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逆に感動を与えてもらったという言葉の違和感についてまったりと考える

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昨日24時間テレビについて考えたので、その続きとして「逆に感動を与えてもらった」という言葉が持っている強烈な違和感について考える。この言葉のポイントは「逆に」である。

まず「感動」という言葉を処理してみる。もともと感情が動いたことを意味する言葉だが、どうもスポーツでは別の使われ方をしている気がする。例えば甲子園で熱中症になりながら野球をする人たちを見て「感動した」という人たちがいる。野球以外は何もせず、青年の美しさをすべて捨て去って坊主頭で球を追い続ける人たちに使われるようである。また、年始のマラソンや駅伝を見て「感動した」という人たちもいる。これも全てを投げ打って合宿生活を送るやせ細った人をみて「感動した」と言っている。

この二つに共通するのはどちらも「全てを投げ打って何かをしている」という点にある。全てを犠牲にしている限りは自分たちには襲いかかって来ないしライバルにならないという安心感がある。彼らが意識しているのは集団に対する貢献であり、逆に個人の記録についてはあまり重要視されないという点も見逃せない。オリンピックの個人競技に感動したという人もいるが、あれも全てを投げ打ってオリンピックのメダルを日本という国に捧げたというところに意味がある。つまり、個人が全てを投げ打って集団に勝利を捧げる姿をみて「感動した」と言っているのだ。そして、その集団の中になぜか「感動した人」が含まれるのである。

苦労しているのは選手だが勝利の感覚を味わうのは観客である。つまり自分の犠牲なしに相手が犠牲を払って勝利を捧げるのをみることを「感動」と言っていることになる。実は先日見た「チャリティ」の切断と同じように、選手を切断して対象物として楽しむのが「感動」の正体なのである。

これは、映画を見たり本を読んだりしてで心が動かされて何か内心に変化があったという「感動」とは趣が違っているのだが、内心を持たない人が本を読んだり映画を見たりして心が動くということはありえない。中には両方の「感動」を持っている人もいるだろうし、どちらか一つの感動しか持っていない人もいるだろう。

こうした意味での感動は日本ではよく使われる。中には「感動を与える」ことを生業にしている人もいる。彼らが用いるのが「逆に感動を与えてもらった」である。感動を与えるのだから、普通の人たちに対して優位に立ってはいけないという特徴がある。感動を与えるスポーツ選手や芸能人は憧れの対象ではなく「普通の人たちの下位にいる」存在なのだ。

そこで、被災者を支援した人が「逆に感動を与えられた」などいうことがある。もちろんそういう人ばかりではないが、自分たちの芸能人としての評価をあげたい人たちがマスコミを引き連れてボランティアに出かけることがある。彼らが使う「逆に」は「助けてあげるというおこがましい気持ちではなく結果的に勇気付けられました」という謙遜として機能しているのだが、実際には「普段は感動を与えている」側の人間が「逆に」感動を与えてもらったという意味合いもある。

ここでは感動を「搾取」と見ている。ひけらかしにボランティアに訪れる芸能人は、被災者を利用して自分を大きく見せているという意味で搾取をしていることになる。彼らは被支援者と自分を切断している。

ここまで「感動は搾取である」ということを書いてきたので「ずいぶん皮肉めいている」と感じる方も多いのではないかと思う。例えば「美しい日本」という言葉で日本社会の問題点や過去の歴史的な過ちを隠蔽することがあるように、感動も臭い消しのように用いられることが結構多いのである。例えて言えばトイレの芳香剤のように気楽なものなのだ。そして、このメンタリティはかなり浸透している。多分日本だけの現象でもないと思う。

こうした気持ちはかなり根強く当たり前にあるので、搾取感情が表にでないことが多い。最近江川紹子さんがこういうツイートをした。普段から真摯かつまじめな気持ちでジャーナリズムに取り組んでいる人なのでなんら悪気はないと思うが、このツイートには問題が多い。

なんとなく感動的な良い文章のように思えるのだが、名前や顔立ちが日本人的でなくても日本国民であるという人は大勢いるし、その人がその外見や属性ゆえに他の人と違って「多様性」に尽くさなければならないということはない。もしそうだとしたらそれは「普通の日本人以上の義務を他人から勝手に負わされている」ということになる。

そもそも、選手は日の丸のために頑張っているわけではなく、個人として可能性を追求したいだけかもしれない。最近のスポーツ選手が「自分の可能性を試したい」と言わないのは、スポーツが各種の補助金を得ているからだろう。このため「税金を使っているのだから世間の常識(実は自分の思い込みのことだが)に逆らってはいけない」などと言い出す人が大勢いるのだ。

普段はこうした欺瞞を攻撃するであろう江川さんでさえ、自分が理想とする多様性を相手に写し込んで、それが実現することに勝手に「感動」してしまっている。ただ「それはさ搾取ですよね」などと指摘しても何を言われているかすらわからないのではないだろう。そこにはほのかな違和感が残るだけである。

外国人が言われて嫌な言葉に「日本人でもないのに日本人らしいわね」という言葉がある。日本人はこれを褒め言葉だと思うかもしれないのだが、言われた方は「でも所詮外国人でしょう」と言われていると感じることがあるからだ。切断されて対象物として扱われることによる疎外感は「外国人」として社会から二級市民として扱われた経験のある人しかわからないかもしれない。しかし、頑張ってもインナーサークルに入れないというのはかなりの絶望感を生む。

日本人は「する」よりも「なる」を好むので、自分の理想形を目の前にすると「これがあるべき姿なのだ」と勝手に感動してしまうことがある。実は単なる他人の対象化なのだが、それを感動だと錯誤してしまうのだ。

なかなかわかりにくい「感動」だが、簡単なテストもある。感動の対象物が自分のやりたいことを言ったり権利を主張したりした時に「嫌な気持ちがする」としたらその感動は搾取の言い換えであろう。対象物として切断しているはずのものが競争者になってしまう。すると「対象物として利用できるはずだった」という期待することで腹が立ってしまうのだ。このようにして我々は割と自動化された形で「誰が利用できて、誰がライバルになるか、そして誰が敵なのか」ということを判別して生きているのである。

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