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人権の道徳化 – LGBTの視点から

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ポピュリズムとは何か」の中で道徳について書かれている部分がある。政治家が「道徳を押し付ける」というのだが、面白いことに道徳とは何かということが全く書かれていない。このため日本人が人権を取り上げるときには注意が必要だ。注意して取り扱わないと人権が道徳化しかねないのである。

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この本はポピュリズム批判(実際には多様性の否定を批判している)なので、道徳はネガティブな使い方をされているということになる。古びて硬直化した社会規範のことを言っているのだろう。ちなみにこの本を書いた人はドイツ出身でプリンストン大学の政治の先生をしている。

このことを思い出したのが、LGBTについて書いたこの記事を読んだからである。基本的にLGBTが生きやすい社会を作るのは大切だと思う。また、事実婚の容認のようにLGBTでなくても恩恵が受けられる制度もLGBTの中から育まれる。だが、この記事を読んで少し考え込んでしまった。

「人権=道徳ではない」国連が日本のLGBTの人権状況を監視する理由」というタイトルがついている通り、人権を道徳意識で片付けてはいけないとしている。ところがこれを読んでゆくと「西洋の進んだ人権思想」を取り上げるはずが、その理解が極めて日本的になっていることがわかる。日本的とは大きなものに寄りすがって100%の正解を作るというような意味だ。人権が「正解」になってしまっているのだ。

谷口さんは「人権は道徳ではありません」と話す。

「人権啓発として『みんなで仲良くしましょう』というキャンペーンをよく見ます。これは裏返すと『仲良くできないのは市民の責任だぞ』と、政府は責任転嫁をしていると言えます。政府には人権を守る責務があり、そのための大前提として差別を禁止し、差別を受けたら救済をして、差別を未然に防止することが必要です」

「人権=道徳ではない」国連が日本のLGBTの人権状況を監視する理由

ここでいう国連とは「国連のさまざまな委員会や人権理事会」だ。ここの人たちはヨーロッパ流の価値判断基準を持っているものと推察できる。つまり、ワールドスタンダードでは市民に責任を押し付けないと言っているのである。

最初に引っかかったのは、この「道徳」の取り上げ方そのものだった。日本人は政治は「人徳のある人がやるべき」とされているのではないかと思ったからだ。徳治政治という言葉もある。つまり、東洋サイドから見ると衆愚が自分たちの好き勝手主張を繰り返し社会を破壊する急進的な行為は慎むべきであり、徳を持った政治家が折を見て考えるべきだと言えてしまうのだ。

何が徳なのかということを孔子は定義していないとされている。五常という分類があるのだが、その定義は様々な具体例によってなされているだけである。ただ、これらの徳は「容易に届かないもの」とされているので、いわゆる「わかりやすい道徳」で人々を思考停止に追い込むような類いの道徳ではない。と同時に庶民を政治の世界から隔離もしている。道徳のような高邁なことは「どうせ庶民にはわからない」のだ。

一方で、西洋流の人権について書いた本を読むと、道徳=旧弊な判断というような使われ方をしている。例えば先に挙げたLGBTの文章から引用されたものを読むと「道徳を使って市民社会に責任を押し付けている」と書かれている。ここで人権が優れているのは、人々が多様な価値観を多元的に折り合わせてきたからだ。ゆえに多元性を失った人権は単に新しい道徳に過ぎない。

日本の道徳には「統治者からの押し付け」という含みもある。孔子の徳がどのようなものだったのかということにはあまり関心がなく、武士がたしなみとして学び、また統治に都合が良い理屈として「利用」した。教育勅語もそうだったし、学校教育で道徳が教科になった時にもそのような批判(東洋経済)がなされた。

道徳のチェックとはありていに言えば国家への忠誠心を学校が国家に変わってチェックして成績につけるということである。どうせ自分では考えられないから国家が教えてやるのである。そして大抵それは統治者の失敗の隠蔽と正当化に使われてしまう。今までもそうだったし、これからもそうだろう。

多元性という前提があるとき人権はまだ受け入れ可能なような気がするのだが、このLGBT側の文章も読み方によっては「国に代わって国連という権威を使って自分たちの権利を広めたい」というように読める。これは戦前の教育勅語を国連に置き換えただけの事である。文章の最後は次のようにまとめられている。

世界人権宣言には、『すべての政府と人民が人権を守っていく』と書かれてあります。人権の当事者はすべての人です。実は日本は国連の分担金の第2位で、払っているお金の元は私たちの税金です。そういう意味でも、ぜひ国を監視し、人権を守らせるために、国連を使っていきましょう

「人権=道徳ではない」国連が日本のLGBTの人権状況を監視する理由

このように置いてしまうと「国の権威」と「国連の権威」のどちらを優先するのかということになってしまう。多元的な価値観を折り合わせて行こうという本来の人権主義の視点からは外れてきてしまうのだが、この辺りが本来権威主義が好きな日本人のくせというか志向なのだとも思う。どうしても強くて大きいものを信仰するところから抜け出せず、他者の価値観を聞く気持ちにならない。

一人ひとりが生きやすいように社会を変えてゆくというのはとても大切だ。また、LGBTであるということを社会と折り合わせて行きたいと考える人たちの人権はもちろん守られるべきだ。

だが、国連と国家とどちらが強いのか?というように問題を置いてしまうと、それはそもそも最初にあった多元的なやり方からは外れてゆく。つまり、人権が新しい道徳になってしまうのだ。ここではLGBT忌避の人たちが何を恐れているのかを丁寧に傾聴して行かないといつまでたっても「どちらが正しいのか」という運動会になってしまう。

実際にイスラム世界の人たちは西洋が勝手に置いた人権が気に入らない。彼らは規範作りに参加させてもらえないからだ。人権にはどうしてもキリスト教世界からの「規範の押し付け」という側面があり、これを内側から絶えず取り除いてやらないと、生きやすい世界どころか諍いの元になってしまうのである。

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