の言語が話されているという。トルコ語ともインドヨーロッパ語とも違う「言語島」が形成されている。

その中にアブハズ語という言語がある。グルジアの北西部に突き出した形で存在するがグルジア人とは別の民族だ。複雑な子音体系があるが、母音として意識されるのは2つだけなのだそうだ。広い母音と狭い母音だそうである。ただし、半母音のような形(つまり子音+母音として)他の母音も表れる。しかし、文字として母音認定されるのは2つだけだ。

韓国語には陽母音と陰母音の区別がある。こちらは文法上の役割を持っている。動詞の語幹に陽母音があれば続く語尾も陽母音になる。トルコ語には母音調和という現象がある。このように母音を2グループ(広い、狭い・前、後)に分けるということは世界各地で行われている。アブハズ語もいろいろな母音を調音できるのだが文字として意識されるのは2種類だけなのかもしれない。

母音が少ない言語の多くは3つである。琉球語には「あいう」の3つの音しかない。子音の数も日本語と同じ程度のはずなので、母音がないと音が足りないということはないようだ。代わりにグロッタルストップを使った母音とそうでない母音の対立のある方言があり、かならずしも日本人に発音が優しい言語というわけでもなさそうである。母音の複雑な言語はアフリカやヨーロッパに多く、人類が各地に進出する過程で母音の単純化が起った。オーストラリアやアメリカ大陸には母音の単純な言語がいくつもある。

面白いことにアフリカにもマダガスカルに母音が単純な言語があり、人類が遠くにゆくほど母音が単純化するというセオリーに外れているように見える。ところがマダガスカル語(マラガシー)は台湾あたりに起源を持つ太平洋系の言語である。つまり、いったんアフリカを離れた人類が長い歴史を経てまたアフリカ近海に戻ってきたのだ。

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日本政治の課題(2016年夏編)

日本政治の課題についてまとめる。現在、日本政治の主なアジェンダは「憲法改正」と「追加の財政出動」だが、実際にはもっと重要な問題がいくつかある。思いつくままに列挙した。

少子高齢化と格差の内在化

最初の問題は少子高齢化だ。一組のカップルが生む子供の数が減っており、将来の人口減少が予測される。人口は将来の労働の担い手・消費者・納税者なので、現在の経済活動や市場が確保できなくなる恐れがある。多くの先進国でも同じような問題があるのだが、たいていの場合は移民労働力でカバーしている。移民は比較的低賃金の労働に携わることが多い。そこで不満を持った移民が社会を不安定化させる要因になっている。
一方、日本では移民の役割を若者が背負っている。借金をしないと大学には入れないが、大学へ行かないと低賃金労働(特に介護福祉分野の補助的労働か遅れたサービス業)に割り当てられる可能性が高い。かつては先進国と植民地の間にあった格差が、国の中で混在するようになっているのだ。介護福祉分野や農業分野では「研修生」の名目でアジア圏から移民を導入するか、そのまま若者を使い潰すかの二者択一になりつつある。

地方と都市の格差

現在、人口減少は地方の問題だと考えられている。都市への人口流入は続いているからだ。しかし、これは都市の高齢化が先延ばしされるというだけの話だ。地方で人口が減るといくつかの問題が起る。鉄道などの公共交通網が維持できなくなり、病院などの基礎的サービスが維持できなくなる。病院問題は例えば千葉東部(銚子地域)などでも起きている。職場がなくなり、コミュニティも維持できなくなるだろう。高齢者は日常の買い物もままならない。自治体の中には消滅するところもでてきそうだと指摘され話題になった。
人口が減りつつあるのに、住宅件数は伸びている。戦後核家族ごとに家を建築するのが一般化したからだとされている。当然、古い世代の住宅は空き家になるわけだが、これが放置されて残っている。2030年代には3軒に1軒が空き家になるという予測もあるようだ。タワーマンションも立て替えができないのでゴーストタウン化するかもしれないという。実際に首都近郊には高齢化した「団地」が数多くある。これを壊すためには費用が必要になるが、家の持ち主には負担ができない。公費ということになる。つまり「市場の失敗」のツケを地域住民が負担することになるのだ。
すでに県という単位は維持ができなくなっている。地方では選挙区が合区された県もある。県知事は不満を募らせており、アメリカ上院のような代表制にすべきだと言っている。しかしこれは世田谷区以下の人口しかない県と東京都を同列に扱うべきだという話になってしまう。アメリカの州は主体なのだが、日本の県は地方行政庁に過ぎない。
一方で、東京都知事選挙の争点はほとんど全てが国の問題であることからわかるように、住民の自治裁量権は少なく全ての問題に国が関与している。権限(および責任)を都道府県に渡すべきか、全てを国が目配せすべきかという問題が全く議論されていない。
地方で権限を持つというと聞こえはいいのだが、国のお金で高速道路や堤防を作ってもらえないということになる。いいとこ取りはできない。しかし、この問題はかろうじて憲法問題として語られるだけで、本格的な議論が始まる様子はない。
地方分権が始まれば、新潟県は原子力発電所をなくし、沖縄は基地の移設を認めなくなるだろう。地方に不利益おしつけてお金で解決するということができなくなるのだ。

