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ネトウヨの行動原理としての勝ち負け

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新潮45が「廃刊に極めて近い休刊」になった。知れば知るほど出版業界の闇が深いことがわかり憂鬱になる。新潮社も「金儲け」で雑誌を出しているだけなので、経営的判断でうやむやにした方がよいと考えるなら今回の行動も非難できない。

だがライターやジャーナリストにとっては死活問題なので、彼らはこの経緯をきちんと総括すべきだろう。新潮社にとっては文芸もジャーナリズムも単なる商売のための仮面にしか見えないのだが島田裕巳のように「かつてはそうではなかった」と主張する人もいる。もし、これが本当だとすると、日本社会は食べてゆくために大切なものを切り売りしているということになってしまう。また「ビジネスとしてのエコシステムを維持しようとしていた」とするならば、長期的経営視点を失いつつあるということだ。いずれにせよ、このままでは新潮社は相撲協会のような他の閉鎖的村落共同体のように次第に「呆れられ忘れられる」存在になるのではないかと思われる。

そんな中で「これは言論弾圧だ」と騒ぎ出す人たちが出てきた。彼らは言われのない被害者意識を持っているのに、自分たちが多数派になると他の人たちを弾圧し始める。だが、この心理的メカニズムがよくわからない。少数派として多数派から非難される苦痛を知っているのだから、他人に優しくなってもよさそうだからである。メカニズムがわからないと対処のしようがない。

そんなことを考えていたところ、須賀原洋行という人のTweetを見つけた。社会人になってから漫画雑誌は読んでいないのだが、昔大学の部室に置いてあった漫画雑誌に短いナンセンス漫画で名前を見かけたことがある。


この短いTweetはネトウヨ系の人たちが持っているマインドセットをよく表していると思う。ここに「上位・下位」という概念が出てくるからである。人間関係に上と下がある。これを当たり前だと思う人もいるだろうし、なぜ上と下という概念が出てくるのかがわからない人もいるのではないだろうか。個人的にはとても意外だった。

ネトウヨの人たちの行動原理を観察していると、勝ち負けにこだわっていることはわかるのだが、なぜこだわるのかという最後の動機がよくわからなかった。だが、上下という関係を入れるとこれがよくわかる。つまり、集団の中で上の方にいる人ほど意見が通りやすいということなのだろう。

もし仮に「何が正しいのか」が論理や合理性によって決まるのであれば議論が成り立つかもしれないが、そもそも数の多さで決まるのであれば多数派さえとってしまえばよい。選挙至上主義で議会制民主主義の残りのプロセスを無視する安倍政権の姿勢と通じるものがあり、なるほどなと思わされる。言葉にしてみるとバカバカしいほど陳腐だが、誰が偉いかを決めるために選挙を行い、偉い人が全てを決めて良いという世界である。

英語にto influence peopleという言葉がある。日本語では「影響を与える」などと言ったりする。これは自分がロールモデル(規範)になることで相手が従いたくなるような人間になることを意味する。最近ではインスタグラムのインフルエンサーというような使い方もされる。つまり、人々を従わせるには数で多数派を形成する以外にインフルエンサーになるというアプローチがある。

これらは和訳できない英語概念だが、日本古来の伝統では徳をもって規範となるというような言い方になるかもしれない。徳を慕ってやってくるというのは英語的にいえば「影響を受けた」ということになるからだ。ただ、中国系の哲学には孝悌という上下関係もある。ネトウヨは上下関係だけを継承して徳という中核の原理を失ってしまったということになるだろう。つまり内的動機は失われ外的装置だけが残った状態になっている。これを一般的には形骸化とか原理主義化と呼ぶ。

言論封殺を叫ぶ人たちは「勢いで誰かにマウントされた」から自分たちの意見が抑圧されたと言いたいのだろう。だが、逆は成り立たない。つまり自分たちの意見は正義なのだから相手は無条件に従うべきでそれは言論封殺にならない。彼らが朝日新聞を潰してしまえと主張するとき、それは言論封殺には当たらないのである。彼らの頭の中は一貫している。自分たちは常に正しくなければならないということなのだ。

