先日は新潮45の炎上について考えたのだが、今回は小川榮太郎という人の「LGBTの権利が守られるなら痴漢の権利も守られるべき」という主張について考える。結論からいうと相手にしなくていいと思う。小川さんとの<議論>に巻き込まれることなく、本筋である新潮社への意思表示を継続すべきだろう。さもないと小川さんのような<議論>をする人がさらに増えることになる。
新潮45には言論の自由があり新潮社にも経営の自由がある。ゆえに言論の自由を擁護する立場からは彼らを黙らせることはできないし、すべきでもない。一方、消費者には新潮社の本を買わない自由や、新潮社を応援するスポンサー企業からものを買わない権利があり、それをスポンサーに伝えることもできるというのが前回の結論である。新潮社は経営的判断として杉田発言を掲載したのだから、当然その帰結については責任を持つ必要がある。中途半端な反省を受け入れてしまうと、結果的に新潮社の経営判断としてのヘイトを容認したことになる。
前回はあまり考慮することなく簡単に「ヘイト」という言葉を使っている。しかし、これは異質な人たちを憎悪するヘイトとは別の感情に基づくのではないかと思う。それはいじめである。実は杉田論文と称するものの正体は「普通でないもの」をあげつらうことで自分たちの優位性を確認する行為だからだ。ヘイトは対象物を遮断したり抹殺を狙うものだが、いじめは対象物をいつまでもなぶることで快感を得るという行為である。安倍政権はこうした「いじめ」を行う人たちを野放しにしているとは思うが内国民に対してのヘイトに加担しているわけではない。彼らは中国や朝鮮を憎悪の対象にすることで国内の安定を図ってきたという意味ではヘイト感情を利用しようとしたが、これは国際社会から黙殺されつつある。
今回は小川榮太郎さんの発言について考えてみる。全文を読んだわけではないのだが問題になっている点は二点のようである。第一に小川さんが安倍晋三総理大臣と近しくこれまでも政権を擁護してきたという経緯がある。その上で、小川さんの「LGBTの人権が守られるのなら痴漢の人権も守られるべきだ」としているという発言が問題になっている。中には「安倍案件だから炎上すべきだ」と主張する人もいる。だが、実際にはこの発言がどういう文脈で語られているのかということはよくわからないという状態である。
この発言の問題点は、LGBTを痴漢と同列に扱っている点にあると思う。つまり、痴漢は犯罪者なので、LGBTをそれと同列にすることで「ある仄めかし」を行っているのだ。LGBTという社会的に許容された存在とするのではなく、かつてのホモやおかまという言葉が持っていた後ろ暗い存在に貶めるために痴漢という後ろめたい犯罪行為とつないでいる。これ自体はわりとよく使われるやり方だ。サブカルチャーとしての漫画を認めず、かつての後ろ暗かったころの「オタク」と性犯罪者とを結びつけて表現の自由を奪おうとする人たちもいる。
もちろん、小川さんがいうように、痴漢の人権も守られるべきだ。彼らは痴漢という行為を行ったにせよ基本的人権は保障されるべきだ。弁護士をつけた上で再審を含めた裁判を受ける権利や社会復帰する権利は守られるべきである。さらに現在の制度では「痴漢の疑いをかけられたら仕事を失ったりする」場合もあり、この点も是正されるべきかもしれない。こうした権利がきちんと守られているとは言えないので、小川さんにその気があるのなら、痴漢の人権についての活動を始めるべきである。
さらに権利を拡張するとしたら「止むに止まれず触ってしまう癖」がある人に適切な治療や認知療法を与えるようにすべきなのかもしれない。特に男性の痴漢や児童虐待行為のニュースを見ていると「仕事を失うことがわかっている」のに衝動を抑えきれなかったというケースも多いようである。男性の性衝動にはこうした側面があり社会的な援助と理解が必要である。日本のみならず海外でもこうした権利は議論されてこなかった。人権に敏感な人は人間は理性的な生き物だと思いたいので、動物的側面にはあまり触れたくないのかもしれない。
ところが小川さんの主張は結局のところ痴漢の権利を守るべきかという点には結論がないそうである。それは小川さんが痴漢を「みっともない犯罪」として利用しているだけだからだ。痴漢犯罪者や冤罪者に対しての人権を守るべきだと考えた時、それは議論の対象になる。だが、それを単にLGBTを貶めるためにオブジェクト化して使っているという点に問題がある。つまり、この言動の問題点はLGBTの問題を矮小化するために痴漢の問題を利用したという二重の罪深さがあるのだ。