産業構造改革と成長戦略の不在

いわゆる先進諸国は製造業の段階を抜けて高収益のサービス産業化が進んでいる。製造業地域には不満がたまり、トランプブームの背景になっている。イギリスでも地方がEU離脱を望んだ。
ところが日本だけはバブル崩壊後に成長がストップした。国全体が「ラストベルト化」しつつあるわけだ。IT化を加速して生産性を上げようという運動もあったが、最近それすら聞かれなくなった。再投資が進まないので、将来世代は遅れた産業に従事させられることになるだろう。
町工場のように「職人技でなんとかする」人たちもいるし、中途半端に機械化したために機械のメンテができなくなった「ジャガード織」みたいな産業もある。フロッピーディスクが入手できないために過去の資産が運用できないのだ。中小企業ではNECのPC98シリーズを使っているところも多いようだ。バブル期に低価格でシステムを組んで更新できないままに今まで来てしまった産業がいくつかあるわけである。
代わりに目立ってきたのが「高速道路やリニアを建設しよう」という議論だ。人口収縮が始まっているのでこれ以上のインフラは要らないのだが、それしか成功体験がないのだろう。
例えばアメリカのIT産業は先端産業化に成功した。しかし日本のIT産業は下請け扱いであり生産性の向上には寄与しなかった。低い生産性を残した仕事のやり方をそのままプログラミングすることを余儀なくされるからだ。
世界の金融産業は先端産業化しているが、みずほ銀行の旧来のシステムをそのまま移築しようという「デスマーチプロジェクト」を展開し、ITリソースを浪費している。仕様はたびたび変化し、現場のプログラマには日本語が通じないという状態になっている。IT業界は疲弊して「上級SE」の数が足りないという事態は、陸軍参謀本部の無謀な作戦の結果、各地で餓死者が出た第二次世界大戦末期を思わせる。現代日本で飢える人はいないが、代わりにメンタルをやられて労働市場からの撤退を余儀なくされる。
IT産業が正常に発展しなかった要因の一つに派遣の問題がある。IT産業は自社の製品の差別化をしなくても、人を送り込みさえすれば当座の収益が確保できた。派遣先の人たちも言われたことをやっていればよいわけで、生産性の向上には寄与できなかった。派遣問題というと格差問題ばかりが注目されるが、実は生産性向上にも悪い影響を与えている。
産業構造の問題は意外な所にも影響を与えている。例えば母親が外で働くのはなぜかという問題がある。これは終身雇用制で男が稼いで妻が家に残るという制度が崩壊しつつあるにもかかわらず、社会構造が終身雇用を前提にしているからだ。働くお母さんは自分で子守りを雇うほどには稼げないので、福祉(驚くべきことに保育は福祉の領域なのだ)に頼ろうということになる。だが、企業には直接的に労働者に分配もしないし、政府経由で間接的に子育ての費用を支払うこともない。
右派にとって成長産業というのはインフラに投資してそれを海外に売り出すことなのだが、左派に至っては「経済を更新しないと福祉の財源すらままならなくなる」というのは概念としてすら理解されていない。鳥越俊太郎候補は小池百合子候補に「成長戦略は」と聞かれて何も答えられなかった。かろうじて「人への投資が重要」だと言った。これは生産性を維持するという意味では正しいのだが、実は直接的に政府が関与できる問題ではない。それを理解するためには経済活動を知らなければならないのだが、左派には経営問題に従事した人が少ないのだろう。

財政のインバランス

財政のインバランスとは、税収が落ち込み、政府支出をその他の手段で捻出しているという状態だだ。一般には「国債支出で政府支出をまかなっている」状態を指す。この危険性は「何が起るか分からない」という点でだろう。かつては、国が持っている金などの資源が枯渇してしまえば国の経済は破綻したのだが、現在では「信用」を原資にしているため、無制限に拡張できる。
日本国内の問題のように思われがちだが、アメリカは、日本や中国に対して、多額の「借金」を抱えている。一方で中国や日本から冨を収奪しているとも言える。ドルを発行するだけで製品やサービスが買えるからだ。同じことが国内でも起きていて、政府は債券を発行して、国民から製品や差サービスを買い、それを国民に配分している。
何が起るか分からないというのが最大の問題なのだが、なんらかの形で正常化が起るはずだ。それは収奪が確定するか(日本では国債が無効化する)所有権がもとに戻ることになるだろう。第二次世界大戦では日本軍の「信用」をもとにした債券が無効化し、結果的にインフレが起きた。インフレが起きると過去の借金が縮小するので、日本政府は借金を事実上チャラにすることに成功した。だが、それがどのような経緯でどれくらい急激に起るかは誰にも分からないのだ。
財政インバランスのもう一つの問題は「誰が何を投資しても回収できない」という点だろう。例えば地方に新しい高速道路を建設しても回収の見込みはない。先進国の利子率は0近辺なのだが、これは国が成長するとは誰も思っていないということを意味する。0近辺なのに投資が集まってくるということは、他に投資ができる先がないということだ。これが何を意味するのか、実は誰にも分かっていないのだ。

