吉本興業が抱える法的リスクは将来日本が抱えるリスクだった

吉本興業の前近代的な芸人マネージメントについて考えている。前回は芸人には隙間も必要なのでは?という論調で書いてきた。しかし、この話には別の側面がある。それは法的リスクである。






仮に吉本興業所属の芸人が別の芸能事務所と契約を結んだとする。独占契約権を与える代わりにリーズナブルな出演料が得られるような契約である。ここでは、物販の権利は芸人側が保持しテレビ局からの出演料は折半するものとしよう。

吉本興業はこれを差し止めるのはなかなか難しそうである。なぜならば「契約書」を示せないからである。確かに口頭での約束はあったかもしれないし既成事実は積み重なっている。口頭契約や既成事実の積み重ねは法的に有効なのだそうだ。だが解除規定がないはずである。故に芸人側は口頭で契約を解除してしまえばいいのである。そこに書面を添えればもっと効果的であろう。

吉本興業はテレビとの関係を築いており、テレビに芸人排除を求めることはできる。できるのだが、また別の問題が出てくる。これは独占禁止法が禁止する「優位な地位の濫用」に当たる可能性が出てくる。この辺りをどう判断するかは個別の司法判断になるだろう。

実はこちらの方が根が深い問題なのかもしれない。契約については「多くの芸人が一斉に他の会社に流れる」ようなことがなければ吉本興業の地位が揺らぐことはないだろう。しかし、独占禁止の場合は「誰か一人でも」訴えてしまえば「テレビに圧力をかける」こと自体が禁止されてしまう。テレビ局も「コンプライアンス」を重要視しているのでキャスティングの透明化が求められるはずだ。闇営業ならぬ闇キャスティングという別のスキャンダルが生まれる。

ただ、こうした動きを芸人本人が行うのは難しいだろう。日本の問題は多分「プロダクションを超えた芸人の組合」が作られないところにあるのではないか。アメリカの俳優ギルドのようなものが日本にはないのだ。調べてみるとアメリカにもコメディアンの労働組合はないようである。俳優や作家には境界があるので意外な感じもする。

組合がないことはなんとなくプロダクション側に有利に思える。だがまた別の問題を思いついてしまった。

今回出てきた問題は所属芸人が法的に好ましくない人たちと関わったことが問題になっている。なんとなく「契約解除」などと言われているが、そもそも書面契約がないのだから契約を解除することも書面ではできない。さらに道義的責任というさらに厄介な問題も抱える。

道義的責任があるから「所属事務所の不始末だ」と非難を受けることになってしまうのだが、芸人には法的な知識がないのでコンプライアンス遵守とチェックができない。しかし吉本興業は生活保障をしないのでこれからも「違法営業」が排除できない。これをお互いに助け合って乗り切ることはできるはずだが、芸人をネットワークして相互扶助しようという考え方は日本にはない。

これは、一般の会社にも言える。正社員の身分保障ができず副業を認めるところが増えている。だから、マスコミは必ず「A社の社員が違法副業をしていた」と報じるようになるだろう。

生活保障を外すということは必要のない法的リスクを抱えるということを意味している。これを補助するのが「組合」だ。例えば落語家には協会がある。芸人も作ろうと思えば協会が作れる。しかしながら普通のサラリーマンだった人には「職能」すらない。実は一般社会はこれから「もっと吉本化」する可能性が高いのである。

面白いのは日本のテレビがこれを全く分析しないという点だ。日本人はその場その場の状況で「暴力団=いけない=やばい」と感じてしまうのだが、根本的にそれをどう改善すればいいのかということは語らない。多分、職能ごとの組合という考え方が一般的でない上に、生活のために副業をしなければならないという切実さがないからだろう。

しかし、例えば新聞社などは記者の生活保障ができなくなっている。記者が生活のために匿名で過激な文筆活動を始めた時、世間はどう思うだろうか。次に「吉本化」するのは新聞社なのかもしれないと思った。

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反社会組織と吉本興業 – 運命の別れた双子

吉本興業の芸人たちが「反社会勢力とつながっている」として一斉にテレビから締め出された。今日はこれについて考える。






もともと、反社会組織と芸能界にはつながりがあった。つながりがあったというより一体だったと考えられる。吉本興業と山口組に100年のつながりがあるという記事を見つけた。これを読むと「興業」と「反社会勢力」がつながっているように思える。だが、実際には反社会勢力の前身は興業もやっていたし労働組合のような色彩も持っていた。共産主義というイデオロギーと結びついた過激な労働運動は鎮圧されたが、イデオロギーとの結びつきがない方はいわゆる「虚業」と呼ばれていたサービス産業と結びついた。

