タレントのローラが叩かれている。拠点をロスアンジェルスに移したあと、インスタグラムでセレブっぽい発言を繰り返しているのがその理由のようだ。ローラは環境破壊問題に興味を持ちユニセフに1000万円寄付をすると主張している。
これについて、アメリカではセレブが「ノブレスオブリージュ」を果たすのが一般的だが日本は村社会なのでそれが理解できないのだろうという論評を見た。これだとそれほど面白みもないので特に論評する価値はなさそうだが、考えてみると少し面白い視点が見つかった。それが「日本人とチャリティ」についてである。24時間テレビが叩かれていることもあり、改めて考えてみることにした。
かつて、日本にもユニセフに寄付をしたり大使として協力するという芸能人がいた。ユニセフに貢献している有名人は黒柳徹子やアグネス・チャンが有名である。最初は日本の芸能人は憧れの対象だったがいつしか下に見られる存在になったという枠組みのお話を考えた。
だが、1980年代のアグネス・チャンについて調べているうちに基本的な構造自体はそれほど変わっていないということがわかってきた。そこから見えてくるのは、どうやら日本人は社会貢献や改革にはそれほど関心がなく自分のマウンティングのために利用する対象物としてみているというあまり直視したくない現実である。
香港出身のアグネス・チャンはそれほど日本語がうまくなかったので少し侮られていた。子供をつれて職場復帰したことで一部の女性の妬みを買いいわゆる「アグネス論争」が起こった。妬んだのは独身の「お姉さん」やフェミニズム運動を苦々しく思っていた「お姉さん」である。論争が起きたのは1988年のことだったそうだがこの公開いじめのような状態が2年も続いたという。今でも子連れで通勤すると「子供を自慢しているのか」とか「迷惑になる」などというネガティブな感情が生まれることがあるが、それはバブル崩壊前の時代も同じだったということになる。また「女性を攻撃するのが女性」という構造も変わっていない。
このときにアグネス・チャンを叩いた林真理子は結婚していなかった。子供がない女性が子供を産んで「充実した生活を手に入れた」ことが恨まれたという側面があるのだろう。林真理子はその後1990年に見合いで結婚し1999年に出産したそうだ。よく女性の敵は女性と言われる。その実態は村社会型のマウンティングなのではないかと思う。似たような属性のちょっと優れた人を妬むのである。
男性がことさら子連れの女性を嫌わないのは、男性の方が優れているからではなく子連れの女性がマウンティングの対象にならないからだろう。代わりに「生産性が下がるから職場に連れてくるのは遠慮してほしい」などということはあるかもしれない。男性同士での競争がマウンティングになっているからである。
アグネス・チャンが叩かれなくなったのは彼女がマウンティングの対象ではなくなったからだろう。彼女はこの経験を活かしスタンフォードで教育学の修士号を取得する。テーマは日本とアメリカの格差である。このこと自体はあまり問題にならなかったし議論にもならなかった。アメリカで英語で博士号を取られてしまうと「負けは明白」なのでマウンティング材料として利用できないからである。
ローラの構造もこれに似ている。「生意気だが少し知性が足りない」といういわゆるおばかキャラとして失礼な言動が許されていた。今まで下に見ていた人が「セレブ気取り」になると嫉妬心を持つ人が多いのだろう。自分より下に見ていた人が「上にいる」と感じることで負けた感覚を持ってしまう訳である。さらに環境問題は人類全般が加害者なので「可哀想な人に施してあげる」という従来のチャリティ感が通用しない。これがローラが炎上した理由であろう。
では黒柳徹子は自身が飛び抜けているから嫉妬されないのだろうか。それも違うような気がする。黒柳さんは継続的にユニセフの活動をしており、日本人としては唯一の国際大使である。自己顕示欲だけでチャリティを継続的に続けることなどできないのだから、彼女には強い意志があるはずである。だが、黒柳さんは同時に日本の状況をよくわかっており、日本では「セレブっぽい」訴求の仕方はしない。
最近、24時間テレビが問題になっている。障害者を可哀想なものとして社会から切断した上で感動のための対象物にしている。そればかりか出演者は高額なギャラまでもらっているようだ。24時間テレビに違和感が出てきたのは、障害者本人たちがテレビに登場したりパラリンピックで活躍したりして、普通の人とそれほど違わない(つまり感動のための切断された対象物ではない)ことが分かってきたからだろう。黒柳さんの活動で評価されるのは「世界の発展途上国にいる可哀想な人たち」を助ける活動である。これも切断されている。こうした人たちを日本に受け入れようという人は誰もいない。こうした「可哀想な人」を置くことで、自分は施しを与える側の人間なのだという比較優位の感情が得られる。
例えばユニセフのハガキなどをもらったら大げさに感動してあげなければならない。送った方は「私はいい人だ」と思われたいからやっている場合が多いからである。
日本人にとって福祉とは切断された対象物に対する施しであって、社会の一員として共に生きてゆくための活動などではありえない。こうした感覚の差は村社会と社会の違いを良く表している。社会ではそれぞれができうる限りの貢献をするのが当たり前だ。セレブは成長のための目標でもあるので、セレブとして成功した人がリーダーあるいはロールモデルとして社会貢献することになんらの違和感はない。つまり、社会という共通の枠組みがあり「共に生きている」という感覚がある。たとえそれがポーズや自己顕示であったとしてもその建前は守られる。
だが、村社会には共通で管理する社会はない。村社会はそれぞれ利権を確保して成り立っているのでできるだけ損を出さないようにしながら、よその村のことは黙っているというのが掟である。施しが肯定されるのは、施しの対象が村から切断され対象物として「安心して利用できる」場合だけである。さらに自分たちが加害者になっているという環境破壊の問題などは直視することが許されない。それは自らを貶める自虐的な行為になってしまうからだ。
<普通の>日本人は「施しの対象」になることを嫌う。社会から分断されて発言権を奪われてしまうからである。生活保護は権利だが「社会参加権の放棄」とみなされてしまうのはこのためである。これまで切断してきたからこそ切断されることを恐れるのだということになる。だから高齢者は既得権益を手放さない。国会議員は対象物である福祉と自分の老後の問題を分けて考え「年金だけで暮らせるはずなどないではないか」と囁きあう。
24時間テレビの場合には、施しを与える側の人たちは24時間テレビの利権を分配してもらえるのだが、障害者にはギャラは支払われない。彼らは見世物としての地位にあまんじるべきであって、決して利権に関与してはいけないという暗黙の了解があるのだろう。チャリティ番組と言いながら極めて残酷で差別的な宣告だが、日本ではこれがおおっぴらに許されてしまうのだ。
今の時点ではローラさんがこのマウンティング型村社会から離脱したのかはわからない。芸能プロダクションの問題に片がついたとされた2018年の4月には世界的二有名なIMGに「所属する予定」とされていた。しかし、WikipediaにもIMGにもローラさんの記述はない。ローラさんがアグネスチャンのように突き抜けるとバッシングの対象からは抜けるが、マウンティングのために「セレブっぽさ」を利用したとすれば逆に日本の村社会に喰われることになるだろう。
ここから日本人がチャリティーをマウンティングの機会と捉えていることは明白なのだが、よく考えてみるとなぜ日本人がこれほどまでに比較優位によるマウンティングにこだわるのかはわからない。普通であるということだけでは優位性や満足感が生まれないので、絶えず自分の位置確認をしたがるのだと考えてみたりするのだが、もっと自動化された構造があるのかもしれないと思う。あまりにも普遍的に日本人の間に蔓延している思考形式だからである。