外部環境

アメリカは2つの挑戦に直面している。国の内部では格差が広がっているので、世界の警察官の役割を誰かに譲って国内問題に専念したい。一方で中国とロシアが台頭し日欧米中心の秩序維持の仕組みは脅かされそうだ。日本は、アメリカに追随すると更なる費用負担を求められることは確実だ。かといって、アメリカから脱落してしまうと、核兵器の庇護なしで自国防衛という無理難題に取り組む必要が出てくる。
その意味では憲法第九条養護派というのはフリーライダーなのである。アメリカがそのままでいてくれると思っているのだ。小泉政権下の右派はパワーバランスの変化を心配していたようだが、現代では思考を停止しているように見える。
TPPはさらに厄介だ。「とにかく反対」という意見はまだ良いのだが、権益を残しながら米国内の不満を抑えるために「さらに有利な条件」を引き出そうとする人たちもいる。ほとんど収奪なのだが、アメリカ人は他国から収奪を前提としないと秩序が維持できないのである。このまま収奪を許すか、それとも苛烈な反米運動に晒される(これは政情の不安定化を意味する)かの二者択一ということになる。

安倍様に認めてもらって天国に行こうという思想

さて、気の変な人がかわいそうな人たちをたくさん殺した、ということになりつつある津久井の事件は扱いが難しいのか、テレビでの露出が減ってきた。たいていの場合、殺された人たちを引き合いに出して「悲劇感」を盛り上げるのだが、今回は匿名になっていてできなかったからなのかもしれない。
興味深いのは、ヨーロッパで大量殺人が起きると「イスラム過激派のテロだろう」と決めつけるのに、日本だと異常者の殺人だと思いたがる傾向だ。やはり「自分たちの社会だけは安全だ」と思いたいのだろう。
植松容疑者は安倍晋三首相に代表される右派の主張に共鳴していたようだ。ヨーロッパで未来を感じられない若者はイスラム過激主義に反応するのだが、日本の若者は安倍首相に賛同するのだなと思った。
このように書くと「イスラム教と愛国的な政治家を同列に並べるな」という反論をする人がいるのだろうが、イスラム教は伝統的な宗教であり中東では権威だと見なされている。また、テロを起こす若者はイスラムの伝統から切り離されたホームグローンの人でありイスラム教の権威とは離れている。ということで、図式はかなり似通っている。
政治的な意図を暴力を通じて実現しようとしたわけだから、これはテロなのだ。
「公的な秩序を守るために、個人の人権は制限されるべき」という主張は、西洋の民主主義社会では異端だが、この国では正統として認知されかかっている。そろそろそういう思想に染まった人たちが社会にでる頃合いだ。昭和の終わりから平成の初めまでに育ってきた人たちとは異なった意識を持っていることになる。
安倍首相だって憲法と従来の解釈を変えて「自分が考える正義」を貫こうとしたわけだから、一般国民だって障害者を皆殺しにして5億円貰えると考えても「それが直ちに狂った思想だ」とは言えない。
海外では「これは障害者に対するヘイトクライムである」という非難声明が出されている。彼らににとっては、基本的人権とは大地であり、絶対に侵犯してはならないものなのだ。しかし、安倍首相は海外のイスラム系テロの時は「テロとの戦いを……」という声明を出すが、今回は部下に再発防止策を丸投げしただけだった。
「人を押しのけて自分の主張を通したい」という空気を安倍首相が作ったとは思えない。バブル崩壊後「他人を犠牲にしてでも自分だけは生き残りたい」という思想が生まれて「押しのけられてもそれは努力が足りなかったのだ」という自己欺瞞の論が蔓延した。その結果生まれたのが現在の政治状況だ。だから、安倍首相を視界から消したからといって、この空気がなくなることはないだろう。
本来はこうした犯罪を未然に防ぐため、また国民の信頼を維持するために、「隠れた崇拝者」たちに、こんなことは間違っていると言うべきだったのだ。だが、彼はそれをしなかった。民主主義や国民の統合という問題に全く関心がないのだろう。つまり、それが作られた物で、人々の日々の努力で維持されているという意識がないのだ。
それはきわめて危険なことではないかと思う。

鳥越さんに都知事をやってもらいたい、たった一つの理由

鳥越俊太郎東京都知事候補が「都知事は日本で二番目に偉い」と言って、保守系の人たちから笑われている。「この人馬鹿なこと言っているなあ」とは思わなかったが、左派の人たちの心理状態というか精神世界が分かって面白かった。多分、彼らは権力というものを過大評価しているのだろう。
鳥越さんは無知なわけではない。週刊誌の編集長をやっていて、ニュースにも携わっていたのだから、いろいろ知っているだろうし、勉強もしたはずだ。東京都政を3日で勉強するといっているくらいだから知性にも自信があるのだろう。
同じような姿は菅首相にも見られた。長い間政治家をやっていた人だ。首相になれば原発が止められると思っていたようだし、情報が自然に自分の所に集まってくると考えていたようだ。しかし、首相というのは行政府の長に過ぎず、常に立法府に介入される。議会への「ご説明」の義務もある。そして、情報は自然には集まってこない。面倒な組織の論理を熟知する必要がある。その意味ではリーダーはサイエンスではなくアートだ。
こうした世界観は、よく居酒屋論議で聞かれる。普通の社員は社長というのがとても偉い存在だと誤認しているのだが、オーナーでない限りは資本家に使われる存在でしかない。企業人は長い階段を昇った結果、やっとこの事実に気がつくし、多くの社員はそこまでのぼることができない。「自分が偉い訳ではないんだな」ということに気がつくのは、ボードメンバーになった時だ。
日本人は突出したリーダーシップを嫌うので、一人で決めるということはほぼ絶対にできない。突出したリーダーは回りから排除される運命にある。政治でも「〜下ろし」と呼ばれる現象が何回も起きている。
鳥越候補は(多分福島と新潟を視野に入れて)近隣の原発を止めると言っているのだが、知事にはそんな権限はないし、ましてや他の自治体の原発すら止められない。そのことに気がついていないのは多分左派の支持者だけだ。だからこそ「原発止めろ」と気勢を上げることができるのだろう。
意思決定はとても面倒なプロセスだ。アウトサイダーは単に批判しているだけで良いのだろう。その意味では鳥越さんにぜひ都知事になってもらいたいと思うし、途中で逃げ出さないでいていただきたい。支持者たちも含めて「意思決定」というのがいかに面倒なのかということがよくわかるだろうし、ぜひ実際にやってみるべきだ。
さて冒頭で「権力なんて……」みたいな書き方をしたのだが、やはり権力は恐ろしい。社会が持っている意思決定プロセスを無視して「自分ですべてを決めてみたい」と思うようになる人が出てくるからだ。自民党は緊急時には立法府を停止したいと考えているようだが、これは「自分が王様になりたい」と考えているのと同じことだ。近代民主主義社会では異端の考え方だが、それを妄想するのと、実現に向けて動き出すのは、大量殺人を頭の中で構想するのと、ナイフを買いに行くのと同じ程度の違いがある。
左派はそもそも意思決定を巡るディテールがぼやけているのだが、右派も複雑さに疲れ果てている。本当に難しい判断をしたことがないからだろう。左右ともリーダーシップが存在しないのだ。70年の間、日本はアメリカに追随することで意思決定を避けてきた。このことのツケを支払わせれるのかもしれない。