「食えない職業」になったヤクザという記事に神戸芸能社という記述が出てくる。

傘下組員にも土建、港湾荷役、金融、不動産などの会社を興させたことで、山口組は暴力装置を持つ企業集団となった。そして、双方を組み合わせて巧みに全国制覇に乗り出す。50年代以降その道具となったのは、神戸芸能社の看板スターの美空ひばりであり、田岡三代目が日本プロレス協会副会長として「西の興行」の面倒を見た力道山だった。

「食えない職業」になったヤクザ

美空ひばりの名前があるが神戸芸能社が面倒を見ていたのは美空ひばりだけではなかった。お笑いだけでなくプロレスのようなスポーツ興業も音楽も暴力団と完全に切り離しはできなかった。例えば昭和のレコード会社にも「反社対策」の人たちがいて「その筋の人たちとの調整」を担当していた。地方興業の調整もイベントも「そういう人たちのとの関係」なしには成立しなかったのである。

これが変わっていったのは、芸能がスポンサーの広告によって成り立つようになったからのようだ。つまりテレビの登場によって表の企業と結びつくことでテレビもまた「身綺麗にする」ことを求められるようになったということになる。今回も、アメトーーク!から「きれいな」スポンサーが撤退している。企業はSNS経由で炎上するのを恐れたのかもしれない。社会の不満が悪者叩きに向かいかねないことを企業とテレビはよく知っているのだ。

かつての芸能界はこの辺りをきっちりと分けていたようだ。

なべおさみが「ヤクザと芸能界、全部バラすぞ!なべおさみが見た昭和の大スターたち」という記事を書いている。映画のスターたちは反社会的なつながりが表に出るのを嫌って私生活を表に出さない人たちがいたのだという。映画からテレビの移行期には、テレビのカタギの人たちに迷惑をかけないように、テレビではカタギのふりをしていたということになるだろう。

テレビでは木村太郎が「歌手をお嬢と呼ぶことがその筋の人のステータスになっていた」と言っていた。アナウンサーたちは木村太郎が美空ひばりを名指ししたとは思わなかったようだが、ある世代の人たちにはそれが誰のことなのかがすぐにわかる。

テレビが大勢の芸能人を抱えるようになると、芸能界はクリーンになった。チケット販売も「近代化」され地方の興行主に頼らなくても興業が行えるようになった。こうして芸能界は「普通のサービス産業」になったかにみえた。

しかし、こうした芸能界の出自は時々ヒョッコリと顔を出す。島田紳助が芸能界からいなくなったのは2011年のことだそうであるが、今回もまた同じようなことが起こった。

今回の吉本新喜劇の件は、テレビが抱えられなくなった芸人がかつていた場所に戻っていったというだけの話でもある。もちろん、テレビではなくYouTubeなどのインターネットメディアに進出する人もいるが、先祖返りする人もまた多かったのだろう。だが、SNSによって緊密に結びついた時代にはかつてあった「優しい隙間」はないので、彼らはそれが露見すれば消え去るか忘れてもらうまでいなくなるしかない。

この間吉本興業は近代化に向けた何も努力をしなかったし、これからもしそうにない。吉本興業の会長は遠く離れたバンコクで記者に「教育が悪かった」と語ったそうだ。つまり彼らは一切変わるつもりはないということである。お笑い芸人に依存する以上テレビもこれ以上の追求はできないだろう。

吉本興業がやったのは「研修」と「禁止」だけだ。生活を保障するギャラを払わず契約書もかわさないという前近代的なやり方は残り続け、それを誇らしげに語る芸人もまだ多い。千原ジュニアさんの言い分を認めると「労働契約を交わしてしまうと生活保障をしなければならなくなる」からなのだろう。

千原の発言は芸能界全体の意識の低さを表している。生活保障をしないで「頑張って真面目に乗り切れ」と個人の資質の問題に落とし込んでしまい、問題があった時には「個人が悪かった」といって切ってしまう。日本の悪いところが全部出ている対応だ。そして千原はそれを「外資の参入障壁になっていて好ましい」とまで言い切っている。成功者の部類に入る人は知らず知らずのうちに旧体制を擁護してしまうのである。