これは教室でいじめられっ子から財布を取り上げてみんなで回し合うのに似ている。この場合「人権」というのが財布の代わりになっている。明らかに相手が大切なものを失って平気で取り戻そうとしているのを笑っているのだが、それは決して認めず平然を装って財布を回し続ける。そこに快感があるからだ。
巷間言われているご飯論法の快感はそこにある。議論の真意を仄めかしつつも決して認めないことで「自分たちはお前たちには支配されない」という優越感を得ている。仲間内では差別的な目的を持った議論や私物化の議論を行い、それを仄めかしつつ絶対に認めないことで「自分たちは意思決定の側にいるがお前らは入れてやらない」という快感を得ているのだ。
最近これで大いに気持ちが良かったであろう人がいる。それは加藤厚生労働大臣だ。加藤大臣は恐らく働き方改革の調査数字がデタラメだという認識は持っていたはずだ。が、それをひけらかしつつ認めないことで「真実を決めるのは我々だ」というひけらかしを行い、「野党がどんなに騒いでも結局数で勝つのはこちらである」という優越感を持つことができる。安倍首相はそれを眺めていて、かなり爽快な気分だったのではないだろうか。特に社民党や立憲民主党の女性議員と話している時の安倍首相の顔には言葉では表現しづらい笑いが浮かんでいる。その意味では彼らにとって労働法も国会の議論も単なるおもちゃなのだろう。
スポーツでも同じように周囲のコンセンサスをとって相手を追い詰めて行く行為が見られるが、こちらはずいぶん非難され始めている。これが外の規範とぶつかりつつあるからだ。SNSで拡散されて騒ぎになりテレビが取り上げて大炎上する。すると内閣府のスポーツ庁が出てきて「許認可を取り上げ、補助金を減らすぞ」と脅すところまでがセットになっている。
スポーツでいじめがなくならないのは、この快感が抗いがたい魅力を持っているからなのだろうが、ワイドショーの側もそれを利用しているる。新潮社は実はこの罠にはまっている。つまりいじめている側だった人たちがあるティッピングポイントに達すると今度はいじめられる側になってしまい制御ができなくなる。新潮社は杉田論文を掲載し、今度はこれを擁護したことで、社会の制裁の対象になっても構いませんよと宣言してしまっているのだ。
新潮社が杉田発言を擁護したのはこの発言に商品価値があると思ったからだろう。なぜ商品価値があるかといえば、本音では「他人の権利よりも自分の方が大切」という人がたくさんいるからであろう。彼らは表立って言えないこうしたルサンチマンを本を買ってでも晴らしたいと考えている。だがこうした行動は必ずエスカレートしてどこかで外の社会の規範とぶつかる。相手をあげつらうことで快感を得ていたのだから、彼らは「社会から弁護してもらえる資格」を失っているのだが、それに気がつかない。
今回は「他人事の人権の問題」から女性全般の怒りを買いかねないところにエスカレートして炎上した。LGBTの人権は比較的新しい拡張された人権なので、人々は不快感を持っても自分ごととしては行動しないかもしれない。だが、痴漢を擁護すると受け止められかねない(実際は利用しているだけなのだが)発言を明確に否定しなかったことで、新潮社はすべての女性の潜在的な敵になるというリスクにさらされているということになる。
女性の中には常に襲われる危険やリスクに警戒をしながら通勤通学をしている人も多い。さらに痴漢の被害者になっても「男を誘うような服装が悪かった」とか「どこか隙があったのではないか」とまともに取り合ってもらえないという状況を見ている。こうした潜在的な危険が女性の心にどのようにのしかかってくるのかを男性の立場から想像することはできないのではないかと思う。
新潮社がこうした人たちの不安を逆なでしたことは実は大きかったのではないかと思う。実は安倍政権に関係しているからという理由で反対している人よりも、こうした女性たちの気持ちを踏みにじったことを新潮社は後悔することになるだろう。
さらに新潮社はこれまで他人のスキャンダルで食べてきた会社なので、自分たちが非難にさらされた時に誰からも守ってもらえない。例えば週刊文春にとって今は新潮社潰しのよいチャンスであろう。多分、新潮社はまだこのことに気がついていないのではないだろうか。
いずれにせよ、新潮社は人をいじめて商売をする権利はある。これに反論できるのはいじめられた本人たちだけである。だが、この手の行為はたいていエスカレートして抑えが効かなくなる。私たちはスポーツのパワハラ問題で散々これを見てきたが、実は社会に広くある問題行動なのだということがわかる。だからこそこの手の問題はいったん火がつくと収まらなくなってしまうのであろう。