津久井事件と排除の理論

津久井の障害者施設殺人事件問題は「精神に異常がある人がやった事件」ということになりつつあるようだ。気持ちは分からなくもない。日本では欧米のような格差と差別に根ざしたテロ型犯罪は起らないと思いたいのだろう。テロが起きたとしても、それはイスラム教のような過激な思想(これも無知からくるものだが)が起こしたものだと考えたいのだと思う。「異常者が起こした犯罪で、障害者が殺された」としてしまえば、「正常」な人たちは安心して眠ることができるのだ。
しかし、実際には植松容疑者のように、役に立たない人には生きている価値はないと考える人は多い。いわゆる「自己責任」論だ。名をなした高齢者が「高齢者は死んでしまえ」と主張することも多い。自分は名前を残したから生きていてもいいが、無意味な人は死んでしまえという意識を持っており、賞賛されたりしている。賞賛を求めるフォロワーがこれを真似しても何の不思議もない。
なかには、イルミナティを信じていることなどを挙げて「支離滅裂だ」と考える人もいる。しかし、これもネット上に広がっている陰謀論の一種だ。この手の話を信じている人が全て精神異常だとしたらかなり大変なことになるだろうし、ムーは禁書にしなければならない。「大学教育を受けても陰謀論を信じる人がいる」というのはショックではあるが、かといって特定の人を異常者だと認定するほどの材料にはならない。
普通の人は、精神異常というのは白黒のはっきりした状態だと考えているのではないかと思う。だが、植松容疑者が入院させられたときの医者の見立ては2人とも異なっていた。要するに異常で反社会的な言動があり、それに名前を付けているだけなのだ。この人は「誇大」であり、その原因は「大麻」だということだが、10日あまりで放免してしまったことから、何が起きていたのかよく分からなかったことになる。
確かに「障害者を殺して日本を救う」というのは異常な主張に見える。しかし「憲法を改正して国民から主権を奪い、自分たちの指導のもとで美しい国家建設を目指そう」などという構想は精神異常だとは見なされない。同じスタンダードを当てはめれば「安倍首相の精神はおかしい」ということになりかねないが「安倍首相はおかしい」と公共の場で叫んだら拘束されるのはこちら側かもしれない。つまり、言い方や根回しの違いで、異常か正常かが判断されるわけであって、思想そのもので白黒の判断はできないということになる。
入れ墨を危険視する人もいる。あまり多くの人には賛同してもらえないと思うのだが、これは施設側がおかしいと思う。アメリカやヨーロッパの男性ファッションモデルには入れ墨がある人が多い。「ちょっとしたタブーを犯していてカッコイイ」というイメージがあるためだ。愛する女性の名前を彫って「変わらない思い」を表現したりする。しかし、日本では反社会勢力とのつながりを想起させる。学校の先生にはなれないし、施設は大騒ぎして警察に通報したようだ。だが、障害者福祉施設が「包摂」をモットーとしていれば多様な文化の一部としてこれを受け入れるか、その人の考えを理解しようと努めていたはずだ。だが、実際には日本型村落の排除の論理が働いてしまったのである。
植松容疑者は「とにかく誰かに認められたい」というヒーロー願望を持っていて、そのためになみなみならぬ努力をしている。わざわざ衆議院議長公邸に出かけて主張し、50分という短い時間に45名を刺した。1人にかけた時間は1分程度だったと考えられる。承認欲求が人よりもかなり強かったことは間違いがなさそうだ。
マスコミ報道の目的は「日本の社会は大丈夫なのだ」と確認をすることだから、この人の動機に関心が払われないのは当然だろう。だが、「承認欲求」は見過ごされていると思う。
どうやら父親は教育者だったようで、一部報道では養護教育に携わっていたと伝えられている。容疑者が父親に承認されたくて教員免許を取ったのは明白だ、しかし、仲間にも承認されたいと考えていたようだ。大麻を扱っていたり、タトゥーを入れるような友達がいたのだろう。家族にとっては理解できない「文化」だ。結局、家族は容疑者を扱いきれなくなり、家に一人残したまま別の土地に移っていった。容疑者は承認どころか許容さえされなかった。
結局、容疑者が承認欲求を満たすためには、父親の路線に沿って弱者のサーバントとして生きるか、何か大きなことをしでかすかという二者択一が残ったのではないかと考えられる。あるいは「障害者」と「自分」が比較されていたのかもしれない。「どちらを愛してくれるの」ということになる。「愛してくれなくてもいいから、注目してくれよ」ということもあるかもしれない。
しかし、教育・福祉分野というのはかなり閉鎖された村落空間だったようだ。タトゥーが見つかるくらいで警察が呼ばれてしまうくらい均質な空間なのだ。彼はそこでも排除されかける。
もし植松容疑者が「自分が承認されたい相手の意識を独占している人を排除することで自分に注目を集めたい」と考えていたとしたら、彼の目的は45名の命と引き換えに達成されたことになる。自分の周りに集まるカメラを見て強烈な快楽を得ていたようだが、これが容疑者にとっての「報酬」なのだ。
マスコミは「これは異常な事件なのだ」という印象を植え付けることで、異常事態を排除しようとしている。だが、皮肉なことにこれが次の「示威行為」を作り出す可能性があるという結論が得られる。
実は「異常な犯罪を犯しそうな人はまとめてどこかに閉じ込めておけ」というのは「障害者は役に立たないから死んでしまえ」というのとあまり変わらない。もっと言えば「入れ墨をしている人を職場から排除したい」というのも「異質で脅威だから目の前から消え去ってほしい」と考えているわけだから、同質のことなのだ。そういう意見を否定はしないが、容疑者と同じ側で語っているという意識は持っておいたほうがよいと思う。