もともと芸能人は「こうした意識の低い人たちなのだ」と考えて、芸能人をみるということも可能なのだろう。ただ、最近ではそうもいかなくなっている。お笑いタレントの方が「身近で視聴者目線で」政治を語れるというような風潮もあり、テレビ局に代わって正義の側にたちに社会罰を下す代理執行者の役割を担うことも増えている。

このためテレビは表向きの清廉さを演出するためには「かつていた場所」に戻ってゆく人たちを切り離すか「なかったこと」にし続けなければならないのである。

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野党の審議拒否はいいことなのか悪いことなのか

野党が審議拒否に入ったようでTwitterでは「野党の職場放棄だ」とか「原因は自民党が作った」と割れている。これはいいことなのか悪いことなのかを考えようとしたわけだが、何を基準にして善悪を見て行けばいいのかわからない。

基準そのものをしばらく考えているうちに考察は意外な方向に進んだ。まず、日本人はこの内輪揉め自体を愛している。だがその姿勢は同時に国際社会からの排除につながっている。

さて、話を本論に戻す。国会が機能不全に陥るのは悪いことなのだが、自民党と公明党がいれば法案は通ってしまうわけだから実は政治にとっては「ニュートラル」な出来事でしかない。つまりどっちでもいいことになる。審議拒否によって決められない法案は「その程度のものだった」といえるだろう。

もちろん審議拒否すれば安倍政権の評価は下がるかもしれないが、野党の支持が上がるわけではない。野党にとっては得とは言えないが、これも「自民党から代わりの政権が出てくるんだろうな」と考えると、現状には何の変化も及ぼさず、従って「別にどうでもいい」ということになってしまう。

ここまで考えると「倫理的な良し悪しはわからないものの、結果だけを見るとどっちでもいい」ということがわかる。

では日本には解決する課題はないのだろうか。例をあげてみた。

  • 国際社会からは置いて行かれる。
  • 株を買って支えているだけの経済の立て直しが難しくなる。
  • 少子高齢化が進行する。

どれも日本人が見たくないものばかりである。これに最近の問題を加えてみる。

  • アメリカは貿易交渉を迫っている。
  • 北朝鮮情勢が変化しアジアに新しい枠組みができようとしている。

審議拒否をしている時間はないように見えるが、かといって日本がどうこうできる問題でもなさそうである。

ではどうしてこんなことが起こるのか。前回までは北朝鮮の問題を見ながら考えた。日本人は異質なものに囲まれてこなかったので過剰に敵と味方を区別したがるというような分析をした。しかし味方だと勝手に考えているのは日本人だけでアメリカからは「薄笑いを浮かべる気持ちの悪いやつ」と思われており、中国、韓国、北朝鮮の悪口を触れ回っているうちに「あの人たちは仲間に入れるのはやめておこう」と遠ざけられるようになった。

安倍首相の幼稚で頑なな「僕の友達、僕の敵」思考がどうやって育まれたのかは興味のある話題なのだが、同じようなメンタリティは野党の側にもある。野党の人たちも細かな違いにこだわりくっついたり離れたりしている。共産党は嫌だが人気のない第二自民党も嫌だ。だったらどっちにつこうかなといってうろうろとさまよっている議員が大勢いるのだ。戦略的に連携しようという人はいない。

ではなぜ戦略的に連携しようとする人はいないのか。それが今回の問題を考えるキーになる。

少なくとも審議拒否に陥る原因が「与野党どっちにあるのか」というのはかなり愚問だことがわかる。安倍政権は特に頑なな政権であり嘘をついても絶対に認めないし、野党の言い分を取り入れることを「敗北だ」と思っている。だが、野党の方も自民党の別のルートを使って妥協を探ったり違いを乗り越えて味方を増やすというようなことはやらない。

自分にも断絶した関係がある。そこで個人的に歩み寄れない理由を考えてみた。日本人はとくくっていいかもしれないと思うのだが、本質を理解しない。ただ「相手が怒ってはいるようだからとりあえずこれをいうのはやめておこう」という理解をするようだ。だから繰り返し問題が起こる。

「本質を理解しない」というと理屈っぽく聞こえるので、最近起きた事例をご紹介したい。長尾敬という自民党の議員がMeToo運動を揶揄して世間の反発を買った。彼は「セクハラ問題を無視するのはまずいな」ということまでは気がついたようだ。そこで「俺は絶対にセクハラしない」と宣言した。しかしそれがなぜ悪いのかということは全く考えなかったようだ。ワーワー騒いでいる女性議員は容姿に問題があると思ったのだろう。だから「あの人たちはセクハラからは縁遠い」と言ってしまった。オフィシャルな場では男女の違い考慮しないというのがセクハラ問題の「本質」なのだが、表面だけを見て全部理解できたと思い込んでしまう。だから同じような問題がいつまでもなくならない。