この自分たちは正しいはずなのに勢いに負けているというルサンチマンは、かなり古い類型である。薩長は徳川幕府の統治下で300年近くも「本当は自分たちの方が正しい」と主張し続けていた。また、傍流と決めつけられた人たちも自分たちのことを「真正保守だ」と考え続け、結果的に保守本流を駆逐し、力で押さえつけている。(はてなキーワード)革命を起こす上でもっとも強い動機なのだ。

そもそも、LGBT側が「社会の正解になりたがっていたのか」という問題がある。例えばLGBTが「同性愛のような精神性の高い性的指向こそが崇高なものであって、子作りだけを目的とした動物的な交わりは汚らしい」というようなプラトニック至上主義を掲げればそれは、LGBTを正解と見なすということになるのだろう。LGBTなどのマイノリティが望んでいたのは、自分たちが排除されない社会であり「自分たちが社会の正解になりたい」ということではなかったと思う。つまり、異なる性的な指向性の人であっても「共存できる」社会を目指していた。

これは上下では説明できないのだから、ゆえにこれは議論としては最初からかみ合うはずもなかった。ネトウヨの人たちは部数が20000部に届かない雑誌の中で「LGBTは生産性がない」と叫び、それが新潮社の伝統的アセットの価値を毀損すると判断された途端に潰されてしまったに過ぎない。それでも彼らはその内輪の中でいつまでも自分たちの正しさを主張していたかったのだろう。

なんとなくこうなる理由を考えてみたところ、学校の教育の問題が大きいと感じた。日本人は集団秩序に従って競争することは学ぶが、なぜ競争するのかとかなぜ集団秩序に従うべきかということは学ばない。

例えば運動会をやる前に「なぜ人々は赤組と白組に別れて争うのか」とか「個人競技大会にしてはならないのか」という議論をする学校はない。もしこんなことを言い出せば多分親が呼び出されて「和を乱す」として説教を食らって終わりになるだろう。

これは裏を返せば、誰かを説得するための技術が発展しないということを意味する。また、みんなが競争することを当たり前だと考えているものでなければ協力しないという社会も生み出される。運動会が楽しいのは退屈な勉強よりもマシな行事であり、なおかつ誰でもなんとなく勝てる可能性があるからだ。

学校で学ばなくても目はしの利く人は他人を動かす技術を学ぶわけだが、他人を動機づける技術を持てないネトウヨ系の人たちは「仕組みをととのえろ」とか「地震のときは仕方がないから政府に従え」と主張する。他人を動機付けできないので、他人が否応無しに自分に従う環境を作りたがるのである。

一部の人たちは猛烈に反対するが、批判に加わらない人の方が圧倒的に多い。彼らは声を上げないで遠巻きに「自分が利得を得ない」競争に協力することを避ける。外にいては距離を置き、中では力を出し惜しみすることになる。場合によってはカツカレーだけを食い逃げし、さらに頭の良い人は非公式文書をマスコミにリークして混乱を楽しむ。

こうして形骸化した競争は内側から力を失うか過疎化する。これを防ぐためには学校で「動機付け」の技術を学ぶべきだし、その動機付けのきっかけになる異議申し立てを認めるべきだ。以前道徳教育の前に自己主張することを教えるべきだという文章を書いたことがあるのだが、これができないと他人を説得したり心を動かしたりする訓練もできない。

この考察を通じてなぜネトウヨが「マウンティングしたがるのか」ということはわかるし、逆に多数派による少数意見の封殺と勝負へのこだわりを持っている人たちのことをネトウヨというのだなということがわかる。ネトウヨのマインドセットに冒されている人を説得することはできないので、周りから変わってゆく必要があるだろう。一緒になって「どちらが正義か」などと騒いでいても状況はよくならないからである。

今回は「ネトウヨ」を主語にして書いたが、これは例えばリベラルを自称する人たちにも当てはまる。なぜ平和主義を維持すべきなのかを他人に説得できないと、新しい人たちを運動に勧誘できない。だから当時動機付けられた人たちが抜けてしまうと運動が形骸化してしまうのだ。さらに閉鎖的な相撲ではなくルールが公平でチャンスもある国際的なスポーツ(例えばフットボール/サッカー)に人気が集まる。これは、スポーツから政治まで、多くの過疎化した村落的運動体に共通した構造なのではないかと思われる。

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