結局誰が狂っているのか

ついに日本でもテロ事件が起きてしまった。福祉施設に男が押し入り、入所者45名を刺した。死者数は19名にのぼる。イスラム教徒が関係しないし、単独犯なので「テロではない」と考える人も多いのではないかと思うが、事前に「障害者は殺されるべきだ」という信念を大島理森衆議院議長に向けて表明しており、職場でも公表している。政治目的を果たすために凶行に及んだという意味では立派なテロ行為と言える。
この事件の大きな関心は、この人が狂っていたか正常だったかということだろう。心神喪失ということになれば罪に問えなくなるからだ。
ところがこの事件を見ていると「何が狂っているのか」ということがよく分からなくなる。植松容疑者は衆議院議長公邸を2日に渡って訪れており手紙を送っており強い信念が感じられる。一方で、内容には破綻も見られる。なぜ人を殺すと第三次世界大戦が防げるのかが分からない。
「役に立たない人は殺されて当然」という理屈がなぜ間違っているのかということを理路整然と否定するのはなかなか難しい。この質問は「誰が役に立つか立たないかを決めるのか」という問題につながり「その第三者に自分も殺される可能性があるのですよ」という問いを生む。しかし「自分は役に立っているから、殺されない」と言われればそれまでだし「殺されても構わない」などと思う人もいるかもしれない。
植松容疑者は観念的にこの問題を見ているわけではない。数年に渡って当事者だった。福祉の現場はこうした「確信犯」を排除できない。川崎で老人が突き落とされた事件を思い出す。
実際にこのような理屈による殺人は合法的に行われている。例えばアメリカ人の命を守るために、罪のない民間人をドローンで誤射するのは不法行為だとは見なされない。原爆も「大勢が殺されるよりも、広島と長崎の市民の犠牲だけで良かった」などと正当化されることがある。殺人まで至らなくても「我々の便利な生活を守りつつ、原発被害をゼロにしたければ、地域住民が出て行け」と言い放つ人がいる。いずれも、誰かの命と別の人の命を比べているのだ。
このような背景があり、植松容疑者の「合理性」は、多くの支持者を生んでいる。障害児(略してガイジというらしい)は死んで当然と思う人がかなりいるようで、匿名掲示板などでは賛意の書き込みがある。バブル後の「リストラ」が横行した1990年代に育った人たちが社会に多く出ている。
手紙の中で植松容疑者は「自分は狂っていると思われるかもしれない」と書いている。妄想に浸りきっているわけでもなさそうだ。そして、描いた通りのことを実行して証明してしまった。
とはいえ、植松容疑者が自身の行動がどのような問題を引き起こすのかを自覚していたとも思えない。数名以上を殺せば死刑は間違いないのだが「自分は良いことをした」あるいは「気が狂っている」という理由で助命されるだろうことを信じているようだ。その意味では正常な判断を下しているとも思えない。
報道もゆれている。正常な枠で分析して「文章に一貫性がない」と真顔で言う人もいる。NHKは大麻による影響だという見立てを報道したが、時事通信では「そう病」だったという見立てになっている。薬物の影響なのか、それとももともとその資質があったのかがよくわからない。
そう病の兆候はいろいろな所に見られる。目的は日本を第三次世界大戦から救うことだが、生活してゆくためにはお金が必要であり名前まで具体的に想定している。この「すばらしい計画」を誰かに伝えたくてたまらなかったのだろう。最終的には「日本で一番偉い人の所に行こう」と思い立ったようだ。
楽観的な見込みと行動の一貫性のなさは他にも表れている。尊敬する父親のようになりたいから先生になると言っているのに、入れ墨を彫って台無しにした。それでも父親のように障害者に関わりたいと思ったのか施設で働き「障害者は死ぬべきなのだ」という結論に達した。本人の中に二つの真逆の価値観があり、交錯している。
さて、ここまでは植松容疑者について見てきたのだが、実はそれはこの問題のほんのいったんにしか過ぎない。既に書いたように、この行動には一定の支持者がおり、彼らにいわせれば植松容疑者は合理的な判断に基づいて行動していることになってしまう。しかし、それよりも恐ろしい狂気は「この人が治った」といって放置してしまった人たちの側にありそうだ。
衆議院議長公邸は「この人は他人を傷つける恐れがある」と考え、麹町警察署に通報する。麹町警察署はこういう人たちに馴れているのだろう。地元の警察署に伝えた。地元警察署は相模原市に通報する。そこで措置入院ということになった。大麻の陽性反応が出て、そう病だと診断されたにも関わらず、12日で「治ったんじゃないか」という理由で解放している。当然、家族の監視があるべきだが、家族がよその自治体に住んでいるからという理由で連絡しなかった。
当初は「日本の法律では大麻を使っても持っていなければ逮捕できない」という説がささやかれたのだが、所持を捜査することはできたようである。
なお「人を傷つける可能性があるからずっと病院に閉じ込めておく」ということは現代の日本では認められていないようだ。治安維持法で予防拘禁が悪用された歴史があり、それに類推行為には慎重だからだ。最長で4週間のみ入院させることができる制度があるそうだ。しかし、だからといってそれ以降野放しにしてよいというわけでもないはずだ。
もし「この人が狂っていてこの犯罪を犯したのだ」と仮定すると、相模原市の判断は間違っていたことになる。結果的に殺したから「異常だった」という見方もできるわけだが、するとそもそも人が狂っているかそうでないかは結果次第ということになってしまう。つまり、正常と異常の境界線など最初から存在しないということになる。
私たちの「正常・異常」という線引きは実はガラス細工でできた脆い土台に過ぎない。それが分かるのはその線を越えてしまったときである。しかし、その線を越えてしまうと、自分が異常であるということを認知できなくなる。誰が狂っているかなどということは誰にも分からないのだ。