本質というのが大げさなら裏側にある原理と言っても良い。では、日本人が相手の行動の裏にある原理を理解できないのはなぜなのだろうか。それは原理を考えずに自分の常識を接ぎ木するからだろう。接ぎ木で構わないのは相手と自分の行動原理が似ているという環境に育ったからだ。

この能力は外国語の習得に似ている。英語が苦手な人は日本語の文章を英語でどう言えばいいのだろうかと考える。そして多くの人がここから抜け出せない。しかし日本人が英語ができないというのも嘘だ。高卒の野球選手の英語がメジャーリーグで通用することもある。英語が上達した人は最初から英語で考えているということである。

少し理屈っぽくなるがつまり「言語によらない考え」というものがあって、それを表現から分離することができれば2カ国以上を話すことができる。ネイティブ言語というのはこの考えと表現が一体化しているということだ。男性社会をネイティブ文化とする人が男女機会均等方時代を生きるということは外国語を話すというのに似ている。

その意味では長尾さんが「怠けているから失言する」というのではないかもしれない。他人との共感を結ぶという政治スキルに欠けているのだろう。こういう人に何を言っても無駄なのだとも言えるし、長尾さんを執拗に攻撃するのも残酷ということになる。

日本人はこのネイティブ文化を意識できないのから変えることができない。そこで変化が起きないように内輪揉めを繰り返している。しかしこの内輪揉めにはそれ自体が楽しい。自分のネイティブ文化が優位であると考えて優越感に浸るのも楽しいし、何かに抗議しているのも楽しい。でなければTwitterがこれほど盛り上がるはずはない。実は野党の人たちも永遠の政界再編を楽しんでいるかもしれない。

ではなぜ我々は内輪揉めに耽溺できるのか。ここからが問題である。それは大した問題が起きないからだ。これは野党を見ていればよくわかる。問題は山積しているのだが、それはなかったことにしてみんなで大騒ぎしている。

さてこの裏返しが中国やアメリカは北朝鮮と共存できる理由になる。日本人にとって北朝鮮の物語は桃太郎である。つまり悪い鬼である北朝鮮が成敗され「めでたしめでたし」となる。桃太郎の物語のあとについて考える人はいないが村人は「仲よく暮らしましたとさ」となるはずだ。しかし、中国やアメリカが北朝鮮を受け入れられるのはそれを不確定要素として組み込むからだろう。彼らは永遠の闘争を生きていることになる。

野党再編でとりあえずの妥協ができないのは野党の人たちが桃太郎を念頭に置いているからだろう。つまり、新しい野党ができたときには自分の価値観が優位になり「いつまでも幸せに楽しく暮らしましとさ」となるはずなのである。

安倍首相も「日米同盟はもう出来上がった」と考えているからこそ愛想笑いを浮かべていることになる。だが、アメリカ人は「もう出来上がった関係」などというものは考えない。だから違いが生まれるということになる。例えば、トランプ大統領から「ディール」をとったら何が残るか。もしかしたら退屈で死んでしまうかもしれない。日本人が内輪揉めに耽溺できるのと、北朝鮮問題に対処できないという問題はつまりコインの裏表になっているのではないだろうか。

もし、日本に対応する問題がないなら、野党の審議拒否はニュートラルな価値しか持たない。しかし、日本が変化に富んだ状況に対応して行かなければならないとしたら、それは悪いことだ。さらに、その原因を作っているのは野党だけではないが、かといって誰かが怠けているからというわけではない。変化に対応するためのスキルに欠けている。

さらにいえば、世界と日本では安定に関する考え方が全く違っているということがわかる。

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発達障害は「障害」なのか

今回はメモ程度に発達障害について書く。なお最初に断っておきたいのは、この文章には結論はないということだ。なんらかの答えを求めている人は読まない方が良いと思う。なお、幾つかの文章を読んでみたが「右脳の障害だ」と言い切っているウェブサイトもあり、安易に結論に飛びつくのは危険なように見える。

