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憲法、家族、その危険性

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さて、先日来「自民党の憲法草案」について考えていた。議論議論の中には国家が「家族を大切にしましょう」などという規範を持ち込むべきかという問題がある。それを考えているうちに、なんだか別のことを考え始めてしまった。無理矢理まとめると、そもそも日本人にとって家族とは何かという問題だ。
大陸の家族は安全保障の単位だ。氏族は血統によって結びついていて、本人の意思では抜けることができない。韓国の人たちは今でも本貫というものを持っていて、自分たちがどの氏族に所属しているかということを明確に意識している。
ところが、なぜか日本には氏族社会ができなかった。日本には源平藤橘という4氏族しかないことになっている。例外は紀伊や出雲の宮司の家系だけだという。新しい氏族としては豊臣氏があるが、臣下も含めるという「かなり柔軟」(あるいはいい加減)なものでしかなかった。このように、氏族は早くから形骸化してしまったのだ。
多くの農民階級は氏族意識すら持たなかった。それが、却って明治政府には幸いしたのだろう。「天皇のもとで日本人はすべて一つの家族なのだ」という意識を作ってしまった。もし、日本人が明確な氏族意識を持っていればこんなことはできなかっただろう。
多くの日本人にとって、血のつながりはそれほど大切ではない。女の子しかいなければ養子を取って家を継がせるのが当たり前だった。血の連続よりも事業体の存続のほうが重要だったことになる。家族は安全保障やアイデンティティのためには用いられず、専ら事業だけが重要だった。日本人は実利的な民族なのだ。多分、この所属意識の希薄さと権力格差の小ささは民主主義を導入する上ではプラスに働いたと思われる。
さて、第二次世界大戦が終わり、西洋的な家族間が持ち込まれると、新しいイデオロギーが輸入された。それは「一人ひとりが私らしく生きるべきだ」という理念だ。
私らしさを追求するルートは職業と家族だった。家族の幸福の追求とはつまるところ消費生活のことである。高度経済成長期に入り、父親が外に働きにでると、家族は「私らしさを発現する場」ということになった。私らしさとは、スターバックスでラテを頼むか、ブラックコーヒーにするか、あるいは複雑な名前のマキアートを頼むかというようなことだ。日曜日に私鉄に乗って表参道に行くか竹下通りに行くかということも「私らしさ」なのかもしれない。つまり、事業体であった家族から事業がなくなり、消費だけが残ったのだ。
この過程で日本の家族は密室化した。自明の目的がなくなり、自ら追求すべきものだということになったのだが、隣の家族がどのような状態になっているのかということはよく分からない。
そもそも、家族は幸せを追求するための手段なのかという問題があり、その向こうに、人生には幸せというものが存在しうるのかという問題がある。
「家族で追求する幸せ」という概念は、実は多くの人たちを苦しめている。例えば「母親が重い娘」とか「子供を支配したがる毒親」という意識がある。密室化し役割をなくした家族は共依存や支配・被支配という構図を生みやすい。殺人事件の半分は家族同士の殺し合いである。日本はテロや外国人よりも密室化した家族のほうが危険な国なのである。
家族が犠牲を生みやすいのは「家族はお互いに愛し合うべきだ」という思い込みがあるからだ。期待があるから落胆が生まれる。それでも普通の人たちは「まあ、お互いに生活していて、些細な経験を共有することが幸せなんだよね」と思う訳だが、それを感受することができない人がいる。人生に無条件の肯定感が得られないのだろう。そういう人は常に孤立しており、たまに演劇的に振る舞ったりする。「作り物の愛」を信じてしまった人は、それがないことを感じると不安になってしまうのだ。幸せは内側からしみじみと湧いてくるものなのだが、内部にそれが欠落しているという人がいるのである。手に入れられないわけではなく、見えないだけなのだ。
こうした欠落を新興宗教が利用することがある。宗教意識が希薄な日本では、宗教は幸せをもたらしてくれるものだと考えられているからである。
新興宗教では、家族の幸せが得られないのはあなたの前世の行いが悪いからだという説明をする。そして功徳を積むためにはお金を支払わなければならないというように誘導してゆく。しかし、宗教に溺れた人は距離を置かれるわけでますます孤立することになる。すると「まだ功徳が足りない」とか「今までの毒が出ている」などと指摘される。これはあからさまな支配のプロセスなのだが、当の本人は気がつかないことが多い。人は支配されたがるのだ。
その意味では「家族にことさらに意味を求める」という人たちの考える憲法草案には、そもそも人が普通に持っている内側からにじみ出る幸福感が欠落しているのではないかと思われる。にじみ出てくる尊敬はなく、力による支配と被支配を尊敬だと錯誤してしまうのである。感じられない何かを「権威」とか「他人を支配すること」で置き換えようとしているのだ。
新興宗教は依存症を利用してお金を儲けようという仕組みなので、その人の飢えが癒されることはない。そもそも癒されては困るのである。同じことが国家レベルの新興宗教にも言える。尊敬されたいという気持ちが満たされることはないわけで、いったんこうした動きが始まってしまうと社会が破綻するか外部から滅ぼされるまで続くことになるだろう。


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