ポケモンGOは禁止すべきか

ついにあのポケモンGOが日本でも配信された。
配信前にはかなりのプロモーションが行われた。アメリカで流行っている、崖から落ちた、原発に入った、車にはねられたなどというニュースがさかんに流されたのだ。NHKまでもが(ミッキーマウスですら、例のあのネズミと呼ぶのに)ポケモンを連呼していたせいで、高齢者までが「ポケモン」という言葉を覚えてしまった。
このポケモンGOが危ないという論が出ている。検挙者や逮捕者まで出たからだ。ゲームをやらない人たちがおもに「あれは危ない」と主張しており、ゲームをやる人たちが反発している。はたして、ポケモンGOは規制されるべきなのか、それともそうではないのか。
依存という概念がある。何かに頼らざるを得なくなる状態が依存だ。依存そのものは問題ではないのだが、健康に影響が出たり、社会生活が営めなくなると「依存症」になる。いわば程度の問題で問題になるのだ。
合理的な判断が効く状態では「自転車に乗るときには前を見なければならない」などと思えるわけだが、スマホ依存症になるとそれが分からなくなる。実際に事故が起きているということは、この人はスマホ依存を起こしていることになるだろう。依存を自分の意思で止めることは難しいので社会的に何らかの介入が必要になるのだ。未然に防止しなければ事故につながる。
「じゃあなにか。お前はゲームを禁止しろとでもいうのか」という声が聞こえてきそうだ。これは非常によい質問である。つまり、これはゲームの問題ではないのだ。ポケモンGOは、バーチャルとリアリティを融合したフィールドでの始めての成功例となった。つまりこれは、AR(拡張現実)と呼ばれる分野で何が起り得るかという壮大な社会実験なのである。ARは現実に情報を付加するという方向性で考えられることが多かったのだが、実際には逆の形で成功した。つまりゲーム空間が現実に登場するARが最初の社会現象を起こしたのだ。
ポケモンGOの成功でARには没入感と中毒性があることがわかった。もともと、このゲームは影響力を受けやすい人たちの間で広がっているようである。合理的な判断ができる人もいるだろうし、そうでない人たちもいるのだ。自分たちの合理的な判断で「やる・やらない」を判断できないとしたら、社会が介入する必要があるということになるだろう。つまり、ポケモンGOは規制の対象にすべきだということになる。
どのような規制が考えられるかというのは、つまりどうしたらARを安全に運用できるのかというのと同じ問題なのだ。
この問題は検討されるとしても、たぶん「ゲーム脳」のような扱われ方をするのではないかと思うのだが、実際にはもうすこし広範な現象を扱っている。もしくは「あぶない恋愛が描かれたマンガを規制する」というのと同じ対応になるのかもしれない。つまりは、たんなるサブカルチャーいじめとそのカウンターという運動になってしまうのだ。これは「使う人」対「使わない人」の対立だ。
、現在多くの議員たちが「人工知能や拡張現実はお金になる」という認識を持っている。この問題を規制は多分大きな問題が起るまで先延ばしになるのではないだろうか。何か起きたときにパニック的に何かを決めるのだったら、今から準備しておくべきではないだろうか。
 