まずはじめに発達障害という言葉にはいくつかの概念を含んでいるようだ。主にADHDと自閉症スペクトラムという概念があるらしく、これが重なっているという人もいるようである。原因ははっきりしないので、対処法もはっきりとはしていないが、アメリカでは多くのADHDと診断された人たちが投薬治療を受けているという統計もあるそうだ。

NHKの番組によると、発達障害と診断された子供の母親は認めたくないという気持ちを持つ一方で、ほっとしたという気持ちにもなるのそうである。こうした症状を持つ子供は、単にわがままなだけに見えるのでお母さんの躾のせいではないかと言われることが多いのだろう。

このことにはなんとなく思い当たる節がある。知り合いにドタバタと落ち着きまわり、YouTubeが見たいと言い始めると誰のいうことも聞かなくなる子がいるのだが、やはり「安易に子供にスマホを渡すのがいけないのではないか」などと思ってしまう。が、普通の子供は幼稚園なり小学校に入ると、机に座って一定時間座って先生の話を聞けるようになる。いわゆる「普通」の子供なのかそうではないかということはこの時に決まるのだろう。つまり、じっとしていられない子供もいるのである。

が、こういう子がどれくらいいるのかということは実はよくわからないようだ。2012年に文部科学省が調査した資料があるというウェブを見つけた。孫引きになってしまうが、発達障害ではないかと先生が「自己診断」した生徒は6.5%いるそうだ。この数字は専門家の診断を受けた数字ではないということである。このように捕捉されるようになった生徒の数は20年の間に7倍になり、90,000人を超えたのだという。

が、こうした人たちがすべて「特殊学級」に入るとすれば、もはやマイノリティではあっても障害とは言えないのではないかと思える。例えばメガネという装具がないとものを見るのに困る人は30%いるという数字があり、近視を「視覚障害」という人はいない。すると、発達障害も障害なのかということはよくわからなくなってしまう。例えばメガネがあっても黒板が見えない人がいるならそれは通常学級とはいえないわけで、じっと座って授業が受けられない人が、例えばアメリカ並みに10%もいるようになれば、それは通常学級が変わらざるをえないのではないかと思えるのだ。

さらに、じっとしていられない子供と手足が自由に動かせない子供が必要なケアは違うだろうから、これらを一緒くたにして「通常の学習に耐えられない」という理由だけで別枠でくくるというのも乱暴なのではないかと思える。

発達障害がなぜ起こるのかということはよくわかっていないようだ。先進国に多く、発展途上国に少ないという統計があるようで、遺伝による影響とは考えにくいという。現在では様々な犯人探しが行われている。日本型の雇用環境が悪いという人や、添加物がよくないという人もいるようであるが、これもよくわからない。個人的にはスマホなどの過剰な情報に触れているのが悪いのではないかなどと思うのだが、これも単なる思い込みの域を出ない。

この文章は幾つかのウェブサイトを参照した。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/biblio/develop_disorder004.html
http://xn--u8j7eobcu7587k8dj.jp/population.html
https://www.news-postseven.com/archives/20160507_409670.html?PAGE=1#container
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/001.htm

 (*1)本調査における「1.児童生徒の困難の状況」については、担任教員が記入し、特別支援教育コーディネーターまたは教頭(副校長)による確認を経て提出した回答に基づくもので、発達障害の専門家チームによる判断や、医師による診断によるものではない。従って、本調査の結果は、発達障害のある児童生徒数の割合を示すものではなく、発達障害の可能性のある特別な教育的支援を必要とする児童生徒の割合を示すことに留意する必要がある。

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日本人は合理的に事実が扱えない

なんだか、たくさん読んでいただいているようで恐縮なのですが「そうだ!」という意見があまりにも多いので、ちょっと怖くなってきました。「いや、そんなはずはないのでは」という幾分批判的な視点でお読みいただいた上で、できればこれを乗り越える方法などを考えていただけると幸いです。(2017/1/22)


築地・豊洲問題が新しい展開を見せている。会社を変えて調査をやり直したところ有毒物質の計測値が跳ね上がってしまったのだ。これを見ていて日本人には合理的に事実が扱えないんだなあと思った。
残念なことに、事実が扱えない原因には幾つかのレイヤーがあり普通の日本人がこれを乗り越えることは不可能だろう。それは非合理的な判断基準、プロセスへの無理解、文脈(党派性など)への依存である。

