よく「日本人は合理的に物事を考えられない」と言われる。それはなぜなのだろうか。
例えば、アメリカ人は次のように行動する。
- ゴールを決める。
- ゴールを立てる道筋(仮説)を立てる。
- ゴールを達成するためにはどのようなコストがかかり、どのような効果が得られるかを決める。
- ある点で行動を検証し、説明がつかないことが出てくれば仮説に戻る。
ところが日本人はそうは考えない。仮説に都合の悪いところが出てくると、解釈を変えてしまうのだ。では、なぜ解釈を変えるのか。それは、日本人がアメリカ人とは異なる点に基礎を置いているからだと考えられる。
- 所属する団体を決める。
- 所属する団体での立ち位置を決める。
- 所属する団体の立場が正しくなるような論理を選び、解釈する。
- 状況がおかしくなると、論理を変えるか、解釈を変える。
その意味では日本人は別の要素に基礎を置いているのであって、デタラメに動いているのではないことが分かる。よくアメリカ人は「日本人は意思決定が遅い」と嘆く(実際に英語ではそういう記事がいくらでもある)のだが、これは日本人が「新しい要素によって、所属集団と自分の立ち位置」が変動するのを恐れるからだ。そこで「自分が知っていて」かつ「成功することが分かっている」論理を採用したがる。新しい仮説の導入は日本人にとってリスクが高いのである。一方で、論理は所属を正当化する結論が大切なのであって、その成立過程というものにはそれほど関心が払われない。
日本人は「流れ着いたもの」を使うことには長けているが、合意しながら根本原理を作ることは苦手だといえる。例えば、日本人が憲法を一から作れないのはそこに原因がある。そもそも作れないし、解釈の余地がないものにたいして「リスク」を感じるのだ。そのため、重要になればなるほど判断を避ける傾向にある。
日本人は根本にある仮説を無視する傾向にある。このため、こうした一連の概念をあまり峻別しない。事実(ファクト)と理論・仮説(セオリー)
- 情報(インフォメーション)とデータ
- 危険性(リスク)とコスト
にも関わらず関係性に関する概念は発達していて、言語化しなくても正しく判断することができる。
これが分かるのは、他者と比較しているからである。もちろん、一人ひとりの日本人が「仮説ベース」の思考ができないわけではない。海外で勉強するような機会があれば、すんなりと受け入れることができる。ただ、集団になってしまうと、非論理的な意思決定に傾くことが多い。
日本人は非論理的だが、それでも民主主義を許容できないほどでもない。ところが民主主義が許容できない文化圏がある。それが中東地域である。このように書くと「中東を差別しているのではないか」という批判がありそうだ。民主主義が優れた制度だという仮定に立った批判だろう。
例えばサウジアラビアは権力格差が強い。日本人はアラブ圏ほど権力格差が大きくないので上から押さえつけられると反発してしまうのだが、サウジアラビアの人は「好きにやっていいよ」などと言われると不安に思うだろう。つまり、目上の人たちが明確に支持を与えてくれないと不安になってしまうということを意味する。一方で集団性が強く、人々は自分がどの部族のどの階層に属しているかということを明確に意識して暮らしている。さらにリスクを避ける傾向にある。
同じ傾向はイラクにもある。個人の意見をすりあわせて、仮説を立ててとりあえず前に進むということが日本人以上に難しいだろうことが予想される。同じイスラム圏でもトルコやイランのような非アラブ圏はここまでは極端ではない。
それではアラブ圏は未開なのかという議論が生まれるわけだが、アラブ圏は未開というわけではない。単に意思決定の方法が民主主義国家とは大きく異なっているということは言える。そこに無理矢理民主主義をインストールしようとして起ったのが、イラクの混乱だと考えられる。
アメリカは日本を占領するときにかなり研究を行ったようだ。そのため日本の国情を考慮し天皇制を廃止した完全な共和制国家にはしなかった。集団主義が根付いていることを知っていたのだろうと考えられる。
しかしながら、1990年代の日本人はあまり自分たちのことを理解していなかったのではないかと考えられる。小選挙区制は、仮説をもとにして勝ち負けを決めるという制度だ。そもそも文字で書いた約束事に解釈の余地がなくなるのを嫌うのだから、仮説そのものが曖昧になるのは当たり前の話だ。さらに、負けた人たちは意思決定に関われなくなるので、党派対立そのものが目的化してしまうのだろう。