民進党の右派議員はなぜ自民党に行くべきなのか

2017/4/8に書き直した。
都知事選挙の時に、日本では二大政党制は成り立たないということを書いたのだが、結局、都政レベルでは自民党の中の権力争いががそのまま外に出る形で政界再編が起こりつつあるようだ。つまり自民党は都政レベルでは自己崩壊した。民進党はそれに対応できず、連合は小池指示にまわり、長嶋昭久衆議院議員が離党した。つまり、都政レベルでは民進党が先に崩壊しつつある。日本ではイデオロギーベースの対立は起こりえず、政治的村落の中の権力争いがそのまま政争になるものと考えられる。政党は地方レベルではデパートの包み紙のようなもので、伊勢丹で買い物しようが、そごうで買い物しようが、そこにはライフスタイルの反映はないということになる。
以下原文。


鳥越俊太郎都知事候補が失速し、民進党内部では左右対立が激しくなりつつある。岡田代表の「野党共闘路線」は間違いだったのではないかというのだ。もともと民進党は二大政党制の実現を目指して作られた政党なのだが、結局日本には二大政党制は根付きそうにない。それどころか、民進党内にいると政権交代を巡る非公式なコンペティションに参加できないので、政権から遠ざかってしまう。で、あれば民進党の右派議員は自民党に入党するべきだろう。
これまで「日本には言葉で理念を伝える文化がなく、集団的で非言語的なやり取りをもとに政策が決まるのではないか」というようなことを考えてきたのだが、そこまで持って回った言い方をしなくても、日本で二大政党制が根付かなかった理由が説明できるかもしれない。
二大政党制の国では、地方の保守層(現状維持を望む人たち)と都市の開明な人たちの対立構造が見られる。アメリカの場合には共和党が前者を代表し、民主党が後者を代表すると考えられている。ウルグアイにもかつて「赤党」「白党」という二大政党があったそうである。こちらも地方と都市の対立だ。もしくは、都市の特権階級層と地方の比較的貧しい人たちが二大政党を形成する場合もある。タイなどはその例だろう。
ところが日本ではそのような対立構造は見られない。地方保守層は存在するが、都市に開明な人たちがいないからだ。都市の開明さの背景にはキリスト教の影響があるのではないだろうか。神様と個人的な契約を結び、能力に応じて一生懸命働くが他者を排除しないというようなイデオロギーだ。
確かに、東京では開明派の人たちがいて、革新都政を作ったのだが、いつのまにか「バラマキ」に変わってしまった。社会民主主義はもともとキリスト教的な考え方が基礎にあると思うのだが、このうち「神様との契約で経済活動にいそしむ」というような価値観が理解されなかったせいだろう。社会民主主義は日本には根付かなかったのだ。
経済格差も二大政党制を生む可能性がある。こちらはキリスト教的な開明さは必要ないが、日本にはここまで極端な(つまり、電気も通っておらず住民が満足に文字もよめないというくらいの)格差は存在せず、開発途上国型の二大政党制も成り立ちそうにない。
日本の政党はどれも西洋(特にアメリカ)の模倣だから、違いが出る余地がない。どこを探しても対立が見られないのだから、二大政党どころか政党間競争すら成立しえない。故に、政権交代を目指すのであれば、非公式な自民党内のコンペティションに参加する必要があるわけで、民進党にいてはいけないということになる。
正直なところ、民進党がどうなろうがあまり興味はないのだが、開明的で自己変革しながら進歩を目指そうという都市階層の不在は、大きな問題だろう。今回の都知事選挙には3名が出馬した。

  • かつては先進的だったが、結局何も成し遂げられず老化してしまったリベラル層の代表。
  • 保守主義が強硬化した原理主義者の代表。
  • 大きなプロジェクトに群がる既得権益者の代表。

本当に憲法議論に影響を与えそうになってきた東京都知事選挙

東京都知事選挙の動きが怪しくなってきた。読売新聞の調査によると、無党派層が小池氏に流れているという観測がある。もしこれが正しいとすれば、無党派層が鳥越氏から離反している(あるいは最初から期待していない)ことになる。離反しているとしたら「反原発・護憲運動」が足を引っ張っているということになる。
もし鳥越氏が負けてしまえば、おそらく、無党派層には野党共闘はアピールしなかったということが証明されてしまう。これは民進党の党首選挙に大きく影響するだろう。民進党には一定の右派勢力がおり、彼らはそもそもの集団的自衛権・憲法改正議論に最初から「超党派」で加わっている。アメリカに従うためには、旧来の憲法が邪魔であるという立場だ。この人たちが岡田党首の左派協調路線に反対している。
つまり、都知事選挙で鳥越氏が負けると、民進党は改憲勢力に加わることになるだろうことが予想される。護憲勢力は社民・生活と共産党だけになってしまう。これは2/3どころではない大勢力となるだろうがその主張はバラバラである。
これまでの議論や調査などを見ていると、国民は自民党が民主主義の常識を打ち破って国民を支配したがっているとは思っていないようだし、憲法第九条に関しては「自分たちに迷惑がかからない限り何をやってもらっても構わない」と思っているようだ。それどころか、憲法第九条を錦の御旗のように掲げて具体的な政策を示さない野党勢に不信感すら持っているようである。
憲法改正の主眼は第九条だ。実は国民の多くは平和主義は支持しているものの、軍隊を持たずに国防ができるとは思っていないのではないかと思う。護憲勢力を支持しているわけでもないので、改憲はそれほど難しくなさそうだ。
しかし「憲法第九条」を過大評価するあまり、さまざまな取引が試みられ、挙げ句の果てには「人権を抑制してしまおう」という勢力が怪気炎を上げることになる。むしろ誰かが「憲法第九条だけに限って現状に合わせるべきだ」という議論を始めたほうが、余計な話が出ず、政治的リソースを無駄遣いしないのではないかとすら思う。
野党陣営は護憲・反原発に依存せずに、建設的な政策議論を行うべきだとは思うのだが、現在の儒教をみているとなかなか難しいのかなあとは思う。