穢れと安心安全

最初のレイヤーは穢れに関するものだ。食卓の上に雑巾と靴をおいて食事をしてみるとよい。例え完全に消毒していても「その汚さ」に耐えられないはずだ。これは普通の日本人が外を穢れとして扱うからである。こうした文化を持っているのは日本人だけではないそうだが(インドやイランでも見られるそうである)極めて珍しい特性だと考えられている。これは最近「安心・安全」として語られることが多くなった。
東京ガスが「穢れさせた」土地には有毒物質があり、それを完全に遮蔽できたからといって日本人には耐えられないだろう。石原元都知事は「保守だ」「愛国者だ」などと言っていたが、日本人が持っている非合理性には全く理解がない人だったということになる。普通の日本人は東京ガスの跡地では食べ物を安心して扱えないと考えるのだ。それは靴を滅菌消毒しても「汚い下ばきだ」と考えるようなものだ。

プロセスに全く関心がない日本人

次の問題はプロセスに対する理解の不足である。都はこれまで、たいへん甘い計測をしてきたらしいのだが、今回違った計測値が出たことで「何かの間違いではないか」と言い出す人が出てきた。本来なら、過去の計測方法と今回の計測方法を比較して批判すべきなのだろうが、政治家もマスコミもそのようなことを言い出す人はおらず、単に計測結果を見て慌てている。学校で「アウトプットの正確さはプロセスに依存する」ということを習ってこなかったからだろう。
この無理解を「理系文系」で分けて考える人がいるかもしれないのだが、例えばMBAの授業では統計の取り方を最初に教わる。これはアメリカの企業経営では当たり前の考え方なのだが、日本人は統計を気にしない。もともと事実が意思決定にはあまり寄与しないからなのだろう。
加えて日本人はジャーナリストになるのにジャーナリズムを専攻しない。このため社会に必要な知識を学ばないまま専門家になってしまうのだ。
もっとも小池政治塾では統計の読み方を最初にテストしたようである。これは教育の問題なので、西洋式の教育さえ受ければ克服可能だろう。

文脈への依存・誰が言っているかが重要

にもかかわらず日本人は党派性を強く意識する。橋下徹弁護士は随分早くから「安全性はいずれ証明される」と予言してきたが、実は何の根拠もなかったことがわかった。だが、維新の党の人たちはこれに追随してきた。そこでポジションができてしまい、今では「今度の統計は何かの間違いでは」と騒いでいる。よく考えれば彼らは部外者であり、この件にはなんのかかわりもない。彼らが関心を持っているのは小池都知事の人気と橋下さんへの忠誠心だ。
だが、こうした早急さは新聞記者にも見られる。彼らも調査はリチュアル(儀式)だと考えており、数値の発表の前に小池都知事の「決断」を聞きたがった。新聞記者たちはジャーナリストでございますなどという顔をしているが、単にジャーナリストの衣服をきたピエロのような人たちで、事実は文脈によって決まり、その文脈は俺たちが決めると考えているのである。ジャーナリストは小池さんに直接何かを聞ける立場にいるので、それにどう色をつけたら文脈を操れるのだろうかということばかりを考えている。

文脈への依存・世論の動向

もう一つ文脈が大きな役割を果たしている現象がある。実は豊洲移転には明確なOKの基準がない。安心(穢れが全くない状態)を基準にするのか安全(リスクが管理されている状態)を基準にするのかがわからないのだ。代わりに「騒ぎになっていること」が移転判断の基準になってしまっている。リスク管理(安全)を基準にするならできるだけ詳細なデータを取っていたはずだ。リスクがわかれば管理できるからである。しかし、甘い調査をしていた点をみると「瑕疵がない」ことを証明することが調査の目的になっていたようである。これは、安全にも安心にも関係がない。石毛亭が正しかったという証明である。しかし、彼らの思惑ではシアンを無毒化することはできなかったのである。最初からシアンがあることがわかっていれば、それを封じ込めて「リスク管理ができるから安全ですよ」と言えていたかもしれない。

豊洲移転は不可能になった

いずれにしても豊洲への移転は不可能になったと考えてよいだろう。例え次の調査でこれまで通りの低い数値が出たとしても「隠蔽している」と信じたい人は今回の数値を引き合いに出して反対運動を続けるだろうし、消費者たちはなんとなく疑念を持ち続けることになるはずだ。さらに外国人はもう日本の魚を買わなくなるに違いない。これは日本人が事実を扱えず、従って適切にリスク管理ができていなことが原因なのである。政治的には豊洲移転は可能だが、これは日本の伝統に対する信頼を大きく毀損することになるだろう。