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核なき保守思想にいかに対峙すべきか

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まさかこのブログで保守思想について書こう日がくるとは思わなかった。そもそも哲学や思想が苦手でそういうものは避けてきたからだ。

最初は現在の保守というのは切断を意味するというような定義の話をしようと思ったのだが、たいして面白くならなかった。そこでそもそも保守には核がないので相手にする必要はないという結論にした。

一晩考えてもっと単純な例えを思い出した。例えばある人が優れている場合「他人と比べてこういうことが得意」というのが特徴になる。例えば歌がうまい人というのは、大勢に歌わせてみて「ああ、この人の歌は違うな」ということがわかる。だが、歌のコンテストに出たことがない人は「自分の歌は凄いに違いない」という妄想を抱く。そして「唯一絶対無二である」と考えるだろう。しかし、この人はコンテストに出て歌を歌うことはできなくなるはずだ。そこで他人の歌を聞いて「あれは違う」などと言い出す。現在の保守には「問題を切断して現状維持を目指す」という側面があり、内向きにはそれで用が足りてしまうのだが、本当の問題は外と向き合えなくなっていることなのではないかと思う。

保守という考え方を規定するためにはまず「自分たち」が何なのかということを規定しなければならない。つまり守るべきものの範囲が確定してはじめてそれをどう守るのかという議論ができるからである。

ところが日本人は自分たちが何者なのかという自己規定ができなかった。文明の衝突(文庫上巻文庫下巻)では日本は中華圏から独立した独自の文化圏とされる。日本語も琉球語を方言とみなせば一系統一言語であり近縁の言語がない。さらに統一的な政権が早くできたことから国としてもまとまってしまっており、神道を一つの宗教とみなせば宗教圏としても単一である。他者がいないので自分たちが何ものなのか規定しなくても済んだといえるしできなかったと考えることもできる。

小熊英二の「単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜」には海外を模倣して帝国期に入った日本が朝鮮のように大きな社会を飲み込みながらも帝国としてどのように自己を再構成するのかという議論に失敗したことが書かれている。

よく「歴史が長くて日本は独特でユニークな国だ」といって喜んでいる人がいる。確かにその通りなのだが、裏を返せば自分たちが何者なのかを他者を通して規定する機会がなかったということを示している。歴史が長いことやたまたま円錐形のきれいな火山を持っていることしか誇れることがないということになる。

それでも日本が外に拡張しているときにはこのことは大した問題にはならなかった。戦前、中国大陸に向けて拡張するときに朝鮮人を割当制度なしで受け入れたところをみると「朝鮮人が入ってきて国が乗っ取られてしまうかもしれない」などという心配はしなかったのだろう。選挙権を与えてハングルによる投票まで許していたのである。さらに戦後になっても経済的に拡張している間は、日本人が自分たちが何者なのかということを考える必要はなかった。せいぜい日本が気にしたのは外国人からみて日本がどう見えるかという日本人論だったが、これも内側から問題を指摘するよりも外圧を利用したほうが意識改革がしやすかったという程度の日本人論だった。日本人がユダヤ人になりすまして書いた「日本人とユダヤ人」には、だからそれほどの危機感は見られない。

日本人が「保守」を気にするようになったのはバブルが崩壊して経済の先行きが見えなくなって以降なのだが、最初はサブカルチャ的な位置付けだった。ゴーマニズム宣言が最初に書かれたのは1992年だが、この頃にはバブル崩壊はよくある周期的な不況の一つだろうと考えられていた。しかし状況は変わらず、人々の不満は徐々に旧弊な自民党政権へと向かって行く。全体として「日本は改革できるはず」という期待があったからこそ逆張りも可能だったということになる。ゴーマニズム宣言は初期の段階では「ゴーマンなことを敢えて言える俺たちはカッコイイ」と言えたのである。

自民党に代わる政権は状況を打開することができず、内紛によって離合集散を繰り返す。民主党政権時にピークに達して崩壊した。「やってもダメだったじゃないか」というわけである。そしてゴーマンな逆張りは期せずして「安倍時代」の主流のイデオロギーになってしまった。

安倍時代のイデオロギーの特徴は幾つかある。まとめると先送りと切断ということになる。これまでの政権は構造的な分析を提示しないままに「どうにかしないと日本は大変なことになる」といい続けていた。ところが安倍政権は「みんなが変わらなくても日本はもう大丈夫」という言い方で「改革の呪縛」から日本人を解放した。ブクブクと太っていてダイエットができなかった人が「鏡と体重計を変えればいいじゃない」と気がついたのである。そして新しい保守思想のもとで日本人は鏡が見られなくなった。

ただ、これが嘘であるということに人々はうすうす気がついている。だから、保守の人たちはなにかというと反日という言葉を持ち出す。安倍政権に逆らう人たちはすべて反日である。社会党や共産党は中国をスポンサーにした反日だと言っていたのだが、最近では自民党内の石破茂も反日であり、天皇陛下も「反日認定」されることがある。自分たちが理解できないものをすべて「反日」と規定することで自分たちは変わる必要がないと自分たちに言い聞かせ続けているのである。

だから、現在の新しい保守思想に語るべき価値はない。そもそもサブカルチャ的な「ゴーマン」を許していた頃には本流の保守思想は消えていたと思わざるをえない。

確かに「レイプされた女性には問題がある」とか「日本人には天賦人権は似合わないから取り上げるべきだ」とか「北海道には先住民族はおらずすべてはなりすましだ」などと言われると腹が経つのだが、もともと「敢えて世の中に逆らってみる」のがかっこいいという程度の話なので、それに反発してもあまり意味はなさそうだ。問題なのはそういう「外に逆らって見るのがかっこいい」と思っているのが、一般庶民だけではないという点である。政権そのものが嘘を擁護するようになっている。

なぜそうなってしまったのかはよくわからないが、結局頑張っても変われなかったという諦めが現在の停滞につながっているとしたら「それではいけない」と思っている人が自らのリーダーシップで新しい一歩を踏み出すべきなのではないかと思う。

改めて現代の保守とは何かと考えると、それは諦めからくる欺瞞と切断による自己保身の別名なのだと言えるだろう。

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