ロッキード事件と内向きな日本人

ロッキード事件から40年の節目、NHKで事件に関するドラマをやっていた。首相経験者が首相時代の汚職で逮捕されたのは戦前・戦後通じてこの事件だけなのだそうだ。裁判が長期化したこともあり、ロッキード社から流れた金の大半はどこに流れたのか分からないとのことである。
ドラマは演劇的で面白かった。謎が多い分だけいろいろなことを考えたくなる。背景にはアメリカの軍需産業が日本に兵器を売り込みたいという動機も見えるし、アメリカの世界戦略の中で田中角栄が邪魔だったのだと言われれば「ああ、そうかな」とも思う。
しかし、英語版のWikipediaを読むと少し印象が変わる。日本国内の記事を読んでも、なぜロッキード社の事件が明るみに出たのかという点が問題視されていないのだ。国内問題ではないので軽視されているのかもしれない。
英語版Wikidpediaには次のように書いてある。

The U.S. Government had bailed out Lockheed in 1971, guaranteeing repayment of $195 million in bank loans to the company. The Government Emergency Loan Guarantee Board, set up to oversee the program, investigated whether Lockheed violated its obligations by failing to tell the board about foreign payments.

1971年、アメリカ政府は$195 million の銀行ローンの支払いを保証してロッキード社を救済した。支払いを監督するために、政府緊急ローン保証委員会が結成され、海外支払いについて偽証がないか調べることになった。

政府保証ということは税金ということになる。ロッキードが海外に不正な支出をしていることが分かれば、それを税金で保証しているということになってしまう。そこで、問題がないことを調べようとしているうちに、「実は世界各国に賄賂を渡していました」ということが分かったわけだ。ロッキードは、西ドイツ、イタリア、サウジアラビア、オランダに資金を流していた。イタリアでは大統領が首相時代に賄賂を受けていたことが問題視されて辞任する騒ぎに発展し、オランダでは王配が関わっていた。だから、英語版でLockheed Bribary Scalndalsと複数形になっている。
これだけ大騒ぎになったスキャンダルだが、アメリカ人の逮捕者はがでなかった。当時、アメリカ人が海外の高官に賄賂を渡すのは違法ではなかったのだ。違法ではないのだから強制的な捜査はできない。そこで、全貌解明のためには、ロッキードの重役たちを免責する必要があったのではないかと考えられる。「アメリカは特別の国」という独特のプライドがあり、海外で裁かれるのは避けたかったのかもしれない。関与した重役たちは、辞任はしたが有罪判決を受けたものはいなかった。後にカーター大統領の元で海外の高官に賄賂は禁止された。
ロッキード社が賄賂に頼らざるを得なくなった事情はNHKの番組の中で語られている。ロッキード社はもともとはベトナム戦争で大いに儲けた会社なのだが、戦争が終わると民間機に転向せざるを得なくなった。しかし性能や品質が追いつかず、それをカバーするために政府高官に働きかけを行うようになったわけである。結局、ロッキード社は民間機部門からは撤退し、現在では軍需産業に戻っている。
数々の陰謀論は脇に置いて(NHKのドラマでは、児玉誉士夫が日本の再軍備を夢みてロッキード社と組んでいたのではないかということがしきりに仄めかされていた)も、もしロッキード社が破綻してアメリカ政府に資金援助を求めていなければ、こうした裏金の存在は表に出なかったことになる。日本の民主主義は遅れたままだったかもしれない。田中角栄は、政治的口利きの見返りに政治資金を得ることを当たり前だと考えていたようだ。もともとは軍用機の政府調達問題だった(この件は未解明)ようだが、完全に民間の取引であるべき民用機の選定にまで首相が口を出すというのは、どう考えても異常だが、当時の政治文化では当たり前のことだったのだ。政府の民間介入がおおっぴらに行われていたのだ。
アメリカはこの時かなりのリスクに晒されていたということも、あまり考慮されていない。当時は自民党と社会党が争う55年体制だった。マスコミは「田中は怪しいのではないか」という雰囲気を作り出していた。もし自民党が田中角栄を守れば「自民党は金権体質だ」ということなっただろう。これは選挙で自民党が負けることを意味する。社会党が民主的に政権を取れば、日本が中国やソ連に接近することも考えられたわけだ。チリでは社会主義政権(1970年)ができ、イランでは革命(1979年)が起きている。
結局、自民党は金権体質を改めることはできず、リクルート事件で揺れ、バブルの収束に対応できず、1993年の細川内閣では野党に転落することになった。ただ、日本ではこれが直ちに反米運動には発展しなかった。後に社会党は自民党と連立して政権を作る。皮肉なことにここから社会党の凋落が始まるのである。2009年には民主党が政権を取ったが、これも民主党凋落のきっかけになった。