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「性別に関係ない制服選択求める」に感じる違和感

江戸川区の若者が斉藤猛区長に「性別と関係ない制服を選べるようにしてほしい」という10,000人の署名を手渡したというニュースを読み違和感を感じた。男性がセーラー服を着ている映像が浮かんだからである。きっと「えっ」と思うだろうなと想像したからだ。

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おそらく「男性がセーラー服を着ている映像を思い浮かべた」などというとその筋の人たちに反発されるだろうなと考えた。だがあえて言いたいのだが、どう扱っていいかわからなくなると思うのである。「気持ち悪い」か「気の毒な人たち」と考えてしまうかもしれないと思った。

Quoraで質問したら「最初のうちは違和感を感じるだろうがおそらく慣れるだろう」と回答され乙武洋匡さんのことを思い出した。慣れたというかあの人の場合YouTubeで見てもなんとも思わないまでになっている。最近は味噌汁を作っていた。

記事の中には考えさせられる一文が挿入されている。「いつも自分の心を押し殺していた。大人になる前に死のうと思っていた」という。尋常じゃないなということはわかる。そもそも制服ではなく心のケアが必要なのではないかと感じた。

確かに性的自認にあった制服(あるいはユニセックスなもの)を選べるようにはしたほうがいいと思う。だが、制服を選べるようになったからといって周囲の受け入れ態勢が整わなければ根本的な解決にはならないだろう。ミッツ・マングローブさんのように芸達者で周りをあっと言わせるような人ばかりでもない。

と、ここまではなんとなく散漫に考えたのだが、なにぶん記事が短いのでそれ以上の考察はできそうにない。そこで追加の文献を調べてみることにした。東京都港区で「性表現の自由」を保障する条例ができるのだそうだ。これを学校や企業の制服に広げて行きたいとのことである。

一つのことがわかりまた別の戸惑いにぶつかった。「制服による性表現」は新しい人権問題になりつつあるようだということはわかった。つまり「個人の問題である」というのは古い認識なのだ。

だが戸惑いも大きい。記事にはSOGIという概念が出てくる。性的指向と性自認は違うのだそうで正確に表すためにはよりふさわしい表現が必要なのだという。これが厄介だと感じた。

日本人は「社会の正解」を決めたがる。だから相手の言うままにLGBTという概念を覚え、なおかつそれでは足りないからSOGIという言葉を覚えて……などとしてゆくとどんどん「正解」が複雑になってゆく。我々が「人権的に正しい」人であり続けるためにはこの他にも覚えなければならないことが多い。人種差別について学び、動物の待遇について学び、家畜の正しい処理方法と飼育方法について学び、環境問題について学び……とどんどん不正解が増えてゆく。そのうち「人権試験」が必要になりそうだ。合格しないと人と政治的な議論は一切できないというのはもはや民主主義社会ではない。

ここにきて戸惑いの理由がわかった気がした。乱暴な言い方だが自分が相手の言う正解に沿った行動をしなかったがためにいちいち「死にたくなった」と言われると罪悪感ばかりが募るだろうなあと思ったのである。あくまでも「私は女性だがスカートは履きたくない」が認められばいいのに「それをみんなでやらなければならない」ということになってしまうというのが引っかかるのだ。

そうこう考えていて昔もこんな問題はあったはずだよなと思った。例えば「戸籍上の性別が男性である10~20代の約37%がSOGIを理由に学校でいじめにあったと回答し、全体の22%が自殺したいと思ったことがある」という記述があるが、なよっとした男性が周りからいじめられるというのはよくある話だった。だが、そういう条件で生きて行かなければならないのだから多くの人がそれなりに折り合ってきたはずである。

おそらく昔と今とでは状況が違っていたんだろうなとも思う。昔の人たちには学校や職場以外の逃げ場もあったはずだが今の日本人には選択肢がなさすぎる。周りと合わせようとしてどうしてもそれができないとなった時、それが人権問題に格上げになり「表現の自由」という憲法の表現で語られてしまうのだろうなと思った。

昔の当事者の人たちはおそらく「あえて人には言わない」が別にそれを隠していたという自意識はなかったかもしれないなと思った実際にQuoraには当事者の人からの回答もあったのだが、社会問題と自分の問題は切り離して考えているようであり、特にそれが不思議だとも思っていない。

このニュースを見て最初は「LGBTの人の問題だ」と思っていたのだが、違和感の原因はそこにはないのかもしれない。自分の居場所が作れれば問題は解決するわけだが社会に自由度がなくそれが作れない。おそらくそれは昔よりも選択肢が狭まっていることが問題だ。さらにSNSが発展すると昔は出会わなかった人たちが無理やりに出会わされてしまうこともあるんだろうなと思った。同じLGBTと言っても必ずしも課題が共有できるわけではないらしい。細かな違いから言い争いに発展することもあるそうだ。

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